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「…う…はい?」 「婚姻届、出しに行かない?」 「…え…?」 「何驚いてるの? …もう書類は揃っているんだし。千雪は周囲の人がみんな納得してくれてからと言うけど、今のままじゃいけないと思うんだ。僕たちはとっくにそう言う関係なんだから」 「実はね。…朔也に怒られちゃってさ」 「朔也君に?」 「いい大人がいつまでも躊躇してるんじゃないって。千雪を他の男にかっさらわれても文句言えないぞって…」 ああ、違ったみたい。良かった、と思う。朔也も少しは骨のある人間だったらしい。 「あの? 私は別に…今のままで…」 「そうはいかないでしょう?」 「千雪を、僕だけのものにしたいんだ…届けさえ出せば、千雪は誰が何と言おうと僕の妻だよ? 式なんて、披露宴なんていつでもいい。証人の署名は父上と幸さんにお願いすればいいだろう? 僕たちは成人してるんだ、誰にも邪魔はされないはずだよ――」 「惣哉さんっ…」 「駄目ですっ…そういうのは良くありません。私は…祝福されたいんです、周りの反対を押し切ってまでどうにかしたくないです」 「千雪…」 「僕と…、もしかして、嫌なの?」 「そんな…、そんなことはないです。あのっ、惣哉さんのお気持ちは本当に嬉しいです…でも」 「でも?」 千雪は耳の後ろに惣哉の指の動きを感じながら、俯いたまま唇を噛んだ。 「千雪?」 「…届けは…届けでしかないんです。紙切れ一枚で済む問題なら…紙切れ一枚で白紙に戻せます。そう言うものだと思います」 こんなことを惣哉に言ったところで分かるものではない気もした。結婚に夢を抱いている、ごくごく普通の人間だ。その先には明るくて優しい未来が待っていると信じて疑わない。 「分かったよ」 「今の仕事にキリが付いたら、また福島に行こう。まずは千雪の叔母上にお許しを頂かないとね…ごめん、あんまり僕が急ぐから、困らせてしまったね」 頼りなげな指の動き。タクミにトリートメントして貰ったばかりの髪は大した手入れはしなくても、滑らかで美しい。千雪は何も答えず、惣哉の胸の中にいた。 「実は…そろそろ、千雪のお父上のホームを決定しないといけないと思ってね。絞り込んで入るんだけど、いざ手続きの段階になって来て色々と問題が出てきてね。赤の他人の立場では僕が契約することは難しいんだ。でも千雪の名前でどうにかすると、後で贈与の対象になるし。僕たちが法律上夫婦になれば、千雪のお父上と僕とは親子だから…」 千雪はハッとして顔を上げた。 「あ…、惣哉さん。あの、お忙しいのに…そんなことまで」 すると惣哉は千雪を見つめて、にっこりと微笑んだ。 「そんなこと、じゃないよ。一番大切なことでしょう?」 「千雪が喜ぶことなら、僕は何でもするよ? 千雪が幸せになることが僕の幸せなんだから…」 「惣哉さん…」 「まあ、今夜の所はこれで我慢する…」 え? と思うよりも早く、横向きだった身体がシーツの上に仰向けにされる。惣哉は千雪の髪をかき上げると耳元に唇を這わせた。 「え? あのっ…惣哉さん? 私、もう眠いんです。今日は、あの、もう…」 「僕の方は、このままだと眠れない。睡眠不足にならないように協力してくれない? 眠くなったら、途中で勝手に寝てていいから…」 「そ、そんな――」 先ほどまでの火照りが残る身体に新しい感触をいくつも感じながら、千雪はそっと目を閉じた。瞼の奥には不気味なほどの紅い血潮がたぎっている。それに飲まれるのが怖くて、必死で惣哉の背に腕を回した。
◇◇◇
夕暮れの副理事長室で、軽くネクタイを緩める惣哉を見ながら、千雪は半分気抜けしていた。未だについ数分前までの出来事が信じられなかった。それくらい謎めいたミステリアスな情景だった。 そんな千雪を惣哉がくすくすと笑いつつ見つめる。その瞳には揺るぎない自信がみなぎっていた。 再度行われた役員会。千雪は朝から自分でも分かるほど緊張していた。
前回、惣哉がいきなりディケア施設の新設を唱えたときは役員の間に戸惑いと驚愕が走った。皆、一同が信じられない様子で惣哉を異世界の人間のように見上げていた。橋崎同窓会長の取りなしでどうにかその場は切り抜けたが、その後も案を白紙に戻すよう執拗な電話攻撃が相次いだ。 大学部の併設と…ディケア施設の新設。それのどちらが学園の将来にとって有益なものであるか、それは誰にも分からない。推測の域を超えることはないのだ。周囲を見渡しても、その両方の道に進んだ事例があり、成功を収めたものも失敗したものもある。 どうにかして成功させてやりたい。 自分に何が出来るわけでもないのに、千雪はそう思っていた。でも、とてつもなく難しいことだとも感じられた。
