「申し訳ございません…副理事長さんはただ今、お席を外されておりまして…ええ。…それが外に回られていらっしゃるので正確な時間はわたくしには…はい、はい…」 相手が目の前にいないことを知りながらも、千雪は何度も頭を下げた。電話の応対はアルバイトでやったこともあったし、大学の研究室でもほとんど電話番のように受話器を取っていたが、それでもそんなに上手い方ではない。受話器を握りしめる手のひらがじっとりと汗ばんだ。 学校と言う組織は一種独特の空気がある。それは学生の頃にも感じていたことだ。 たとえば外部の人から教授に電話がかかる、そう言うとき「ヤマモトはただ今席を外しております」と言うように一般企業のようないい方はしない。「ヤマモト先生はただ今お席を外されてます」と敬語でいいそうなのだ。これはその現場によって違うのだろう。千雪は初めの頃、学園理事長の秘書である野崎について一通りのことを習った。そして今ではそれなりに電話応対も出来るようになった。 どうにか話に区切りがついて、通話のボタンをオフにすると。ようやく傍らにいた人がふううっとため息を付いた。今までずっと息を潜めていたのだから当然かも知れない。 「お疲れさま、千雪」 朝からこんな居留守の応対を何度となく繰り返していた。嘘をつく後ろめたさもあって、千雪の顔色は優れない。でも今の電話は特に疲れた。惣哉もそれに気付いた様子だ。 「…橋崎同窓会長の…朱美様だね?」 惣哉の言葉に千雪がふうっと視線を上げた。ひとつふたつ瞬きをする。 「…よく、分かりましたね?」 「だって、千雪がメモを取ってないから。そんな時は彼女しかいないでしょう? …何か言っていた?」 さり気ない調子で聞かれても、千雪は答える気にすらならなかった。今の会話は全て一瞬に取り消しボタンで削除してしまいたいくらいだったから。 「彼女にも、困ったものだね。どうして日本語が通じないんだろう、僕はきちんと断っているのに。話が平行線なんだから…」 「副理事長さん…」
◇◇◇
「…どういうことなんでしょうか? 詳しくご説明頂きましょう…」 10数人の役員達は皆50〜60歳台の壮年期の男性陣。青筋を立てた額で身体を震わせている現都議会議員の隣りで、努めて冷静さを保って話し出したのは他の誰でもない同窓会長の橋崎だった。 惣哉はその言葉にはっきりと分かるように安堵していた。それまでの張りつめた空気がふっと溶けて。彼らしい落ち着いた物腰で資料の説明を始めた。説明自体はとても明瞭で分かりやすい物だったが、だからといって出席していたメンバー達がすぐに「はい、そうですか」と頷くわけもない。 とりあえず説明を一通り聞いたのち、次回にこの話は持ち越すと言うことで会は終了した。役員達も暇ではないのだ。多忙な中、時間を割いて席に着いてくれる。色々口うるさいこともあるが、学園の運営には役員会の力が不可欠だ。それだけに彼らの心中は察しなければならないと言うことには惣哉も分かっているらしかった。 惣哉は橋崎同窓会長を結構親しく近しい間柄と認識しているようである。だが、千雪はあの男が怖かった。それほど傍で接したこともない。だが、遠目に見ただけでもなんとなく人となりが分かってしまう。それが千雪の長所であり短所である部分だった。 …あんな人間に、もしも惣哉が睨まれたりしたら。 そう思っただけで千雪は背筋が凍り付くようであった。 詳しいことは分からないが、この同窓会長が学園に貢献しているものは想像以上に大きい気がした。 そして。 その定例会が終わった直後から、副理事長室には電話がひっきりなしにかかるようになった。会に欠席した役員を始め、PTA関係の人、出入りの業者…皆が今回の惣哉の発言をにわかには信じられないようで確認を取ろうとしてくる。 初めのうちこそは真面目に対応していた惣哉だが、あまりの回数に仕事に支障が出てきた。よって心苦しくはあるが、居留守を使う手段に出ることにしたのだ。もちろん、次の定例会でははっきりとした指針を示せるようにとその準備にも余念がない。
◇◇◇ 「…何してるの?」 「お菓子やさんでも始めるの? バザーの品物?」 「いいえ」 「算数の教材です、1年生の」 「算数…? お菓子を教室に持ち込んでどうするの?」 惣哉の素直な問いが面白い。千雪は今までの心の中のあれこれが吹き飛んでいく気がした。忘れていいものでもなかったが、気が重くなる事柄をしばし消し去りたかった。 「やだ、副理事長さん。ひとつ召し上がります?」 くるくるくるとこよりを解いて…ころん。その瞬間、千雪が吹き出した。 「中身は大きめのビーズです、教材に食材は使えませんよ?」 千雪はひとしきり笑ったあと、尚もこみ上げてくるものを押さえながら話し出した。 「繰り上がりや繰り下がりの計算の指導に使ってみようかなって。子供達は最初にそこでつまずくんですよ?」 「…計算…?」 「そうですよ、副理事長さん。子供達は10までの足し算と引き算は比較的簡単に理解することが出来ます。でも10以上の…繰り上がり繰り下がりが出てくる計算になると、とたんにつまずいちゃうんです。算数は積み重ねの学習ですから、つまずくとそこでおしまいですものね。