TopNovel「11番目の夢」・扉>11番目の夢・4



…4…



「申し訳ございません…副理事長さんはただ今、お席を外されておりまして…ええ。…それが外に回られていらっしゃるので正確な時間はわたくしには…はい、はい…」

 相手が目の前にいないことを知りながらも、千雪は何度も頭を下げた。電話の応対はアルバイトでやったこともあったし、大学の研究室でもほとんど電話番のように受話器を取っていたが、それでもそんなに上手い方ではない。受話器を握りしめる手のひらがじっとりと汗ばんだ。

 学校と言う組織は一種独特の空気がある。それは学生の頃にも感じていたことだ。

 たとえば外部の人から教授に電話がかかる、そう言うとき「ヤマモトはただ今席を外しております」と言うように一般企業のようないい方はしない。「ヤマモト先生はただ今お席を外されてます」と敬語でいいそうなのだ。これはその現場によって違うのだろう。千雪は初めの頃、学園理事長の秘書である野崎について一通りのことを習った。そして今ではそれなりに電話応対も出来るようになった。
 PTAとか学園関係者にたいしては、今のような言葉。そして惣哉が付き合っている一籐木などの会社関係の電話はへりくだった企業向けの対応をする。受話器を取ると相手を確かめて対応を検討する、結構難しい作業だった。

 どうにか話に区切りがついて、通話のボタンをオフにすると。ようやく傍らにいた人がふううっとため息を付いた。今までずっと息を潜めていたのだから当然かも知れない。

「お疲れさま、千雪」
 言葉もなく髪をかき上げた千雪に惣哉がコーヒーのカップを差し出した。立場が逆である。

 朝からこんな居留守の応対を何度となく繰り返していた。嘘をつく後ろめたさもあって、千雪の顔色は優れない。でも今の電話は特に疲れた。惣哉もそれに気付いた様子だ。

「…橋崎同窓会長の…朱美様だね?」

 惣哉の言葉に千雪がふうっと視線を上げた。ひとつふたつ瞬きをする。

「…よく、分かりましたね?」

「だって、千雪がメモを取ってないから。そんな時は彼女しかいないでしょう? …何か言っていた?」

 さり気ない調子で聞かれても、千雪は答える気にすらならなかった。今の会話は全て一瞬に取り消しボタンで削除してしまいたいくらいだったから。
 俯いた千雪の心中を知ってか知らずか…惣哉は困った笑みを浮かべて、静かに言った。

「彼女にも、困ったものだね。どうして日本語が通じないんだろう、僕はきちんと断っているのに。話が平行線なんだから…」

「副理事長さん…」
 千雪は何かひとこと言いたい気もしたが、その後に続いたのは小さなため息だけだった。もう一度、電話がきちんと台に収まっていることを確認して、彼女は自分の作業に戻った。

 

◇◇◇


 学園副理事長である惣哉のいきなりの発言。役員会の穏やかな空気が瞬時に凍った。書記として議事録を取るために部屋の片隅に身を置いていた千雪には、ガラスケースに覆われたような会合の一部始終が手に取るように思い出される。

「…どういうことなんでしょうか? 詳しくご説明頂きましょう…」

 10数人の役員達は皆50〜60歳台の壮年期の男性陣。青筋を立てた額で身体を震わせている現都議会議員の隣りで、努めて冷静さを保って話し出したのは他の誰でもない同窓会長の橋崎だった。

 惣哉はその言葉にはっきりと分かるように安堵していた。それまでの張りつめた空気がふっと溶けて。彼らしい落ち着いた物腰で資料の説明を始めた。説明自体はとても明瞭で分かりやすい物だったが、だからといって出席していたメンバー達がすぐに「はい、そうですか」と頷くわけもない。
 千雪は張りつめた空気が自分の肌に刺さってくるような錯覚を覚えていた。確かに惣哉は学園の副理事長で、理事長である父の政哉が「お前に一任する」と言ったからには今回の業務拡大の指揮を取るのは妥当だろう。だが、何年もかかって進められていた大学部の話を白紙に戻すのは。それももうすぐ申請していた認可がようやく下りようと言う時だったらしい。

