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………5

 

 

 

「あれ?」
 カバンにテーブルの上のものを詰め込んで立ち上がろうとしたとき、ぽとんと何かが落ちた。上履きに当たったそれをかがんで拾い上げる。…英単語帳、緒方先輩のだ。

 明日から期末テスト。でもそんな日程でも学期末の授業にはたくさんの小テストが組まれている。今朝、先輩は1限の準備に合わせていつもよりも早くクラスに戻った。確か英文法の授業が2限目だと言っていたような? コレがないと困るんだろうな…。今日はそんなわけで私が文芸部室の鍵を預かることになっていた。だから先輩がここに戻ってきても開けられない。届けてあげるしかないかな…?

 そう思ったとき、予鈴が鳴った。とりあえず休み時間に考えようと、それをポケットに突っ込んだ。

 

………


 どうして3年生の教室は何となく違って見えるんだろう? 1限のあと足早に中央階段をひとつ降りた。右に折れると正面の突き当たりに職員室が見える。ちょっと緊張した。

「おや〜カナじゃないか…」
 3−Gの教室の前まで行くと、丁度授業を終えたらしく長屋先生が出てきた。

「こおんなところで油を売っていていいのかい? お前、期末もやばいだろう〜ちゃんと勉強してるのか?」
 ひょうひょうとした感じで、大声で言う。その声のせいか、廊下を行く3年生の先輩たちの視線がパッと集まった気がした…錯覚だろうけど。

 自分でもおかしいなあと思っていた。
 この頃、学校にいるとき、妙に視線を感じる気がする。それも何となく好奇に満ちた嫌な感じの。2年生の教室の階にいるときも何となく感じたけど、ここに降りてきたらなお強まった気がする。

 何なんだろう…今まで経験したことのない空気だ。

「すぐ、帰ってやりますから…お届け物に来ただけなの」
 小太りの先生と私はほとんど目線が一緒の気がする。まあ、5センチ以上の身長差はある筈なんだけど…そのくらいだとあんまり変わらないよね?

「そっか、そっか…頑張れよ〜」
 先生も私のことを子供扱いする。出席簿でこつんと額をはじかれた。

 

「あのっ…すみませんっ!」
 長屋先生が職員室に向かって歩きだした後、その場に居合わせた3−Gのクラス章を付けた人に声を掛けた。

「緒方先輩はいらっしゃいますか?」

 ざわざわ。2,3人の先輩方は顔を見合わせると、こちらを向き直った。何とも言えない瞳で舐めるように頭のてっぺんからつま先まで見つめられた。とても嫌な感じ。

「あの―…」
 黙ったまま見つめられるのも面白くない。首を傾げて言葉をもう一度かけた。…と。

「あらああ〜、カナちゃん!!」
 背後から声が掛けられる。何だか慌てた顔をした、コーラス部の沙也佳先輩。

「どうしたの? 何か用??」
 そう言いつつ、ぐいぐいと腕を取られてF組とE組の間くらいまで引っ張られていた。さっきの先輩方は遙か後方にいて、尚もこちらを見ている。沙也佳先輩はその人たちに向かって、チラリと視線を投げる。こそこそと、彼らが教室に戻っていったのを確認してから、先輩は私に向かい直った。

「ご用は、なあに?」
 不思議な態度にちょっとひるんだが、私を見つめる先輩の目はいつも通りに優しかったのでホッとした。

「あのっ、緒方先輩に…コレを届けたくて…」
 ポケットから英単語帳を引っ張り出す。それを見つめる先輩の目がふっと曇った気がした。

「…それって、もしかして…朝の部室で…?」

「え…」
 努めて冷静に、でも絞り出すように発せられる声に謎めいたものを感じ取る。

 …どうして? どうして、沙也佳先輩まで、私と緒方先輩の朝勉強のことを知っているの。緒方先輩が話したのかな…それにしても。

「あ、緒方君と直接話さなくてもいいでしょう? これは私が渡しておいてあげる…」
 有無を言わせず、ぱしっと奪われていた。呆然としていると、尚も言いにくそうに先輩が続ける。

