「あれ?」 明日から期末テスト。でもそんな日程でも学期末の授業にはたくさんの小テストが組まれている。今朝、先輩は1限の準備に合わせていつもよりも早くクラスに戻った。確か英文法の授業が2限目だと言っていたような? コレがないと困るんだろうな…。今日はそんなわけで私が文芸部室の鍵を預かることになっていた。だから先輩がここに戻ってきても開けられない。届けてあげるしかないかな…? そう思ったとき、予鈴が鳴った。とりあえず休み時間に考えようと、それをポケットに突っ込んだ。
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「おや〜カナじゃないか…」 「こおんなところで油を売っていていいのかい? お前、期末もやばいだろう〜ちゃんと勉強してるのか?」 自分でもおかしいなあと思っていた。 何なんだろう…今まで経験したことのない空気だ。 「すぐ、帰ってやりますから…お届け物に来ただけなの」 「そっか、そっか…頑張れよ〜」
「あのっ…すみませんっ!」 「緒方先輩はいらっしゃいますか?」 ざわざわ。2,3人の先輩方は顔を見合わせると、こちらを向き直った。何とも言えない瞳で舐めるように頭のてっぺんからつま先まで見つめられた。とても嫌な感じ。 「あの―…」 「あらああ〜、カナちゃん!!」 「どうしたの? 何か用??」 「ご用は、なあに?」 「あのっ、緒方先輩に…コレを届けたくて…」 「…それって、もしかして…朝の部室で…?」 「え…」 …どうして? どうして、沙也佳先輩まで、私と緒方先輩の朝勉強のことを知っているの。緒方先輩が話したのかな…それにしても。 「あ、緒方君と直接話さなくてもいいでしょう? これは私が渡しておいてあげる…」 「あの…カナちゃん…?」 「ハイ?」 「…ううん、何でもないわ。それより3年生の教室、今みんな気が立っているからあんまり来ない方がいいわよ?」 「先輩は…余裕ですねえ…」 「あら、だって私は音大志望だもの。あんまり学科は関係ないの。その代わり実技が大変なのよ?」 芸術関係に進学予定なのに理数系にいるとは、ちょっと変わっている。2年生の1学期に次の最終学年の進路調査が行われてしまう。沙也佳先輩はその時、進学をどうしようか迷っていたんだって。頭のいい先輩だから余り授業も困っていないようだけど。今は週に3回、電車に揺られて、ソルフェージュ(声楽の譜読レッスン)を兼ねた講習を受けに行っているんだって。それでも未だに先生方からは国立を受験するようにと言われているらしい。 音大はピアノを目指して入りたくても敷居が高いんだそうだ。ピアノの先生になっている人も実は声楽科出身の方が多いんだって。それくらいピアノ科は難関。で、音大を目指す人はコーラスの伴奏なんて本当はしちゃいけないそうだ。変なクセがつくとレッスンに支障が出るみたい。私はピアノも小学校の時にちょこっとやって辞めちゃったけど…何事も極めるのは大変なんだな…。 そんな考えを巡らしているとチャイムの音がした。 「あらら、大変!! 早く戻ってちょうだい」
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気の早いクラスメイトの中には予備校の夏期講習に通う人もいる。普通の塾なら市内にもあるけど、大手の予備校となると電車を使って1時間ぐらいかかる。私の3歳上のお兄ちゃんも3年の夏と冬はそうやって通っていた。だから私も3年生になったらそうしようかなと考えている。
とにかく今年の夏は部活と学校の補習授業に明け暮れた。大体、午前中が補習。長屋先生にもこってりと絞られた。お弁当を食べて午後はコーラスの練習。暑いし、眠いし、とにかくうだりそう。それでもウチの高校の文化祭は第二土日と早いので、休み中の練習で仕上がりが違ってくる。
