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…3…

 

「…いやあ、素晴らしかったよ。本当に良かった」
 その晩、予定通りに面会を終えて帰宅した惣哉は、スーツを脱ぎながら満足そうにため息を付いた。

「それは、良かったですね」
 一応、玄関先に出迎えて。部屋まで付きそう。カバンを受け取ったり、後ろからスーツを脱がせたりと言うようなことはしないが、何となくあとを付いていく感じ。

 朔也には「親鳥を追っていく雛みたい、ちんまいひよこがぴよぴよって…」と笑われているが。日中は副理事長室で一緒にいて、夜だってほとんど顔を合わせている。なのに千雪としても一緒にいたいし、惣哉の方も千雪が何か用事をしていて部屋まで付いてこないととても寂しそうな顔をする。普通の家屋と異なり、どこにいても家中の気配が感じ取れる、と言うこともないのだ。何となく習慣になっていた。

 洗面台で顔を洗う惣哉にタオルを差し出す。ありがとうと受け取った人が千雪を見つめてにっこりと嬉しそうに笑った。

 

 惣哉は今日、ディケアの施設の所長と会っていた。この頃、急に老人介護に興味を持ちだした彼は、せわしなくその方面の人間達と交流を深めるようになっていった。それには惣哉なりのビジョンがあるらしいのだ。

「学園内の一角にディケアの施設が造りたいんだ…」
 昼下がりの副理事長室で惣哉がぽつりと言いだしたとき、千雪は冗談かと思っていた。千雪と会うまではそんなことに興味も関心もないといった感じの彼だった。子供の教育のことに関しては多少の勉強はしていたようだが、そっちの方面にはあまりに疎かった。

 

◇◇◇


 夏休みの半ばに、二人で千雪の故郷を訪れた。そこで惣哉は初めて特別養護老人ホームと言う場所に足を踏み入れたのだ。彼としては大きなショックを受けたようであった。

 幼稚部から高等部までの藤野木学園はいわば発芽した新芽から双葉に成長して、さらにどんどん大きく育っていく生命力に満ちた世界である。憂いもよどみもない綺麗な空気。みずみずしい覇気のある空間。「動」に支配されている。その場にいるだけで自分たちも生き生きと前向きになっていけるような。

 しかし。千雪の父親が入所しているホームはそんな場に慣れ親しんでいる惣哉にとって未知の空間であった。社会から切り取られた異空間。エントランスを抜けて、玄関に入ったときから建物の中を漂う消毒薬の香り。それが病院などで感じるものとは少し違っている。どことなくひなびている。
 空調設備の整った涼しい屋内。清潔な白い廊下に窓からの光がさんさんと降り注ぐ。中庭の木々の緑。夏の鮮やかさ。全てに物珍しそうにしながら歩いていく惣哉。その年齢に似合わぬ子供のような瞳に千雪は嬉しいような悲しいような複雑な心境でいた。


 千雪自身だって、数年前まではこのような場所に余り興味はなかった。中学や高校の時、授業の一環で福祉施設を訪問することがあった。数人ずつ、2日間の日程で様々な施設に体験入所するのだ。市役所や図書館や…もちろん、老人ホームに行ったクラスメイトもいた。でも千雪は私立の保育園に行って、子供達と戯れていたのだ。 
 父親が病に倒れて。仕事はおろか、もう自宅での介護も叶わない症状に進んでしまって。市の保健婦さんから色々と話を聞いた。精神病院などに入院する方法もある。でも、一過性のものでしかない。治る種類のものでないのなら、長丁場を考えて対策を考えなければならない…。
 千雪が現役の学生であったこと。この界隈でも有名な優等生で、東京の大学に進んだこと。それを知らない者はいなかった。しかも父娘2人きり。小さな千雪の肩だけに背負わせるにはあまりに重い荷物だと誰もが思っていた。思ってはいたが、おいそれと手を貸せるものではない。一時の同情でまかなえるものではないのだ。
 結局、近くに住む父親の妹に当たる叔母が名乗り出てくれた。数年前まで姑の介護をし、それを看取り、今では成人した子供と定年間近の夫と暮らしていた。そうは言っても叔母としても狭い住居で兄を住まわせるゆとりはない。監視の必要な病だったから、付きっきりでいれば家事に支障が出る。病状から判断して、ゆくゆくは特別な施設に入れることを念頭に、まずは「ショートステイ」という制度を利用することにした。

