「…咲夜さん」 「こんにちは、ちゆ先生」 久しぶりに至近距離で見る咲夜は相変わらず美しくて、ドキドキしてくる。同性でありながら、しかも相手が5歳も年下でありながら。 「今日は村越ババの来る日だから、惣哉がいないだろ? 咲夜とゆっくりお茶でもしようかなって、連れてきたんだ」 「そ、そうなの。どうぞ、お入りになって? 幸さん、いらっしゃるかしら…」 「おじゃまします」 「ちゆ先生も一緒にどう? 今日は僕が煎れてあげるよ、コーヒー…」 「え? いいわよ〜お邪魔しちゃ悪いわ」 突然の思いがけない誘いに、千雪は慌てて胸の前でバイバイするように両手を振った。二人は高校3年生、受験勉強のさなかにあってあまりデートも出来ないらしい。朔也は夕方から真夜中までの予備校に週3日通っていたし、咲夜にだって専属の家庭教師が付いている。こういう貴重な時間は大切にした方がいいと思った。 「いいって、いいって。なあ、咲夜?」 「そうよ、構いませんわ。ちゆ先生もご一緒にどうぞ」 二人に促されて、千雪は渋々と従った。
◇◇◇
千雪の通っていた大学にもそれなりに裕福な家庭の学生はいた。でも咲夜ほどの人物に身近に接したことはなかった。まあ、咲夜ほどの人物に接することが出来る人間自体が少ないと思うが。学園への送り迎えにも「警護役」である惣哉が行い、どこへ行くにも側近が付く。そんな女子高生がいるだろうか。最近はそれでも緩和されたと言うが…自分の周囲に張り巡らせれた蜘蛛の糸のようながんじがらめのガードを大したものとも思わずに悠然としている少女が千雪には驚異にすら見えていた。 ただ長年彼女の身辺警護をしてきた惣哉の話に寄れば、この半年ほど…朔也と出逢ってからの咲夜は急に庶民的になったという。学校の帰りにハンバーガーショップへ寄ったり、カラオケをしたり。聴く音楽も今風のポップスが多くなった。そのことを惣哉自身は憂いている様子だ。 「へえ、咲夜にも苦手なものがあるなんて、意外だな…」 「あら、失礼ね」 「村越の叔母様はね、惣哉さんが生まれたときからずっとあれこれと口を挟んで来ていたんですって。惣哉さんのお母様はお体が弱くてほとんどベッドの上で過ごされていたから。甥っ子を姉に代わって育てた、って気になっていらっしゃるんでしょうね」 「一籐木に入社して私の身辺警護に就いたときも…わざわざお祖父様の所までやってきて、文句を仰ったらしいわ」 「げえ、月彦に? 命知らず〜」 今年の1月に亡くなった咲夜の祖父である、一籐木の前頭取の一籐木月彦…稀にみる優れた経営者で、政財界の人々に恐れられていた。一籐木グループがここまでのし上がってきたのにも彼の力が大きく作用していると言う。一籐木と言えば田舎育ちの千雪ですら、その名前を知っていた。月彦の会社葬の模様は全国ネットのニュースで見た。 「もっと実のある、一籐木の中核にもなるような地位に付けてくれって。お祖父様は取り合わなかったらしいけど…そう言うことを平気でなさる方なの。惣哉さんと私とのことも良く思っていなかったご様子よ? 結構、嫌みを言われたもの…これ見よがしに縁談の話をたくさん持ってきて。ご自分の息のかかったお嬢様を縁づけて、一生東城のお家に関わり続けたかったのでしょうね…」 「ちゆ先生も、負けちゃ駄目よ。あんな方、口ばっかりで何も出来やしないんだから。朔也に聞いたわ、ずいぶんな言われようなんですって? 惣哉さんも政哉おじさまもちゃんとして下さらないと駄目よね。本当に男性陣は情けないんだから…」 しっかりした瞳で食い入るように見つめられて、思わず息を飲む。綺麗だ、この子は。そしてとても強い子だ…まっすぐな心がそのまま瞳の色になる。咲夜の美しさは外的要素だけでなく、内面から滲み出たものでもあるのだ。たかだか17歳の娘がここまでの視線を送れる…これではこの先、成人してどこまで素晴らしい女性になるのだろう。 「そうだよ、ちゆ先生〜ババになんか負けないでよね。惣哉の心なんてがしっと掴んでさ…」 「だって、ちゆ先生がいなかったら。また、惣哉は咲夜に未練たらたらになって、僕を追い出しにかかるんだぜ。本当にしつこいんだから。ここに来た当初はことあるごとに『アメリカ行きのチケットを手配します』って。ダイニングに電話があるのに、携帯をテーブルに置いてたんだ。こえーよ…」 自分以外の女性陣が…何とも複雑な表情で苦笑いするのにも気付かず、朔也はしゃあしゃあと言う。