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………6

 

 

 

「やっほう〜お二人さん! おはよう〜」
 意外な顔が部室に飛び込んできて、私と先輩は面食らってしまった。

「せ…長屋先生。どうしてここに来たの?」

 新学期が始まって。元のように週に数回の朝勉強が再開された。この頃は私たちが朝、部室に来る日は決まって加賀見先輩もやってくる。「ああ、朝の勉強ははかどるわね」とか参考書を開きながら、自分の勉強をこなしていく。最初のように朝早く起きすぎたから…とはもう言わなくなっていた。

 それが…今朝やってきたのは、3−G…緒方先輩のクラスの担任であり、私の数学の担当教師でもある長屋先生だった。ポカンとしている私と先輩のことなどお構いなしにさっさとパイプ椅子を引いて座ってしまう。ごとんと500mlのペットボトルをテーブルに置く。みかんジュースだ。

「今日は加賀見が風邪で休みなんだって」
 相変わらずひょうひょうとした調子で先生は言う。ニコニコと笑顔で。その視線がすっと緒方先輩の方を向いた。

 それにつられて私も先輩を見る。思わず、どきりとした。だって、え? とびっくりするぐらいムッとした顔で先生を睨んでいたんだもの。

「…どうして。加賀見サンが来ない日に、先生がわざわざ来るんですか?」
 そう告げた言葉も怒りに満ち満ちていた。私は何だか不思議な感じで2人のコトの推移を見守っていた。

「やだな〜そんなに睨まなくたっていいじゃない。緒方…お前、ここでカナに勉強を教えているって言っていたけど…さっき部屋の外で聞いてたら、全然勉強のコトなんて話してなかったじゃないか…」

 

 …え? 聞いていた? どういうこと…。

 

 そう言いながらもばつが悪くて下を向いてしまう。

 何故なら今の今まで私たちがしていたのは昨日出た週刊マンガ雑誌の話だったのだ。あれが良かった、ここが悪かった…みたいな。小説を書く先輩の見解は面白くて私が全然気付かなかった様な所を突っ込んでくる。ついつい、引き込まれてしまっていた。
 そうじゃなくてもこの頃は最初の勢いはどこへやら、この頃では先輩と部室に居るとき参考書を広げたまま全然別のことを話していることが多かった。

「お前たちさ、ここへいたって勉強にならんだろうが。もうクラスの奴も集まり始めた時間だ、教室に移ってそれぞれに勉強した方がよっぽど能率が上がるんじゃないのか?」
 先生は相変わらず、のほほんとしゃべりながら…その実は言っていることが手厳しかった。

「なあ…緒方。お前はセンター試験を受けるんだろう? 理系はともかく…古文とかかなりやばかっただろ? 人に教えるより自分の勉強をした方がいいと思うけど」

「…先生。何しに来たんですか?」
 先輩は声を震わせながら、尚も先生を睨み付ける。

「カナは必ず僕の手で、しっかりと学力を付けさせてあげますよ? 先生にとやかく言われる筋合いはありません。邪魔しないでください!!」

「せ、せんぱ…」
 あまりに強い口調にこちらまでドキドキしてしまった。どうにかしてこの場を取り直そうと口を開きかけると乗り出した肩を先輩にぐいっと掴まれた。

「カナと僕のことで余計な口出しをしないで下さい!!」

 2対1の緊迫した空気が狭い部室の中で流れた。私は一体何が何だか…訳が分からない。横にいる先輩と、目の前にいる先生をかわるがわるに見つめながら、言葉が思い浮かばなかった。

 その空気を破ったのは、またもや先生だった。

「だから〜そんな怖い顔するなよ。俺はただ、加賀見が今朝来ないってコトを伝えに来ただけじゃないか? まあいいや、カナ…昨日分からなかった基礎解析、見てやろうか」
 長屋先生はぱらぱらと教科書を開いた。

 え? 私はどうしたらいいの? でも先生に言われるとそうするしかない気がしてきた。

「先生!!」
 緒方先輩が叫ぶ。でも先生は動じない。

「なあ、今朝は古文をやれよ。そろそろまた模試があるだろ?」
 それだけ言うと後は授業中と同じようなまじめくさった声に戻っていた。

 

