東城の家は戦前からの名家であった。それはその頃から半世紀以上外装の変わらないこの洋館からも容易に想像が出来る。広々とした敷地に両腕を大きく広げたようにゆったりした造りの建物。 最初に見たとき「国会議事堂の様な造りですね」と、言ってしまって、それを聞いた惣哉にくすりと笑われた。 「ちゆ先生、ちゆ先生…!!」 「…朔也君?」 「何してるの? こんなところで…」 東城の家に居候しているのは千雪だけではない。ここにいる朔也の方が千雪よりも数ヶ月早く住み込んでいた。両親が外国勤務で、同居していた祖母が亡くなったそうで。そこを惣哉の父である学園理事長が「拾った」のだという。まあ、色々と理由はあるのだが。ちなみに朔也の父親は一籐木グループの幹部候補の1人らしい。 「アレだよ、アレ…」 「…あ」 「あいつが来てるんだよ。あのおばはん…苦手なんだもの。今日に限って予備校がないしさ、なあ、これから2人でどこかにズルけようよ〜」 出来ることならそうしたい、そう思った。でも逃げていても始まらないと言うことも千雪は知っていた。 「駄目、ちゃんと家に入ってご挨拶しましょう? 今日、顔を合わせなくたっていずれは逃げられなくなるのよ? 朔也君は特別の人間なんでしょ、逃げちゃ駄目!!」 「ううう、ちゆ先生〜〜」 「はいはい、立って!!」 「さあ、行くわよ!!」
◇◇◇
千雪の声をスピーカー越しに聞いた若いお手伝いさんが、セキュリティーを解除して扉を開けてくれた。この扉だって一体どれくらいの大きさがあるのやら。畳3枚分くらいあるんじゃないかと思う。それも両開きの片方だけで。今この屋敷に住む人間の中で一番長身の朔也の頭よりもかなり高いところにある扉のてっぺん。どうしてお金持ちの所有物と言うのは無駄に大きく作られているんだろう。 お手伝いさんは今時にえんじ色のスタンドカラーのワンピースにフリル付きのエプロン。戦前から変わってないんじゃないかと思うような服装だ。こんな格好をしている使用人がこの家には千雪の知っているだけで5人いる。人手を確保しないと日々の掃除も出来ないのだ。自分と歳の変わらない女性達がせっせと働いているとついつい一緒になってはたきをかけたくなる(と言うか、千雪はいつも一緒になって掃除してしまう)。 「ただ今、村越様がいらっしゃってます」 「応接室にいらっしゃるんですか?」 「いいえ、リビングです」 リビングのドアの前まで行くと、彼女はこんこんと軽くノックをする。そして礼儀正しくドアを開けてぺこりと一礼。 「…千雪様と朔也様がお戻りになりました」
「ただ今、戻りました」 にこやかな笑みを浮かべながら、面を上げると。視線の先に見るからに不機嫌そうな初老の婦人が座っていた。小さな丸い眼鏡越しに千雪をじろりと睨んでいる。ナフキンで口元を押さえると、彼女は吐き捨てるように言い放った。 「戻りましたって…ここはあなたの家じゃないでしょ? 我がもの顔に振る舞わないで欲しいですわ。加えて言わせていただけば、わたくしはあなたの叔母ではありません。馴れ馴れしくなさらないで。不愉快だわ…」 千雪は一瞬、息を止めていた。今までこの人と顔を合わせるときは、いつも惣哉か、そうでなければ惣哉の父の政哉が同席していた。まあ、彼らがいたところで彼女が柔らかくなることはないが、ここまで千雪に対してあからさまに嫌悪の色を見せたりはしなかった。義兄や甥に対して多少の遠慮があったらしい。 …それに。幸さんはどこへ行ったのだろう? 女中頭の幸さんがいつもは元気に迎えてくれるのに。そう言えば、幸さんもこの夫人が苦手なのだ、買い物と称して、外出してしまったのかも知れない。夫人の給仕には若いお手伝いさんがひとり付いていた。 残念だが、この場合、高校生の朔也では心許ない。千雪はひとりで矢面に立つことになったのだ。 「申し訳ございません、村越様。失礼いたしました…」 隣りで朔也が「ひえー」だの「うぎゃー」だの、千雪にしか聞こえない声でいちいち反応している。 「…で。今日は義兄上と、惣哉は? あとどれくらいで、戻るの? あなた、秘書なんでしょ、それくらい知ってるはずよね?」 単なる質問なんだけど。彼女がこの言葉を発すると何とも言えないとげとげしさがある。 「本日、理事長先生は大阪に出張していらっしゃって夜、遅くなるそうです。