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…12…

 


 翌日。夕方に迎えが来るから、それまでに身の回りのものを片づけておくようにと言われた。

 普通、退院と言ったら午前中だろう、でも医師も看護婦も夕方だと言った。千雪はすっかり外出用の服に着替えると、髪を整え、静かにソファーに座っていた。
 着替えなどの大方の荷物は朝、顔を見せた幸さんが全て持ち帰ってくれた。その際に持ってきて貰った自分の小さなボストンバッグに身の回りの全てのものを詰めた。…千雪が初めて東城の家に上がったときアパートから持ち込んだのはこれにはいるだけのささやかな荷物だった。それは今も変わらない気がする。惣哉から買い与えられたものでクローゼットのハンガーも引き出しもたくさんになったが、本当に千雪が必要なものはこのバッグに収まるものと…それから、自分の身ひとつだ。

 時計が4時を回った頃、廊下の向こうの方からスリッパの音がしてきた。医師や看護婦のものではない、辺りに響き渡る音。タンタンタン、と規則正しく、少し早足で。今までこの部屋で一度も聞いたことのない音に覚えず胸が高鳴った。

 がちゃり。

 妙に大きくドアノブの回る音が響く。中開きのドアを押して入ってきたのは、やはり惣哉だった。

 千雪はどんな顔をしたらいいのか分からなかった。惣哉に対して、どんな態度を取ったらいいのか…自分の頭の中で何もまとまってなかった。だから、心のどこかで惣哉ではない他の人間が迎えに来てくれないかと期待していた。

「すまない、会議が長引いて。荷物はこれだけ? …じゃあ、行くよ」
 何も言えずにいる千雪に対して、惣哉は早口にこう告げた。千雪の顔はちらと一瞥しただけで、すぐに視線を逸らす。ぴりぴりと緊張した空気が伝わってきて、千雪は黙ったままその後ろに従った。

「とりあえず、送るから。その後、また、出掛けるところがあるんだ」
 腕時計を見ながら、斜め前を行く横顔が言う。事務的な、抑揚のない声。落ち着かない様子で何度も眼鏡に手をやる。

 いつもだったら。こういうこの人の変化を見れば「どうしたのですか?」と心配して訊ねていた。でも、今の状況ではそんなことを言える感じではない。それに…惣哉は本当は自分のことなど迎えに来たくなかったのではないか、でも周囲の手前、仕方なく来たのではないかとすら思えた。そう思うのが妥当なくらい、惣哉の背中からは緊張した空気が漂っていたのだ。千雪は惣哉から見えないように真後ろに入って歩きながら、俯いて唇を噛んだ。

 途中、ナースセンターに声を掛けて。先生が玄関先まで出てきて送ってくれて。惣哉は病院の前に駐車したままにしていた自分の車に千雪を乗せた。公共の場にこういう風に車を放置することなど、惣哉にしては珍しい。ちょっとした買い物の間でもきちんと遠くの駐車スペースに止めに行くような律儀な人なのに。この行為からも惣哉がいかに多忙であるか推察できた。秒読みのスケジュールの中に千雪を送り届ける時間を組み込んだのだ。

 運転席に座るとエンジンを掛けてシートベルトを締めて。ハンドルを手にした惣哉はふっと小さく息を吐いた。でも、スーツの下の肩は固く張りつめている。それを隣りの助手席で千雪は不安げに見つめていた。やがて、緩やかに車が発車すると、その流れに乗って小さく遠慮がちに言葉をかけた。

「…あの。送るって…どこに?」

 千雪の言葉に惣哉が一瞬だけこちらを見る。ひどく苛立った視線だった。すぐに進行方向に顔を戻してしまったが。

「…うちに送るに決まっているでしょう?」

 短い言葉に込められた感情に、千雪は胸が押しつぶされそうになった。ずっと、寝顔しか見ていなかった。起きている、瞼を開けている姿にも会わなかったし、だからこうして言葉を発する現場にも居合わせていなかった。

 押し殺した声はいつもよりもトーンが低くて。千雪の知っているこの人の声ではないみたいだった。

 …もう、惣哉さんの心は自分にはないんだ。嫌々、迎えに来てくれたんだ。

 泣いてはいけない、そう思うのに視界が滲む。こんなところで取り乱しても、惣哉が嫌な気分になるだけだろう。出来る限り、冷静に何ともない感じでいなければ。歯を食いしばっていても顎の辺りから、ガクガクと震えが生まれてしまう。千雪の小さな肩が小刻みに揺れた。
 自分が惣哉に投げかけたあまたの言葉が、彼の中で芽吹いて自分への憎悪になる。ふつふつと煮えたぎる心、そんな想いを抱かれることになるなんて。こんなことなら最初から相手にされない方がずっと、良かった。

