TopNovel「11番目の夢」・扉>11番目の夢・7


…7…

 


「ねえ、千雪?」
 すうっと眠りの淵に吸い込まれそうになった瞬間、耳元に柔らかいささやきが落ちてきた。

「…う…はい?」
 ボーっとしながら、目をこする。自分を包み込んでいたぬくもりがほんのりと巻き付いてきた。顔を上げる…ここがベッドの上で、闇に包まれた時間は夜で、ついでに惣哉の腕の中だったということがだんだん思い出されて来る。寝ぼけ眼で見つめると、惣哉はくすりと微笑んで額に口づけてきた。

「婚姻届、出しに行かない?」

「…え…?」
 夕ご飯を食べに行かない? と言うような感じで、さり気なく提案されたのはとんでもない内容だった。

「何驚いてるの? …もう書類は揃っているんだし。千雪は周囲の人がみんな納得してくれてからと言うけど、今のままじゃいけないと思うんだ。僕たちはとっくにそう言う関係なんだから」
 素肌のままの背中に腕が回される。しっとりと熱っぽい。

「実はね。…朔也に怒られちゃってさ」
 額に頬を押し当てられる。惣哉の心臓の音が耳元に届く。静かな鼓動…千雪が大好きな音…一番大好きな音楽。

「朔也君に?」
 まさか、余計なこと言ったんじゃないでしょうね? ちょっと不安になる。朔也は結構軽いから、千雪との約束なんてすぐに忘れそうだ。村越夫人のことでは彼も腑に落ちない気分でいたはずだ。こっそりと惣哉に何か告げたとしても何の疑問もない。

「いい大人がいつまでも躊躇してるんじゃないって。千雪を他の男にかっさらわれても文句言えないぞって…」

 ああ、違ったみたい。良かった、と思う。朔也も少しは骨のある人間だったらしい。

「あの? 私は別に…今のままで…」

「そうはいかないでしょう?」
 声色が変わる、しっとりと包み込むように。惣哉の長い指が千雪の頬を捉えて、顔を固定する。そのままで覗き込まれる…たとえようのない瞳で。

「千雪を、僕だけのものにしたいんだ…届けさえ出せば、千雪は誰が何と言おうと僕の妻だよ? 式なんて、披露宴なんていつでもいい。証人の署名は父上と幸さんにお願いすればいいだろう? 僕たちは成人してるんだ、誰にも邪魔はされないはずだよ――」

「惣哉さんっ…」
 重なり合おうとする唇を払いのけるようにかぶりを振る。惣哉の指が外れた。

「駄目ですっ…そういうのは良くありません。私は…祝福されたいんです、周りの反対を押し切ってまでどうにかしたくないです」
 息のかかる距離にある人の目をしっかりと見つめながら、必死に訴える。

「千雪…」
 想像を超える抵抗に、惣哉の瞳が揺らぐ。にわかに不安の色。

「僕と…、もしかして、嫌なの?」
 千雪の頬に触れるか触れないかの長い指。それが揺れている、薄い唇も同じくらい震えている。

「そんな…、そんなことはないです。あのっ、惣哉さんのお気持ちは本当に嬉しいです…でも」

「でも?」
 とりあえず否定の言葉が千雪の口からこぼれなかったことに安堵して、惣哉が訊ねる。柔らかい千雪の薄茶色の髪に長い指が絡んでいく。

 千雪は耳の後ろに惣哉の指の動きを感じながら、俯いたまま唇を噛んだ。

「千雪?」
 惣哉が心配そうに訊ねてくる。千雪はそのまま惣哉の胸にきゅっとしがみついた。ふたつ、みっつとため息を落とす。どうにか呼吸を整える。

「…届けは…届けでしかないんです。紙切れ一枚で済む問題なら…紙切れ一枚で白紙に戻せます。そう言うものだと思います」

 こんなことを惣哉に言ったところで分かるものではない気もした。結婚に夢を抱いている、ごくごく普通の人間だ。その先には明るくて優しい未来が待っていると信じて疑わない。
 しかし、普通に考えて彼よりもずっと夢見がちな年頃の筈の千雪は、それだけでは済まないことを知っていた。いや、身をもって経験していた。どうしていいのか分からない。どうすれば自分の不安が消え失せて、心が満たされるのか。でも漠然としたその薄暗いものを消し去ることは出来なかった。