だから今日の役員会で、年輩の役員から、 千雪が思わず書記用のノートから顔を上げて一同の様子を盗み見ると、信じられないくらい皆が穏やかな顔をしている。会のムードがディケア施設の新設の方向に向いている。その後は千雪のペンの動きが間に合わないほど、スムーズに話が流れた。今日一日で思っていた3倍は話が進んだと思う。
「実は橋崎のおじさんの力を借りたんだ」 「…橋崎同窓会長様に…」 「僕1人の力ではあれだけのメンバーをとりまとめるのは不可能だよ。今回は父上の助力もない、そうなったら残るのは彼だからね。お願いしたら二つ返事で引き受けてくれた、彼は僕の案にも前向きに考えてくれていたし」 「…副理事長さん」 「心配することないよ。おじさんだって、立派な大人なんだ。仕事とプライベートの区別ぐらいはきちんとしてくれる、そうじゃなかったらこの話を引き受けてくれるわけはないじゃないか」 「どうにかなるから、大丈夫。千雪は心配しすぎだよ…そこが可愛らしいところでもあるんだけどね」 こう言われてしまっては、次の言葉を発することも出来ない。千雪は色々な想いを含んだ瞳で惣哉を見上げた。至近距離で見ると身長差がさらに大きく感じられる。 「…疲れが溜まっているようだね、今日はもう上がろう。僕もこの後の予定はないから、久しぶりにゆっくり出来るよ? みんなで夕食がとれるね」
◇◇◇
一籐木月彦が学園運営に乗り出したいと思ったとき、土地を提供したのが東城の前当主…つまり惣哉の祖父に当たる人だった。学園の広大な敷地もその周辺の住宅地もその多くが東城の土地であったと聞く。千雪には想像も出来ない話だった。 惣哉の父親の政哉は学園の創立当初からその運営に携わってきた。月彦から一任されたと言ってもいい。一籐木月彦と政哉の信頼関係は揺るぎないものだった。その政哉が東城の当主の目に留まり、その娘との縁談を持ちかけられた。政哉には心に秘めた女性がおり、彼女との恋を一生のものとして過ごすつもりでいた。伴侶を娶る気はなかった。だから、再三に渡る申し出を丁重に断っていた。 「…真っ白な、天使のような少女がいる、と思ったんだって」 いつだったか、庭を散策しながらその場所に来て、惣哉が千雪に語ったことがあった。今は来客用の部屋になっているサンルーム。大きく庭にせり出した硝子張りの南向きの格子窓。 こちらから覗かれているなんて思ってもいない少女が、淡い微笑みを浮かべて外を見ていた。細い三つ編みを2本肩から垂らして、膝に編みかけのレース編みを置いて。ハタチを越えているとは思えない絵の中の少女だった。 その娘こそが惣哉の母親である。若くして亡くなった彼女がどんなに政哉に愛されていたかは想像に容易い。リビングのサイドボードの上に所狭しと飾られた写真立て。その中で微笑む人。千雪はその人が初め惣哉の母親とは信じられなかった。よくよく見れば顔立ちなど良く似ているが…千雪から見ても淡い、少女のような笑顔で。自分より年上の人とは思えなかった。 惣哉の目の色も、心の温かさもそんな想い出の積み重ねで出来ている。丁寧に造られた彫刻のように。
惣哉がインターフォンを押して帰宅を告げると、いつものように若いお手伝いさんが出てきて鍵を開けてくれた。でも、千雪のアパートの部屋に相当するくらい広い玄関に入った途端、真ん中に毅然と置かれた真っ赤なヒールが眼に入った。瞬間、千雪の身体から血の気が引いた。 「…あら、惣哉。お帰り…ようやく顔が見られたわ」 「あれ…叔母様?」 惣哉がちらっと千雪の方を見てから、不思議そうに呟いた。その姿を見た村越夫人は満足そうに微笑んだ。 「雌ギツネの…裏をかいてやりましたの。頭の固い方は困りますね、私が曜日を決めてここに来ていると思っていらっしゃったのでしょう? そう言うわけでもありませんのよ、調べる気になれば惣哉のスケジュールなんて詳細に分かりますの。今日という今日は、わたくしの話を聞いていただきますからね!?」 「あ、あの? …叔母様!?」 「こんな女に騙されるなんて、東城の恥になります!! さっさと手を切りなさい、どんな方法だってあるでしょう? あなたにはちゃんと素晴らしいお嬢様が待っていて下さるのよ? 殿方の火遊びなんて気にも留めないような寛大な御方がね…さあさ、日程を決めますからこちらに入らして?」 「待って下さいよ? …叔母様?」 「明日から出張なんです、これから支度や資料の準備があります。