…9…
千雪はそんなわけで電話番をしながら資料をまとめたりしていた。惣哉に頼まれた医療関係のもの、施設建設の新聞記事。抜き出して、必要箇所を蛍光ペンでなぞる。出来るだけ惣哉の労力を軽減したかった。 机いっぱいに資料を並べていると、突然ノックの音がした。 「…はい?」 「秋山様? あの、副理事長は出張中ですが? ご存じありませんでしたか?」 「今日は秘書さん、あなたに話がありましてね…あ、入り口のドアは閉めた方が宜しいのでは? 余り人に知れたくない話題でしょうから…」 「は…?」 さすがの千雪も眉間にしわを寄せる。マナー違反だと思った。でも学園の役員は大切だ、一応お茶の支度をして応接セットまで戻った。
「お話はどのような…?」 「…このように。汚れのない仮面で周囲の者を騙すんですね、近頃のお嬢さんは」 「あ…!」 「おやおや。すみませんね…濡れてしまったなら、ここで脱いだら宜しいのでは? どうせその服だって惣哉様にたかったものなんでしょうから。驚きましたね、可愛らしい顔をして、やることは売春婦ですか? しかもあんた、惣哉様に会う前には別に男がいたんですって? それも同棲まがいなことまでして…随分親密なご関係だったらしいですね、それがさっさと惣哉様に乗り換えて。全く女とはこのように恐ろしいものですか? ウチの息子にも気を付けさせないといけませんね…、次にあんたのターゲットにされたらたまりませんよ。御家の大事と言うところでしょう?」 千雪はぎょっとして、秋山を見た。でも次の瞬間、全てを悟った。今、彼が言った内容は全て昨日に村越夫人がそらで読み上げた内容と同じだった。情報の出所は彼女だ。彼女が千雪の情報を流しているのだ。 「だいたいね、不愉快ですよ? 今回の大学部の新設でどのくらいの金が動くかご存じだったのですか? 金だけじゃない…あんたくらい学のあるお嬢さんなら、お分かりでしょうが…私らのような政治家は人脈が大切なんです。大学部の話が事実上流れたことで、どれだけの支持を失ったか分かりますか? それもたかだか、あんたみたいな小娘の入れ知恵で…そんなことが許されるとでもお思いなんでしょうかね? 本当に自分のことしか考えてない心の狭い方だ、こんな人を選ぶなんて惣哉様もおしまいだな…」 もはや話の内容なんて聞こえてこなかった。ただ、秋山の唇が動き続けることだけが分かった。それしか千雪には認識する力が残っていなかった。 途切れ途切れで聞こえる内容から、千雪の情報が電子メールやファックスを使って学園の関係者全てにばらまかれているようだった。同窓会から在校生の保護者宅にまで。午前中のうちに信じられないほどの件数に知れ渡っている。その様なことも可能な情報通信の世の中なのだ。 千雪は唇を噛みしめると、散らばった湯飲みの破片を黙々と片づけた。 「…ほお、泣きもしないんですね。こんな時、涙でも見せれば男はほだされるものなのに。さすがに腹の据わったお嬢さんだ、恐ろしいです」 「ああ、恐ろしい。これ以上、悪い空気を吸って影響を受けては大変です、私は退散させて頂きますよ?」
スカートの濡れた部分には細かいお茶の葉がこびりついていた。こすったら跡になるかなとふと考えた。秋山をドアの所まで送る気力はなかった。でも秋山にも言われたとおり、涙が出てこなかった。昨日のバラ園で全て出尽くしてしまったのだろうか。秋山に言われたこともそれほどショックではなかった。
湯飲みの残骸を片づけたところで、再度ノックの音がした。 ハッとして顔を上げて、次の瞬間時計に視線を移す。2時半だった。また、他の役員が来たのだろうか? それとも保護者? どれくらい多くの人が自分の情報を知ったのだろう? もう部屋から出るのも億劫だった。 少しも後ろ暗いことはない。両親の離婚のことも、父親の病気のことも…章人とのことも。そう、章人との恋だって、少しも悔やんでいない。結局は結ばれることのなかった二人だが、愛し合ったことは偽りなどではない。幸せだったと思う。でもそれを誰彼となく説明したくないし、また分かっては貰えないだろう。千雪自身だって惣哉には少しすまないな、と思うときもある。
