二人の周りに立ちはだかる林のようなもの。それが日々迫ってきている気がした。自分の隣りにいる人は気にも留めていない感じだ。それだけ忙しいとも言える。秘書として見ていても、惣哉は忙しすぎた。学園での仕事に加えて、出張もある。その合間をぬって、今回の業務拡大に関しての課題がある。 千雪もそんな惣哉の傍で、自分に出来る限りの手助けをしていた。大学を出たばかりの素人ではそれほどの助力にもならないかも知れない。でも、役に立ちたかった。学園内の権力分布の実体も必死で把握しようとしている。職員、役員…保護者会。出入りの業者。無数に張り巡らされた交流の糸をたぐり寄せる。惣哉の行動がわずかばかりでもスムーズに運ぶことを願っていた。 (…やはり、橋崎同窓会長様が一番の柱でいらっしゃるんだろうな… ) 同窓会長の物腰はどこまでも穏やかだ。外見の堂々とした風格を考えなければ、表向きの空気は惣哉とたいして変わらない気がする。 (でも、それだけであるわけはない…) 眉間にきりきりと痛むものを感じだ。疲れているのだろうか。
「肩、凝ってるでしょ?」 「あ、ごめん。もしかして、私…寝てた?」 「…ちょっとね」 「どうしたの? やっぱり大きなお屋敷は気を遣う? 例の御曹司とは上手く行っているんじゃないの?」 「ちゆがそんなご大層な家で小さくなっているのは可哀想だなあ…だから言っただろ? 俺を選べって…」 「タクミ君!!」 「もう、すぐにそう言うことを言うんだから…」 「仕方ないわよお〜〜」 「仲間うちの男子は皆、ちゆ狙いだったんだから。今更、怒る気にもならないわ…」 千雪は仕事を早めに引き上げて、定期的に訪れている美容院に来ていた。高校生の頃の同級生が親戚の家のお店を譲り受けたもの。千雪は今、肩を叩いてくれているタクミが修行中の頃からカットモデルにされていた。今も新しい整髪料やらトリートメントやらを試すときに呼ばれる。 「ちゆのふわふわの髪は扱いにくいから。そう言うので試しておくと、他のお客様のときに楽なんだ」 「もお〜、瑞穂ちゃんは余裕でいいわね…」 「だって、妻ですもの〜〜〜」 「ああっ、ちゆだ〜〜〜」 「駄目だよ、ちゆは今日はパパのお客さんなんだから」 「じゃあ、お客さんするのが終わったら遊ぼ!! 約束だよ〜〜〜」 「ほらほら、あんた達!! ビデオはどうしたの?」 「飽きた〜〜〜〜」 「…まああったく。うるさいばっかだわ、仕事の邪魔ばっかして」 「でも、可愛いわ…」 「ちゆだって、すぐに出来るでしょ?」 「…え?」 「何だよ、その意外そうな顔。だって、結婚するんだろ? その御曹司と。そうすりゃ…」 …じゃあ? いつもの私って…どうなってるの? 「…ま、金持ちは色々難しいんだろうからな。俺と瑞穂なんか『結婚しましょう、そうしましょう』って、すぐに決まりが付いたけど。ちゆたちはそう言うわけには行かないんだろうからなあ…」 「でもさ」 「ちゆは…幸せになった方がいいよ?」 千雪はその時のタクミの瞳に何かを感じて、たまらない気持ちになった。 そうなのだ、昔からの友達はみんな知ってる。千雪の父親の病気のことも、それが元で別れた恋人のことも。人前では気丈にしていたが、仲間うちでだけは本音で付き合えた。そう言う場は千雪にとってこの仲間の前しかなかった。 「王子様にはっきり言わなくちゃ駄目だよ、千雪がこんなに疲れているのは珍しいよ。肌も荒れているしね…きっと食欲とかも落ちているでしょう?」 「う〜ん…」 「自分では分からないわ、本当に良くして頂いてるから…」 「…それはそれは…ごちそうさま」 惣哉の屋敷で世話になっていることは話していた。でもその先のことはどうしても言えないでいた。惣哉に10年来の付き合いの恋人がいたこと、そして今も婚約者と称する女性が自分の他にいること。このまま、話の流れようによっては、彼女が惣哉の妻として収まるかも知れないこと…。 実際、橋崎同窓会長が自分の方を見るたびに、身の縮まる思いでいた。知っていないわけではない、自分と惣哉がただならない関係であること。そして、今回のディケア施設の話も千雪がいなかったら起こるはずもなかった話であることを。 …どういうつもりなんだろう? 惣哉に相談できることではなかった。彼は同窓会長の娘との縁談は白紙撤回したと思っているし、何より忙しすぎる。とても千雪自身の悩みなど相談できる感じではなかった。心配掛けたくなかった。 「ちゆ、ひとりで頑張りすぎだよ。俺達はみんな、ちゆのこと大好きだけど…もうちょっと頼って欲しいなと寂しく思うこともあるよ」 「うん…」 「ちゆ、いつかのおまじない、覚えてる…?」 「ほら、ちゆが…ドレスアップした日の奴。…それを、思い出してよ?」 千雪は一度目を開けたが、もう一度ぎゅっと閉じた。ゆっくりと思い出す、あの日のこと。
◇◇◇
