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…11…

 


 自分は副理事長室で倒れて、すぐにここに運ばれてきた。一籐木グループの担当医になっているこの総合病院は惣哉も子供の頃からお世話になっているという。千雪は丸1日意識が戻らなかった。

 

 千雪が目覚めて間もなく、福島の叔母がやってきた。

 一張羅ではないかと思われるスーツを着込んでいる。それは今の季節のものではなく、もう少し冬になってから着る装いだ。多分、パート勤めでそれほど裕福ではない叔母はそんなに外出着の枚数がないのだろう。それを思ったとき、千雪は東城の自分の部屋のクローゼットを思い起こしていた。
 毎日、何度も着替えられそうな枚数のスーツたち。惣哉が懇意にしているデザイナーが千雪に似合うものをと色々仕立ててくれるのだ。そんなにあっても仕方ないと何度も言っているのだが、惣哉はさっさと注文してしまう。
 叔母を見ると思い出す。自分はこっち側の人間なのだと。今いる世界は架空のもので、本来いるべき場所ではないことを。

「…ちゆちゃん…」
 両目を真っ赤に泣きはらした叔母が、絞り出すように名前を呼んで、千雪の手をぎゅっと握りしめた。

「可哀想に、辛かったのね。もう大丈夫だからね…」

 その言葉が胸に落ちてきたとき。もう枯れるほど泣いたと思っていた目から、またぽろぽろと涙が溢れてきた。

「ごめんなさい、叔母さん」

「馬鹿だねえ、この子は。こんなにやつれて…早く元気になりなさい。そうしたら迎えに来るから、一緒に福島に帰ろう」
 ベッドの上で上体を起こした千雪を叔母はきつく抱きしめた。

「でも、叔母さん…私…」
 千雪は唇を噛んだ。

「何言ってるんだよ、今更。ちゆちゃんがひとりだろうが、ふたりだろうが大した違いもない。あんたが元気になるまでは私が養ってあげる。贅沢はさせられないけど、今までよりもずっと幸せになれるよ。ちゆちゃん、もう休みなさい…」

 叔母が説得するように、背中をさする。自分と似ている小さな身体に包まれて、千雪は静かにいつまでも泣きじゃくっていた。心がふうっと溶けてしまいそうなのに、何故か芯の部分が冷たいままで、ギリギリで立ち止まる。それでも頼りない身体が温かくて嬉しかった。叔母の身体からはふるさとの匂いがした。

 

◇◇◇

 

「切迫流産でした。妊娠初期には良くあることなんですけどね…気を付けてくださいよ、おなかの赤ちゃんを守れるのはお母さんだけなんですからね」

 目覚めたときに同席していた「院長先生」が千雪の担当をしているらしい。ちょこちょこと千雪の部屋に顔を見せては様子を聞いてくれる。自分の父親よりもいくらか年上だろう、でも惣哉の父親の政哉よりは若そうだ。柔らかい微笑みが包み込んでくれるようだった。

「…あの、赤ちゃんは、もう大丈夫なんですか?」

 千雪が不安な表情を隠せずに訊ねると、彼はにっこりと微笑んだ。

「お母さんが、心安らかに過ごされれば大丈夫ですよ。お母さんの精神状態が赤ちゃんにはすぐに影響します、お母さんが幸せなら赤ちゃんだって幸せなんですよ」

 その言葉に思わず俯いてしまう。先生の言うことはあまりにも正論で、それに対して自分はあまりにも不甲斐なかった。

「ほらほら、そう言うのがいけないんですよ? 明るく、です」
 院長先生が千雪の背中をさすりながら、おどけた感じで言う。大きくてたっぷりした手のひらだった。千雪の背中のほとんどを占めてしまうようだ。大袈裟なようだが、本当にそう思った。

「…他に、何か心配事は?」
 こちらに寄り添ってきた先生の顔は千雪のすぐ傍にある。見つめている瞳は小さくて丸いがとても鋭い。千雪は一瞬、息を飲んでから、身体の力を抜いた。どうしようかと思っていたが、思い切って口を開く。