「…佐倉先生? 入りますよ?」 「今のは秋山君ですね? 何か言われましたか…彼は大学部の新設に熱を入れてましたからね、自分の意見が通らないので文句のひとつも言いたいのでしょう、気にしないでくださいね」 「あ、あの…副理事長は…」 「知ってますよ」 「困ったことになりましたね…」 「…はい」 「私はね」 「私は今回の情報についてあれこれ言いませんよ? 別にほとんどのことは知っていましたし。でも秋山のように事を荒げるのも大人気ないと思いましたから、知らない振りをしていたのです。私自身は今回の内容を村越の奥様から昨日に直々に伺いましたが…ほとんどは自分の持っている情報の裏付けでしかありませんでしたね」 千雪はドキリとした。秋山の時には感じなかった恐怖感が芽生える。やはり自分の観察力は間違っていなかった、この男がただの人間であるわけはない。 「私は、4月からずっと佐倉先生を拝見してましたよ。どちらかというと好意的に感じていました、あなたは聡明で明るく、まっすぐな人間です。それは知っています…でも、どうでしょうね? それが…僭越ながら我が娘の朱美とどう違うというのでしょうか?」 いきなり核心を突いてきた。瞬きをする暇もない攻撃だ。千雪の髪が震えた。 「…佐倉先生。あなたも朱美も同じ女性です、惣哉君の相手としては五分五分の感じではないでしょうか? 確かに朱美は惣哉君に対して出過ぎた真似をしたかも知れない、約束をすっぽかしたことに必要以上に腹を立てて、それが彼の逆鱗に触れたと聞いています。でも…それは惣哉君を愛すればこそのことだと思いませんか? 佐倉先生なら同じ女性として、分かっていただけると思います。それに…婚約の破棄についても。…もしもあなたがこの学園に赴任しなかったら、惣哉君の前に現れなかったら、朱美は今頃もう彼の妻になっていたのですよ?」 どこまでも穏やかだった、穏やかだから怖かった。とてつもなく怖かった。…でも、もはや逃げ場もなかった。 「私もね、こんなことまで言いたくはないんです。でもあなたが弁護士まで雇ってきたでしょう? こうなったら少し動かなくてはならないと思いましてね…」 橋崎の言葉に心臓がきゅっと締め付けられる。 弁護士さんが動いたのか、自分の知らないうちに。ああ、弁護士のことは私の思惑だと思われている…そう言う風に考えられるのが当然なのだ。ディケア施設のことに関しても自分のせいだと思われている、はたまた…父親を都内の施設に移すことも…。 辛かった。でもその反面、心のどこかでホッとしていた。惣哉のせいにはならないのだ、惣哉は悪く思われていない、今の時点なら。 「あのね、やはり私は自分の娘の朱美が可愛い。それに決して惣哉君の妻として恥ずかしくない女性に育ててきたと自負している…だから、あえて言わせていただこう。佐倉先生、私と…契約しませんか?」 「は…い?」 「あなたが、どうしてもお父上を都内の施設に入所させたいというのならその資金は私が保証しましょう? 何なら今から今年の都の教員の試験に滑り込ませて合格させて差し上げることも可能です。しかし、その代わりにこの学園と惣哉君からは一切、手を引いて欲しい…もう2度と我々の前には現れないで貰いたい」 「…え?」 「佐倉先生…」 「あなたはご存じでしょう? 惣哉君など、私から見たら生まれたての赤子です。片手で殺せますよ? この学園からあなたと惣哉君を永遠に葬り去ることなど朝飯前なのです。でもそれはしたくない、朱美は今でも惣哉君のことを想っていましてね、娘を悲しませることはしたくないですから。…お分かりですね。私のひとことで保護者会も同窓会も役員会も動くんです。あんな下品なファックスなど利用しなくても、もっと崇高な技を披露して見せますよ? ご希望とあらば、ご覧に入れましょうか?」 千雪にはもはや言い返す言葉というものは残っていなかった。静かにかぶりを振る。それから、瞳を閉じて、ひとことだけ、告げた。それに対して、橋崎は満足そうに微笑んで頷いた。