 老人介護は長い長いマラソンのようなものだ。家族なんだから当然だ、と言うのは外から見た人間の勝手な見解。当事者達にとっては文字通り24時間丸々拘束された、何ともがんじがらめの日々になってしまう。寝たきりの病人を世話をするのでさえそうである。
 ましてや、それが痴呆の症状の出た人であったら。身体は丈夫で動くのに、心だけが子供に戻ってしまう。自分のしたことも何もかも忘れてしまう。してもいないことをやったと言い、反面ありもしない家族の悪口を触れ回ったりする。そんな病人であったら、介護する側が壊れてしまうかも知れない。

 心では分かっている。悪意があってのことではないと。それに長年一緒に生活してきた愛情もある。でもやりきれない、自由になりたい、心が追いつめられていく。

 今、その様な家庭は増えている。医療技術の進歩により平均寿命は伸びた。だが、そのうちの何割が心身共に健康な老人だろうか。

 その様な家族を一時的にでも解放するために「ショートステイ」というものを導入している施設が多い。多くは老人ホームの事業の一部として、その一角に数ヶ月だけ預け入れる枠を設けているのだ。

 千雪の父親は家庭的な理由もあり、優先的に入れて貰えた。そして数カ所の施設を点々としながら、定住できる施設を探してきた。そしてようやくベッドの空きがあり、入所できるようになったのがここである。
実家から車でいくらか山の中に入った私立の特別養護老人ホームだった。
 資金的なことを考えれば公立の施設に入所したいところだ。だがそう言うところは絶対数が少ない上に、規定が厳しい。千雪の父親は年齢が60代前半と若いため、なかなか希望が通らないのだ。


 父親は6人部屋の3つずつ並んだベッドの一番窓際にいた。絶えず職員が巡回するためベッドに縛り付けられるようなこともなく、千雪達が部屋に入ったときは症状も落ち着いていた。前もって連絡を入れたためか、こぎれいな着物を来て、すっきりしている。入浴させて貰ったのかも知れない。

「お父さん…」

 千雪の問いかけにふうっと振り向いた老人。そう、見た目には惣哉の父よりもずっと老けて見える人。静かに微笑むとゆっくりと話しかけてきた。懐かしい、大好きな声で。しっかりと千雪を視界に捉えて。

「…どちらさまかな?」

 


 その日はドライブを兼ねて惣哉の車で出掛けてきていた。ホームを出て帰路について。カーナビをセットした惣哉がゆっくりとした運転で車を進めていく。夏休み中なので道が混まないように平日を選んだ。大した渋滞もなくスムーズな走りだった。
 千雪は言葉もなく、ただ車の現在位置と進行方向を示す矢印をぼーっと見ていた。

「…どうしたの? 大人しくなっちゃって」
 惣哉は前を見たまま、何気ない調子で話しかけてくる。

 そうだろう、いつもなら千雪が助手席であれこれと話をする。惣哉は言葉の多い方ではなかったが、千雪の話を穏やかに聞いてくれていた。

「え…? あ、…ごめんなさい」
 とても話など出来る心境ではなかった。頭の中ではごちゃごちゃと色々な思考が渦を巻く。

 久しぶりに見た父は管理の行き届いた施設で手厚い介護を受けていることがよく分かった。さすがに私立のお金のかかっている施設だけあり、衛生面でも職員の教育も申し分ない。千雪は父親をここに入所させるために彼の退職金を使い切り、その上、今の給料では払うことも難しいほどのローンを組んでいた。

 だけど。

 娘の顔も何もかも思い出せない様な父を見て、惣哉はどう思っただろう。父が自分に話しかけてきたとき、明らかに惣哉の顔色が変わった。彼にとっては初めてと言っても過言でない痴呆症の人間との遭遇だったのだ。

 徐々に壊れていった父親をずっと見てきた。だから千雪にはそれなりの覚悟も心構えもあった。しかし、惣哉にはそんな予備知識もない。TVなどで垣間見た知識が全てだったのだろう。

 大学を出た同級生が養護学校に赴任した。普通学校を希望していたのだが空きがなくそちらに回されたのだ。彼女は初めての日、学校に入り愕然としたという。そう考えてはならないと心では思っていても、足の震えが止まらない。そして、1日の仕事が済んで、バスに乗り最寄りの駅まで戻り…その構内で、人々の行き交う群衆の波の中で、思わず涙が出たと言っていた。
 お年寄りや体の不自由な人に優しくしましょう、差別したり変な目で見たりしてはなりません…道徳上そう言われている。頭では承知している、でも…。
 自分たちは日常、健常者の中で暮らしている。「精神病」と言われるだけで異質な存在とみなされるため、鬱病になっても病院の門をくぐれない人もたくさんいると聞く。隔離されるばかりがいいとも思わない、しかし身近に接してなければ分からないことはたくさんある。