「でもっ…私は、もう、お屋敷には…」
 いけないと思いつつ、声の震えが止まらない。でも惣哉はそんな千雪の必死に思いには気付いていないのか、相変わらす抑揚のない声で冷たく言い放った。

「あのね、君はまだ自宅療養の身体なんだ。病院にだって定期的に診察に行かなくてはならない。君の体調が元に戻るまでは東城の家がお世話させて貰うって言っただろう? …それとも? 君は東城の家は身体をこわした部下をさっさと見捨てたとでも噂になって欲しいのかい?」

 千雪はもう、惣哉の方を向くことが出来なかった。声を殺して、窓硝子に寄り添う。顔を背けて、口をぎゅっと閉じて。じっと身体を固くした。頬にシートベルトが当たるのが分かる。そこが段々湿ってくる。声を上げてはいけないと思ったから、流れるものをそのままに座っていた。わずか10分ちょっとのドライブがとてつもなく長いものに感じられた。

 家の前に車を横付けにすると、惣哉はさっさと車を降りた。千雪も慌てて開けてくれたドアから降りて後に続いた。玄関のエントランスにお手伝いさんの幸が待ちかまえている。どこか不安な、でも安堵した表情で千雪を出迎えた。

「千雪様、お帰りなさいませ。…お元気になられて…」
 朝、会っているのに。それでも幸にとっては、外出着を着てちゃんと歩いている千雪を見ることが出来て本当に嬉しかったようだ。

「はい、これを頼みます。では、私は…出掛けてくるから」
 惣哉は千雪には話さずに、幸にそう告げた。手にしていたボストンバッグを手渡して、早口で。そのまま、千雪の存在など無視したまま、きびすを返す。

「あの…惣哉様?」
 幸が慌てて、その背中に叫んだ。惣哉がくるりと振り返る。

「…何?」

「本日の御夕食はどうなさいますか? …お戻りになれますよね、今夜は千雪様の退院祝いです。皆様お揃いになりますので…」

 幸の言葉に。惣哉の表情が一瞬止まった。でも次に瞬間、静かに後ろを向いてしまう。

「…分かった、努力はしてみる」

 ふたりの会話で。いかに惣哉が屋敷に戻っていなかったのか、千雪には分かってしまった。

 千雪が倒れる前に把握していたスケジュール以上に惣哉の毎日は忙しくなっていたようだ。そう言えば千雪が起きている時間に間に合って惣哉が病院まで来ることはなかった。宿直の看護婦さんにちらっと聞いてみたら、毎晩1時か1時半にならないと来られない感じだったらしい。それならば屋敷にも着替えに戻る位だったのだろう。

 走り去る車を見つめながら、千雪は色々な想いがこみ上げてきてたまらなくなった。東城の大きな建物も、敷地を彩る樹木も花々も千雪の帰還を喜んでいた。幸と同じ感じで「お帰り」と両手を広げて出迎えてくれていた。懐かしいものたち、2ヶ月ちょっとしか暮らさないはずなのにここはもうすっかり千雪の家になっていた。
 大きな玄関扉に立つとさすがに緊張はする。でも包み込む空気の穏やかさに心からの安らぎを覚えていたのも確かだ。家人の、使用人たちの笑顔、語らい。日常のささやかなあれこれを慈しんで、大切に過ごしてきた。

 そして、何よりも。

 千雪の存在を包み込むもうひとつの体温が、いつもいつも自分を温めてくれた。見上げればいつでも柔らかいまなざしがあり、そっと触れれば握りしめてくれる手のひらがあった。その腕の中で自分は本当に幸せだったのだ。

 千雪はしばらくエントランスの真ん中で辺りの風景を眺めていた。幸が不安げに振り向きながらドアを開く。

「…千雪様?」

「…あ、はい。今、行きます」
 慌てて返事する。何も知らない幸に心配を掛けたくない。千雪は自分に出来る限りの微笑みを作ると扉に向かって歩き出した。でも、両手離しに歓迎してくれる全てのものに「ただいま」と告げることは出来なかった。