◇◇◇
「副理事長さん…、お早いですね。本日は直接、お家に戻られると伺っておりましたが?」 「あの…野崎君から知らせを受けて…午後の面会をひとつ取りやめて戻ってきたんだ。どうしたの…叔母様が君のことをあることないこと…情報を流したって…」 「今、コーヒーをお入れします。お待ち下さいね…」 「そんなことっ!! 言ってる場合ではないだろう? 君のことなんだよ? 君がこんな風に侮辱されて…僕はもう叔母上だって構いはしない。訴えてやる!! 名誉毀損で――」 千雪は腕を掴まれて、キッチンに行くことが出来なかった。仕方なく怒りに燃える惣哉を見ていた。自分は少しも腹を立てていないのに、惣哉がまるで我が身が辱められたように振る舞っているのが不思議だった。そして嬉しかった。心から、嬉しいと思った。 ふふっと、口元に笑みが浮かぶ。そんな自分を怪訝そうに見つめる人。その人の腕を乱暴に払った。 「もう、終わりにしましょうよ? 私は疲れました、お芝居するのも容易ではないわ…」 「千雪?」 出来るだけ、歯切れ良く、しっかりと発音した。でも案の定、目の前の惣哉は訳の分からない顔をしている。何度か瞬きして、そっと確かめるように腕を伸ばしてくる。長い指先が自分に届く前に右手でそれを払った。呆然としている表情を見つめて微笑む。 「あのね、惣哉さん。私、最初から計算尽くだったんです。あなたに私の境遇を話せば同情して頂けるって、そうして心を許せば、父のことも良くしてくれるのではないかって。…今、父が入所しているホームは私が普通に働いたのではとても払えないローンを組んであります。だから、田舎に帰ったらどんないかがわしい商売にでも手を染めなくてはならないと覚悟していたんですよ? …でも、ここにいれば惣哉さんお一人を相手にしてればいいじゃないですか。不特定多数のお客と寝ることを考えたら、こんなにおいしい商売はありませんわ。その上、綺麗な服を着て、おいしいものを食べて…上流階級の暮らしも悪くないかなって思っていたんです」 惣哉は身動きひとつしない。千雪の口から出た言葉を認識できないみたいに。それが滑稽であり、哀れであった。疑うことを知らないお坊ちゃまだ 、心が綺麗で、周りの人も自分と同じだと信じている。そう思うとあまりにも2人の置かれた境遇が違うことがさらに思い知らされて、自嘲気味な笑顔が作らなくても自然に浮かぶ。 「でも、楽ではないんですもの。あの小うるさい叔母様にはあれこれ言われるし、惣哉さんには面倒なことを全て押しつけれるし…もう、我慢し切れません、限界です。挙げ句の果てに今回のようなことまで…私、もう嫌です。惣哉さんのお相手なんて割に合わなくてやっていられないわ!?」 「千雪っ!!」 ばしっと。 何がが飛んできた。それを避けることが出来ずに、千雪の頬が火を噴いた。次の瞬間、衝撃に床に倒れ込む。左の頬が焼けるように痛かった。 「…あ…」 「いい加減にしなさい、千雪。何を思ってそんなことを言うんだ? 君が本心から言ってるんじゃないことくらい、僕には分かるよ? どうしたんだ? …言ってごらん? 何でも話を聞くから…もう、悪ぶるのはやめてくれ!!」 「だからっ!! だから、あなたは甘ちゃんだと言われるのよ!? …笑っちゃうわ、どうして、何を根拠に私が本心で言ってるかどうかなんて分かるの? 私はあなたが知っているようなあまたのお嬢様とは育ちが違うんですからね? どんなに腹黒くたって、何でもないように微笑むことが出来るのよ…っ!」 頭の中の思考回路を総動員して。ありとあらゆる知識を寄せ集めて、どうしたら惣哉を遠ざけることが出来るか考えた。 