そして、惣哉さんは…」 「ちょっと!! 単なる秘書の分際が、大切な東城家の跡取り様をそんな馴れ馴れしいいい方で呼んで欲しくないものだわ!!」 「…おっ、おい!! おばはん…じゃなくて、村越さん――」 「…失礼いたしました。副理事長さんはお食事のご予定がありまして、やはりお戻りは8時頃になるかと…」 「まあ!!」 「8時まで働かせるの? 秘書はもっと上司のことを考えて日程を組んで欲しいものだわ。あなた本当にそんなで惣哉の秘書をこなしているおつもり? …ああ! じゃあ、こんなところで油を売っていても仕方ないわっ」 がたがたん、と乱暴に椅子を引いて。 「今日は、惣哉の婚約の日取りを決定しようと思ってきたのよ? 仕事が忙しくて、延び延びになっているんでしょう? 先方様に申し訳なくて。お世話をしたわたくしの身にもなって欲しいものだわ。惣哉が戻ったらよく言っておいてっ!! わたくし、本日はおいとまいたしますわ!!」 まるで千雪が悪いように罵声を浴びせる。そしてわざわざ千雪を押しのけるように大袈裟に歩いて、リビングを出ていった。 「やだやだ!! 会いたくもない顔を見てしまって、気分が悪くなったわ。全く、惣哉も義兄上も…酔狂なこと。何考えているのかしら!!」 「…ひでぇ…」 「なあ、ちゆ先生。婚約ってなんだよ? 同窓会長の娘との話って白紙に戻したんじゃないの? …惣哉はどういうつもりなんだよ…」 自分に問われた言葉に、答えることも出来ず。千雪はただ、スカートをぎゅっと握りしめたまま、立ち尽くしていた。表情は、なかった。 振り向いてそんな彼女の姿を視界に捉えてしまった朔也は、それ以上何も言えなくなった。千雪の頬を覆うようにさらさらと落ちている髪が…かすかにかすかに震えていた。
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そもそも、藤野木学園の同窓会長の娘との縁談を持ってきたのはこの村越夫人だった。自分の夫と懇意にしていた会長のたっての願いで、彼女が橋渡しを買って出たのだ。それだけにとても乗り気だった。乗り気と言うよりも強引だった。 惣哉もその父親の政哉も穏やかな大人しい性格である。感情的に物言いをして自分の考えを押しつけてくる夫人を、困ったなと思いながらもそのまま自由にやらせていたらしい。黙っていれば過ぎてしまう嵐のようなものだったから。 縁談は順調に進んでいた。それは当時、一職員として学園に勤務していた千雪だって知っている。千雪よりもいくらか年長の橋崎の娘はきりりとした顔立ちの華やかな美人だ。ゆるやかなウエーブを描く黒髪に陶器のような白い肌。お決まりの赤い口紅が彼女の象徴のように似合っていた。
「ウチの学園に必要なのは家柄の良い子息、という肩書きだけじゃない。文武に優れ、明日の政財界を担う人材を育成するのが使命だからね。同窓生の身内だからと言って特別の優遇はしないんだよ」
確かに藤野木学園に在籍し続けるのは大変だ。幼稚部に入園するときに審査があり、小等部に進級するときにまた試験が行われる。これにはペーパーテストの他に学園理事長である惣哉の父親も同席して面接が行われるという。その後、小等部では2年おき、中等部と高等部では毎年試験が行われ、一定の学力に満たないものは他の学校に回されてしまうのだ。その分は新たに外部から編入する生徒がいて、全体の人数は変わらないが。
「あの同窓会長の橋崎のおじさんは、子供の頃からよく知っているんだ。我が家にも何度も来たし。お嬢様のことは詳しくは知らなかったんだけど…どっちにせよ、千雪が気にすることではないよ。ちゃんと話せば分かってくれるから…」 惣哉は橋崎同窓会長の娘との縁談はなくなったと思っている。本人にもそう伝えたし、その意を撤回する気持ちもないと言う。 「僕には、千雪しかいないんだから…」 男性のものとは思えない柔らかな髪の落ちる額、淡い縁取りの眼鏡の奥の穏やかな瞳。形の良い薄い唇から囁かれる声は深い湖のように静かで落ち着いていて、滑らかに千雪の耳から心の中に落ちてくる。小柄な千雪をすっぽりと包み込んでしまう腕の力は大人しそうな外見からは想像できないほど強くて、身動きのとれなくなった身体がこの上なく幸せな牢獄に捕らえられている気になる。
…どうして、自分などがこの人の隣りにいるんだろう?
