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…10…

 


 瞼の裏に張り付いた「白」の感覚。しっとりと身体を包み込むもの、ひんやりと沈み込んでいく心。

 浮かびかけた意識がそう言うものに阻まれて、なかなか前に進めない。もどかしく漂っている気分で停滞していた。緩やかに流れる低い雲のように。どんよりと流され続けたい欲求が何かにくいっと引っかかった。

 ふっと。

 思っていたよりもずっと簡単に視界が開けた。

 

 最初に天井の白。クロス張りでぼこぼこしている何かの模様。白い。

 次にこちらを覗き込む知らない人の顔が見えた。白い服…白衣、そしてほぼ白髪に近い頭。四角くて大きな顔。肌の色があまりにも淡いので下の血管が透けるのかピンク色にすら見える。全身が真っ白な人。

 黙ったままで、ぼうっと見つめていたら。その人がふっと微笑んだ。白くてごつごつした手のひらをこちらに差し伸べて。

「…気が付きましたか? もう大丈夫ですよ」
 外の陽ざしが透けて蜂蜜色に染まったカーテン。それをバックに微笑む人。柔らかい中に毅然としたものが見える、この人がお医者様だと言うことはすぐに分かった。

「…あ…」
 大丈夫って? …何が? 何のことなんだろう…

 記憶が前後する。自分の置かれている状況がよく分からない。

 軽く瞳を閉じて、頭の中を整理しようとしたとき。ちくりと下腹部に痛みが走った。思わず、ドキリとする。大切なことを思いだした。

「え? …あのっ…!!」
 がばっと、身を起こす。感覚の鈍った身体が上手く動かず、ぐらりとする。そして、右腕につれる感覚…そちらを見ると点滴の管が伸びていた。腕の内側、肘よりも少し下の部分にガーゼで止められている針が感じられた。

 でも、そんなこと構っている場合ではなかった。先ほどの白い人に叫ぶ。

「ね、あのっ…!! 赤ちゃんっ、赤ちゃんは!? 大丈夫なんですか!?」
 そう言い終えた後、返事を聞く前に背後にもうひとりの気配を感じた。がたん、と何かにぶつかった音。

 まさか、…そんな。と思って振り返る。その、まさかの人が無表情で立ち尽くしていた。思わず息を飲んだ千雪の背中に、穏やかな声がする。

「…心配はいりませんよ。では私は午後の診療に戻りますので…検温は4時ですから、それまでは静かに休んでいて下さいね。点滴が終わったら、看護婦を呼んで下さい…枕元のボタンです。ナースセンターに繋がってますから」

 こんな状況で、退室しないで欲しかった。でも、非情な室内履きの音が遠ざかる。薄いピンク色の壁を背に立つ人から目をそらせないまま、千雪は絶望的な気分でその音を聞いていた。

 

 かちり、とドアが開いて。それから、閉まって。

 

 それが合図になったように、目の前の男がきりっと唇を噛んで、表情を変えないままこちらを見据えて話し出した。

「…どういうことなんだ?」
 その言葉が、表情が全てを語っていた。

 千雪には何も言えなかった。もうこれ以上、刺すような視線にも耐えきれずに俯く。それでも頬や腕や…さらされている皮膚の部分がひりひりと痛んだ。

 彼は怒っている。…いや、怒っているというレベルではない。彼の全てが、底知れぬ怒りの渦に飲まれている。そのふつふつした場所から発せられる音。本当にこの人の声なのだろうか? 千雪には信じられなかった。でも、このようにさせたのは自分なのだ。自分がやったことなのだ。

 手のひらできゅっと毛布を握りしめる。その上にかかったカバーと共に。清潔な消毒薬の匂い。自分の意志とは別のところで震える己の手の甲を見つめていた。

「まさか。この期に及んで『気が付きませんでした』とは言わせないからね。…君が子供のことを知っていたのはもう分かっているんだから」

 ハッとして、顔を上げた。固い表情。動かない。その視線がちらっと一瞬だけ千雪を離れた。

 その先に、あるもの。千雪のショルダーバッグ。いつも肌身離さず持っていたもの。ソファーの上に置かれていた。言葉が喉の奥で引っかかったまま、見つめ返す。自分がどんな顔をしているのか分からなかった。でも、多分、血の気が引いているだろうと言うことだけは分かる。頬が冷たい。どこからか流れてくる空調の風がひんやりとくすぐった。

「ここに運び込まれたとき。今の…院長先生の指示で、悪いとは思ったんだけど荷物を調べさせてもらったんだ。そんなはずはないだろうと思っていたのに、ファスナーの付いたポケットの奥から診察券が出てきてね。先生はすぐにそちらに連絡を取ったようだったけど、僕はそれでも信じられないでいた。だから、今日…午前中に直接そこの病院まで行ってみた。…本当に、信じられなかったよ…」

 声が遠く感じられた。こんな風に知られたくなどなかったのに。

 千雪の目の前の男…惣哉がこちらを強い視線でぐっと見つめた後、するりと視線を逸らした。無言のままで、千雪の使っているベッドの足元の方からぐるりと回ると、窓際まで歩いていく。カーテンを少しめくって、外の様子を見た。切り取られた風景が千雪の目にも映る。中庭だろうか? 白っぽい花が見えた。

