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…1…

 


 開け放った教室の窓から、柔らかな風が流れ込んでくる。

 いつの間にこんなに涼しくなったんだろうと、ふと校庭を見下ろす。小等部3年生の教室だから左棟の2階だ。視線の斜め下に植え込みが見える。

 ここ「藤野木学園」は幼稚部から高等部までの一貫教育がなされている私立の学校だ。国内でもその名を知らぬ者のない超一流の総合企業・一籐木グループの事業の一環として運営されている。郊外とはいえ東京区内にこれだけゆったりした敷地を持ち、3階建ての校舎は周囲の景観に合わせてアイボリーとライトブラウンに優しくまとめられている。格子の窓、とんがり屋根。初めてここに来たとき、イギリスかどこかの田舎に迷い込んだのかと思った。

「…あら?」
 風の中にふっといい香りを見つけた。千雪は思わず小さく叫んでいた。

 9月と10月と…そのはざまで金色の花を散らす…金木犀。普段は大きな葉を茂らせるだけの目立たない存在なのに、この季節だけ急に存在感を露わにする。姿は見せずともそれが咲いていることは誰にも感じ取れる。たとえ小さなひと枝でも。

 肩下数センチ。少し伸びた髪をかき上げる。長さを揃える程度にはさみを入れて、あとは軽くするために全体にシャギーを入れてある。詳しいことは分からないが、高等なテクニックらしい。2週間前にこの髪を整えてくれた旧友・タクミ君の会心作だ。
 明るい茶色の髪に似合うピンクベージュのスーツ。柔らかいラインの上着は丈が短めで、下のスカートは同系色の花柄フレアーだ。膝小僧の上ギリギリのスカート丈はこの服が普通の既製品でないことを証明している。周囲から見て明らかに低い背丈の千雪にぴったりと似合う服は高級百貨店か、さもなくばオーダーメイドでもなければ見つけられない。相変わらず、スーツは似合ってない気もするが…社会人生活にも「秘書」という仕事にも少しは慣れてきたかなあと思う半年目である。

 

「ちーゆ先生?」
 背中に小さな手のひらがぽん、と当たった気配。慌てて我に返る。

「…あ、ええと…なあに?」
 ぷるぷるっと頭を振って。千雪は椅子に座っていたので声を掛けてきた女の子を見上げる姿勢になる。

「あのね、コレの続きが分からないの。折り方、教えて…」
 気付くと声を掛けてきた子を含めて5人ほどの子供達が自分の周りに集まっていた。

「え? あ…折り紙ね。どれ? 本を貸してちょうだい…」

 そうだそうだ、仕事中だった。頭を切り換える。どうして、ぼーっとしちゃうんだろ? 困ったわ。

 

 改めて教室内を見渡す。小等部、3年2組の5時限は「いきいきタイム」…新しい教育指導要領に基づいて設置された多目的な活動のためのゆとりの時間だ。

 今日は「昔の遊びをしてみよう」と言うことで、皆が思い思いに折り紙やらあやとりやらビーズやら…男の子はベーゴマやメンコ、双六なんかで遊んでいる。TVゲームに浸っている子供達をアナログに目覚めさせようというのが目的か? 結構楽しそうにやっている。指導はこのクラスの担任である及川先生がやっているが、このような授業ではどうしてもひとりでは手が足りない。

 8月以降は代理教員の仕事がなくなって「学園副理事長秘書」と言う肩書きだけになっている千雪だが、こういう人手が必要な時は学園に借り出される。もともと教師志望だったし、こんな時間は楽しかった。有り難いことに子供達やその親御さん達からの要望もあり、学園側に千雪の教員としての正式採用を求める声も聞かれるという。

 それを自分の直属の上司である学園副理事長の東城惣哉から聞いたときは思わず胸が高鳴った。もっとも話を聞いたのが惣哉のベッドの中だったりしたから、しばらくぽーっとしてしまって彼に笑われてしまったが。

 