「あの、先生。夜…眠れないんです」


 ここで目覚めてから3つの夜を過ごしていた。

 病院の夕食は早くて5時半頃になる。食欲なんてものは当の昔に忘れていたが、それでも「赤ちゃんのために」と言われれば食べないわけに行かない。綺麗に並べられた食事は普通の病人食ではない。まるで普段の食卓に並んでいるようなメニューだった。味もおいしくて、全部食べきれないのがもったいないと思ってしまう。
 消灯は9時。部屋の蛍光灯を看護婦さんが消しに来る。こちらの体調を確認して。そのあと…いくらベッドの上で横になっていても、全く眠りに落ちることが出来なかったのだ。枕元の時計の音だけが妙に大きく耳障りに聞こえてくる。窓から差し込む街灯の明かり。シルエットになった樹の枝がカーテンに映る。それをふっと瞼を開けては確認して、また目を閉じる。そんなことを繰り返していた。

 頭の中で様々な思考が生まれては消えていく。ものすごく、とてつもなく悲しいというわけではない。中途半端な飢餓感が心を覆い尽くす。身体の下のシーツの感触がふっと遠のいて、足の裏も身体も宙に浮いた気分だ。とても、欲しいものがあった。でも自分から手を差し伸べることなど出来るはずもなかった。

 ようやく、東の空が白んできて。その時、初めてホッとする。闇の支配の終わった時間が千雪を解放してくれる。けだるく睡魔が襲ってきて、しばしの眠りに就くことが出来た。


「眠れない…ですか?」
 医師は千雪の言葉をそのまま反芻した。それを受けて、こくんと頷く。

「あの、体を動かさないせいもあると思うんです。だから看護婦さんにお願いして、お庭を歩いたりシャワーを浴びたりしているのですが。でも、やっぱりこれと言った効果もなくて。だんだん、身体がだるくなっていくような気がして…」

「それはいけませんね」
 医師はまじめな顔をして、少し何かを考えていた。

「やはり、人間というものは基本的に昼間活動して夜間は休息をとる生き物です。夜中に休めないのは身体に負担がかかりますね…」
 それから、千雪の心を探るように顔を覗き込む。

「佐倉さん、何か心配事がおありですか? 不安なこととか。そう言うものが影響しているんでしょうね…お心当たりは?」

「…いえ…」
 千雪は目を伏せると、小さくかぶりを振った。

「そうですか」
 こちらを見ている視線を感じる。でも、顔を上げる勇気はなかった。

「では、薬を処方しておきます。詳しいことは看護婦に申しつけますので、それにしたがって下さいね」

「え?」
 千雪は驚いて顔を上げた。

「あの、先生。お薬なんて…おなかの赤ちゃんに毒じゃないですか? そうだったら、あの、私…」
 妊娠時の薬の使用による胎児への影響のことは知識として知っていた。だから少しぐらい体調が優れなくても薬に頼ることなく気を付けてきたのだ。

 千雪の不安な心を見て取ったように、医師は柔らかい微笑みで答えた。

「漢方のお薬が色々あるんです。生薬で…そう言うのは身体への影響が少ないので、妊婦の方には良く使用するんですよ? そりゃ、薬害は色々言われますが…たとえば、風邪を引いて薬を飲まずに我慢したとして。ひどい咳が原因で流産や早産を引き起こすことがあるんです。ですから、妊娠中は医師と良く相談した上で、身体に負担の少ないお薬を使用するのもひとつの対策です」

「…そうなんですか」
 言われてみればそうである。妊娠中の約10ヶ月、何の病気もなく過ごすのは神業にも近いことであろう。

「顔色もまだ優れませんね。栄養をとる点滴を一本やりましょう、後で看護婦をよこしますので指示に従ってくださいね」

 まぶしいくらいの銀色の髪に午後の陽ざしが当たってキラキラしている。清潔な白衣の医師が部屋を出ていくと、千雪は今まで堪えていたものを吐き出すようにふううっとため息を付いた。

 

◇◇◇

 


 漢方の薬を食後1時間位して飲む。すると消灯時間に合わせて、しばらく味わったことのなかった心地よい睡魔が襲ってきた。それに逆らわずにベッドに潜る。心ごと吸い込まれるように闇に落ちていく気がした。


 ふわっと。浮き上がった感覚がして、瞼が開いた。目の前は闇だった。まだ夜だ、深いとばりの中。

 千雪は闇に慣れない目で枕元の時計を見た。時間を確認する…2時半。長い針と短い針が形成する大きめの角度をぼんやりと見つめた。多分、深く眠ったために、身体が満足しているのだろう。心地よいけだるさが身体をふわふわと包み込んでいた。柔らかい上質の綿の中にいるようだった。

 時計を手に取る。コチコチと言う音に耳を傾けていると、背後に、何か気配を感じた。窓の方を向いて、寝ている姿勢で右手側を見ていた自分の身体を仰向けに戻す。

 …え?