 惣哉が父と会いたいと言い出したときには一瞬どうしようかと思った。当たり前のことである、彼は千雪を自分の伴侶とすべく考えているのだから。それならその親に挨拶したいと思うのは当然のことだろう。

「お父さん、お元気そうだったじゃない。顔色も良さそうだったし。担当の職員さんもいい方だったね…」

 柔らかい言葉を続ける人をじっと見つめた。大好きな横顔、それを見つめるために用意されている自分のための場所。

「でも…」
 千雪がなかなか言葉を発しなかったためか。惣哉はすっと車を道の左脇に寄せる。流れるような仕草で衝撃もなく車を止めて、サイドブレーキを引いた。そして、ゆっくりとこちらに向き直る。

「都内の、千雪がいつも通えるような場所を探して早く移して差し上げなくてはね。所長さんからも寮母さんからもたくさん話を聞いたから、詳しいことはよく分かった。あとは僕に任せておいて」

「惣哉さん…」
 なんと言葉を続けていいのか分からずに、目の前の人を見つめる。言いたいことがたくさんあるようで、全然ないようで。どうしていいのか分からなかった。

「そんなこと、して頂くのは…本当に申し訳なくて、私…」
 千雪はそのまま、ぎゅっと唇を噛んで俯いてしまった。

 夢のような話なんだと思う。自分にとって、こんな幸運があるはずもないと言うような。それだけに怖い。いつ覚めてしまうかも知れない夢。…そして。

 この夢が覚めてしまったとき、自分はどうなってしまうんだろう?


 惣哉が、あの朝アパートまで自分を迎えに来てくれたとき。行くなと言って引き留めてくれたとき。もう差し出された腕を払いのけるだけの気力は残っていなかった。頭であれこれと考えることもなく、ただ、流れるように愛情に飛び込んでしまった。この人の腕の中は心地よくて穏やかで…春の暖かい日溜まりみたいだった。自分を包み込んでくれている、そう思うと嬉しい。大切にしてくれている、心より必要としてくれていると思えば、やはりすがってしまいたくなる。自分一人で支えるにはもう限界の心だった。

 誰かに、愛されたかった。

「どうして、そんな言い方するの? 千雪のために僕が出来ることをするのは、当然でしょう? ましてや千雪の大切なお父さんなんだから。千雪が大切にしているものは僕にとっても大切なものなんだよ」

 色々な想いが心をごちゃごちゃにかき混ぜて、顔を上げることが出来ない。不器用な自分が情けない。こんなに溢れるばかりの愛情を降り注いでくれる人。せめて精一杯の気持ちで受け止めなければ。

「…千雪?」
 暖かい羽根がふんわりと包み込んでくれる。この人の胸に抱かれるとき、自分がとても綺麗なものの様な気がしてくる。そう思えるほどに大切にされている。

 やさしくやさしく髪を梳かれる。規則正しい心音が心を溶かしていく。

 自分に出来ることを精一杯やろうと思って生きてきた。少しぐらい背伸びしても、上を目指してきた。努力は嫌いじゃなかった。

 …それなのに。

 暖かいぬくもりに包まれて。壊れもののように大切に扱われて。そんな生活を繰り返しているうちに、自分はどんどん弱くなっていく。それが、怖かった。甘えることに慣れすぎてしまった自分が行き着く先。それを想像することすら、千雪には怖くて出来なかった。

 

◇◇◇


「所長さんがね、雑用があってなかなか抜けられなくて。それでセンターの玄関先で少し待たせて貰ったんだ」

 リビングに降りてもいいのだけど。夕食後で家人はそれぞれの部屋に戻っている。通いのお手伝いさん達は5時に帰宅するし、今、階下にいるのは幸さんぐらいだろう。幸さんは住み込みのお手伝いさんだ。彼女の部屋だけは1階にある。身体を休めることのない彼女は自分のペースでせっせと家事を片づけているのだろう。千雪も最初はそんな彼女に気が引けたが、今では割り切っている。