分かった振りをさせたくはないんです、ちゃんと理解させてあげたいから」 そう言いながら、千雪は仕切りを作って10の升目を作った箱にキャンディーの教材をひとつずつ詰めていった。まるで色とりどりの宝石箱みたいだった。 「数の認識って、面白いんですよ。最初、小さな子供は0と1と2の認識しか出来ません。3以上は『たくさん』になっちゃうんです。3以上はいくつでも『たくさん』、原始人なんかもそうだったようですよ。イルカやチンパンジーの実験でもそういうデータがあるらしいです」 「0と1と2…たくさん」 「そういう分かりやすい世の中だったら、楽しそうですね?」 「副理事長さん、どうして子供達が10以上の数を認識するのが難しいか、お分かりになりますか?」 「…さあ」 「理由はね…」 「指が、10本だから」 「かけ算とかの勉強って、5の段から始めるでしょう? 人間にとって、5という数はとても身近なんです。片手の指の本数ですもの。もちろん、教室では手を使わないで計算させるように指導しますが。それでも10までの数は比較的簡単です。赤ちゃんの頃から自分の両手を見ているんですもの。掌の中の、把握できる領域なんです…それが、10を越えると指では考えられなくなる。未知の領域です…だから、つまずくんです」 「…へえ」 「8たす2は10です。でも8たす3は…11。たったひとつ増えただけで、混乱するんです…実は、私もそうだったんですよ?」 惣哉がこちらを見る。信じられないと言う感じで。そりゃそうだろう、千雪は大学では理工学部に在籍していた人間だ。柔らかい外見に似合わず、頭は理数系なのだ。 「多分、小難しく考えすぎたんだと思います。その時、母が付きっきりで指導してくれました。卵を並べたり、積み木を並べたり。もう、私が理解できるまで繰り返し、繰り返し。そしたらある日、ぱあっと目の前が開けるように理解できるようになったんです」 「あの日から、私…11って努力すれば手に入る数だと思っていたんです。でも違ったんですね…母が出ていったとき、子供心に祈りました、戻ってきて欲しいって」 「ひとりぼっちで、台所の窓際で膝を抱えて。母の戻るのを待ってました。きっと戻ってきてくれるって…でもいくら待っても母も弟も戻ってきてはくれなかった。人間には願っても叶わない夢があるんだって、気付きました」 惣哉は息を飲んだ。千雪の母親が彼女の弟と共に家を出ていったのは千雪がわずか10歳の時だったと聞いていた。それからずっと父親と2人で生きてきた。愛らしく微笑む姿からは想像できない出来事。 窓の外は朝から肌寒く曇っていた。真緑の銀杏もあと半月もすれば色を黄金色に変える。9月の終わり…このひとつきで驚くほど日が詰まった。4時過ぎなのにもう闇が迫ってきている。 さああっと。にわかに雨が降り出した。窓から吹き込んでくるもので、千雪の髪が舞い上がる。よく手入れされた柔らかい髪は彼女の心そのままに淡く優しい。微かな風にも反応するように。 千雪は席を立つと、窓を閉めに行った。開かれた窓から乗り出すように外を眺める。小さな背中、たとえようのないものを背負っている身体。それが静かに振り向いた。 「…夢はたくさんあっていいと思います。でも…両手に余るほどの夢は持ってはいけないんです。私、長い時間が過ぎて気付きました。母を待つことは…『11番目の夢』なんだって」 「人間には分不相応なものは持ってはならないように出来ているんでしょうね? …そう思ったら、諦められました」
そんな彼女の姿を目で追ったあと、惣哉はもう一度、千雪の机の上を見た。仕切りの付いた箱に収まる10個のあめ玉、そしてそこからこぼれたあめ玉。 指の10本分、全部で10の夢。それがキラキラと輝いている。でもこぼれ落ちた残りの方が心に引っかかる。今日の千雪の言葉は何か暗示じみていた。 ただ、これだけは言える。両手ですくい取った、大切な人がいること。自分で望んで手に入れた、大切な存在がすぐ傍にいること。それが今の惣哉を強くする。色々なことに立ち向かえる勇気になる。 幸せは、数ではない…重みだ。大切なものを守りたいと思うその心から出てくる。 やがて、お盆に湯飲みを乗せて現れた人に何気ない風に聞いていた。 「千雪、…お母さんに会いたい?」 「え?」 「千雪がもしも、そう思うんだったら…調べる手段はいくらでもあるんだよ? 僕がすぐに手配してあげる」 そんな惣哉の穏やかな表情を千雪は呆然と見つめていた。やがて、ふっと視線を逸らして言う。 「…いいえ、結構です」 「母は…私を捨てたんです。もしも本当に、私に会いたいと思ってくれたんなら、もっと早くに会いに来てくれたはずです。私には会いたくないんです…だから、来てくれなかったんです」 立ち尽くした小さな身体が小刻みに震え続ける。惣哉は椅子を立つと、その前まで歩いていった。ためらいがちに髪に触れる。すべすべと気持ちの良い感触。 「駄目です、副理事長さん。勤務中です――」 「千雪…」 「その呼び方も、駄目です。お仕事の間はきちんとして下さいといつも申し上げているでしょう?」 「…じゃあ、一度だけ。惣哉って、呼んで…」 「惣哉、さん…」 「千雪…」 「幸せに、するからね」 一度、強く抱きしめる。腕の中の人が、小さく頷いた気がした。それだけが二人の真実だった。 続く(020626) |