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…13…

 


「どうしたの?」

 促す声。それに導かれて、千雪は頭の方に枕を置いて、毛布を持ってベッドに上がった。弾みそうなスプリングに気を付けながら、出来るだけ惣哉から離れて横たわる。いつものクセで、身体が向きやすい方を向いてしまい…気が付くと目の前に惣哉の姿があった。

 どうしようかと思ったが、いきなり背中を向けるのもどうかと思った。まるで意識しているみたいじゃないか。自分はただ、ベッドの隅を借りに来ただけなのだから…。

 毛布を鼻までかけて、身体を固くする。でも、気が付くとまた痙攣に似たあの震えが始まってしまう。ガクガクと深いところに落ちていく感覚。その恐怖をぐっと堪えていると、脂汗が額に浮かぶ。でも声を出したら惣哉に悟られてしまう。それは嫌だ。
 

 ふわっと。

 突然、何かが自分の回りに絡みついてきた。

 それが惣哉の腕であることに気付くまで、千雪には多少の時間がかかった。固く閉じていた瞼を開けると、惣哉の身体がすぐ傍まで迫っていた。抱き寄せられるわけでもなく、ただ、淡く包まれる感覚。触れるか触れないかの抱擁。ほんの少しだけ身体を近づけると、ごわごわした綿シャツの感触がして…そこから、惣哉の香りが漂った。

 思わず、背筋がぞくぞくする。

 あの、ハンカチを抱いて寝たときの淡い香りではなかった。本物の惣哉から薫る匂いは…目眩がするほど強くて、あんなものとは較べものにならない。そうだったのか、自分が好きだったのはこの香りだったのだ。千雪は忘れていた感覚に気が遠くなりそうになった。そして、次の瞬間、身体の奥からどっとこみ上げてくるものがある。

「…うっ…!」
 ぼろぼろっと、涙が溢れてきた。今まで、涸れたと思っていたものが。止めなければ、と思うのに、その術も知らない。後から、後から頬を濡らしていくもの。惣哉のシャツに、シーツに染みこんでいく。それを知っているはずなのに…気付かないわけもないのに…惣哉の腕は緩まることも強まることもない。ただ、千雪を包み込んでいる。もしかしたら、もう寝入っているのかも知れない。そうなのだろう。

 そう思ったら、もう遠慮はなかった。千雪は惣哉の胸に強くしがみつくと、声を殺して泣きじゃくった。千雪がどんなに激しく身体を震わせても、惣哉は動くこともなかった。

 

◇◇◇

 


 ふうっと、目が覚めた。

 知らないうちに、泣き疲れて眠っていたらしい。闇の向こうに感じられる惣哉の身体、その胸にしっかりと顔を埋めたまま、千雪は寝入っていたのだ。自分を包み込む腕はそのままで、柔らかく絡みついている。こんなにゆっくり眠ったのは本当に久しぶりだった。惣哉の胸に一度強く頬を当ててから、千雪はそっと顔を上げた。暗がりでよく見えない。腕の間を少し伸び上がって、顔を近づける。惣哉はしっかりと瞼を閉じて、静かな寝息を立てていた。しっかりと結ばれた薄い唇。
 しばらく、それをじっと見つめていた。いままで、夜中にこうして目覚めると、千雪の小さな動きにも素早く反応して、惣哉が必ず目を開けた。そしてにっこりと微笑んで、また強く抱きしめられる。あの幸せな時間は訪れることはないのだ、もう2度と。

 千雪は小さくひとつため息を付いた。

 …本当は、少しだけ、期待していた。夕食の時の、以前と変わらない惣哉。今までの悪いことが全て夢だったのかも知れないと思った。惣哉は自分のことを大切に想ってくれている、だからまた…幸せな日々が戻ってくるのではないだろうか。

 部屋に入って、誰もいないふたりきりの空間に身を置いたら。もしかしたら、強く抱きしめられてしまうかも知れない。やっぱり、僕には千雪が必要なんだ、君がいないと駄目なんだ…そう言いながら、熱を帯びた視線が千雪を捉える。そっと、寄り添うと…惣哉は自分に優しく口づけて…。