 千雪は部屋に備え付けの小さなキッチンでお湯を沸かしてお茶を入れた。コーヒー党の惣哉だが、もう就寝前だしあまり刺激物は良くないだろう。お茶の出し方も薄めにした。

 ネクタイを外して、シャツを脱いで。惣哉は寝間着用の服ではなく、家着用の服になっていた。色々書類を抱えて戻ってきたから一仕事するつもりなのかも知れない。
 肌着代わりのTシャツの上にチェックの綿シャツを着て、下はチノのハーフパンツ。自宅での格好は朔也と大して変わらない。千雪は最初の頃、そんな彼を見るのが何だか落ち着かなかった。仕立てのいいスーツを着て、柔らかな洗練された身のこなしで学園を行く。そんな姿を見てきた。
 こうして当たり前のようにプライベートな部分を見せられて。改めて他の人が踏み込めないような近いところにいるんだなと思い知らされる。服の上からではなく、素肌に直接触れているような感覚だ。

「丁度、入所している皆さんが自宅に戻られる時間で。職員さんが介添えしてワゴン車に乗せているところだったんだ」
 にっこり微笑んでお茶を受け取る人。その瞳がキラキラしている。どこまでも純粋で少年みたいな人だ。この人といると世間の荒波にもまれてしまった自分がとても惨めに見えてくる。

「段差のない玄関で靴を履き替えていて…その時、急にぐらっと1人のおばあさんがバランスを崩して…」

「…まあ」

 やはり高齢者は足腰が弱い。平衡感覚も鈍くなっている。些細な衝撃でバランスを崩したりするのだ。

「そしたら、間一髪のところで寮母さんが抱きとめて事なきを得たんだ」

「…良かったですね」
 千雪はホッとしながら相づちを打った。成長過程にある子供とは違って、高齢の人は骨折でもすると長患いになる。それをきっかけに寝たきりになってしまうことも多いのだ。

「その時、寮母さんがおばあさんをすぐには離さないで…一時、ぎゅっと抱きしめて。背中をさすりながら、大丈夫だよ、怖かったね、もう大丈夫だよって…腕の中のおばあさんは涙目でごめんなさいって言ってるんだ。何とも暖かくて、切ない情景だったよ…」

「そうですか」
 惣哉が饒舌になるのは珍しい。誰かに話を聞いて欲しいのだろう。千雪は余計なことは言わず、相づちを打つだけにした。

「人間は年を取るとだんだん子供に戻っていくって言うけど。そうじゃないんだね…心は長い年月を越えた1人の人間で。なのに身体だけが動かなくなっていく。それを後ろめたく感じている人が多い。あの寮母さんのように全てを包み込むように接して行けたらいいね、やはり職員の教育は大切だと思った。学ぶことはたくさんあるよ、僕も色々勉強しないと」

「…惣哉さん」
 千雪はちょっと口を挟んでいた。

「本当に、今度の役員会で…そのお話を出されるんですか? 皆様、何も知らなくていらっしゃるんでしょう? かなり驚かれるのではないでしょうか…?」

 同窓会長を始め、役員のほとんどは新しい事業として学園の大学部の新設をうち立てていた。もう数年に渡り審議されてきたことでほとんど本決まりになっているという。惣哉はそれを取りやめて、代わりに高齢者向けのディケア施設を作りたいと思っているのだ。千雪の素人頭で考えても激しい反発が出ることは容易に想像が出来る。

「どうにかなるから、大丈夫」
惣哉はそんな千雪の不安を全部取り去るような明るい笑顔を見せた。

「これから、世の中に一番必要なのは大学じゃない、ディケアのような高齢者支援の施設だよ。介護する側もされる側も…気持ちの良い世の中を作らなくてはね。そうでしょう?」

 千雪は何も言えずに、黙って惣哉の話し続ける表情を眺めていた。

 確かに。

 彼の言うことは正しいと思う。子供の数が年々減っている今、大学部の必然性はあまりない気がする。それを併設しなくても学園への入園希望者が減るとは思えない。
 ただ経営陣としては学園にさらなるステータスが欲しい。大学部がある学園とない学園では「格」が違う気がしているのだ。まずは短大部だけでも良い、そう言うものがあればますます発展していくだろう。そしてそこの卒業生達が立派に世の中に貢献すればそれはそのまま学園の質の向上に繋がる。今まではいくら優秀な人材を育成しても、最終学歴である進学先の大学にその才能を吸い取られてしまった気がする。はなはだ遺憾である。

 

 惣哉は事実上の最高権力者の1人である。学園理事長である父親の政哉にはこのことを内々に打診した。
 人払いをした理事長室で黙って惣哉の話に耳を傾けていた政哉は、一通りの説明が終わると何とも言えないため息を付いたという。

「…お前の考えはよく分かった。どうしてもやりたいというのなら私は止めない。お前はこの先、この藤野木学園を支えて行かなくてはならない人間だ。その様に前向きに自分のやりたい方針が見えてきたのは素晴らしいことだと思う。…ただし」