 とりあえず説明を一通り聞いたのち、次回にこの話は持ち越すと言うことで会は終了した。役員達も暇ではないのだ。多忙な中、時間を割いて席に着いてくれる。色々口うるさいこともあるが、学園の運営には役員会の力が不可欠だ。それだけに彼らの心中は察しなければならないと言うことには惣哉も分かっているらしかった。

 惣哉は橋崎同窓会長を結構親しく近しい間柄と認識しているようである。だが、千雪はあの男が怖かった。それほど傍で接したこともない。だが、遠目に見ただけでもなんとなく人となりが分かってしまう。それが千雪の長所であり短所である部分だった。
 彼は獲物を狩る様な瞳。その深い部分に何とも言えない残虐さを秘めている。仕立ての良い上品なスーツに包まれた体躯はがっちりとしていて大柄だ。顔の輪郭も四角く、全体にたっぷりした印象。満たされた者…恵まれた者の匂いがした。
 銀行を母体とした複合企業の経営者であると聞いていたが、どうもそれだけではないらしい。様々な人脈を生かして、「裏」の世界を動かす者…そう囁かれていた。一見穏やかそうなその瞳の主に一度睨まれたら、その人間にあとはない。そのまま転がり落ちて行くだけだ。そんな風にして失脚した政治家もひとりや二人ではないらしい。

 …あんな人間に、もしも惣哉が睨まれたりしたら。

 そう思っただけで千雪は背筋が凍り付くようであった。

 詳しいことは分からないが、この同窓会長が学園に貢献しているものは想像以上に大きい気がした。

 そして。

 その定例会が終わった直後から、副理事長室には電話がひっきりなしにかかるようになった。会に欠席した役員を始め、PTA関係の人、出入りの業者…皆が今回の惣哉の発言をにわかには信じられないようで確認を取ろうとしてくる。
 そして、惣哉がその電話を取ったりしたらまた大変なことになる。何十年前もの事例を出されて思い直すようにと説得工作に入ってくる。今回は学園理事長の政哉がノータッチだと知ると、惣哉を丸め込むことはたやすいと考えるらしいのだ。

 初めのうちこそは真面目に対応していた惣哉だが、あまりの回数に仕事に支障が出てきた。よって心苦しくはあるが、居留守を使う手段に出ることにしたのだ。もちろん、次の定例会でははっきりとした指針を示せるようにとその準備にも余念がない。

 

◇◇◇

「…何してるの?」
 惣哉が千雪の机を覗き込んだ。色とりどりのセロファンと可愛い包装紙。小さく切り整えられたそれらを重ねて両端をねじる。いわゆる「キャンディー」の形。さながらハロウィンの様な彩り。

「お菓子やさんでも始めるの? バザーの品物?」

「いいえ」
 千雪は手を止めると顔を上げて、にっこりと微笑んだ。

「算数の教材です、1年生の」

「算数…? お菓子を教室に持ち込んでどうするの?」

 惣哉の素直な問いが面白い。千雪は今までの心の中のあれこれが吹き飛んでいく気がした。忘れていいものでもなかったが、気が重くなる事柄をしばし消し去りたかった。

「やだ、副理事長さん。ひとつ召し上がります?」
 千雪は腰を浮かすと腕を伸ばして、惣哉の手のひらにできたてのひとつを渡した。

 くるくるくるとこよりを解いて…ころん。その瞬間、千雪が吹き出した。

「中身は大きめのビーズです、教材に食材は使えませんよ?」

 千雪はひとしきり笑ったあと、尚もこみ上げてくるものを押さえながら話し出した。

「繰り上がりや繰り下がりの計算の指導に使ってみようかなって。子供達は最初にそこでつまずくんですよ?」

「…計算…?」
 惣哉は木製のビーズをつまみ上げたまま、不思議そうな表情で2度3度、瞬きをした。

「そうですよ、副理事長さん。子供達は10までの足し算と引き算は比較的簡単に理解することが出来ます。でも10以上の…繰り上がり繰り下がりが出てくる計算になると、とたんにつまずいちゃうんです。算数は積み重ねの学習ですから、つまずくとそこでおしまいですものね。分かった振りをさせたくはないんです、ちゃんと理解させてあげたいから」