………

 


 放課後、また部室に行ってみた。

 今朝の先輩の怒り方は何だか変だったし。…それだけではないのだけど。

 

「…先輩…」
 ちょっと入りづらくて、少し開いた引き戸に手を掛けて、そっと呼んだ。

「…カナ」
 薄暗い部屋の中で、先輩が弱々しく微笑んだ。良かった、いつもの先輩だ。今朝のまんまで怒っていたらどうしようかと思った。

「どうしたの? 部活は?」

「うううん…あとから行く。まだ、体操と発声練習とパート練習だから行かなくてもいいの…」

 そう言いながら部室の中に身体を滑り込ませて、電気を付ける。

 とにかく納戸状態のここの部室は蒸し暑い。唯一の風の入り口である引き戸を重ねて、その両端から風を取る。でも通り抜ける先がないからやはり空気はよどんでいる感じ。

 ウチの制服は夏でもジャンパースカート。いくら薄い素材で作られていてもワイシャツの上にベストを着ているようなもの。夏は男子の制服が羨ましいなあ。そう思いつつ、パイプ椅子に腰掛ける。ぎし、と鈍い音を立ててきしんだ。

 先輩は私の気配を顔を上げずに感じ取り、開いていた問題集をぱたんと閉めた。それを端に寄せてからこちらを振り返る。

「さあ、今日は真面目に勉強しよう?」
 いつも通りの優しい声。でも前髪に見え隠れする瞳が何だか怖い気がする。私は無言で頷いた。

 


「よし、コレでご名答!…う〜ん、一息入れようか?」

 先輩が軽く伸びをした。私もはっきり分かるようにふうっとため息をつく。

 演習問題を3問解くと、時間はいつの間にか1時間近く経過していた。結構面倒くさい内容で、最初は設問を読んでも何をいわれているのかすら分からない。問題の意図が分からなければ答えようがないのだ。
 数学はどうして勉強するのかというと、物事の考え方を身に付けるためだ。そう言った中学の先生がいたっけ。問題を正解することだけが勉強じゃない。そこに辿り着くまでの過程で試行錯誤を繰り返しながら道を探し当てていくのが面白いのだと。聞いたときはピンとこなかったけど、今になると何となくああそうかと思い当たる。面白い、という感覚にはついていけないが、少なくとも順序立てて考えていけば、なんとなく見えてくるものがある。こうして答えに辿り着いたときの快感は何とも言えない。
 ただ、こうして解答すれば似たような問題は解けると思う。でもまた、全く新しい設問を出されてしまうと自分一人では考えようがない。

「ううん…どうして分からないかなあ…」
 先輩は不思議そうにそう言うことがある。理系クラスにいるぐらいだから、文芸部員とはいえ先輩は思考回路が理系なんだと思う。対する私はどう考えても文系だ。1学期にあった来年の進路の調査でも、しっかり文系クラスを選択している。頭の構造が違うんだから、どんなに努力したところで先輩のようにばりばりと問題が解けるようにはならないと思う。いつも教えて貰って、導いて貰わないと。ただただ、ようやく分かった解き方を覚え込むしかない感じだ。

 

 ふと、我に返ると今まで気にならなかった古い本の匂いや藁半紙のひなびた匂いが鼻をついた。ああ、ここは部室だったんだと改めて思う。

 

 先輩がやはり暑いのだろう、いつもは垂らしている前髪をふわりとかき上げた。すると必然的に左目の脇の傷を見ることになる。でもそこから目をそらすことなく、私は微笑んだままで先輩を見ていた。

「カナは、本当に不思議だね」
 先輩がいきなりこう切り出した。私はきょとんとして小首を傾げる。

「この傷、本当に怖くないの? …僕と一緒にいるの、嫌じゃない?」

 まっすぐの。瞳が何だか前髪というベールを外したせいか、あまりにも直接的に思える。思わず息を飲んでいた。でも次の瞬間、大きくかぶりを振った。

「…怖くないもの! だって、先輩は優しいじゃない。私は先輩のこと、怖いなんて思わないです!」

 前にもこんなやりとりをした気がする。その時も私はこうして大きく否定した。

 先輩の柔らかな語り口が悲しい、穏やかすぎる低い声が泣いているみたいだ。どうして、先輩はこんなに傷のことにこだわるんだろう。どうして、こだわって、隠れるように髪を伸ばしているんだろう。そんなのはその人のひとつの特徴でしかないのに。