 

◇◇◇

 


 夕食までは時間があったので、しばらく部屋で横になった。「君はまだ自宅療養の身体なんだ」と惣哉が言った通りに、少しの移動だけでどっと疲れが出る。いっぺんに色々なことが起こってしまったので、精神的にも体力的にも限界が来ていたのだろう。そのことに自分自身が全く気付いていなかったのが情けない。

「ごめんね」
 少しも目立たないおなかに手を当てて、そっと詫びる。今回のことで一番辛い思いをしたのはこの子だろう。でも、必死に持ちこたえてくれた、本当に良かった。今まで気遣ってやることも出来なかったが、少し元気になったらマタニティーの雑誌でも買ってみようかな、と言う気になっていた。今となっては千雪にはもうこの子しかいない。…いや。生理が遅れてもしや、と思った瞬間から、千雪にとっておなかの子が唯一の支えだったのだ。

 惣哉が避妊をしていないことは分かっていた。自分もそれなりに知識はある。章人は毎回きちんとしていてくれたから、意外だなと思った。それと同時に、それならそれでいいとも思った。もしも妊娠を望んでいないなら、女の側からだっていくつかの対策はある。でも、あえてそれをしようとは思わなかった。

 …惣哉さんの赤ちゃんが欲しいな。

 愛する人の子供が欲しいと思うのは女性にとって自然の摂理だろう。千雪もそうだった。惣哉は結婚しようと言ってくれた。でもそれがとても難しいことであることはよく分かっていた。初めから住む世界の違う人だった、そして、深く知れば知るほどにその溝が深まっていく。自分に対する限界を感じてしまったのも事実だ。それでも、章人との時のように悲しい結果になっても。千雪はもうひとりに戻るのは嫌だった。

「シングル・マザー」と言う言葉は、今日ではもうそれほど珍しくもない。藤野木の様な裕福な家庭の子女が通う学園ではまだまだ珍しいが、一般の学校などでは一クラスに数名は母子家庭、または父子家庭に暮らす子供がいる。離縁、死別…様々な理由があるだろう。でも、それは特別なことでないのだと思えるくらい彼らは明るい。
 千雪の子供時代はそうではなかった。今よりもずっと片親の子供に対する世間の目が異質だった。千雪はそれを元に苛められたりすることはなかった。むしろ気にされたり、哀れに思われたりしてきた。「お母さんがいなくて、可哀想にね」と何度言われたことだろう。気にしたくなくてもそう言われれば気になる。出来ればそっとして置いて欲しかった。

 妊娠のことを惣哉に告げれば、どうなるかくらい容易に見当が付いた。彼のことだ、子供のことを思えばすぐに籍を入れようと言いだしただろう。でも、そんなのは嫌だった。子供を引き合いに出して、自分たちの関係をどうにかしようなんて…おなかの子に対して失礼だ。この子はきちんと人格をもったひとりの人間なのだから。自分が幸せを得るための道具にはしたくなかった。

 …やはり。

 ひとりで横になっていると、色々考えてしまって休めない。身体はだるいのだが、そのまま眠りに入れるほどは疲れていない。とろとろっとしたかと思うと、すぐに夕食に呼ばれた。

 

◇◇◇

 


 ダイニングまで降りてきた千雪が自分のための席に着いたとき、もうテーブルには惣哉の父・政哉と居候の朔也が座っていた。ふたりとも心から千雪の回復を喜んでいる様子だった。これから先のことを考えると申し訳なく思いながらも、千雪は出来る限りの微笑みでふたりに応えた。
 給仕を手伝おうとする千雪を制して、幸が食卓を整えたとき、ダイニングのドアが開いて惣哉が戻ってきた。息を切らせて、手には小さなブーケを抱いて。

「退院、おめでとう」
 千雪の所までまっすぐに歩いてきた彼は、はにかんだ笑顔でそれを手渡してきた。千雪は信じられないくらい以前と変わらない惣哉の行動にびっくりしてしまい、しばらくは花を見つめたまま声も出なかった。

「やだな、ちゆ先生。今更、惣哉に花を貰ったくらいでそんなに感激しちゃって。まったく当てられちゃうよな…」
 朔也の言葉に一同がどっと笑う。

「…こら、大人をからかうものじゃない」
 そうたしなめる惣哉の声も明るい。

 千雪は夕方の彼の態度を思い出して、何が起こったのか全く分からないでいた。もしかしたら、今までの全てが夢だったのではないか、あの、倒れた日の…惣哉と言い争う前の時間まで全てが元に戻ったのではないかとすら思えてくる。