「分かったよ」
 ややあって、惣哉は小さくため息を付いてから観念したように言った。

「今の仕事にキリが付いたら、また福島に行こう。まずは千雪の叔母上にお許しを頂かないとね…ごめん、あんまり僕が急ぐから、困らせてしまったね」

 頼りなげな指の動き。タクミにトリートメントして貰ったばかりの髪は大した手入れはしなくても、滑らかで美しい。千雪は何も答えず、惣哉の胸の中にいた。

「実は…そろそろ、千雪のお父上のホームを決定しないといけないと思ってね。絞り込んで入るんだけど、いざ手続きの段階になって来て色々と問題が出てきてね。赤の他人の立場では僕が契約することは難しいんだ。でも千雪の名前でどうにかすると、後で贈与の対象になるし。僕たちが法律上夫婦になれば、千雪のお父上と僕とは親子だから…」

 千雪はハッとして顔を上げた。

「あ…、惣哉さん。あの、お忙しいのに…そんなことまで」
 申し訳なくて、どうしていいのか分からない。睡眠時間を削るほどの激務の中で、惣哉はちゃんと自分の父親の入所先を探してくれていたのだ。この話については、この頃ではお互いに口に出したことなかったのに。

 すると惣哉は千雪を見つめて、にっこりと微笑んだ。

「そんなこと、じゃないよ。一番大切なことでしょう?」
 そして、素早く顔を寄せて短いキス。

「千雪が喜ぶことなら、僕は何でもするよ? 千雪が幸せになることが僕の幸せなんだから…」

「惣哉さん…」
 鼻の奥がツンとして、じんわりと涙が滲んでくる。言葉が、吐息が、優しい瞳が千雪を包み込んでいく。もう難しいことは何も考えなくていいような、そんな気分にすらなる。

「まあ、今夜の所はこれで我慢する…」

 え? と思うよりも早く、横向きだった身体がシーツの上に仰向けにされる。惣哉は千雪の髪をかき上げると耳元に唇を這わせた。

「え? あのっ…惣哉さん? 私、もう眠いんです。今日は、あの、もう…」
 必死で彼の顔を遠ざけようと試みるが、千雪如きの力でどうにかなるものでもない。あっと言う間に開かれた胸元にふふっと惣哉の息がかかった。くすぐったい。

「僕の方は、このままだと眠れない。睡眠不足にならないように協力してくれない? 眠くなったら、途中で勝手に寝てていいから…」

「そ、そんな――」
 口ではかろうじて抵抗しつつも、これまでの経験でこんな時の惣哉が自分の言うことなど聞いてくれないことは分かっていた。

 先ほどまでの火照りが残る身体に新しい感触をいくつも感じながら、千雪はそっと目を閉じた。瞼の奥には不気味なほどの紅い血潮がたぎっている。それに飲まれるのが怖くて、必死で惣哉の背に腕を回した。

 

◇◇◇


「…心配するまでも、なかったでしょう?」
 まず、第一声がこれだった。

 夕暮れの副理事長室で、軽くネクタイを緩める惣哉を見ながら、千雪は半分気抜けしていた。未だについ数分前までの出来事が信じられなかった。それくらい謎めいたミステリアスな情景だった。

 そんな千雪を惣哉がくすくすと笑いつつ見つめる。その瞳には揺るぎない自信がみなぎっていた。

 再度行われた役員会。千雪は朝から自分でも分かるほど緊張していた。

 

 前回、惣哉がいきなりディケア施設の新設を唱えたときは役員の間に戸惑いと驚愕が走った。皆、一同が信じられない様子で惣哉を異世界の人間のように見上げていた。橋崎同窓会長の取りなしでどうにかその場は切り抜けたが、その後も案を白紙に戻すよう執拗な電話攻撃が相次いだ。

 大学部の併設と…ディケア施設の新設。それのどちらが学園の将来にとって有益なものであるか、それは誰にも分からない。推測の域を超えることはないのだ。周囲を見渡しても、その両方の道に進んだ事例があり、成功を収めたものも失敗したものもある。
 資料をひっくり返しているうちに過去の事例などどうでもいい気がしてきた。大切なのはその事業に賭ける信念である。千雪の目から見ても上司であり恋人である惣哉の新事業に賭ける情熱は並大抵のものではないと思われた。春に父親の学園理事長・政哉より実質的な実権を譲られ、最初の大仕事だ。

 どうにかして成功させてやりたい。

 自分に何が出来るわけでもないのに、千雪はそう思っていた。でも、とてつもなく難しいことだとも感じられた。

 