 千雪は次の瞬間、息を飲んだ。

 自分のベッドの側面にほとんどぴったりと寄り添う形で安楽椅子が置かれている。それを大きくリクライニングしたその上に…人影が見える。横たわっている。微かな寝息。

 恐る恐る。息を潜めて身を起こす。胸までかかっていた毛布が身体にそって膝に落ちた。

 頭が向こうを向いている。だから顔が確認できない。でも、柔らかい髪の流れも、静かな寝息も、千雪の知っている人のものだとすぐに分かった。忘れるわけがないじゃないか。

 …でも? どうして、どうして…こんな所にいるの?

 ふと見ると、かけていたと思われる毛布がずり落ちて、向こう側の腕がだらんと下がっていた。千雪は反対側のベッドの側面から床に降りるとそっと足を忍ばせてそこまで回った。ベッドをぐるりと半周する感じで。こちらの身体を闇に置いてみると、今まで影になっていたその人の身体が窓からの明かりに浮かび上がった。自分の方を向いている顔に目がいく。千雪は両手で口元を覆った。

 …惣哉、さん…?

 声にならない唇の動き。そうかたち取った後、自分の両方の目から、どっと涙が溢れてきた。視界が潤んで、慌てて顔を拭う。その間は唇をきつく噛んで、息を潜めて。そうしてから改めて見つめる。固く閉じた瞼、少し眉間に寄った皺。身体全体がだるそうで、ひどく疲れているように見えた。千雪がこうして床の上で跪き、自分を見ていることなど、全く気付いていないだろう。

 何度も何度も涙を拭いながら、しばらくの間、千雪は我を忘れて懐かしい姿を見ていた。懐かしい…そう、懐かしかった。3日ぶりにようやく巡り会えたその人だったのだ。

 当たり前と言えば当たり前、不自然と言えば不自然だった。惣哉の父・政哉も朔也も咲夜も…お手伝いさんの幸さんも毎日のように会いに来てくれる。そして千雪の妊娠のことも惣哉とのことも何も聞かされていないのか全く触れることはなかった。過労で倒れたと言うことにされているらしい。身内以外の面会は禁止されていたので、子供たちからは千羽鶴のお見舞いが届いた。父兄や職員からも花や品物や。ゆったりと造られた病室が埋まってしまうくらいだった。お花などは枯れてしまっても可哀想なので、東城のお屋敷に持ち帰って貰っていた。…でも、惣哉だけは宣言通りに、とうとう顔を見せることはなかったのだ。

 最後に見たのは、この人の去っていく背中だった。投げかけられたのは、冷たい突き放すような言葉だった。そして、それ以来、2度とこの病室に彼が訪れることはなかった。千雪にとって恐ろしく長い3日間だったのだ。考えてみれば分かる、分かりすぎることだ。あれだけの言葉で傷つけてしまったのだ、自分のことなどもう見たくもないだろう。淡い縁取りの眼鏡の中から向けられた冷ややかな瞳。あんな視線で見つめられるなんて信じられなかった。

 …惣哉さん、ごめんなさい。

 多忙すぎるスケジュールの中にいる人。その人を少しでも心安らげるようにしてやるのが自分の役目だったはずだ。そうしようと努力してきた、でも、こんなかたちで…結局は最悪のかたちになってしまった。

 優しい人なのだ、困っている人間を助けずにはいられない人なのだ。本当に心が綺麗で、疑うことを知らなくて…だから、傷つけてはいけなかったのに。そもそも、間違いだったのは自分たちが出逢ってしまったことなのだろうか。そう、橋崎同窓会長が言ったように、自分さえ現れなかったら、今頃この人は朱美様を妻にして幸せに過ごしていたのだろう。