「…8月の終わりに。君はもうひとつき以上も前から、知っていたんだな」
 カーテンを握りしめた手が震えていた。

 

◇◇◇

 

 8月の終わり。昼下がり。午後の診療時間の始まりにおかっぱ頭の女の子がやってきた。花柄のワンピースを着て、ほとんどノーメークで。受付の女性も看護婦も最初は唖然としたという。

「妊娠したかも知れませんから、調べていただけませんか?」
 柔らかい微笑み…高校生? まさか、中学生? 初診用の質問票を手渡しながら、受付嬢は頭の中に様々な思考が渦巻いていたという。こういう職場にいれば多種多様な事例を目にする。別に取り立てて驚くようなことでもない。だが、予期せぬ事実が起これば取るべき道はひとつだろう。
 記入して貰った用紙を受け取りながら、尿検査の方法を告げる。そして改めて、記入項目を確認する。23歳…サバを読んでいるわけではないのだ、保険証にもきちんと明記してあった。

「妊娠してますよ、2ヶ月目です」
 そう告げた産婦人科医の声も少し緊張していた。目の前の人が中学生でも高校生でもなく、きちんと成人している社会人だと言うことはもう承知していた。でも、質問票には「未婚」にチェックが付いている、こう言うときは対応にも気を付けるのだ。既婚者なら、迷いもせずに「おめでとう」が言えるのだが…。

 しかし、そんな医師の前で回転椅子にちょこんと腰掛けた娘は、ひよこ頭をふるふるっと揺らしてにっこりと微笑んだ。長い間、この職業に就いていたが、ここまでの喜びの表情に出逢ったことは稀だ。別世界の出来事を見ているような、彼女と自分の間に硝子張りの壁があるかのような錯覚さえ覚えた。

「ありがとうございます」
 この言葉は適切でない気がした。でも彼女は深く頭を下げると、また嬉しそうに少しも目立たないおなかを手のひらで包んだ。

「あの…失礼ですが。結婚されていらっしゃらないのですよね?」
 どうしたものかと思ったが、仕事上訊ねなくてはならない。もしも、望まない妊娠であれば不本意ではあるが堕胎も考えなければならないのだ。医師の声が震えた。

 しかし、娘の方はきょとんとしてその言葉の意味を理解していない様子だ。小首を傾げると、じーっとこちらを見つめる。綺麗な瞳の色だった。それがふうっと細くなってまた笑顔に包まれる。

「え? もちろん、産みます。当たり前でしょう、先生。私の子供ですもの」

 予定日はいつですか? これからどうしたらいいのでしょう? 次の診療はいつですか…等々、矢継ぎ早に質問されて面食らう。とうとう父親の話は出なかったので、どうしたものかと思ったが仕方ない。成人しているのだし、きちんと職業にも就いている。本人の意志に任せるしかないのだ。

 柔らかい天使が、その日、病院を後にしても、医師の心の中には何とも言えない気分が残った。

 

◇◇◇

 


「…ちゃんとこの間、妊娠初期の血液の検査もしたって言うじゃないか。そんなにはっきりしていて、どうしてもっと早く言わなかったの? 教えてくれていればこんなことには…」

 責め立てるわけでもなく、嘆くわけでもなく。

 親に置き去りにされて途方に暮れている子供のように感情の伴わない声で惣哉が言った。まだ素直に感情が湧いてこないのだ。これからなのかも知れない。

 千雪には何も答えられなかった。ただ、俯くしかなかった。この状況で何を語ればいいと言うのだろう、今更。…そう今更。

 惣哉がこちらの出方を伺っている。それは分かっていた。視線をそちらにやらなくても、感じ取れる気配。微かな呼吸の震え。
 千雪が目覚めたこの部屋はどこかの病院の入院病棟の一室なのだろう。調度の感じから言っても、かなり高価そうな気がする。まあ、東城の家の人間の対応だ。医師とも懇意にしているらしい。これくらいの措置は妥当なのかも知れない。
 緊迫した空気の中でそんなことをぼんやりと考えていた。そんな自分が不思議だった。もっと取り乱せばいいのだろうか、そうは思っても感情が伴わない。あの時はあんなに激しく言い合ったというのに、今は憑き物が落ちてしまったように。

 

 どれくらい時間がたったのだろう。長いようにも短いようにも思えた。惣哉の規則正しい呼吸が止まって、それからちょっとして、ふうっと大きくため息を付く。千雪は自分の身体がぶるっと大きく震えるのを感じた。

「ここには来週末くらいまで入院することになるそうだから。その後は君を東城の家に連れて帰るよ? 分かってるね?」
 訊ねているのではない、決定していることを確認するように惣哉はきっぱりと言った。