 だから今日の役員会で、年輩の役員から、
「施設建設の具体的な青写真を掲示してください」
と、いきなり好意的な意見が出て驚いた。前回の会の幕切れの時に一番腑に落ちない顔をしていた、食品会社経営者だった。何度も副理事長室に電話してきたし、惣哉の留守中に直接押し掛けてきたこともある。手強い相手だと思っていた。

 千雪が思わず書記用のノートから顔を上げて一同の様子を盗み見ると、信じられないくらい皆が穏やかな顔をしている。会のムードがディケア施設の新設の方向に向いている。その後は千雪のペンの動きが間に合わないほど、スムーズに話が流れた。今日一日で思っていた3倍は話が進んだと思う。

 

「実は橋崎のおじさんの力を借りたんだ」
 さり気ない種明かし。その笑顔には少しの陰りもなかった。

「…橋崎同窓会長様に…」
 口の中で小さく繰り返しつつ、千雪はがくっと脱力した。そうか、そう言うことだったのだ。

「僕1人の力ではあれだけのメンバーをとりまとめるのは不可能だよ。今回は父上の助力もない、そうなったら残るのは彼だからね。お願いしたら二つ返事で引き受けてくれた、彼は僕の案にも前向きに考えてくれていたし」

「…副理事長さん」
 千雪は少し低い声で、惣哉の話を遮った。その表情に浮かんだ色を感じ取って、惣哉がまた笑う。

「心配することないよ。おじさんだって、立派な大人なんだ。仕事とプライベートの区別ぐらいはきちんとしてくれる、そうじゃなかったらこの話を引き受けてくれるわけはないじゃないか」
 それから、なお何か言葉を繋げようとした千雪の所までつかつかと歩み寄って、ぽんと肩に手を置いた。

「どうにかなるから、大丈夫。千雪は心配しすぎだよ…そこが可愛らしいところでもあるんだけどね」

 こう言われてしまっては、次の言葉を発することも出来ない。千雪は色々な想いを含んだ瞳で惣哉を見上げた。至近距離で見ると身長差がさらに大きく感じられる。

「…疲れが溜まっているようだね、今日はもう上がろう。僕もこの後の予定はないから、久しぶりにゆっくり出来るよ? みんなで夕食がとれるね」
 優しい音色が千雪の頭上でくるくると回って消えた。千雪の心までは届かなかった。

 

◇◇◇


 東城の、惣哉の自宅は学園と敷地続きだから、徒歩で戻る。急に秋の深まった学園の木々を眺めつつ門を出ればわけもない。通学時間、通勤時間は1分だ。

 一籐木月彦が学園運営に乗り出したいと思ったとき、土地を提供したのが東城の前当主…つまり惣哉の祖父に当たる人だった。学園の広大な敷地もその周辺の住宅地もその多くが東城の土地であったと聞く。千雪には想像も出来ない話だった。

 惣哉の父親の政哉は学園の創立当初からその運営に携わってきた。月彦から一任されたと言ってもいい。一籐木月彦と政哉の信頼関係は揺るぎないものだった。その政哉が東城の当主の目に留まり、その娘との縁談を持ちかけられた。政哉には心に秘めた女性がおり、彼女との恋を一生のものとして過ごすつもりでいた。伴侶を娶る気はなかった。だから、再三に渡る申し出を丁重に断っていた。
「それでは、遠目にでいいのです、娘を見てくださいませんか?」そう言われて。政哉は庭先からこっそりと東城の娘の部屋を眺めることになった。何とも言えない悪いことをしているような気分に胸を痛めながら、それでも好奇心には勝てずに窓の中を覗いた。

「…真っ白な、天使のような少女がいる、と思ったんだって」

 いつだったか、庭を散策しながらその場所に来て、惣哉が千雪に語ったことがあった。今は来客用の部屋になっているサンルーム。大きく庭にせり出した硝子張りの南向きの格子窓。

 こちらから覗かれているなんて思ってもいない少女が、淡い微笑みを浮かべて外を見ていた。細い三つ編みを2本肩から垂らして、膝に編みかけのレース編みを置いて。ハタチを越えているとは思えない絵の中の少女だった。
「…医者にはあとどれくらい命をとりとめられるか、それも分からないと言われています。でも我々としては…娘に人並みの幸せを与えてやりたい。こんなことをお願いするのは申し訳ないと思います。でもあなたになら娘も…私の財産全てを託してもいい、そう思うのです」
 政哉の隣りでそう語った声はうわずっていた。意識してそちらを見ないようにしたが、多分、泣いていたのだと思う。