「ええと、ここは外側に折って。それから、また開いて…ほら…」

 華やかなピンクの折り紙を細かく畳んで、小さな花を作る。根気のいる細かい作業だが、女の子も中学年になると結構複雑なものを作りたがる。折り紙はどちらかというと図形…理数系の頭の作業だから千雪にとっては得意分野だ。細かい解説を目で追いながら、過程を辿る。周りで数人の女の子たちが真似をして折り進めている。何度か折っては開いて反芻しながら、どうにか皆が綺麗な花を咲かせることが出来た。

 子供達の歓声が上がったとき、丁度、終了時のチャイムが鳴った。

 

◇◇◇


「…あの、ちゆ先生?」

 授業の道具を職員室へと運びながら。千雪と並んで歩いていた及川先生が探るように声を掛けてきた。控えめな初老の女性教諭。この道数十年のベテランで千雪の大先輩だ。千雪と年の変わらない子供がいるそうで、そのせいもあり特に親しくして貰っていた。

「何でしょうか?」
 にっこり微笑んで、相手の出方を待つ。何となくぎこちない空気、不思議な気がした。

「あの…ちゆ先生…もしかして…」
 及川先生の視線が千雪のおなかの辺りで止まる。

「おめでた? …なのかしら、と思ってしまったのだけど…」

「はあ?」
 こちらがびっくりして聞き返してしまった。思わず相手の顔を覗き込むと、及川先生はまるで聞かれた立場のように真っ赤になって俯いてしまった。

「え…あ、ごめんなさいっ! あの、何となくそうかな…何て。この頃、ちょっとだるそうだし…」
 慌てて言い訳を並べ立てる。

「もしも、そうなら…そんな重い荷物を持たせたらまずいかなとか、心配になったの」

 言われたとおり。及川先生の2倍近い道具を千雪は抱えている。立場的にも年齢的にも妥当な線だろう。千雪はこの春、初めて教壇に立った新米で、この及川先生にもとてもお世話をかけているのだ。

「え? まさか…違いますよお〜。やだ、そんな風に見えました?」
 段ボール箱をよいしょっと持ち上げて、明るく否定する。

「なら…いいのだけど…ごめんなさい、変なことを言って」

「いえいえ…」

 何でもない感じで受け答えをしながら、千雪は心の中で大きくため息を付いていた。

 ふと、視線を窓の外に向ける。こぼれるような金色の花の香りが間近でして、一瞬、胸がつまった。

 

◇◇◇


「…笑うことないでしょう?」

 ことり、とコーヒーのカップを差し出しつつ。外出から帰った惣哉に千雪は唇を尖らせて抗議した。

「…あ、ごめん。でもさ、つい…おかしかったから」
 肩の線がしっくりと馴染んだ仕立てのいいスーツ。その背中がふるふると震えている。必死で笑いを堪えているみたいだ。

「でも、本当の所はどうなの? 千雪はこの2ヶ月、僕の誘いを断ったことはないよね? …実はちょっと期待していたりするんだけど…」
 ちらり。惣哉の意味ありげな視線が千雪を捉える。

「そ、そんな訳、ないです!!」

 もう、この人まで何てことを言い出すんだ。他に人のいない2人きりの副理事長室の中だから良さそうなものの、コレは立派に問題発言だと思う。千雪はもう必死で首をぶんぶんと横に振った。ひよこ頭がふわふわとあとに続く。

「あのねえ、普通、ニンシンしたらこんな平然としていられませんよ? ドラマとかであるじゃないですか…急に酸っぱいものが欲しくなったり、食欲がなくなって戻したりするんでしょう? 私のはただの生理不順です!! あまりに状況が変わったから身体がびっくりしてるんでしょう。昔から試験の前とか止まってましたから」

 及川先生にはのらりくらりとかわしたが、惣哉に対しては直接的に告げる。生理が来ていないことは、事実上の恋人である惣哉にはしっかり分かっているのだから。
 まあ、7月の終わりに惣哉の家であるこの学園の敷地続きにある東城家に居候として住み着いて…あっと言う間に2月が過ぎていた。そう言う問題が起こっていると推測されてもおかしくない、…だが。

 9月に入って、新学期が始まって。惣哉と千雪がただならぬ関係になっていると言うことを職員達が察するのに時間はかからなかった。二人は1学期の終了時までは確かにただの上司とその秘書という間柄だったのだ。この変化に驚かなかった者はいないだろう。まあ、それが露見した成り行きが…。