 …でも。

 間違いだと言われても、それを止められなかったのは自分だった。誰のせいに出来ることでもない、自分の心の中に惣哉への気持ちが溢れていたから、だから躊躇しなかった。柔らかい日溜まりの中に包み込まれてしまいたかった…。遠回りをさせてしまった。本当に、申し訳ないことをしてしまった。

 それが、分かっているのに。

 止められない心。今も自分でがっちりと掴んでいないと、目の前の人の胸に飛び込んでしまいたくなる。強い振動で眠りの淵から無理矢理揺り起こして、強く強く抱きしめられたい。息が止まるくらい、強く。この、不安と寂しさに押しつぶされそうな自分を助けて欲しい。だって、自分のことを今、助けてくれるのは…この人だけなのだから。
 大丈夫だと思っていた、章人との時のように。少しの間、泣いて暮らせば忘れられると。心の中に封印してしまえばもう、普通に生きていけると。

 それなのに、…それなのに。どういうことだろう、この惣哉に会えなかった3日間、ドアの向こうで気配がするごとに胸が高鳴っていた。顔を合わせたら、また、激しい言い争いになってしまうと分かっていたのに、自分がそうしてしまうと分かっているのに…それでも期待していた。惣哉が、自分に会いに来てくれることを。ほんの一瞬でもいいから、自分の顔を見るためだけにここに来てくれることを。
 きっと、小走りに廊下を足音が近づいてきて、息を切らせた彼が顔を覗かせる。大丈夫? 体調は? …そう言いながら心配そうに自分の顔を覗き込むのだ。急いだために少し汗ばんだ手のひらで千雪の頬をそっと包み込んで…。

 馬鹿だ、とてつもない馬鹿だ。そんなことが起こるはずもないのに…それでも会いたくて。会いたくて、会いたくて、会いたくて。


 どれくらいの時間が経過したのだろう。窓の外が白々としてきた。はっと我に返る。自分の身体がすっかり冷たくなっていた。

 息を整えて、ハナをすすり上げて。ワイシャツの腕を取ると、そっと横たわる身体に乗せた。上着は脱いでソファーに掛けられている。でもスラックスとワイシャツはそのまま。ネクタイは外して襟元のボタンは開けているが、仕事帰りにそのまま来た感じだった。

 …あら?

 毛布を持ち上げたとき、ぽとんと何かが落ちた。拾い上げると、それは惣哉のハンカチだった。

 どこから落ちたのだろう? 立ち上がって毛布を整えてからもう一度まじまじと確かめる。大振りの手触りのいい良質のもの。そうっと頬に当てると、ふんわりと惣哉のコロンの香りがした。一日中身に付けていたので、香りが移ったのかも知れない。千雪の胸が高鳴った。

 そのまま、ベッドに戻る。音を立てないようにそっとシーツと毛布の間に元通り身体を滑り込ませて。…そして。

 千雪は肩までしっかりと毛布を掛けると、惣哉に背を向けた。そして手にしていたハンカチを両手でそっと胸に抱いた。小さく、丸くうずくまる。胸元から、惣哉の香りが匂い立った。信じられないくらい、満たされた気分になっていた。

 ぎゅっと、もう視界に何も映ることがないくらい、ぎゅっと瞼を閉じた。

 それから、想像する。自分の身体が、今温かい腕に包まれている感覚を。この柔らかい香りは惣哉の胸から立ちのぼるもの。空気をほんのりと染める体温、額に触れる柔らかい髪。…そう、自分は今、惣哉の胸の中にいるのだ、しっかりと抱かれて眠っているのだ。
 顎がガクガクとした、涙がぼろぼろと溢れてくる。でも、そんなことは構わなかった。現実と空想の境目がなくなるまで、千雪は再び眠り落ちる瞬間まで、ずっと心の中で惣哉の存在を思っていた。

 朝、看護婦の声で目覚めると。惣哉はいなくなっていた。壁の際に安楽椅子が静かに置かれている。使われた形跡も残さずに。しかし、千雪の手にはちゃんとハンカチが握られていた。

 

◇◇◇

 