これが若さなのだと千雪は思った。それがあるから、自分と咲夜の関係が永遠だと思えるし、揺るがない自信がある。惣哉の元彼女が傍にいると思うだけで千雪は緊張してしまう。咲夜の方だって、多少の遠慮や気兼ねがあるようだ。 「…で、村越ババって。ちゃんと自分の子供もいるんだろ? どうして惣哉にばかりちょっかい出すのさ…」 「うーん、それがねえ…」 「村越の叔母様のお宅には惣哉さんよりちょっと若い息子さんが2人いらっしゃるの。結構ご優秀でね…それも叔母様はご自分の手柄みたいにお話になるのよ? 私から見れば、息子さん達が努力したからだと思うんだけど…彼らが有名な大学に合格したのも、上の息子さんがご主人の後を継ぐべくお医者様になられたのも。そして下の息子さんが有名な外資系企業に入社したのも…みんなみんなご自分がしたことみたいに話されるの。聞いていて、気分が悪くなるわ…でも、あそこの叔父様も息子さん方も大人しい気性で言いたいように言わせているらしいわ…」 「へえ〜、やな奴…」
世の中には親離れできない子供も多いが、それよりもたちが悪いのは子離れできない親たちだ。それは特に母親に多い。仕事で家を空けることが多い父親に対して、母親は子供の成長のほとんどを共有する。そして、ある時期が来て子供を自立させなければならない時期にそれをすることが出来ずに…そのまま高校受験はとにかく、大学受験、はたまた入社試験…べったりと子供の後を付いてくる親がいる。 村越夫人は几帳面なタチである。携帯しているハンカチも膝掛けもきっちりと角を合わせてひとつのシワもなく畳まれている。車もいつもピカピカで窓も空が美しく映るほどだ。そんな性格で息子に接してきたのだろう、この遠くなるほどの長い時間を。
「見当が付きそうだけど…そう言うことで、上の息子さんはご結婚されたものの…お嫁さんが逃げちゃったの。叔母様はとんだ貧乏くじを引いたとご立腹していらっしゃったけど、誰が見てもあれは過干渉ね。とりあえず、別居はしていたらしいんだけど…朝から『今日は雨が降りそうだから濃いめのスーツを着せろ』だの、靴下の色から髪型まで…電話してきて口を挟んだらしいの。そんな感じだから、息子さんが風邪でもこじらせたらもう大変!! マンションに乗り込んできて、さんざんお嫁さんを罵倒した上に、寝ずの看病をなさったそうよ。お嫁さんを小間使いみたいに働かせて。合い鍵持っていて、ちょっちゅう偵察に行ってたみたい…」 まるで3流の昼ドラだ。千雪と朔也は顔を見合わせた。でも村越夫人の今までの態度から、咲夜の話は容易に想像することが出来た。 「で、結局上の息子さんはお嫁さんに捨てられちゃって。今はバツイチよ。でもね、この間、一籐木のパーティーにいらっしゃっていて…もう叔母様は売り込みに夢中なの。『ウチの息子はいくらでも話が来るんですわ。あんなにいい息子がろくでもない女に人生を狂わされて本当に気の毒で…でも私が必ず幸せにしてみせますわ!!』…って、言われて、ウチのお母様、面食らってたわ」 咲夜は結構情報通らしい。大人の中で育ったせいもあるんだろう。彼女の身の回りの世話をしてくれる熟年のお手伝いさんもかなりの噂好きだと聞いていた。 「下の息子さんは、ご自分で素敵な人を見つけて結婚したの。それが今年の3月。その人だって結構なお家のお嬢様らしいんだけど、気に入らないのね。またばしばしと攻撃しようと思ったら…何しろお兄さんの時の惨事を目の当たりにしてるから。下の息子さんはばちばちにバリアを張っちゃって太刀打ちできないらしいのね。それで叔母様は、ご機嫌が最悪なのよ…」 「…で? それで惣哉のことに頭を突っ込んできたんだ」 咲夜は朔也の言葉にひとつ頷く。 「橋崎同窓会長の娘さんは本人とも面識があったらしいの。ご自分の息子さんに縁づけたいと思っていたらしいんだけど…さすがに橋崎様もそれは嫌だったらしいわ。で、惣哉さんの名前が出て、もう張り切っちゃって」 あの強気の態度の裏にはこういうからくりがあったのだ。それでは仕方ない。彼女の行動力が半端じゃなかったのも頷ける。こぼれたミルクだって、コップに戻してしまいそうだ。 「なにしろ。息子さんを『守ちゃん、卓ちゃん』って、呼ぶのよ? そして息子さん達は叔母様をママって呼ぶの…で、どうして惣哉さんは呼び捨てにするんでしょうね? そこが謎なの…」 もしかすると。 千雪は頭の中で考えていた。