「あの…カナちゃん…?」

「ハイ?」
 無邪気に聞き返す。困ったような瞳がゆっくり流れて、それからふっと微笑みに変わった。

「…ううん、何でもないわ。それより3年生の教室、今みんな気が立っているからあんまり来ない方がいいわよ?」
 そう言った沙也佳先輩の笑顔はいつも通りだった。

「先輩は…余裕ですねえ…」

「あら、だって私は音大志望だもの。あんまり学科は関係ないの。その代わり実技が大変なのよ?」

 芸術関係に進学予定なのに理数系にいるとは、ちょっと変わっている。2年生の1学期に次の最終学年の進路調査が行われてしまう。沙也佳先輩はその時、進学をどうしようか迷っていたんだって。頭のいい先輩だから余り授業も困っていないようだけど。今は週に3回、電車に揺られて、ソルフェージュ(声楽の譜読レッスン)を兼ねた講習を受けに行っているんだって。それでも未だに先生方からは国立を受験するようにと言われているらしい。

 音大はピアノを目指して入りたくても敷居が高いんだそうだ。ピアノの先生になっている人も実は声楽科出身の方が多いんだって。それくらいピアノ科は難関。で、音大を目指す人はコーラスの伴奏なんて本当はしちゃいけないそうだ。変なクセがつくとレッスンに支障が出るみたい。私はピアノも小学校の時にちょこっとやって辞めちゃったけど…何事も極めるのは大変なんだな…。

 そんな考えを巡らしているとチャイムの音がした。

「あらら、大変!! 早く戻ってちょうだい」
 優しい声に送られて、一目散に階段を駆け上がった。

 

………


 期末テスト後は慌ただしく夏休みに突入する。

 気の早いクラスメイトの中には予備校の夏期講習に通う人もいる。普通の塾なら市内にもあるけど、大手の予備校となると電車を使って1時間ぐらいかかる。私の3歳上のお兄ちゃんも3年の夏と冬はそうやって通っていた。だから私も3年生になったらそうしようかなと考えている。

 

 とにかく今年の夏は部活と学校の補習授業に明け暮れた。大体、午前中が補習。長屋先生にもこってりと絞られた。お弁当を食べて午後はコーラスの練習。暑いし、眠いし、とにかくうだりそう。それでもウチの高校の文化祭は第二土日と早いので、休み中の練習で仕上がりが違ってくる。

 

「だめだめ〜全然、音がハモってない!! パート練習をサボっていたら、どうにもならないでしょうが!!」

 そう言う焦りの気持ちもあるんだろう。新しく指揮者になった美音子ちゃんはいつに増して、言葉がトゲトゲしていた。各パートに分かれて音取りの練習を行ったあと全体練習に入ると、指揮台をピシピシと叩く仕草が多くなる。

「カナ!! もうちょっと発声を基本に戻ってやってよ。あんたの声、大きいのに息ばっかり多くて壊れた掃除機みたい。もっと滑らかに歌声にするようにしてよ。おなかに力を入れて…ほら、こうやって…背筋を通って頭のてっぺんに出る感じ…」

 美音子ちゃんはジェスチャーを交えて、説明する。

 そんなの言われなくたって知ってる、知識としては。この間、声楽関係に進んでいるOBの先輩がみっちりボイストレーニングをしてくれた。腹筋や背筋を鍛える体操や壁に向かっておなかを弾ませながらのスタッカートの練習。基本に忠実に行うと本当に3度くらい上の音が楽に出るようになる。そうは言っても、ついついいつものクセに戻って、せっかくの覚えたことがおざなりになる。それの繰り返しだ。