「ただし…何でしょうか? 父上」

 惣哉は自分の考えをとても素晴らしいものだと信じていた。だから誰もが手放しに支持してくれる気がしたのだ。学園の子供達にとっても高齢者との直接的な触れ合いは必ず教育上のプラスになっていくはずだ。その様に保育施設と介護施設が併設されているセンターも多く見学した。忙しい時間の合間を縫って、スケジュールは過密になっていた。

「…いや、何でもない。今回のことはお前の采配でやりなさい。私は一切荷担しない、お前にも…役員側にも」
 政哉は静かに頭を振ると、穏やかに言った。


 惣哉が考えるほど、簡単なことではない気がしていた。少なくとも千雪は。

 上に立つ職員を見下ろす立場にある惣哉に対して、千雪は立場上は学園の一職員としてたくさんの人々の中に入り込んでいる。電話の応対も、アポイントを取るのも千雪の役目だ。惣哉が動きやすいように取りはからう。もしも二人の人物が同じ時間に副理事長である惣哉と話し合いを持ちたいといえば、彼自身の考えを聞いた上で上手に相手方に伝える。もしもその二人が余り交流のない派閥の人間同士だったとすると、そのことで亀裂が入り、千雪が責められることもある。
 そんな時も穏やかに対処する。頭では分かっていても、結構しんどい作業だった。

 今回のことでは本当に「動くもの」の量が膨大だ。学園の役員は多くいるが、そのそれぞれに異なった人脈がある。大学部を新設する、とひとことで言っても、建物の建設から機器の購入と設置、職員の採用に至るまで数多くの業者や人間が入ってくることになる。多分、もう水面下では色々と打診が行われていて、皆がいきり立っている。役員達は本職は会社経営やお役所のお偉方に携わる者が多い。仕事との兼ね合いもあるだろう。
 惣哉の考えていることがすんなりと進むとはどうしても思えなかった。

 

「…千雪?」
 物思いに耽っている自分を不思議に思ったのだろう。ベッドに腰掛けていた惣哉が名前を呼んだ。

 惣哉の部屋と千雪に用意された部屋はいわば夫婦のためのプライベートルームだった。突き当たりが千雪の部屋でその手前が惣哉の部屋。廊下側から見ると別々の個室に見える。でもわざわざ廊下に出なくても行き来が出来るように部屋の境の壁にドアが付いている。とりあえず鍵が掛かるのだが。クローゼットは別々に部屋が用意されていたが、バスルームとパウダールーム、そしてミニキッチンは共用だ。その分、朔也の個室などよりはゆったりと造られているが。
 今、二人は惣哉の部屋の方でくつろいでいた。
 何もかもがこっちの部屋の方が大きく造られている。今彼が座っているベッドにしても、千雪の部屋の3倍くらいありそうだ。しかし、千雪の部屋のベッドですら人間が3人ぐらい寝られそうな気がする。そして、毎日お手伝いさんが綺麗にベッドメイキングしてくれる自室のベッドを千雪は余り使ったことがなかった。

「こっちにおいでよ?」
 ソファーに座っている千雪にふわっと微笑みかけてくる。何とも言えない瞳の色で、特別のことを含みながら。

「…え、でも…」
 千雪は惣哉の机の上に置かれた書類達に目をやった。

「惣哉さん、今夜はお忙しそうですよ? 私は部屋で休みますから…」
 別に意地悪で言ったのではない。秘書として傍にいる千雪には彼がどんな激務の中にいるのかよく分かっていた。もしも片づけることがあるのなら、それを少しでも早く終わらせて休んだ方がいい。だいぶ、睡眠不足になっているはずだ。

「そんなつれないこと言わないの」
 千雪が飛び退くよりも早く、すっと進み出た惣哉があっと言う間に彼女を捉える。するりと背中に回った手のひらが熱を帯びている。まだ薄手のブラウス一枚の千雪にはその体温が肌で感じるように伝わってきた。そのまま唇が重なり合う。

「…千雪の寝顔を見ながら仕事をするとはかどるんだから。今夜も部屋に戻っちゃ駄目だよ?」
 リモコン操作で照明を落とす。神様の手のようにそれが滑らかな動作で行われる。首筋に湿ったぬくもりを感じながら、千雪は瞳を閉じた。


 そして。

 本当に…千雪が想像した以上に、コトの成り行きが混迷した。数日後、ふたりはそれを目の当たりにすることになったのだ。

続く(020619)

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