ためらいながらも惣哉の胸に飛び込んでしまってから2ヶ月…夏休みを越えて、新学期になって。慌ただしく過ぎていく日常に惣哉も周囲の人々も…そして、千雪すらも…面倒くさいことに気を回していられなくなる。 このまま、流されていくものなのか…? そう思えてくるときに今日の様な場面に遭遇する。
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「ご様子って…待てよ、ちゆ先生。それってやばいじゃん…」 お互いに仕事着のスーツと制服を着替えて家着になって。リビングでくつろいでいた。幸さんが戻らないので千雪がコーヒーを煎れて。 「そう?」 「そう? …って。ちゆ先生、余裕だから言ってるの? それとも惣哉のことは実はどうでもいいとか?」 中庭に面して大きく作られた格子硝子の窓から、夕日の残り火が差し込む。10月、だんだん日没が早くなっていく。天井が高くゆったりと造られたリビング。ほかに誰もいないのをいいことに朔也の言葉も遠慮がなくなる。 「え? だって…」 「誰を選んで、誰と結婚するか。そう言うことを決めるのは惣哉さんご本人でしょう? 私がとやかく言うことじゃないと思うの…」 「…ちゆ…せんせ?」 「待てよ、ちゆ先生がそんなに弱気でどうすんだよ!? 惣哉のこと、好きなんだろ? 食らいついてなくていいのかよ? …僕、やだよ。あのコテコテ『偽・咲夜』がこの家に来るなんて…」 「『偽・咲夜』…って…」 「だってさ〜、あんなの誰が見たって明らかじゃないか? 橋崎の娘って、あれ、無理矢理に咲夜を真似してるだろ? 半端なことするから気色悪くてさ…」 「朔也君…」 咲夜、と言うのは…「一籐木咲夜」、藤野木学園のオーナーである総合企業・一籐木グループの現頭取の娘である。そして彼女こそがこの1月に亡くなった前頭取…咲夜にとっては実の祖父に当たる一籐木月彦が自ら「我が後継者」と認めた人間。朔也と同じく学園の高等部3年生でありながら、日本一高いオーナーの椅子が約束された人物なのである。 不思議な運命によって、咲夜は惣哉の元を去った。もともとボディーガードとお嬢様という秘められた関係ではあったが周知の事実だったことに変わりはない。惣哉の落胆は深かった。そのえぐり取られた心を埋めるべく紹介されたのが橋崎同窓会長の娘だったのである。 話はトントン拍子に進んでいった。もう少しで婚約が成立する…そんな時に千雪が惣哉の前に現れてしまった。 「やだよ、僕。あんな奴がいたら、この屋敷の居心地は一気に最悪だぜ? はっきり言って、キモいよ。第一希望の学校に受かれば、来春からだってここから通学することになるんだしさ…頼むよ、ちゆ先生〜〜〜」 「…朔也君」 「ちゆ先生が言いにくいなら、僕がおじさんや惣哉に言ってやるよ? だってさ、あの二人はずるいよ。村越のおばはんが来る曜日にわざわざ予定を入れて戻ってこないようにして。逃げてるばっかじゃないか。おじさんもおじさんだよ、あんなにちゆ先生のこと気に入ってるのに、奥さんの妹相手にのらりくらりとしちゃって。いつもの調子でぴしゃりと言ってやればいいのに…何を遠慮してるんだろ…」 「やめなさい、駄目よ」 「今日のことは内緒、分かってるわね。幸さんもいなかったんだし、私たち2人の秘密にしましょう? 学園長先生も惣哉さんもお仕事がお忙しいのよ、余計な心配は掛けたくないでしょ?」 「…でも…」 なおも食い下がろうとする朔也に千雪は一転して、いたずらっ子の微笑みを浮かべた。 「朔也君、この前惣哉さんに内緒でゲームソフト買ってきてたでしょ? あれの隠し扉の位置、教えてあげるわ」 「え? 本当!?」 この新作ゲームはなかなか手が込んでいて、苦戦していたのだ。中でも迷路のように入り組んだ塔のどこかにあるという隠し扉とアイテムが見つからず、クラスの仲間達の間でも情報が飛び交っていた。みんななかなか突破口が開けないでいる。 「えへへ、何となく目星はついてるの。…だから、内緒だよ。約束ね!!」 目を輝かせてこくこくと頷く朔也に、千雪はにっこりと微笑み返した。 続く(020615) |