 それからの食事の時間も、終始和やかな雰囲気で過ぎていった。あまり食欲のない千雪を気遣うように、隣りに座った惣哉があれこれと世話を焼いてくれる。遠くの皿から料理を取ってくれたり、飲み物の心配をしたり。千雪はもう胸がいっぱいになって、どうしていいのか分からなかった。言葉も少なく俯きがちだったが、病み上がりで疲れているのだろうと皆は思ってくれているようだった。

 

 食後のお茶を頂くと、惣哉はちらっと時計を見て立ち上がった。驚いてそちらを見ると、自分も立つように目で促された。

「…千雪は病院から戻ったばかりで疲れでいますので。今日はもう、休ませます」
 惣哉は柔らかな口調でそう告げると、さり気ない仕草で千雪の背中に腕を回した。そして、千雪の身体を気遣うようにゆっくりと歩き出す。リビングを出て、大きい階段を上って…その間、背中に置かれた手のひらがずっと千雪を支えてくれていた。

 気を付けて歩かないと普段ですら足を踏み外しそうになる階段で、支えてくれる手のひらは千雪にとっての命綱みたいなものだった。知らず知らず、惣哉の方にそっと寄り添う姿勢になる。するとふんわりとコロンの香りが鼻を突く。涙が溢れ出そうになる瞬間だった。千雪はそれを堪えるのに必死になって、終始無言だった。惣哉も何も言わない。ただ、背中から伝わるてのひらの熱が、彼から感じ取れる体温の全てだった。

 階段を上りきると左に折れる。左右に伸びた廊下を突き当たりまで行く。惣哉の部屋の前を素通りして、そのまま一番奥の千雪の部屋の前まで。惣哉の右手がドアのレバーを押して中へ入る。

 

 部屋に入って数歩、歩いたところで、ふいに惣哉の手のひらが離れた。その一瞬に、千雪の背中が冷え切ってしまう。ハッとして顔を上げる。小柄な千雪は大きく見上げないと惣哉の顔を見ることが出来ない。今更ながらそのふたりの距離に驚く。視線の遠さがそのまま心の遠さのように思えて。
 千雪のまなざしに応える惣哉の瞳は何とも言えない色をして、少し微笑んでいた。千雪でなければ分からないほど、微かな微笑み。次の瞬間、視線がするっとそらされた。

「…今日は…疲れただろうね、早く休みなさい。シャワーは病院で済ませてきたんだよね?」
 そう言いながら、千雪から体を離す。いきなり生まれた距離にびっくりして、千雪は尚も惣哉を見つめた。思い詰めている視線になってしまったのかも知れない。

「隣りにいるから。何かあったらすぐに言いなさい」
 惣哉は静かにそれだけ言うと、ふたりの部屋の間にある中扉から部屋へと引き上げていった。待って、とは言えなかった。

 

 ぱたん、と閉まる柔らかい音で千雪は一気に現実に引き戻された。しばらくの間は何が起こったのか分からずに呆然とする。

 …何が…どうなって、どうして?

 ふらふらっと、ベッドに座り込んで、ぐるぐると渦巻く思考をどうにか鎮める。頭が冷静に戻って行くに従って、ようやく事態の推移が飲み込めてきた。

 ああ、そうか。惣哉さんは、みんなの前だから…以前と変わらないように自分に接していたんだ。みんなは自分たちのことなど知らない。仲の良い恋人同士のままだと信じている。だから、心配を掛けないように何ともなく振る舞ったのだ。

 千雪にとって、当たり前のこの現実が大きな絶望に感じられた。ささやかな幸福の後にいきなり渓底に落とされた愕然とした気持ち。それも自分の言動が生んだ結果だった。そう、自分が自ら招いたことだったのだ。惣哉の差し伸べてくれる腕を振り払ってしまったら、こうなることくらい分かっていたのに。それなのに、自分は…。