急に来られても困ります」 「…何を言ってるの? いつ来ても会わせて貰えないのはわたくしの方よ? その雌ギツネが後ろで糸を引いているのは分かってるの、もう、そんな薄汚い手には乗らないんですからっ!! …聞いてるの? 惣哉!?」 「お話は、後日改めまして。今日はお引き取り下さい…千雪、行こう」 惣哉はにっこり微笑んでそれだけ告げると、さっさと階段を上り始めた。 どうしたらいいものだろう、村越夫人からは今までで一番強い憎悪を感じる。それはまっすぐに千雪に向けられている。 今まで。 この夫人が恐ろしく感じるのは惣哉もその父親の政哉もいないところで集中的に攻撃されるからだと思っていた。しかしそうではなかったのだ。その証拠に惣哉と一緒に遭遇したこの状況で、さらにどろどろとした視線を感じる。 今までの人生の中で、努力さえすれば大抵の人間には受け入れられると思ってきた。にっこり微笑んで相手が気にいるように行動すれば波風も立たないし、スムーズにことが運ぶ。そう言うものだと思っていた。 村越夫人は千雪が出逢った数少ない、相容れてくれない人間だ。そして、惣哉とこの先関わっていけば似たような人間はたくさんたくさん現れて来るだろう。惣哉たちの生きている世界ではそれが当然で。そう言う思考の人々の集まりなのだ。惣哉や政哉はかえって異端的存在だと言えよう。 千雪が黙ったまま会釈して通り過ぎようとすると、背後からさらに罵声が降りかかった。 「我が物顔に屋敷に入るんじゃないわよ!! ここをどこだと思っているの? 代々由緒正しい家柄の立派な家なのよ? あなたなんて、玄関先に立つことだって本来なら許されないんだからっ!!」 その声に、千雪は振り向いた。惣哉はとっくに部屋に入ってしまっている。このやりとりも聞いているかどうか分からない。 「今にその善良そうな化けの皮をはいでさしあげるわ? …首を洗って待ってらっしゃい!?」 騒ぎを聞きつけた使用人たちが遠巻きに見ている。皆、どちらに加勢することも出来ずに困っているようだ。幸さんもいつもの如く姿を隠している。政哉ももちろん不在だ。 ばたんと閉まる玄関の扉の音を聞きながら、千雪は階段を上り始める。背中にたくさんの視線を感じながら。それでも振り返らなかった。
惣哉の部屋ではなく、まっすぐに自分の部屋に入ると、すぐにふたつの部屋の連絡通路になっている内扉が開いた。すっかり家着に着替えた惣哉が何てことない様子で入ってくる。そのまま、まっすぐにドアの所に立ち尽くした千雪の所まで歩いてきた。 「ごめん、叔母様には何を言っても無駄なんだ。千雪のことひどく言われても…否定すれば10倍くらい言い返される。頭のいい人なんだ、だから何も言い返さないのが一番の良策なんだ」 そんな言い訳を聞きながら、顔を上げることは出来なかった。身体の奥に渦巻く何とも言えない思いがこみ上げてきて吐き気を覚える。立っているのがやっとだった。 「大丈夫かなあ、また明日も来るのかな? 僕が出張でいなくて平気かな…やはり、ここはどうにかしなくてはならないだろうな…」 「ねえ、千雪。…弁護士さんを頼もうかと思っているんだけど…」 え? と顔を上げてしまった。その顔色があんまりに悪かったのだろう、自分を見つめる惣哉の口元が歪む。 「弁護士さん? …どうして…」 「ほら、橋崎の朱美様とのこと。叔母様を動かすのは無理だから、もうあちらにすっきりとしていただけばいいと思って。別に正式に結納を済ませた訳でもないから慰謝料などの問題はないと思うんだ。でも、いざとなったらいくらかのものを使ってもいい。新事業のこともあるから、色々お願いしている手前、橋崎のおじさんにはどうしても直接には言いにくくて。こう言うことは第三者を間に立てた方が上手く行くと思うんだ…朱美様が諦めてくだされば、それでいいんだから」 「…そ…」 「一籐木の幹彦様…ええと、咲夜様のお父上なんだけど、彼に一籐木の顧問弁護士を紹介して貰ったんだ。電話しておくから、悪いけど、明日、千雪が話を聞いておいてくれないかな? …出来るだけ穏便に済ませる方法を考えたいんだ。あまり醜態は晒したくないからね…千雪?」 ふらふらっと。足が前に出てきた。惣哉の脇を素通りして、ベッドメイキングされた自室のベッドに腰を下ろす。頭痛がひどくてもう立っていられなかった。 「…すみません。気分が悪いので休ませてください」 「どうしたの? …どこが悪いの? あの、お医者様を…」 「結構です! …あ、休んでいれば、良くなりますから…」 ためらいがちに足音が遠ざかる。ドアの閉まった音が耳に届いた途端に、上体が倒れ込んだ。柔らかいクッションが無機質な弾力で受け止める。その規則的な揺れに身体を任せる。 もう、何も、考えたくなかった。 続く(020710) |