「だめだめ〜全然、音がハモってない!! パート練習をサボっていたら、どうにもならないでしょうが!!」 そう言う焦りの気持ちもあるんだろう。新しく指揮者になった美音子ちゃんはいつに増して、言葉がトゲトゲしていた。各パートに分かれて音取りの練習を行ったあと全体練習に入ると、指揮台をピシピシと叩く仕草が多くなる。 「カナ!! もうちょっと発声を基本に戻ってやってよ。あんたの声、大きいのに息ばっかり多くて壊れた掃除機みたい。もっと滑らかに歌声にするようにしてよ。おなかに力を入れて…ほら、こうやって…背筋を通って頭のてっぺんに出る感じ…」 美音子ちゃんはジェスチャーを交えて、説明する。 そんなの言われなくたって知ってる、知識としては。この間、声楽関係に進んでいるOBの先輩がみっちりボイストレーニングをしてくれた。腹筋や背筋を鍛える体操や壁に向かっておなかを弾ませながらのスタッカートの練習。基本に忠実に行うと本当に3度くらい上の音が楽に出るようになる。そうは言っても、ついついいつものクセに戻って、せっかくの覚えたことがおざなりになる。それの繰り返しだ。 何も私一人をやり玉に上げたくて、美音子ちゃんは言ったんではないだろう。でも部員の視線を一手に浴びて身の置き場もなくなってしまう。しゅんとして俯いてしまった。 あああ、どうしてコーラス部になんて入ったんだろう? こう言うときはとっても後悔する。 私は学校の授業では歌うのが好きだったし、クラスでも上手な方だった。ピアノを少しかじったことでそれなりに音感もあると思う。でもそれはあくまでも一般人のレベルでしかない。コーラス部に入った途端、実力の差を目の当たりにした。同級生でソプラノのパートリーダーの鞠香ちゃんは中学の頃から有名だった声楽の人で、何でも顧問の先生が強力に引っ張って入部させたんだと聞いた。彼女の出すきれいな音色はうっとりするほど。伸びやかで、柔らかで女性らしくて。頑張って練習すれば、いつか鞠香ちゃんのようになれるかと思っていた。でも入部から1年以上が経過して、未だに私は「壊れた掃除機」の声しか出ない。 「…どこに行くの? カナ?」 「ちょっと、屋上。個人レッスンしてくる…」
音楽室を出て、すぐ左手に内側から鍵のかかる非常階段がある。そこが屋上への近道だった。 コーラス部は別名「走る文化部」と呼ばれる。私たちはこの非常階段を下まで駆け下りて駆け上がるダッシュを繰り返して体力を付けていた。 …歌うのは、好き。特に合唱が好き。みんなの心がひとつに溶ける、その一瞬がたまらない。 でもそこに行き着くまでの道のりがあんまりにも長い。コンサートまでは沙也佳先輩が指導してくれていた。ユーモアに富んだにこやかなアドバイスは心にすっと染みこんで行く気がして心地よかった。実際、きついことも言われた気がする。でも…それでも…美音子ちゃんのようにあんなに直接的にきつい言い様はなかった気がする。
日差しの傾きかけた屋上は夏の盛りでありながら、涼しい風が吹いていた。晴れた日にはここからでも富士山が見えると聞く。ぱたぱたと制服のスカートがはためく。ぱんだのように二つにお団子を作った頭が影になってコンクリートに落ちる。手すりにつかまって、鮮やかな空色を見つめた。 すぐ下のグランドではサッカー部が練習している。その右手奥が野球部。野球部は数年前にナイターの照明を入れた。そんなに強い部でもないんだけど、やはり野球部は練習量が違う。右手のトラックでは陸上部が筋トレをしている。その奥のプールの隣りに吹奏楽部の練習場があった。 …先輩に、会いたいなあ…そう思った。 運動部や音楽部と違って、文芸部は夏の休みの間に顔を合わせることはない。もちろん合宿もない。夏休みに入って以来、1ヶ月も先輩に会っていなかった。 今、先輩がここにいてくれたら、何て言ってくれるだろう? 上手く歌えなくていじけている私を慰めて励ましてくれるだろうか? 2,3回電話がかかってきただけだ。それもとても短いもの。私の声をちょっと聞くと先輩はホッとした感じになって、すぐに切ってしまう。どうも外から掛けているようだ、公衆電話みたい。余ったテレカを使っていると聞いたことがある。早く新学期が来ればいいなあと思っていた。 |
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