「…何?」
 千雪の非難がましい視線を感じて、惣哉がこちらに向き直る。顔全体に笑みを浮かべて。この顔にほだされてしまう自分が情けない。

「別に。何でもありません。…ええと、副理事長さん。こちらが今日のこれからのスケジュールです。5時からのお席も先方様よりご承諾いただきました」

 千雪は仕事上の顔に戻って、さっさと話を進めた。でも頭の中をぐるぐると先ほどの及川先生の何とも言えない視線と…そして、新学期早々の全体会議でのちょっとした一幕が渦巻いていた。

 

◇◇◇


 9月1日。始業式を終えて。恒例の職員を一同に集めた全体職員会議が行われた。普通は壁で仕切られている会議室を3つ開け放って幼稚部から高等部、そして事務職員も同席した大がかりなものだった。司会者も発言者もマイクを使う。まるで全校集会のようだ。

 千雪も惣哉についてそれに出席した。秘書という役柄と共に、新学期からの役職を皆の前で紹介されるためでもあった。産休教員の代理として大学を卒業してすぐの4月より赴任していた。その千雪の代わりに休みに入っていた小宮先生が無事出産を終えられて9月から仕事復帰される。千雪の任期は切れたのだ。本当なら7月の末に実家のある福島に戻る予定だった。父親の特別養護老人ホームへの入所が決まっていた。

 

「あれえ、ちゆ先生!!」

 廊下で他の職員に引き留められた惣哉を残して、一足先に会議室に足を踏み入れると。入り口近くにいた男性教員がこちらに気付いた。意外そうに、そして嬉しそうに瞬きして。

「…あ、ご無沙汰してます。元原先生…」

 高等部の数学教師、元原…千雪の頭の中で自慢の情報コンピューターが回る。教員数だけで100名を越えている。でもそれくらいの人間のあれこれを記憶するのは千雪にとっては朝飯前だった。数学的思考で関連づけて行くのだが、これには惣哉も舌を巻いていた。なんと惣哉の父親である学園理事長の政哉ですら人事の問題を一秘書でしかない千雪に聞いてきたりするのだ。

 元原とは数回、高等科の生徒の補習を引き受けたことから親しくなった。私立の学園の中では若手の方で、やはりこの学園の卒業生だという。教員・職員のほとんどは同窓生で、千雪のような外部の人間はほとんどいなかった。20代後半の彼は惣哉の後輩、と言うことになる。

「どうしたの? 学園に残ることにしたんだ、嬉しいな。田舎に帰っちゃうって言ってたじゃないか…」
 体育会系のノリで辺りに響き渡る声。それを耳に入れた職員が半径10メートルくらいの面積で振り返る。それだけで10名は下らない。

「え…まあ。色々ありまして…また宜しくお願いいたします…」

 千雪がぺこんと頭を下げて、もう一度顔を上げると。元原は人なつっこそうな笑顔をこちらに向けていた。学生時代はバスケの選手だったというこの人はとにかくでかい。それは千雪が自己申告150センチの身長のせいだけではないと思う。見上げてみても惣哉より幾分高い感じだ。惣哉だって、男性の平均からすれば長身の部類に入るのに。