「そう言って、泣き出しそうな顔をしながら叫んだって、信用できる訳がないだろう!? 鏡で自分の顔を見てごらん? 僕の言うことが分かるよ?」 「そ、そんなことっ!! 惣哉さんはどうして分かるの? 私が無理してるなんて思うのなら、橋崎の朱美様だって同じことでしょう!? あの方はあなたのことが好きだから、だからあんなに本気で怒るし、我が儘だって仰るんだわ。私なんて…あんな風に我を忘れたことなんてないものっ!!」 自分も惣哉も。そんなに声を荒げてやり合う性格ではない。元来、穏やかすぎるくらい穏やかな性分だ。だからこれだけの言い合いをしただけで、もう息が上がる。肩で息をしながら、次の言葉を考える。見つめ合えば二人とも同じくらい呼吸が荒かった。 「…どうして。いきなり朱美様の話が出てくるんだ?」 惣哉の問いかけに、しまったと思った。ちょっと話が直接的だったかも知れない。千雪はさらに惣哉をきつく睨み付けた。 「あなたが。…惣哉さんが私を買いかぶっているからでしょう?」 「どういうことだ?」 ひとこと言葉を発するたびに二人の視線が絡みつく。どうにかして相手の心中を探ろうとするように、相手の心の動きを捉えようとするように。 「私は惣哉さんのことなんて、最初から好きでも何でもないわ。ただ、利用できる相手だから気のある振りをしてきただけ。それも見抜けないなんて、本当にお金持ちのお坊ちゃまの目は節穴ね。村越の奥様の方がずっと心得ていらっしゃる、あなたみたいな人間を見抜く力がない人が運営する学園はもう先がないわねっ!!」 ばんっ!! 突然。何かが激しく床に落ちた音がした。 座り込んだ姿勢のままの千雪はその振動をもろに受けた。咄嗟に身体を固くして身を守る。次の瞬間、顔を上げておずおずと辺りを確かめる。 自分のすぐ脇に惣哉の持っていたセカンドバッグが転がっていた。衝撃に蓋が開いて周りに中身が散乱している。 「…あ…」 惣哉は唖然とする千雪を後目に、さっさとそれを元通りに収めると立ち上がった。そして、改めて長いため息を付く。それが途切れるまで、千雪は惣哉から目を背けることが出来なかった。 「…今の千雪には何を言っても無駄なようだね?」 静かな、抑揚のない声だった。それが千雪の心にぐさりと突き刺さる。 「僕は先に家に戻るよ? ひとりで少し冷静になりなさい」 それだけ言うと、さっときびすを返した。つかつかと足音が遠ざかって、やがてドアの開く音。そして閉まる前に少しの時間、こちらを見ている気配がした。俯いたままの千雪にもそれがはっきりと感じられた。
ぱたん、と扉が閉まると、千雪は自分の力の抜けた身体をよろよろと立ち上がらせた。後ろにある惣哉の椅子を支えにどうにか足を地に付けて。でもまるで雲の上に立っているように足の裏に感覚がなかった。 これで、良かったんだと自分に言い聞かせる。確かに惣哉の中で自分の位置づけが変わったはずだ。冷静になって考えれば千雪の言葉のひどさを改めて思い知って、そしたら――…。 身体が、焼けるように熱い。打たれた頬が? 違う、身体全体が火を噴いたように熱かった。 そして。 次の瞬間、ふっと千雪の視界が真っ白に変わった。
廊下を歩いていた惣哉は、ふと立ち止まった。忘れ物をしたようだ、明日の朝イチの会議の資料がなかった。本当なら部屋で見ても良かったのだが、ああ言う状態の千雪を刺激しない方がいいだろう。 資料だけとって、すぐに引き上げようと決意して部屋のドアを開く。次の瞬間、惣哉の身体が硬直した。見たことのない光景が惣哉の視界に飛び込んでくる。
さらさらと窓から流れ込んでくる快い秋風。その向こうに色の変わり始めた銀杏の木、校庭。それは変わらなかった。でも、部屋の中には異様な…信じられない、信じたくないものが。 「――千雪…!?」
出所は分からない、でも一面の血の海。その上にうつぶせに千雪が倒れ込んでいる。 返事は、なかった。 続く(020710) |