「…いやあ、素晴らしかったよ。本当に良かった」 「それは、良かったですね」 朔也には「親鳥を追っていく雛みたい、ちんまいひよこがぴよぴよって…」と笑われているが。日中は副理事長室で一緒にいて、夜だってほとんど顔を合わせている。なのに千雪としても一緒にいたいし、惣哉の方も千雪が何か用事をしていて部屋まで付いてこないととても寂しそうな顔をする。普通の家屋と異なり、どこにいても家中の気配が感じ取れる、と言うこともないのだ。何となく習慣になっていた。 洗面台で顔を洗う惣哉にタオルを差し出す。ありがとうと受け取った人が千雪を見つめてにっこりと嬉しそうに笑った。
惣哉は今日、ディケアの施設の所長と会っていた。この頃、急に老人介護に興味を持ちだした彼は、せわしなくその方面の人間達と交流を深めるようになっていった。それには惣哉なりのビジョンがあるらしいのだ。 「学園内の一角にディケアの施設が造りたいんだ…」
◇◇◇
幼稚部から高等部までの藤野木学園はいわば発芽した新芽から双葉に成長して、さらにどんどん大きく育っていく生命力に満ちた世界である。憂いもよどみもない綺麗な空気。みずみずしい覇気のある空間。「動」に支配されている。その場にいるだけで自分たちも生き生きと前向きになっていけるような。 しかし。千雪の父親が入所しているホームはそんな場に慣れ親しんでいる惣哉にとって未知の空間であった。社会から切り取られた異空間。エントランスを抜けて、玄関に入ったときから建物の中を漂う消毒薬の香り。それが病院などで感じるものとは少し違っている。どことなくひなびている。
老人介護は長い長いマラソンのようなものだ。家族なんだから当然だ、と言うのは外から見た人間の勝手な見解。当事者達にとっては文字通り24時間丸々拘束された、何ともがんじがらめの日々になってしまう。寝たきりの病人を世話をするのでさえそうである。 心では分かっている。悪意があってのことではないと。それに長年一緒に生活してきた愛情もある。でもやりきれない、自由になりたい、心が追いつめられていく。 今、その様な家庭は増えている。医療技術の進歩により平均寿命は伸びた。だが、そのうちの何割が心身共に健康な老人だろうか。 その様な家族を一時的にでも解放するために「ショートステイ」というものを導入している施設が多い。多くは老人ホームの事業の一部として、その一角に数ヶ月だけ預け入れる枠を設けているのだ。 千雪の父親は家庭的な理由もあり、優先的に入れて貰えた。そして数カ所の施設を点々としながら、定住できる施設を探してきた。そしてようやくベッドの空きがあり、入所できるようになったのがここである。
「お父さん…」 千雪の問いかけにふうっと振り向いた老人。そう、見た目には惣哉の父よりもずっと老けて見える人。静かに微笑むとゆっくりと話しかけてきた。懐かしい、大好きな声で。しっかりと千雪を視界に捉えて。 「…どちらさまかな?」
「…どうしたの? 大人しくなっちゃって」 そうだろう、いつもなら千雪が助手席であれこれと話をする。惣哉は言葉の多い方ではなかったが、千雪の話を穏やかに聞いてくれていた。 「え…? あ、…ごめんなさい」 久しぶりに見た父は管理の行き届いた施設で手厚い介護を受けていることがよく分かった。さすがに私立のお金のかかっている施設だけあり、衛生面でも職員の教育も申し分ない。千雪は父親をここに入所させるために彼の退職金を使い切り、その上、今の給料では払うことも難しいほどのローンを組んでいた。 だけど。 娘の顔も何もかも思い出せない様な父を見て、惣哉はどう思っただろう。父が自分に話しかけてきたとき、明らかに惣哉の顔色が変わった。彼にとっては初めてと言っても過言でない痴呆症の人間との遭遇だったのだ。 徐々に壊れていった父親をずっと見てきた。だから千雪にはそれなりの覚悟も心構えもあった。しかし、惣哉にはそんな予備知識もない。TVなどで垣間見た知識が全てだったのだろう。 大学を出た同級生が養護学校に赴任した。普通学校を希望していたのだが空きがなくそちらに回されたのだ。彼女は初めての日、学校に入り愕然としたという。そう考えてはならないと心では思っていても、足の震えが止まらない。そして、1日の仕事が済んで、バスに乗り最寄りの駅まで戻り…その構内で、人々の行き交う群衆の波の中で、思わず涙が出たと言っていた。 惣哉が父と会いたいと言い出したときには一瞬どうしようかと思った。当たり前のことである、彼は千雪を自分の伴侶とすべく考えているのだから。それならその親に挨拶したいと思うのは当然のことだろう。 「お父さん、お元気そうだったじゃない。顔色も良さそうだったし。担当の職員さんもいい方だったね…」 柔らかい言葉を続ける人をじっと見つめた。大好きな横顔、それを見つめるために用意されている自分のための場所。 「でも…」 「都内の、千雪がいつも通えるような場所を探して早く移して差し上げなくてはね。所長さんからも寮母さんからもたくさん話を聞いたから、詳しいことはよく分かった。あとは僕に任せておいて」 「惣哉さん…」 「そんなこと、して頂くのは…本当に申し訳なくて、私…」 夢のような話なんだと思う。自分にとって、こんな幸運があるはずもないと言うような。それだけに怖い。いつ覚めてしまうかも知れない夢。…そして。 この夢が覚めてしまったとき、自分はどうなってしまうんだろう?