 そんなことをされたら、正直、どうしていたか分からない。ごめんなさい、と叫んで抱きついてしまったかも知れない…。

 それは自分の勝手な夢でしかなかった。ふたりの間の現実は変わることはなくて…もう、あの日々は戻ってこないのだ。

 

「君が本当にそう望むのなら、それなら…橋崎同窓会長の朱美様を僕の妻にしよう」

 惣哉は、あの日、目覚めた病室で確かに千雪にそう告げた。そうなのだ、あの瞬間に…惣哉の中から千雪は消えてしまっていたのだ。
 もしかしたら。今日の夕方、この人は橋崎同窓会長の朱美様と会っていたのではないか…今日だけじゃない、今まで夜が遅かったのだって…もしかしたら。あれだけ、向こうは乗り気だったのだ、こちらが具体的に動き出せば、話はすぐにまとまるだろう。

 もう、どこまで話が進んだのか、千雪にも分からなかった。でも、そうだとしたら…今夜の食卓の和やかさは? あれは全てを知った上での千雪への思いやりだったというのだろうか? 自分の居場所はこの屋敷にはもはやないのかも知れない…。

「愛してる」と何度も何度も数え切れないほど告げてくれたこの唇はもう、自分のためには語らない。…それに…もしかしたら。もう、この人は朱美様と…。

 そう思うと、また涙が溢れてくる。これが現実というものなのだ。惣哉を幸せにするために、惣哉が明るい未来を歩けるように…千雪が思い描いたシナリオはその通りに進んでいる。惣哉は…自分の思ったとおりに…。

 今、こうして自分を包んでくれているのも、彼なりの優しさなのだ。困っている人を放っておけない惣哉の優しさが…無意識のうちに打ちひしがれている千雪を包んでいたのだろう。そう認めると、さらに辛かった。

 もう、口づけられることはない。優しく囁かれることもない。いつか、…それほど遠くないいつか、自分の身体が完治したら。その時に真実が告げられる、千雪はこの屋敷から出て行かなくてはならないのだ。その日を待つのは…辛かった。

 

 …明日、出ていこう。

 惣哉の口から、その言葉が出る前に。簡単なことだ、荷造りだって難しくない。みんなに告げることもないだろう、惣哉に説明して貰おう。そこまでする勇気はない。
 背中に回る優しい腕。これを感じていられるのも、今夜だけ。そして…こう言うふうに寝顔を見つめているのも…。

 そう思って、もう一度見上げる。優しい口元。最後に優しく口づけられたのは…いつだったのだろう。良く覚えていない。何度も、何度も…降りしきるように愛されながら…最後のその時を覚えていないなんて。

 それすら、覚えていないで…これから生きていけるだろうか。嫌だ、せめて、しっかりと覚えていたい。

 千雪は息を止めて、すっと顔を寄せた。自分の唇が震えている、怖いくらい震えている。でも、止めることはしなかった。

 唇が触れるその直前に、瞼を閉じる。そして、ふっと、一瞬だけ。惣哉の下唇の感触が届いた。

 どきり、として慌てて身体を離した。胸がどきどきと高鳴っている。瞳から、どっと涙が溢れ出てきた。慌てて、口元を両手で覆う。呼吸を整えて、涙が止まるまで長い時間がかかった。
 覆っていた手のひらを外す。まだその場所が、じんじんしながら大きく震えていた。

 思い出してみれば。自分から惣哉に口づけたことなどあっただろうか? …ないと思う。そうしたいと思う間もないくらい、いつも満たされていたから。いつも…見上げれば、当たり前のように惣哉の唇は落ちてきた。柔らかいぬくもりが。そのせいか、初めての自ら望んだキスはとてもぎこちなくて…物足りない気がした。