 何も私一人をやり玉に上げたくて、美音子ちゃんは言ったんではないだろう。でも部員の視線を一手に浴びて身の置き場もなくなってしまう。しゅんとして俯いてしまった。

 あああ、どうしてコーラス部になんて入ったんだろう? こう言うときはとっても後悔する。

 私は学校の授業では歌うのが好きだったし、クラスでも上手な方だった。ピアノを少しかじったことでそれなりに音感もあると思う。でもそれはあくまでも一般人のレベルでしかない。コーラス部に入った途端、実力の差を目の当たりにした。同級生でソプラノのパートリーダーの鞠香ちゃんは中学の頃から有名だった声楽の人で、何でも顧問の先生が強力に引っ張って入部させたんだと聞いた。彼女の出すきれいな音色はうっとりするほど。伸びやかで、柔らかで女性らしくて。頑張って練習すれば、いつか鞠香ちゃんのようになれるかと思っていた。でも入部から1年以上が経過して、未だに私は「壊れた掃除機」の声しか出ない。

「…どこに行くの? カナ?」
 するすると列から抜け出た私を心配して振り向いた葉月ちゃんが呼ぶ。

「ちょっと、屋上。個人レッスンしてくる…」
 必死に微笑んだ。でも私の顔が歪んでいることは、分かる。葉月ちゃんの表情が私の全てを語っていた。


 音楽室を出て、すぐ左手に内側から鍵のかかる非常階段がある。そこが屋上への近道だった。

 コーラス部は別名「走る文化部」と呼ばれる。私たちはこの非常階段を下まで駆け下りて駆け上がるダッシュを繰り返して体力を付けていた。
 自分たちの身体を使って、自らで旋律を産み出す。楽器なんてなくても身体だけあればどんなところでも歌える。実際、この間の定期コンサートの打ち上げでは、OB・OGの先輩方と一緒にアカペラで合唱した。イタリアンレストランの貸し切り会場に広がる「大地」のハーモニーに背筋がゾクゾクした。

 …歌うのは、好き。特に合唱が好き。みんなの心がひとつに溶ける、その一瞬がたまらない。

 でもそこに行き着くまでの道のりがあんまりにも長い。コンサートまでは沙也佳先輩が指導してくれていた。ユーモアに富んだにこやかなアドバイスは心にすっと染みこんで行く気がして心地よかった。実際、きついことも言われた気がする。でも…それでも…美音子ちゃんのようにあんなに直接的にきつい言い様はなかった気がする。

 

 日差しの傾きかけた屋上は夏の盛りでありながら、涼しい風が吹いていた。晴れた日にはここからでも富士山が見えると聞く。ぱたぱたと制服のスカートがはためく。ぱんだのように二つにお団子を作った頭が影になってコンクリートに落ちる。手すりにつかまって、鮮やかな空色を見つめた。

 すぐ下のグランドではサッカー部が練習している。その右手奥が野球部。野球部は数年前にナイターの照明を入れた。そんなに強い部でもないんだけど、やはり野球部は練習量が違う。右手のトラックでは陸上部が筋トレをしている。その奥のプールの隣りに吹奏楽部の練習場があった。
 ここに来ると学校の全てが分かる。校舎に反響してくる掛け声は生き生きとして心を揺らす。

 …先輩に、会いたいなあ…そう思った。

 運動部や音楽部と違って、文芸部は夏の休みの間に顔を合わせることはない。もちろん合宿もない。夏休みに入って以来、1ヶ月も先輩に会っていなかった。

 今、先輩がここにいてくれたら、何て言ってくれるだろう? 上手く歌えなくていじけている私を慰めて励ましてくれるだろうか? 2,3回電話がかかってきただけだ。それもとても短いもの。私の声をちょっと聞くと先輩はホッとした感じになって、すぐに切ってしまう。どうも外から掛けているようだ、公衆電話みたい。余ったテレカを使っていると聞いたことがある。早く新学期が来ればいいなあと思っていた。

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