 寝なくちゃ、疲れているんだから。とにかく休まなくちゃ。

 クローゼットに行って、パジャマ代わりの水色のスエットに着替える。顔を洗って、歯を磨くとそのまま自分用のベッドに潜り込んだ。

 手元スイッチで照明を暗くする。でも、瞼を閉じても睡魔は訪れない。そう…あの病院で味わった恐怖の夜が千雪の前に再び現れたのだ。背筋に冷たいものが流れた。
 自分はきっと、明け方まで眠れないのだ。このままベッドの上で色々考えて、悲しんで、寂しい気分になって。それをまた味わうのだ。そう思うと身体が大きく震えた。痙攣でも起きたかのように、それは激しくて、千雪は我が身をもてあます。このままどうなってしまうのだろう、身体がおかしくなってしまうのではないか。眠らなければ…でも、眠れない。

 泣きたい気分なのかとも考えたが、涙の一粒も出てこなかった。体の中に色々な思考が詰まって苦しい。…どうしよう…。

 身体の震えの激しさにただならぬものを感じてしまう。自分はいい、このままどうなっても。でも医師は言った…「赤ちゃんを守れるのは、お母さんだけなんですよ」、と。この子を守らなくてはならない。でも、どうしたら眠ることが出来るのだろう…。

 ふっと瞼を開けると、惣哉の部屋に続く扉が見えた。あの向こうに惣哉はいる。まだ、仕事をしているのだろうか、そうならば迷惑を掛けてはいけない。…でも。

 千雪の心は固まった。ベッドから身を起こすと…掛けていた毛布と枕を抱える。毛布をずるずると引きながら、部屋を横切り、扉のレバーに手を掛けた。

 鍵を掛けられていたらどうしよう、と一瞬躊躇したが、それは思いがけずに軽くかちっと下に動いた。ホッとしながら薄く開くと、惣哉の部屋ももう暗くなっていた。珍しいことだ、寝てしまったのだろうか。身体をドアの隙間に滑り込ませ、壁際のベッドを見ると、この部屋の主は壁の方を向いて横たわっていた。少し休むつもりだったのだろうか、部屋着のままベッドメイキングしたカバーの上に休んでいる。…疲れているのだ。 

 ベッドの傍まで歩み寄る。何度も声にならないまま、唇を動かしてから、…ようやく絞り出すように自分の声を発することに成功した。

「…惣哉、さん…」
 微かな、自らの耳でさえどうにか聞き取れただけの音。到底、寝ている人の耳には聞こえるはずもない。そう思った。

 でも、次の瞬間。惣哉の肩が向こうを向いたままぴくりと反応する。ハッとしてごろんと寝返りを打ってこちらを見る。千雪の姿を視界に入れると、びっくりしたように腕を付いて身体を起こした。

「…千雪?」
 サイドテーブルの眼鏡を手探りで探して掛けて。もう一度、こちらを見る。何度か瞬きして。

「どうしたの? …具合が悪いの?」

 千雪はその声を聞いただけで、こみ上げてくるものを感じた。でも、それを必死で堪えながら、枕を抱く腕に力を込めて自分の中の勇気を奮い立たせる。

「…ごめんなさい、惣哉さん。眠れないんです…ベッドの隅を貸していただけませんか?」

 千雪の声に、惣哉は信じられないような表情になった。眼鏡の奥で千雪の姿を見つめた瞳が何度も瞬きする。千雪は惣哉が何か言い出す前に次の言葉を言わなくては、と思った。

「あのっ…、病院ではお薬を頂いていたんです。でも、今日は頂いてくるのを忘れてしまって。明日になったら、どうにかします、だから…あの、…」

 視線の先の惣哉が何と答えるのか、怖くて仕方なかった。でも、眠れないのは困る。体に毒なのだから。そして自分が薬なしでも眠れる唯一の場所を千雪は知っていた。だから、もしも否定する言葉が出たら、必死で食い下がろうと思っていた。

 惣哉は初め、寝ぼけていたのかも知れない。やがて、表情がはっきりしてきて、千雪の顔を探るように見つめる。その後、身体を後ろにずらして、今自分が寝ていたベッドの真ん中を開放した。惣哉のベッドはキングサイズ、と言うのだろうか、両手を大きく横に伸ばしてもまだまだ余るほどの広さがある。

「…いいよ、おいで」
 暗がりで表情は良く分からなかったが、惣哉ははっきりとそう言った。

 千雪は自分の待ち望んでいた言葉を聞きながら、にわかにはそれを信じることが出来ず、しばらく呆然と動けないでいた。

続く(020718)

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