何をしても、どういう訳か上手く行かない。それが育ちの違いと言うものだろう。彼は学園の副理事長で、自分はその秘書で。そんな間柄でありながら、お互いがお互いに何となくしっくり行かなかった。 ほんのりと憧れていた人。少しでも近づきたいと思った。でも必死で寄り添おうとしても息切れしてしまう。たとえば彼の往年の恋人の一籐木のお嬢様、咲夜のように。そして婚約者である橋崎同窓会長の娘、朱美様のように。あんな風な女性だったら良かった。全てが違いすぎた。 「一緒に行かない?」 優しい瞳でそう誘われたとき、それがただの御礼だと分かっていても嬉しかった。気の置けないアンサンブルのディナーショー。一度でいいから、素敵なヒロインになりたかった。ホンモノの、恋人同士みたいに。 「どうしたの? 浮かない顔をしていたら、駄目じゃない?」 「俺の腕は完璧なんだよ? 今のちゆは世界中で一番綺麗だよ…でも、そんなに悲しそうな顔をしていたらせっかくのドレスもメイクも…全然良くない」 そうは言われても。鏡に映る人形のように飾られた自分が果たして惣哉に似合うほどの娘になれているか分からなかった。彼がいつも接している上流階級の淑女達に較べたら、情けないだけじゃないだろうか。がっかりされたら、どうしよう。せっかく誘ってくれたのに…。 「ちゆ」 「これから、私の一番大好きな人に会いに行く。一番大好きな人が、自分を待っていてくれる。…そう呟いてごらん?」 「…一番…大好きな、人?」 「そうだよ、会いたくて会いたくてたまらない人が、ちゆのこと待っててくれるんだ。ちゆのことだけを待っていてくれるんだよ。それで、いいじゃない。ちゆの心がホンモノなら。それが一番大切なんだよ?」 「うん…」 「その人のことで、心をいっぱいにして、余計なことは考えちゃ駄目だよ。この世にはちゆと王子様と二人しかいないんだ」
◇◇◇
一瞬だけ、ふっと気が楽になった。 「さて、出来た。どう…?」 「あらあ、完了ね?」 「これからチビどもと買い出しに出るんだけど? 学園の方を通るから、送ろうか? うっさいのは一緒だけど…タクミはスタジオなんだよね?」 さりげない目配せで、ちょっと肩に置いた手でコミニケーションをする2人を千雪はまぶしそうに見つめていた。それから誰にも聞こえないようにひとつため息を付いて、静かに言う。 「ううん、今日はまだ寄っていくところがあるの。ありがとう」
駅への歩道を歩きながら、ショルダーの揺れを肩で感じる。このバッグは千雪が東京の大学への進学が決まった春に、父親から手渡されたものだった。 何の言葉もなく、無言で手渡された。ラッピングも何もないバッグ。丁寧な仕事で作られていたが手にした感じでそれが手作りであることに気付いた。趣味でその道に精通した人が時間を掛けて作ったものに違いなかった。 時計を見る…4時半。大丈夫、時間は間に合う。そう思って空を仰いだ。薄ピンクにそまった天井から西の方角にだんだん赤へのグラデーションが続いていた。それを横切るように鳥の一団が流れていく。高いところを飛んでいるので種類は分からない。ねぐらに帰るのか、それとも南に渡るのか。
◇◇◇
次の日、学園を定時で上がってまっすぐに引き上げてきた千雪は、東城の屋敷の前でふううっとため息を付いた。シルバーの車が仰々しく横付けされている。存在を大きく誇示するように。 「…まあ!!」 「村越様…」 「ああ、お目にかかりたくもない人に会っちゃったわ!! なあに!? あなた、まだここをうろうろしてたの? いい加減にしなさいよね!!」 呆然としながらも、千雪は彼女がかなり立腹していることを察した。ぴりぴりとした空気が痛いほど伝わってくる。 「まるで、安っぽいおもちゃのようね。まあ、子供は誰でも一度は見てくれのいいだけの安物に心を奪われるものだわ。惣哉も今まさにそんな気分なんでしょうよ」 「あなた…卑しい身分だからって、やって良いことと悪いことがあると思いますけど? ご自分のなさっていることをお分かりなのかしら?」 「惣哉に取り入っていい気になっていらっしゃるのね? …それで上手く行くと思ったら大間違いですわよ? あなたと橋崎様とはまったく立場が違うでしょう? 分かっていらっしゃるんでしょうね…東城の家には橋崎様のような素晴らしい御家がお似合いなの。一人前のオトナだったら、それくらいのことはとっくにご存じでしょうね!!」 「あ、あのっ…」 「…朱美様から伺ったわ、あなた惣哉を電話口に出さないんですってね? 意地の悪いこと!!」 黙ったまま、目の前の人を見つめた。もう何も言葉を発する気にもならなかった。 「所詮は安物のおもちゃよ。どんなに張り合って見たところで、ホンモノのすばらしさには敵うわけもないの…惣哉だって、今に目が覚めるわ。その時にご自分が辛い思いをしないように。さっさと本来あるべき場所にお戻りなさい…東城はあなたなどがいる場所ではないのよ。不釣り合いにもほどがあるわ」 チャリンと、キーを鳴らして。ヒールの音も高らかに千雪の横を通り過ぎていく。千雪はそこから一歩も動けなかった。まるで根っこが生えてしまった如く。 肩先をかすめて脇を通る瞬間に、吐き捨てるように夫人は言った。 「…覚悟しなさい、今にここにはいられないようにして差し上げるから!!」 さらさらと夕風が吹いて、頭上の小枝を奏でた。昨日整えたばかりの髪がふんわりと揺れる。でも千雪の心はカラカラに渇いていた。
どれくらい、時間が過ぎたのだろう…? 「…ちゆ先生?」 「…あ」 「どうしたの? 今の村越ババだろ…相変わらずスゲー運転だよな。アレで本当に大病院の院長の奥さんなのかよ…ちゆ先生?」 「また、あのババはちゆ先生に何か言ったんだろ? 本当にあったまくるんだよな〜いつまでもここを牛耳っていて気に入らないの」 千雪がようやく青白くなった顔を上げたとき、朔也の背後に隠れていた人がすっと姿を現した。 続く(020628)
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