村越夫人にとって、惣哉は扱いやすい人間と見なされているのかも知れない。あの強気な態度からも推測できる。加えて惣哉の父親の政哉は婿養子だから、どうしても東城の実の娘である村越夫人には引け目があるんだろう。自分の実家である東城の家は夫人にとって居心地のいい場所なのだ。そこに千雪が入り込んだのだから、どんなに面白くないだろう。 ちくりちくりと。彼女の気持ちが伝わってくる。胸がきゅうっと痛くなった。 「ああ、良かったね〜あんなばばが姑じゃなくてさ」 「そろそろ、咲夜を送らないと…」 「ちょっと待っていて、着替えてくる」 「そのままだって、いいじゃない?」 「やだ、この格好で昔のダチに会ったら恥ずかしいから。俺が藤野木に通ってるなんて、ほとんど知られてないんだから…勘弁してよ」 「そうなのー?」 幼稚部から藤野木に通っていた咲夜にとっては朔也の心中が分かるわけもない。朔也は3月までは都立高校の生徒だった。同居していた祖母が亡くなり、両親がいるアメリカに行くことになっていた。だから、朔也が日本に残っていることは余り知られていない。資産家の子女の通う藤野木は庶民にとっては名前は知っていても縁のない学校だ。そこの生徒であることを知らしめる制服が朔也には重いらしい。学園から戻るとさっさと脱いでしまう。予備校に行くのも私服だ。 「あの、私…送ろうか?」 「…ええっ!?」 「いいよ、僕はまだ死にたくない…」 「失礼しちゃうわね〜これでもゴールド免許よ?」 「だって、教習所出てからめったにハンドルを握ってないって…」
「でも、頭から突っ込んだだけで。その上、前の所をガレージの奥壁にぶつけたって聞きましたけど…修理費、高かったんでしょう?」 「惣哉さんから、聞きましたけど。…あの惣哉さんが、たまらなく悲しそうな顔をして、面白かったですわ」 「ちゆ先生、お疲れ?」 「え…?」 戸惑う千雪の顔を咲夜は覗き込む。口元は微笑んでいるが、その瞳はとても深い色をしている。吸い込まれそうだ。 「ちゆ先生…いいえ、千雪さん」 「あ、はい…」 「私ね、千雪さんがとても羨ましいんです…妬ましいぐらいに」 「……」 さらさらと夕方の風が細く開けた窓から吹き込んでくる。しっとりとした咲夜の髪はいくらも動かないが、その奥にいる千雪の髪はふわりふわりと舞い上がる。髪の代わりに咲夜のセーラーのスカーフがなびいた。 「惣哉さん、迷いがなくなった。とても嬉しそうに笑うようになって…とても生き生きしている。私と一緒にいた頃はいつもなんだか寂しそうだったのに…。今の惣哉さんにだったら、私、迷わないで飛び込んでいけるわ」 「え…だって」 「そうよ」 「確かに私には朔也がいる。私は朔也が好き…でも、今の惣哉さんが改めて私を見てくれたら――」 まっすぐな瞳。どこまでも真剣な色。戯れではない、この人は本気で言っている。その視線がするりとかわされて、シルバーブルーのセーラーの娘が千雪に背中を向けた。 「でも、惣哉さんをあんなに素敵にしたのは…千雪さんだから。千雪さんがいるから、惣哉さんは素敵になるの。何がそうさせるのか、私になくて千雪さんにあるものって…何?」 何? と言われても答えられるものではない。千雪には分からない、そんなこと聞かれたって…。 「私に…私には、何もないわ」 『まるで、安っぽいおもちゃのようね。まあ、子供は誰でも一度は見てくれのいいだけの安物に心を奪われるものだわ』 ホンモノのすばらしさ、とは咲夜のような娘のことを言うのだろう。その存在自体が匂やかな花のような美しい少女。惣哉が愛して愛して…自分の手が届かなくて嘆いていた少女。 手に届かない舶来ものの人形を心に想いながら、道端に落ちた安物の人形を拾ったのが惣哉ではないだろうか。こういう考え方は良くないと思う。でも東城の家にいて、自分の存在はどんどん頼りなくなってくる。 「千雪さん…」 「忘れないで。あなたは惣哉さんに選ばれた人間よ。…私、意気地なしで心の小さな人間に負けたなんて思いたくないわ…」 ハッとして振り向く。ドアに手を掛けた、にっこりと微笑んだ黒髪の少女に視線が行き着いた。たった今、耳に届いた言葉を発した人間とは到底思えない。 「咲夜〜行こうよ?」 「はあい。…では、ちゆ先生。失礼いたします、皆様に宜しく」
千雪は夕日の射し込む部屋に一人残される。ぽつんと1人だけの影が長く長く伸びていた。 続く(020704)
|