…8…
惣哉は予定通り、九州に出張していた。今回は学園の仕事ではなく、一籐木の残務処理だ。一籐木グループでの惣哉の主立った仕事は咲夜の警護であったが、そのほかにもいくつかの得意先とのやりとりを任されていた。そう難しい相手ではなかったが、それでも細やかなところで後任の人間では足りないところがあったらしい。とにかく惣哉をよこしてくれと言われてしまった。 一人きりで留守番をしながら、千雪は昨日から続く身体の不調に苦しんでいた。どうしてこんな風になるのか自分でも分からなかった。惣哉には心配かけたくなかったのに、とうとう昨日はあんな形で接してしまった。あの後もとうとう起きあがることも出来ず、今朝、早朝で出掛ける惣哉の見送りも出来なかった。休んでいてもいいと言われたが時間が来ると身体が少し楽になった。 「…叔母さん」 「ねえ、ちゆちゃん。落ち着いて聞いてね…」 「私、今、パートから戻ったんだけど…そうしたら、お向かいのおばさんから話を聞いて。あの、ちゆちゃんのこと調べて回っている人間がいるらしいの」 「…え?」 「心配になって…ちゆちゃんの家の近所の人にも聞いたら…案の定。そこら中に話を聞いて回っているらしいの、みんな気味悪がってねえ、今度はちゆちゃん、どうしたんだって…」 「……」 …どうして? またなの? どういうこと? 何となく思考が固まった気がしたが、その事実にぞっとしてしまった。慌ててかぶりを振る、そのおぞましいものを追い出したくて。 「ねえ、ちゆちゃん。悪いこと言わない、今度という今度は私も言わせて貰うよ? すぐに戻ってきなさい、こそこそと他人を使って素性を調べるような薄汚い人間たちの中にいたらどうにかなっちゃうよ? …お願いだから、戻ってきて。私にとってもあんたは娘同然なんだから…いいじゃないか、悪い夢を見たとでも思って…」 言葉が続かない。泣いているようだ…千雪のことを思って、千雪のために泣いてくれている。多分、この人は千雪のことを疑う近所の人にもきちんと説明してくれたに違いない。母親が家を出てしまってから、何かと世話をしてくれた叔母。その愛情は痛いほど感じていた。 惣哉との結婚を認めようとしないのも、意地悪をしているわけではないのだ。身分違いの結婚はお互いが不幸になる、そう言いたかったのだろう。実は叔母自身が一度離婚している。 資産家の家に嫁いで追い出されたのだ。今は再婚した夫と子供と幸せな家庭を築いている、でも過去の暗い記憶は彼女を時折苦しめる。その男は今では政治家になっている。叔母が泣く泣く置いてきた子供たちもその中にいる。でも会わせても貰えないのだという。
私は、ちゆちゃんの幸せを願っているのよ…と言う叔母の言葉を胸に沈めながら受話器を置いた。机の上にぽたぽたと涙がこぼれる。自分のために誰かが悲しむのは嫌だった。善良な叔母をここまで苦しめるのは申し訳なかった。惣哉への想いが断ち切れるものなら、今すぐにでも叔母の言葉に従いたかった。 ――でも。 そんなことができるだろうか…、否。出来るはずもない、出来ないからこうしてこの場所にいるのではないか。ただで済ませられる問題なら、7月のあの日に予定通りに田舎に戻っていた。惣哉が引き留めてくれた…でもそれを待ち望んでいたのは自分だ。惣哉の元に残ろうと思ったのは自分の意志だ。