 そう言いながら、千雪は仕切りを作って10の升目を作った箱にキャンディーの教材をひとつずつ詰めていった。まるで色とりどりの宝石箱みたいだった。

「数の認識って、面白いんですよ。最初、小さな子供は0と1と2の認識しか出来ません。3以上は『たくさん』になっちゃうんです。3以上はいくつでも『たくさん』、原始人なんかもそうだったようですよ。イルカやチンパンジーの実験でもそういうデータがあるらしいです」

「0と1と2…たくさん」
 惣哉は分かったような分からないような顔をして頷いた。

「そういう分かりやすい世の中だったら、楽しそうですね?」
 誰に話すわけでもなく、千雪は独り言のように呟いた。それからもう一度、惣哉の方を見て微笑んだ。

「副理事長さん、どうして子供達が10以上の数を認識するのが難しいか、お分かりになりますか?」

「…さあ」
 惣哉には何も思い当たらない様子だった。「神童」と言われ、小さい頃から学業にも芸術関係にも秀でていた彼である。それなりに努力はしただろうが、そんな初歩的なつまずきはしなかったのだろう。

「理由はね…」
 千雪は自分の胸の前で両手を開いて、惣哉の方に手のひらを見せてかざした。

「指が、10本だから」
 そう言って、またくすくすと笑う。楽しそうに。そして、惣哉がひとつ瞬きするのを確認してから話を続けた。

「かけ算とかの勉強って、5の段から始めるでしょう? 人間にとって、5という数はとても身近なんです。片手の指の本数ですもの。もちろん、教室では手を使わないで計算させるように指導しますが。それでも10までの数は比較的簡単です。赤ちゃんの頃から自分の両手を見ているんですもの。掌の中の、把握できる領域なんです…それが、10を越えると指では考えられなくなる。未知の領域です…だから、つまずくんです」

「…へえ」
 惣哉は感慨深そうに自分の手のひらを見つめている。言われてみればそうかも知れない。

「8たす2は10です。でも8たす3は…11。たったひとつ増えただけで、混乱するんです…実は、私もそうだったんですよ?」

 惣哉がこちらを見る。信じられないと言う感じで。そりゃそうだろう、千雪は大学では理工学部に在籍していた人間だ。柔らかい外見に似合わず、頭は理数系なのだ。
 千雪はそんな視線を微笑みでかわしながら、すっと窓の外に視線を逸らした。彼女の瞳には窓の外の銀杏がグリーンに映った。

「多分、小難しく考えすぎたんだと思います。その時、母が付きっきりで指導してくれました。卵を並べたり、積み木を並べたり。もう、私が理解できるまで繰り返し、繰り返し。そしたらある日、ぱあっと目の前が開けるように理解できるようになったんです」
 懐かしむように昔話をしながら、千雪の瞳がふっと曇った。

「あの日から、私…11って努力すれば手に入る数だと思っていたんです。でも違ったんですね…母が出ていったとき、子供心に祈りました、戻ってきて欲しいって」
 俯いたまま、小さくため息を付く。頬にかかった髪が揺れる。

「ひとりぼっちで、台所の窓際で膝を抱えて。母の戻るのを待ってました。きっと戻ってきてくれるって…でもいくら待っても母も弟も戻ってきてはくれなかった。人間には願っても叶わない夢があるんだって、気付きました」

 惣哉は息を飲んだ。千雪の母親が彼女の弟と共に家を出ていったのは千雪がわずか10歳の時だったと聞いていた。それからずっと父親と2人で生きてきた。愛らしく微笑む姿からは想像できない出来事。

 窓の外は朝から肌寒く曇っていた。真緑の銀杏もあと半月もすれば色を黄金色に変える。9月の終わり…このひとつきで驚くほど日が詰まった。4時過ぎなのにもう闇が迫ってきている。