「…え……?」
 自分の声が信じられないくらいかすれている。思わず顔を上げて声の主を見ていた。感情のない瞳がこちらを見下ろしている。

「君のおなかにいる子を保護するのは僕の権利であり、同時に義務であるだろう? だったら当然のことだよ?」

「……」
 唇がかすかに動くが言葉にならない。こちらが何も言わないことに多少の苛立ちを感じたのか、惣哉の眉間にしわが寄った。

「まさか、僕の子じゃないとか言い出すんじゃないだろうね? そんな話は聞く耳をもたないからね…いざとなったらDNA鑑定でも何でもしてやる。僕は最初から子供がいつ出来てもいいと思っていた。だから別に意識して気を付けようとかそう言う気はなかった。千雪は当然、僕の妻になると思っていたし、それを君も承知してくれていると思っていた。…君が何を言おうが連れて帰るから」
 後ろ手にカーテンを握りしめる。これだけの言葉を口にするだけでカーテンはきしんで、レールのところでつれている。ザラザラと音がした。

「…や、嫌ですっ…」
 千雪は反射的にかぶりを振っていた。自分の髪が柔らかく耳の脇で大きく弧を描く。

「何だって?」
 惣哉の眉がぴくりと上がった。

「私は嫌です、もうお屋敷には戻りません。帰りたくありませんっ!!」
 そこまでどうにか告げると、また俯いてしまった。もう惣哉の顔は見てられなかった。

「千雪」
 厳しい音が飛んでくる。

「君は…、僕から子供を取り上げるつもりかい? そんなつもりでいたのか? 君には病気のお父上もいらっしゃるだろう、1人で育てられるわけもないじゃないか」

 俯いたまま、何度も首を横に振る。歯を食いしばって、身体の震えを耐えた。

「子供から、父親を取り上げることにもなるんだよ? そんなこと許されると思っているのか」

「…東城のお屋敷にいるからって、幸せになれるわけではありません。私みたいな思いをさせたくないです。…別に、惣哉さんがいなくたって大丈夫です、育てられます」

 泣いては駄目だと堪える。ここで泣いちゃ駄目だ。毅然としてなくては。

「惣哉さんだって、ご結婚なさればまたお子さんが出来ます。それでいいじゃないですか、何の不満があるんです…」

「――また、その話か…っ!!」
 惣哉の腕が大きく揺らいだので、握りしめたままのカーテンが大きく揺れた。ざらっと大きく開く。

「僕が…欲しいのは、その子だけだよ。君と僕の子供だけだ、当たり前じゃないか。君が好きだから、大切だから、その子のことだって…」

「惣哉さんにこの子の父親になる資格なんて、ありません!!」

 肩に力が入って痛い。毛布を握りしめた手のひらにツメがぎりぎりと食い込んでいる。痛い、でも本当に痛いのは肩でも手のひらでもなかった。自分でも位置が特定できない、身体の奥が、引きちぎれるほど痛い。

 

「…そこまで、言うのか」

 

 広い室内に、ぽつりと呟いた言葉が妙に大きく響き渡った。千雪がそう感じたのかも知れない。室内の空気が凍り付いて少しでも身体を動かすと切れるように痛い。ちくちくと刺すような痛み。

 その中で。しばらく惣哉の呼吸の音だけが聞こえていた。震えていた、落ち着こうと深呼吸していてもさらに震えてきている。一呼吸ごとに空気は張りつめていく。

「分かったよ」
 惣哉は短く、でもきっぱりと言い放った。

「君が本当にそう望むのなら、それなら…橋崎同窓会長の朱美様を僕の妻にしよう」

 ハッとして。

 千雪は顔を上げていた。目の前の惣哉がまっすぐにこちらを見ている。食い入るように、肌を突き破って内臓を掴み取る様な強い視線。ぐっと息を飲んだ。何と言ったらいいのか分からなかった。

 視界が潤んでくる。唇を強く噛みしめた。目を逸らしては駄目だと思ったから。

 

 …やがて。

 惣哉の方がするりと視線を逸らした。瞬時に緊張が解ける。

「…じゃ、僕は仕事に戻るから。今日は夜も会合が入ってるから…もう来られない。まあ、君は僕の顔を見れば取り乱すようだから。顔を合わせない方がいいだろうけどね」
 そう言いながら、惣哉はさっとソファーの上の上着を取った。それをきちんと着ると、こちらをもう一度見る。

「君が何と言おうが、君の体調が元に戻るまでは東城の家が世話をさせていただく。間違っても、病院から抜け出したりなどしないようにね。…その点滴も子宮収縮を止めるものだそうだから。君は一時はかなり危ない状態だった。もしも――おなかの子が大事なら、大人しくしているんだ。分かったね」

 それだけ言うと、背を向ける。そのまま二度と振り返ることもなく、部屋を出ていった。

 

 ドアが閉じると同時に。

 千雪は今まで堪えていたものが一度にどっと湧いてきた。すべてが上手く行っている、そう思わなくてはならない。それなのに、どういうことだろう。どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。

 自分が考えて、自分が望んで口にした言葉。それによって我が身がずたずたに裂けていく。でも、たぶん、言葉を受け止めた人はもっともっと傷ついているに違いない。

 溢れて溢れて止まらないものを両手で覆う。でも止めることなど出来るわけない。

 たったひとり、残された病室で。自分の押し殺した嗚咽だけを、長い長い間、耳に聞いていた。

続く(020713)

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