「どんなことがあったって、千雪を離したりしない。俺は千雪を一生大切にする」 章人の両親と顔を合わせた。岡山の彼の実家まで連れて行かれて。長屋のある大きな家に案内されて、豪華な応接セットの置かれた応接間で。そこで根ほり葉ほり聞かれた、自分の実家のこと、親のこと。 そして。数週間後…叔母から今回のように実家の近くに興信所が入ったという連絡を受けたのだ。その後、すぐに章人がただならぬ様子で千雪にことの次第をうち明けた。彼の顔は可哀想なぐらい青ざめていた。 でも、千雪はその事実をとても自然に受け止めていた。周囲の人間の中で一番冷静だったと思う。興信所が入ったのにはびっくりしたが、そうでなくても父親の病気のことがあちらの両親に知れれば、こう言うことになると分かっていた。だから章人の言葉を黙って聞いていた。 「――両親はいくら言っても駄目なんだ。そりゃ、俺だって、必死で説得したさ。だって千雪と俺の問題であって、親のことは二の次なんだから。それなのに両親は聞く耳を持たない、あんな分からず屋だとは思わなかった…こうなったら、もう親でも子でもない。実家なんて関係ない!! …千雪、二人で、生きよう」 「…え?」 「千雪が大切なんだ、もう家には戻らない。だから千雪もお父さんのことは捨ててくれ。二人で、二人きりで、新しく全てを始めよう」 章人の真剣な眼差しを、どこか遠いもののように感じていた。そしてその瞳が一瞬揺らいだのをはっきり見て取った。 …怯えているんだ、この人は。怯えていて、怖くて。でも必死で自分を守ろうとしてくれている。自分と共に生きたいと思ってくれている。 その事実は嬉しかった。出来ることならそうしたいと思った…でも。 「…だめだよ、章人。私は父を捨てられない。父を捨てて、章人を選べない。だってどっちも同じくらい大切なの…」 「ちゆ…き…?」 …心の中ではそう叫んでいたとしても。 見てしまったから、あの瞳の色の揺らぎを。章人の中の一瞬の迷いを。あの迷いがある限り、彼は一生後悔する。そんなことはさせたくない。 振り切るように彼の腕を逃れた。自分から、別れを切り出した。それ以来、もう会うこともなく。
もちろん彼は知っている。千雪の父親のことを。話を聞いても、直接会っても、動じることはなかった。千雪に男がいたことも知っていて、それなのに愛してくれる。信じられないくらい幸せだった。もしかしたら、奇跡が起こって全てが上手く行くのかも知れないと錯覚した。 柔らかい暖かい羽根のような腕。惣哉の胸の中は千雪の今までの人生の中で一番安らげる場所だった。一目見た途端に淡い恋心を抱いた人と特別の関係になれるなんて、信じられなかった。でも幸福だった。 春の陽ざしのようにぬくもりを含んだ声。優しい瞳。それを全部独り占めしてきた。当然のように一身に受けてきた。 でも。 柔らかい羽根はふわふわとその形を崩していく。掴んでも掴んでも掴みきれない。求めても求めても手には入らないものだ。
あの時。冬の初めに感じたカウントダウンを。心の中に唱え始めていた。もう、止められなかった。
◇◇◇
「…まあ、お早いお帰りで…」 「今日はあなたに今までのお詫びがしたいと思うの…近所のおいしいケーキ屋さんからタルトを買ってきたのよ。一緒に召し上がりません?」
◇◇◇
朔也が学園から戻ってきた。彼は道端やガレージの中を確認してシルバーの外車がないことにホッとした。大袈裟にため息を付いて、門を入る。エントランスを中程まで歩いたところで、ぎょっとして足を止めた。 「…ちゆ先生?」 ひよこ色のスーツ。今朝着ていたものだ。朝から顔色が悪かった。使用人たちの話から、昨日も村越夫人があれこれ千雪に辛く当たったことを聞いていた。それに対して惣哉が何の反論もしなかったことも。あんまりだと思った。惣哉の半分しか生きていない自分でも、千雪がどんなにか辛い立場にいるか分かる。まあ、千雪と同じ庶民だから、と言うことあるが。 それを金持ちな家で、何不自由なく育った惣哉には分からないのだろうか? 食ってかかってやりたいのは山々だったが、昨日は深夜まで予備校だったし、今朝は惣哉が早朝から出張してしまっていなかった。 