誰かに、愛されたかった。 「どうして、そんな言い方するの? 千雪のために僕が出来ることをするのは、当然でしょう? ましてや千雪の大切なお父さんなんだから。千雪が大切にしているものは僕にとっても大切なものなんだよ」 色々な想いが心をごちゃごちゃにかき混ぜて、顔を上げることが出来ない。不器用な自分が情けない。こんなに溢れるばかりの愛情を降り注いでくれる人。せめて精一杯の気持ちで受け止めなければ。 「…千雪?」 やさしくやさしく髪を梳かれる。規則正しい心音が心を溶かしていく。 自分に出来ることを精一杯やろうと思って生きてきた。少しぐらい背伸びしても、上を目指してきた。努力は嫌いじゃなかった。 …それなのに。 暖かいぬくもりに包まれて。壊れもののように大切に扱われて。そんな生活を繰り返しているうちに、自分はどんどん弱くなっていく。それが、怖かった。甘えることに慣れすぎてしまった自分が行き着く先。それを想像することすら、千雪には怖くて出来なかった。
◇◇◇
リビングに降りてもいいのだけど。夕食後で家人はそれぞれの部屋に戻っている。通いのお手伝いさん達は5時に帰宅するし、今、階下にいるのは幸さんぐらいだろう。幸さんは住み込みのお手伝いさんだ。彼女の部屋だけは1階にある。身体を休めることのない彼女は自分のペースでせっせと家事を片づけているのだろう。千雪も最初はそんな彼女に気が引けたが、今では割り切っている。 千雪は部屋に備え付けの小さなキッチンでお湯を沸かしてお茶を入れた。コーヒー党の惣哉だが、もう就寝前だしあまり刺激物は良くないだろう。お茶の出し方も薄めにした。 ネクタイを外して、シャツを脱いで。惣哉は寝間着用の服ではなく、家着用の服になっていた。色々書類を抱えて戻ってきたから一仕事するつもりなのかも知れない。 「丁度、入所している皆さんが自宅に戻られる時間で。職員さんが介添えしてワゴン車に乗せているところだったんだ」 「段差のない玄関で靴を履き替えていて…その時、急にぐらっと1人のおばあさんがバランスを崩して…」 「…まあ」 やはり高齢者は足腰が弱い。平衡感覚も鈍くなっている。些細な衝撃でバランスを崩したりするのだ。 「そしたら、間一髪のところで寮母さんが抱きとめて事なきを得たんだ」 「…良かったですね」 「その時、寮母さんがおばあさんをすぐには離さないで…一時、ぎゅっと抱きしめて。背中をさすりながら、大丈夫だよ、怖かったね、もう大丈夫だよって…腕の中のおばあさんは涙目でごめんなさいって言ってるんだ。何とも暖かくて、切ない情景だったよ…」 「そうですか」 「人間は年を取るとだんだん子供に戻っていくって言うけど。そうじゃないんだね…心は長い年月を越えた1人の人間で。なのに身体だけが動かなくなっていく。それを後ろめたく感じている人が多い。あの寮母さんのように全てを包み込むように接して行けたらいいね、やはり職員の教育は大切だと思った。学ぶことはたくさんあるよ、僕も色々勉強しないと」 「…惣哉さん」 「本当に、今度の役員会で…そのお話を出されるんですか? 皆様、何も知らなくていらっしゃるんでしょう? かなり驚かれるのではないでしょうか…?」 同窓会長を始め、役員のほとんどは新しい事業として学園の大学部の新設をうち立てていた。もう数年に渡り審議されてきたことでほとんど本決まりになっているという。惣哉はそれを取りやめて、代わりに高齢者向けのディケア施設を作りたいと思っているのだ。