「…先輩? 先輩は先輩なんだよ? 私はそのまんまの先輩でいい。だから、そんなこと、言わないで…」

 唇が震えて。自分でも気付かないうちに言葉が口から出ていた。私の考えてもいなかった…ううん、考えてはいたけど自分では認識していなかった、心の声だったのかも知れない。

 だって、悲しかったから。先輩がこんなこというの、嫌だったから。

 先輩は髪をかき上げたそのままの形で額に手を当てたまま、しばらく呆然として私の方を見ていた。二人の間の空気が、暑さを残した夕方のまどろみの中で漂う。それは気体でありながら、ねっとりと身体に絡みついて来るようだ。そして、いくらかの時間が経過して、ようやく先輩の右手が額を離れた。ぱらぱらと髪が乱れて落ちる。

「…カナは、優しい子だね…」
 
 するり。先輩の手が机の上に置いていた私の左手を包んだ。生暖かい、汗ばんだ感触に捕らえられる。

 私はその行為を呆然と眺めていた。手の甲に確かに感じ取る熱さがあるのに、それをただ、見つめていた。そう、夢の中の出来事のように。自分に降りかかっている出来事ではないように。

「カナ…」

 がたんと先輩の座っていた椅子が倒れた。勢いよく立ち上がった先輩に、次の瞬間、私はぎゅっと抱きしめられていた。

「…せん…」
 突然の出来事に、心も体も反応できなかった。とっさに身じろぎしたけど、先輩の力が余りに強い。細い身体のどこからこんな強さが出てくるのだろう。息をするのも苦しいぐらい、私の顔が先輩のワイシャツの胸に押し当てられた。汗ばんだ胸から、ムッとするぐらい強い香りがする。

「…や、先輩…」
 どうしていいのか、分からなかった。心のどこかで警告音が鳴る。でも私の言葉を聞いているはずの先輩は全然腕の力を緩めてはくれない。

 真っ白になった頭に、微かな外の音が流れ込んでくる。開けはなった廊下の窓から入ってくる、部活動の音。野球部の叫び声、陸上部の足音、吹奏楽部の楽器の音…そして、押し当てられた胸から速い心音。先輩の荒い息づかい。

「カナ、可愛い。でも、あんまり可愛くて…時々、どうしていいのか分からなくなる…このまま…」

 するっと、背中に回っていた腕の片方が、私の背中をなでた。そして大きく輪郭に沿いながら、段々下に下がっていく。

 何だか、とてつもなく恐ろしいことが起こっている気がした。それなのに、私は声も出ない。否定してはいけないような気がして。そんなことをしたら先輩に対して今言ったばかりの言葉が嘘になる気がして。本当に、どうしていいのか分からなかった。

 

 その時。

 

 どやどやと階段を上ってくる人の音がした。5,6人はいるのだろうか。何やら楽しそうに話をしながら、その音が近くなる。

 はっとして、先輩が私を解放した。

 足音たちは私たちがここにいることも気付かないように、そのまま階段を上っていった。重なり合う足音が耳に響く。そして、それが私の駆けだした鼓動に重なる。心臓が痛いぐらい波打っている。それでも足はすくんだまま、乱れた髪もそのままに、私は立ち尽くしていた。

 

「…ごめん」

 どれくらいの時間がたったのだろう。先輩がガタンと崩れるように椅子に腰を下ろした。私は何も答えられず、自分も座り直した。視線はさっきまで解いていた問題を記したノートに落とす。でも見えたはずの道筋が暗号文のように謎めいて分からなくなっていた。

「カナ、部活は? …いいの?」
 先輩が普通に戻った声で、私に尋ねる。そう、さっきのことを忘れてしまったように…。だから、私も心臓の痛みを堪えて、いつものように顔を上げて普通に答えた。