 その娘こそが惣哉の母親である。若くして亡くなった彼女がどんなに政哉に愛されていたかは想像に容易い。リビングのサイドボードの上に所狭しと飾られた写真立て。その中で微笑む人。千雪はその人が初め惣哉の母親とは信じられなかった。よくよく見れば顔立ちなど良く似ているが…千雪から見ても淡い、少女のような笑顔で。自分より年上の人とは思えなかった。
 学園の正門前に記念植樹をして惣哉の出生を喜んだ人。その人が愛した四季咲きのバラは今も屋敷の敷地内を美しく彩っている。それを眺めるごとに千雪は惣哉の中にある自分とは全く違う、でも同じくらい重い道のりを感じずにはいられない。穏やかで淡くて、…深くて。

 惣哉の目の色も、心の温かさもそんな想い出の積み重ねで出来ている。丁寧に造られた彫刻のように。

 

 

 惣哉がインターフォンを押して帰宅を告げると、いつものように若いお手伝いさんが出てきて鍵を開けてくれた。でも、千雪のアパートの部屋に相当するくらい広い玄関に入った途端、真ん中に毅然と置かれた真っ赤なヒールが眼に入った。瞬間、千雪の身体から血の気が引いた。

「…あら、惣哉。お帰り…ようやく顔が見られたわ」
 リビングの方からぱたぱたとスリッパの音がして、予想通りの人物が現れた。

「あれ…叔母様?」

 惣哉がちらっと千雪の方を見てから、不思議そうに呟いた。その姿を見た村越夫人は満足そうに微笑んだ。

「雌ギツネの…裏をかいてやりましたの。頭の固い方は困りますね、私が曜日を決めてここに来ていると思っていらっしゃったのでしょう? そう言うわけでもありませんのよ、調べる気になれば惣哉のスケジュールなんて詳細に分かりますの。今日という今日は、わたくしの話を聞いていただきますからね!?」

「あ、あの? …叔母様!?」
 子供のように腕をぐいっと引っ張られた惣哉は情けなさそうな声を出した。千雪よりいくらか上背のある夫人ではあるが、惣哉と並ぶと小さく見える。でもその迫力はすごい。

「こんな女に騙されるなんて、東城の恥になります!! さっさと手を切りなさい、どんな方法だってあるでしょう? あなたにはちゃんと素晴らしいお嬢様が待っていて下さるのよ? 殿方の火遊びなんて気にも留めないような寛大な御方がね…さあさ、日程を決めますからこちらに入らして?」

「待って下さいよ? …叔母様?」
 惣哉はやっとの感じで、掴まれていた腕を解いた。肩で息をしている。見ため以上に夫人の拘束が強かったらしい。

「明日から出張なんです、これから支度や資料の準備があります。急に来られても困ります」

「…何を言ってるの? いつ来ても会わせて貰えないのはわたくしの方よ? その雌ギツネが後ろで糸を引いているのは分かってるの、もう、そんな薄汚い手には乗らないんですからっ!! …聞いてるの? 惣哉!?」
 村越夫人の視線が千雪に向いた。惣哉の背に隠れるように立っていた千雪に。

「お話は、後日改めまして。今日はお引き取り下さい…千雪、行こう」

 惣哉はにっこり微笑んでそれだけ告げると、さっさと階段を上り始めた。

 どうしたらいいものだろう、村越夫人からは今までで一番強い憎悪を感じる。それはまっすぐに千雪に向けられている。

 今まで。

 この夫人が恐ろしく感じるのは惣哉もその父親の政哉もいないところで集中的に攻撃されるからだと思っていた。しかしそうではなかったのだ。その証拠に惣哉と一緒に遭遇したこの状況で、さらにどろどろとした視線を感じる。

 今までの人生の中で、努力さえすれば大抵の人間には受け入れられると思ってきた。にっこり微笑んで相手が気にいるように行動すれば波風も立たないし、スムーズにことが運ぶ。そう言うものだと思っていた。
 家柄とか、育ちとかそんなもので差別されるなんて。戦前ならともかく現代社会でその様なことが起こるなんて。それが我が身に降りかかるなんて。

 村越夫人は千雪が出逢った数少ない、相容れてくれない人間だ。そして、惣哉とこの先関わっていけば似たような人間はたくさんたくさん現れて来るだろう。惣哉たちの生きている世界ではそれが当然で。そう言う思考の人々の集まりなのだ。惣哉や政哉はかえって異端的存在だと言えよう。