 さああっと。にわかに雨が降り出した。窓から吹き込んでくるもので、千雪の髪が舞い上がる。よく手入れされた柔らかい髪は彼女の心そのままに淡く優しい。微かな風にも反応するように。

 千雪は席を立つと、窓を閉めに行った。開かれた窓から乗り出すように外を眺める。小さな背中、たとえようのないものを背負っている身体。それが静かに振り向いた。

「…夢はたくさんあっていいと思います。でも…両手に余るほどの夢は持ってはいけないんです。私、長い時間が過ぎて気付きました。母を待つことは…『11番目の夢』なんだって」
 静かに顔を上げる。その表情はどこまでも穏やかだった。

「人間には分不相応なものは持ってはならないように出来ているんでしょうね? …そう思ったら、諦められました」
 そして、もう一度惣哉に背を向けると、静かに窓を閉めて施錠した。それから「お茶を入れますね?」と小さく呟いてそのままキッチンに消えた。

 

 そんな彼女の姿を目で追ったあと、惣哉はもう一度、千雪の机の上を見た。仕切りの付いた箱に収まる10個のあめ玉、そしてそこからこぼれたあめ玉。

 指の10本分、全部で10の夢。それがキラキラと輝いている。でもこぼれ落ちた残りの方が心に引っかかる。今日の千雪の言葉は何か暗示じみていた。
 改めて、自分の両手を眺める。惣哉は子供の頃から物わかりがいいと言われていた。駄々をこねて親を困らせたこともない。母親が長患いの末この世を去ったときも、あまりに淡々と見送るので逆に気味悪がられた位だ。そう言われても悲しみという感情が上手く浮かんでこなかった。あるべきものは受け入れるべきだと思っていた。
 今、自分の夢を上げてみろと言われても果たして10本の指を埋めるだけのものが浮かんでくるか、その自信がない。

 ただ、これだけは言える。両手ですくい取った、大切な人がいること。自分で望んで手に入れた、大切な存在がすぐ傍にいること。それが今の惣哉を強くする。色々なことに立ち向かえる勇気になる。

 幸せは、数ではない…重みだ。大切なものを守りたいと思うその心から出てくる。

 やがて、お盆に湯飲みを乗せて現れた人に何気ない風に聞いていた。

「千雪、…お母さんに会いたい?」

「え?」
 湯飲みを置いた人が、びっくりした顔で惣哉を見上げた。

「千雪がもしも、そう思うんだったら…調べる手段はいくらでもあるんだよ? 僕がすぐに手配してあげる」

 そんな惣哉の穏やかな表情を千雪は呆然と見つめていた。やがて、ふっと視線を逸らして言う。

「…いいえ、結構です」
 それから胸の前でお盆を抱え直した。その腕が大きく震えている。

「母は…私を捨てたんです。もしも本当に、私に会いたいと思ってくれたんなら、もっと早くに会いに来てくれたはずです。私には会いたくないんです…だから、来てくれなかったんです」

 立ち尽くした小さな身体が小刻みに震え続ける。惣哉は椅子を立つと、その前まで歩いていった。ためらいがちに髪に触れる。すべすべと気持ちの良い感触。

「駄目です、副理事長さん。勤務中です――」
 千雪が惣哉の腕の中で小さく抵抗した。

「千雪…」

「その呼び方も、駄目です。お仕事の間はきちんとして下さいといつも申し上げているでしょう?」

 惣哉が小さい輪郭を両手で包み込んだとき、指の先にひんやりとしたものを感じた。少し、力を込める。

「…じゃあ、一度だけ。惣哉って、呼んで…」
 そうしないと離さないよ、と言う感じで顔を覗き込む。涙目のまま惣哉を見上げた千雪はきゅっと唇を噛んだ。

「惣哉、さん…」

「千雪…」
 そのまま背中を丸めて、唇を重ねた。柔らかい、触れるだけのキス。たとえようのない感情が伝わってくる。

「幸せに、するからね」

 一度、強く抱きしめる。腕の中の人が、小さく頷いた気がした。それだけが二人の真実だった。

続く(020626)

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