 それからというもの。

 漢方の薬で眠りについて、夜中に目覚めると惣哉はそこにいた。今日は無理だろうと思いつつ、振り返ると、必ず安楽椅子の上に静かに横たわっている。そして、必ず、深い眠りについていた。

 一頻り、その寝顔を床の上から仰ぎ見て、それから落ちた腕を元に戻して毛布を掛ける。するとまたハンカチが落ちているのだ。だからそれを素早く拾い上げて、固く閉じられた寝顔を確認しながら…自分の枕の下に隠して置いた昨日のハンカチと入れ替える。1日たってしまうと、惣哉の香りがだんだんなくなってしまうのだから。忙しいのだ、いちいちハンカチの微妙な柄まで覚えていないだろう。惣哉のハンカチはチェックのものが多くて、どれも良く似ていた。

 千雪は丸一日、抱きしめていたハンカチを惣哉の胸の上に返した。 

 

◇◇◇

 


「明日、退院ですよ」
 そう告げられた夜も、やはり惣哉は来ていた。いつものようにもう習慣になった行為を、ひとつひとつ行っていく。惣哉の腕を取って、身体の上に戻した時…一瞬、指と指が触れた。それまでは意識して素肌ではなく袖口の部分を取るようにしていたのだ。少し、手が滑ってしまった。しっとりと柔らかい肌を久しぶりに感じて、千雪はすぐにはそこから手をどけることが出来ないでいた。

 そして。

 惣哉の手が、少し動いたかと思った時。ふわりと千雪の右手が惣哉の左手に包まれていた。ハッとして寝顔を見つめる。瞼は固く閉じたままで、呼吸も穏やかだ。無意識にやったことのようだ。
 すぐに抜いてしまえばいいのに、出来ない。右手が自分のものではなくなってしまったようにすら思える。浮かした腰をもう一度床に戻して、千雪は右手はそのままに惣哉の傍らに跪いた。

 身体が、腕が、震えないように注意しながら、惣哉を見上げる。見つめた先のその口元が、微かに動く。

「…千雪?」

 一瞬、身体がびくりと大きく揺れた。心臓が飛び出るかと思った。でも次の瞬間に静寂が戻る。…寝言だったのだ、それでも、胸がじんわりとした。

 

 この人とはこうして夜、寝顔でしか会っていなかった。言葉を交わしたのもあの時以来だ。だから名前をこんな風に呼ばれたのも随分昔のことのように思える。

 嬉しかった、深い眠りの中であっても自分の名前が呼んで貰えるなんて。甘くて優しい気がしたのは気のせいだと思う、でも大好きな人の唇からこぼれた自分の名前は世界中のどんな言葉よりも美しくて胸に響いた。

 

「…惣哉さん」

 聞こえるはずもないけど。聞こえないのは分かっているけど…小さく呟いた。

 ごめんなさい、惣哉さん。本当はずっと…ずっと傍にいたかった。隣りにいたかった。そのためだったら、どんな苦労も出来るし、どんな辛い目にあっても大丈夫だと思っていた。…でも。

 私じゃ、惣哉さんを守れない。橋崎同窓会長のように、惣哉さんが何かを始めるときに強力な後ろ盾になって上げられない…あんまりにも非力だ。朱美様なら、惣哉さんの相手に不足はない。彼女と結婚すれば…惣哉さんは自分の思い描いた道に向かって、どんどん歩いていける…途中でつまづくこともなく。きっと橋崎同窓会長が影になり日向になって助けてくれるはずだ。

 …そんなこと、とっくに分かっていたのに。橋崎様に言われなくたって、気付いていたのに。

 それでも、どうしても決心が付かなかった。あと1日、1日って…先延ばしにして。それが自分の弱さなのだ、でもこうして体調が戻りつつある今、取るべき道はひとつだ。怖いけど…辛いけど。とてつもなく悲しいけど。惣哉さんを守るためだったら、惣哉さんの未来を切り開くためだったら…大丈夫、きっと大丈夫。

 千雪の手を包んでいた左手がするっと抜けた。千雪はそのまま、惣哉の胸に手のひらを置いたままで…小さな小さな声で呟いた。

「…大好き、大好きなの。誰よりも…愛してる。…ごめんなさい…」

続く(020717)

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