色とりどりのミニバラが咲き乱れる花壇の中に千雪の背中が見える。しゃがみ込んで、まるで親に叱られた子供みたいに。 「ちゆセンセ?」 ふるふるっとひよこ頭が震えている。傍に寄ってみると、しゃがんだ千雪と立っている自分ではあまりに高さが違う。朔也はそっと腰を落として、ぽんとひよこ頭に手を置いた。ぐるりと周囲をバラの茂みが取り囲む。いばら姫の眠っていたお城のようだ。かき分けてもかき分けても向こうの見えない緑。青臭い匂いがした。 次の瞬間。 ぴくっと動いたひよこ頭がくるりと振り返る。そして朔也がその顔を覗き込むよりも早く、がばっと胸に抱きついてきた。 「ええええっ? ちちち、ちょっと? ちゆセンセ? …ええっ!?」 普段、口ではいろいろと言っている朔也ではあったが、柔らかい千雪の身体にいきなり抱きつかれて、高校生らしくうろたえていた。 そりゃ、咲夜を抱きしめたことくらいはある。服を着ていたけど。スーツ姿の千雪だったらそれと大差ないだろう…でも、違う。肩幅とか腕に収まる重みは恋人である咲夜よりもささやかだ。それでも千雪は外見は中学生でも実は成人した大人だ。身体の成熟度と柔らかさが違う、胸の感触が想像していたよりもかなりたっぷりしている。ついでに甘くて何とも言えない、いい匂いがして。 もう、朔也の胸は爆発寸前。この人は惣哉の恋人なんだと分かっていても身体の震えが収まらない。くらくらっと来そうになったとき、すすり泣きの声と共に呻くような小さなつぶやきが聞こえた。 「郁郎…っ…」 …いくろう? 誰だ? それは… 聞き覚えのない名前に沸き上がりそうになった感情が一気に冷めた。ひとつ、ため息を付く。残念なようなホッとしたような気分でそっと背中に腕を回して抱きしめる。もうそこには特別な感情はなかった。 小さな小さな身体は妹みたいな感じがする。実際は年上なのに、どこか頼りなくて、でも憎めなくて。背伸びしてお姉さんぶるのがおかしくて。 惣哉に見つかったら、すぐさまアメリカに送還させそうな光景だったが、千雪が収まるまでその場を動かなかった。
「…ごめんね、朔也君」 「ふうっ…」 「…郁郎って…誰?」 「…ううんと…弟」 「…弟」 「よくね、小さな頃に父や母に叱られて。庭先でこんな風に泣いてると弟が来て慰めてくれたの。…何だか思い出しちゃった。丁度、今の朔也君みたいに遠慮がちに芝生を踏んで、ちょっとずつ近づいてくるの」 千雪の両親は離婚して、弟は母親が引き取ったと聞いていた。そんなに仲の良い姉弟だったら、どんなにか辛いことだっただろう。 「郁郎がいたら、いいなと思ったわ。こんなこと今まで考えたこともなかったのに。何だか、自分一人で背負うことに疲れちゃった…」 「それって、お父さんのこと? だったら、惣哉がどうにかしてくれるんでしょう? 心配することないじゃない」 朔也の言葉に。千雪はふっと微笑み返した。言葉はなかった。何も言わないまま。何だか、悪い予感がした。 「…もしかして、ババが来てたの? で、何か言われたんでしょう? …あいつめ…っ!!」 でも、千雪は困ったように小首を傾げるだけだった。そのことには触れたくないみたいだった。 「ちゆ先生、身体の方は? 大丈夫なの?」 そう思ったら、ぞくぞくっとした。思わず、肩をぶるぶるっとさせる。でも、そんな姿を見て、千雪がまた笑った。 「もう大丈夫よ、心配しないで。私は頑丈に出来ているんだから…」 「何だよ、それ?」 「ゾウが踏んでも壊れないから。私は見た目ほど、ヤワじゃないわ…」 その笑顔が綺麗だなと朔也は思った、この世のものじゃないくらい綺麗だと思った。 続く(020710) |