 千雪が黙ったまま会釈して通り過ぎようとすると、背後からさらに罵声が降りかかった。

「我が物顔に屋敷に入るんじゃないわよ!! ここをどこだと思っているの? 代々由緒正しい家柄の立派な家なのよ? あなたなんて、玄関先に立つことだって本来なら許されないんだからっ!!」

 その声に、千雪は振り向いた。惣哉はとっくに部屋に入ってしまっている。このやりとりも聞いているかどうか分からない。

「今にその善良そうな化けの皮をはいでさしあげるわ? …首を洗って待ってらっしゃい!?」
 そう言い捨てると、お手伝いさんが持ってきたハンドバッグを奪うように受け取って玄関に向かう。

 騒ぎを聞きつけた使用人たちが遠巻きに見ている。皆、どちらに加勢することも出来ずに困っているようだ。幸さんもいつもの如く姿を隠している。政哉ももちろん不在だ。

 ばたんと閉まる玄関の扉の音を聞きながら、千雪は階段を上り始める。背中にたくさんの視線を感じながら。それでも振り返らなかった。

 

 


「…叔母様、お帰りになったの?」

 惣哉の部屋ではなく、まっすぐに自分の部屋に入ると、すぐにふたつの部屋の連絡通路になっている内扉が開いた。すっかり家着に着替えた惣哉が何てことない様子で入ってくる。そのまま、まっすぐにドアの所に立ち尽くした千雪の所まで歩いてきた。

「ごめん、叔母様には何を言っても無駄なんだ。千雪のことひどく言われても…否定すれば10倍くらい言い返される。頭のいい人なんだ、だから何も言い返さないのが一番の良策なんだ」

 そんな言い訳を聞きながら、顔を上げることは出来なかった。身体の奥に渦巻く何とも言えない思いがこみ上げてきて吐き気を覚える。立っているのがやっとだった。

「大丈夫かなあ、また明日も来るのかな? 僕が出張でいなくて平気かな…やはり、ここはどうにかしなくてはならないだろうな…」
 惣哉は思考をまとめるようにしばし言葉を切った。

「ねえ、千雪。…弁護士さんを頼もうかと思っているんだけど…」

 え? と顔を上げてしまった。その顔色があんまりに悪かったのだろう、自分を見つめる惣哉の口元が歪む。

「弁護士さん? …どうして…」
 かすれているけど自分の声らしい。身体のどこから声が出てくるのかも分からなかった。

「ほら、橋崎の朱美様とのこと。叔母様を動かすのは無理だから、もうあちらにすっきりとしていただけばいいと思って。別に正式に結納を済ませた訳でもないから慰謝料などの問題はないと思うんだ。でも、いざとなったらいくらかのものを使ってもいい。新事業のこともあるから、色々お願いしている手前、橋崎のおじさんにはどうしても直接には言いにくくて。こう言うことは第三者を間に立てた方が上手く行くと思うんだ…朱美様が諦めてくだされば、それでいいんだから」

「…そ…」
 それは、あんまりではないか――、そう言いたかったが言葉が出ない。それを承諾の意味に取られたのか、惣哉の話が続く。

「一籐木の幹彦様…ええと、咲夜様のお父上なんだけど、彼に一籐木の顧問弁護士を紹介して貰ったんだ。電話しておくから、悪いけど、明日、千雪が話を聞いておいてくれないかな? …出来るだけ穏便に済ませる方法を考えたいんだ。あまり醜態は晒したくないからね…千雪?」

 ふらふらっと。足が前に出てきた。惣哉の脇を素通りして、ベッドメイキングされた自室のベッドに腰を下ろす。頭痛がひどくてもう立っていられなかった。

「…すみません。気分が悪いので休ませてください」
 かろうじて、それだけ言う。でもひとことの言葉すら絞り出すのが辛かった。

「どうしたの? …どこが悪いの? あの、お医者様を…」

「結構です! …あ、休んでいれば、良くなりますから…」
 関節もギシギシと痛む。もう限界だった。

 ためらいがちに足音が遠ざかる。ドアの閉まった音が耳に届いた途端に、上体が倒れ込んだ。柔らかいクッションが無機質な弾力で受け止める。その規則的な揺れに身体を任せる。

 もう、何も、考えたくなかった。

続く(020710)

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