千雪の素人頭で考えても激しい反発が出ることは容易に想像が出来る。 「どうにかなるから、大丈夫」 「これから、世の中に一番必要なのは大学じゃない、ディケアのような高齢者支援の施設だよ。介護する側もされる側も…気持ちの良い世の中を作らなくてはね。そうでしょう?」 千雪は何も言えずに、黙って惣哉の話し続ける表情を眺めていた。 確かに。 彼の言うことは正しいと思う。子供の数が年々減っている今、大学部の必然性はあまりない気がする。それを併設しなくても学園への入園希望者が減るとは思えない。
惣哉は事実上の最高権力者の1人である。学園理事長である父親の政哉にはこのことを内々に打診した。 「…お前の考えはよく分かった。どうしてもやりたいというのなら私は止めない。お前はこの先、この藤野木学園を支えて行かなくてはならない人間だ。その様に前向きに自分のやりたい方針が見えてきたのは素晴らしいことだと思う。…ただし」 「ただし…何でしょうか? 父上」 惣哉は自分の考えをとても素晴らしいものだと信じていた。だから誰もが手放しに支持してくれる気がしたのだ。学園の子供達にとっても高齢者との直接的な触れ合いは必ず教育上のプラスになっていくはずだ。その様に保育施設と介護施設が併設されているセンターも多く見学した。忙しい時間の合間を縫って、スケジュールは過密になっていた。 「…いや、何でもない。今回のことはお前の采配でやりなさい。私は一切荷担しない、お前にも…役員側にも」
上に立つ職員を見下ろす立場にある惣哉に対して、千雪は立場上は学園の一職員としてたくさんの人々の中に入り込んでいる。電話の応対も、アポイントを取るのも千雪の役目だ。惣哉が動きやすいように取りはからう。もしも二人の人物が同じ時間に副理事長である惣哉と話し合いを持ちたいといえば、彼自身の考えを聞いた上で上手に相手方に伝える。もしもその二人が余り交流のない派閥の人間同士だったとすると、そのことで亀裂が入り、千雪が責められることもある。 今回のことでは本当に「動くもの」の量が膨大だ。学園の役員は多くいるが、そのそれぞれに異なった人脈がある。大学部を新設する、とひとことで言っても、建物の建設から機器の購入と設置、職員の採用に至るまで数多くの業者や人間が入ってくることになる。多分、もう水面下では色々と打診が行われていて、皆がいきり立っている。役員達は本職は会社経営やお役所のお偉方に携わる者が多い。仕事との兼ね合いもあるだろう。
「…千雪?」 惣哉の部屋と千雪に用意された部屋はいわば夫婦のためのプライベートルームだった。突き当たりが千雪の部屋でその手前が惣哉の部屋。廊下側から見ると別々の個室に見える。でもわざわざ廊下に出なくても行き来が出来るように部屋の境の壁にドアが付いている。とりあえず鍵が掛かるのだが。クローゼットは別々に部屋が用意されていたが、バスルームとパウダールーム、そしてミニキッチンは共用だ。その分、朔也の個室などよりはゆったりと造られているが。 「こっちにおいでよ?」 「…え、でも…」 「惣哉さん、今夜はお忙しそうですよ? 私は部屋で休みますから…」 「そんなつれないこと言わないの」 「…千雪の寝顔を見ながら仕事をするとはかどるんだから。今夜も部屋に戻っちゃ駄目だよ?」
そして。 本当に…千雪が想像した以上に、コトの成り行きが混迷した。数日後、ふたりはそれを目の当たりにすることになったのだ。 続く(020619) |