 30センチ物差しで測れないほどの身長差に首を痛くなる。伸び上がろうとした瞬間、千雪の手にしたファイルからバラバラと書類が落ちた。

「…きゃあ…!」
 そこら中に散乱した紙切れを追ってしゃがみ込む。元原も成り行き上、手伝ってくれた。

「…相変わらずだなあ、ちゆ先生は…」
 フットワークも軽く、千雪の3倍くらいのスピードで書類をまとめていく。

「はい、コレで全部?」
 そう言って、手渡してくる元原の顔があまりに間近にあったので、どきりとする。腰を下ろしたことによって視線が合ったのだ。

「はい、すみません…」
 元の様にファイルに入れ直す。その仕草を何だか見つめられている気がした。

「ねえ、ちゆ先生。今日の放課後、暇?」

「…へ?」
 誰にも聞こえない小声で囁かれる。千雪は髪を揺らして、きょとんとした。

「食事でもどうかな? …ちゆ先生が学園に残れたお祝いがしたいな」
 そう告げる瞳がただならぬものを含んでいる。それが千雪には分かった。

「え、…あの…?」

 慌てて立ち上がろうとしたらよろけて、背後の何かにぶつかった。びっくりして振り返るよりも早く、頭の上から声が降ってきた。

「千雪、時間だ。席に着こう」

 意識して周囲に聞かせるように言い放った…そんな感じ。ぽかんとしている元原をあからさまに無視して、ぐいっと肩を掴まれた。人前では不自然なくらい身体が密着する。

「ふ、副理事長さん…」

 惣哉はそれきり何も話さない。会議中も不機嫌さが体中からにじみ出て、隣の席の千雪はメモを取りながら気が気ではなかった。

 でも。

 それよりも室内にいる職員達の視線がみんなこちらに向いているようで、落ち着かない。

 案の定、それから3日も立たないうちに、千雪が理事長の家…すなわち惣哉の家であるのだが…に居候していること、そして二人の関係がただならぬものであることが学園内に広まっていた。

 

◇◇◇

 


「じゃあ、そろそろ僕は出るから。千雪ももう家に戻っていいよ? …特に用事もないでしょう?」
 上着を着ながら、惣哉は声を掛けてくる。時計は4時半を指している。

「…副理事長さん…」
 机の上を片づけながら、千雪は抗議の言葉を告げる。

「今は仕事中です、ちゃんと敬称を付けてください。…呼び捨ては困ります! いつも言ってるでしょう…」

 そんな言葉に今更、動じる彼でもなかった。おやおや、と嬉しそうに肩をすくめる。そして支度をすっかり終えると、つかつかと千雪の所までやってきた。

「姫君はご機嫌が悪いね…いいじゃないか、少しは威嚇して周囲に知らしめないと。千雪に気がある男はあまたといるんだから…」

「…な…!」

 もうひとこと、と言うところで言葉が途切れる。素早く唇が塞がれた。網のような腕が逃れられないように千雪を巻き込む。促されるように後頭部を指で押されると、ふっと口が緩んでしまう。その隙間から、舌が忍び込んでくる。そうなるともうされるがままだ。惣哉が飽きるまで千雪の口内を味わう。

「ああ、…何だか夜が待ちきれないな…」

 崩れそうになる身体をきゅっと抱きすくめられる。心も身体も隅々まで支配されていると実感する。逃れられないのではなく、逃れたくないのだ。そんな自分の愚かさにとっくに気付いていた。

「時間だ、…仕方ないな」
 耳元に息がかかる。背筋がぞくぞくっとした。腕を解かれて、かろうじて体勢を保つ。

「じゃあ、行ってくるよ」
 また、数時間後に会うことを分かっているしばしの別れ。それでもいつも広い背中が遠ざかるのが悲しかった。

 


「…ふううっ」
 ぱたん、とドアが閉まると。千雪はそのまんま、ソファーに座り込んでしまった。勤務時間内で少し行儀が悪いとも思ったが背もたれに寄りかかって目を閉じる。組んだ両手のひらを指圧するように瞼の上に当てた。

 さっきの及川先生の視線がふうっと浮かんでくる。…彼女のように直接、思ったことを言ってくれるのは好意的な方だ。少なくとも千雪はそう感じていた。自分のことを心から心配してくれたからこそ、思いあまってそう言ってくれたのだ。ほとんどの職員達は口をつぐんだまま、千雪と惣哉のことは見て見ぬ振りをしている。

 別に。

 職員同士の恋愛が禁止されている職場ではない。あんまりあからさまなものは子供達相手の職場ではタブーだろうが、節度を守れば歓迎されるくらいだ。

 惣哉はゆくゆくはこの学園の長となる人間で。千雪は外部の出身者でありながら子供達にも父兄にも、そして職員にも快く受け入れられている。

 そんな二人の関係が、隠されるように放置されている。

 その理由は分かり切ってる。千雪も、周囲の全ての人間も。分かっていて、知らない振りをする。

 

「…戻って、来なさい…」

 惣哉の机の上の一輪挿しの竜胆がふわっと揺れて。田舎に住む叔母の言葉が思い起こされた。

続く(020613)

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