「先輩…私、部活行きたくない…」

「カナ?」
 訳の分からない様子で私を見つめる視線。それから意識して逃れながら、でも小さく言葉を続けた。

「もう、部活、行きたくない。コーラス部なんて辞めたい…」
 そのまま両肘を机について、顔を覆った。口惜しくて、体中が震えていた。

「あのね、先輩。みんな、どんどん上手くなるの…なのに、私ばかりが注意されて。頑張っても全然上手にならなくて…1年生よりも下手なの。声も上手く出ないし、小さく歌うところは息しか出てこない。高い声は裏返っちゃって…歌うたびに、自己嫌悪で、どうしてこんなコトしているのかなあと思うの…」

 そうなのだ。夏休みからのあれこれが尾を引いていた。だから、部活も行きたくなかった。参加自由の朝練習は出なかったし、午後の部活も行きたくなかった。文化祭は来週末なのに、もうステージで歌うコトなんて嫌でたまらない。この頃では音楽の授業で音楽室に行くのも嫌だった。

 一度さぼりのクセがついてしまうと、そこから先は転げ落ちるようだ。クラスにコーラス部の仲間がいなかったことも幸いして、放課後は逃げるようにここに隠れていた。葉月ちゃんとも他の部員たちとも長いことまともに顔を合わせたこともなかった。情けないけど…もう、楽になりたいなあと思っていた。でも辞めちゃうことは自分に負ける気がして、どうしても踏ん切りがつかない。堂々巡りだった。

 

「カナが、したいようにすればいいじゃない?」
 穏やかに。先輩の低い声が柔らかく響いた。心にしみ通るように。思わず顔を上げていた。

「先輩…」

 呆然とする私の頭にいつものように手のひらをふわっと置いて、優しい目でこちらを見つめる。

「ムリして、辛いことを頑張らなくたっていいんだ。楽したっていいと思うよ?」

「…そう…なんですか?」
 意外なひとことだった。そんな風に言われるとは思わなかった。頑張れない自分が嫌で、後ろめたさに押しつぶされそうになっていたのだ。

 驚きの色を浮かべた私の視線を絡め取り、先輩はふふっと笑った。

「僕ね、事故にあったとき…2年入院したせいで、小学校に上がるのが遅れたんだ。普通は何てコトなかったけど、何かの拍子にそう言うのって分かっちゃって…みんなと同じじゃないことで随分いじめられたんだ。傷のこともあったし。そう言うこともあって…高校に入ったときに爆発してしまって、またそこで2年ブランクがあったんだ。そして、ここの高校に入り直して。…で、カナに会えた」

 淡々と語られる言葉の端々に私の反応を気にする様な感じがあった。その張りつめた空気の中、私が出来ることと言えば、ただ目をそらさずに先輩を見つめることだけだった。

「前の高校を辞めるときだって、随分悩んだし…その後もすっかり引きこもってしまって親に心配を掛けてしまった。でもこうして、カナと会えた。だから良かったと思うんだ」

「…先輩… 」

 …どうしたら、いいのだろう。どんな反応をしたらいいのだろう。でも、この場から逃げてはいけないと思った。

 先輩に守られていたはずの私が、何だか先輩を支えているような気持ちになる。先輩をしっかりと守ってあげないと。だって、先輩は…私といれば元気でいられると言った。そう言ってくれたから。先輩を支えてあげられるのは私しかいない、私は頼りにされているんだ。ぞくぞくと足元から沸き上がる恐怖は、未知の体験に対する恐れだったのだと思う。

 誰かを、支えられるなんて思ってなかった。寄りかかってくる人も今までいなかった。いつもいつも守られているばかりで、人の意見を聞くことしか出来なかった。

「先輩、私は先輩の味方だよ。先輩のこと、ずっとずっと大好きだよ…」

 私のこの言葉に、先輩がふんわりと反応した。「好き」と言うのはあくまでも先輩として、で恋愛感情はなかった。先輩もそれは声の響きで分かってくれたと思う。だって、にっこり微笑んだ先輩は次の行動に出ようとはしなかったから。

 ぎこちない、きしみ。

 肩にずっしりとした何かが乗せられた気がする。震える空気の中で、私は人を信じることの重さをしっとりと感じていた。

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