 これが、最後だなんて。そんなのは嫌。だって、今夜が最後なのに…もう、2度と、こうして腕に抱かれて眠ることもないのに。もっと、もっと、…もう十分だと思うくらい、一生、必要がないと思うくらい…キスしたい。動かない唇でも構わない、そのぬくもりを…永遠に忘れないようにしたい。それにはこれじゃ、こんなもんじゃ足りない。

 

 …今夜は。これからの人生の分、数え切れないほどのキスをしよう。

 夜明けまで、どれくらいの時間があるか知らない。でも、惣哉は深い眠りについているし…自分が満足するくらいの…たくさんの。

 

 千雪はもう一度、惣哉の顔を見上げた。さっきよりも少し、落ち着いた心で…千雪は惣哉の胸元のシャツを握りしめた。そして、静かに唇を寄せる。2回目のキスは少し、ぬくもりを感じることが出来た。でも、やはり次の瞬間に、涙は溢れてくる。嗚咽が上がる前に、さっと離れた。また、長い長い時間を掛けて呼吸を整える。それを待って、千雪はもう一度顔を上げた。

 3回目のキスは角度を変えて。4回目のキスは少し長く。一回ずつ、呼吸を整えて、大きく肩で息をしながら、繰り返していく。

「…惣哉さん」
 5回目はちょっと、心を込めてみた。今までの全てに感謝を込めて。

「ごめんなさい、惣哉さん」
 本当は、本当は傍にいたいの。離れたくないの、でもそれは出来ないの…。6回目はそんな切ない想いを込めて。

「出会えて、とても嬉しかったの…」
 ふたりが出逢ったこと、愛し合えたこと…それは少しも後悔していない。惣哉の腕の中でいつも幸せだった。優しい想い出に、7つ目のキス。

「惣哉さんの、隣りにいた時間が一番幸せだったわ」
 心がふわりと解放された。もしかしたら、もしかしたら一生、幸せな時を過ごせるのではないだろうかと…心のどこかで期待していた。そんなはずもないのに…そう思ってしまったほどの満たされた気持ち。あの時間に8つ目の…キス。

「…素敵な、贈り物をありがとう」
 これは…言わなくちゃいけないと思った。おなかの赤ちゃん。これは惣哉がくれたものだ。本当は惣哉と別れてなど生きていけないと思った…涙に溺れて死んでしまうかと思った。それを止めてくれたのは、この子なのだ。これから先、生きていけるから。どうにか…生きていけるから。そんな決意を込めて、9つ目のキス。

 

 全部で、9つ…ここまで来るのにも長い時間がかかった。時計は見ていないけど、1回ずつ、呼吸を整えて、涙を拭って。それでも足りないと思った。まだまだ、足りない。でも、キリがない。これでは終わりに出来ない…朝が来てしまう。

 

 千雪はごくりと息を飲んで、また惣哉を見上げた。そして、ゆっくりとその首に腕を回す。しっかり、しっかりと絡みつけて…その腕にぐっと力を込める。

 今までの行為で、惣哉が少しも目覚めないことを知っていた。だから躊躇しなかった…千雪は、瞳を閉じるとゆっくり唇を押し当てた。そして、長い長いキスをする。角度を変えながら、味わいながら。少しも反応してくれない薄い唇に、必死で自分を伝える。
 惣哉は少しも動かない。千雪はもう、夢中だった。

 …ありがとう、惣哉さん。本当に、ありがとう。大好きなの、誰よりも好き。惣哉さんと一緒にいて、幸せだったの…本当に、信じられないくらい…世界で一番幸せだったの…。伝えたい言葉はたくさんあった、信じられないくらいたくさんあった。息の続く限り…ううん、出来ることなら、一生このままくっついていたかった。

 10回目のキス。長い長いキス。途中から涙も溢れてきたが、そんなことも気にならなかった。千雪は涙で息が苦しくなるまで、惣哉から離れなかった。

 やがて。

 泣き濡れた頬もそのままに、そっと腕を解いて離れる。瞳は惣哉をじっと見つめたまま…そのままで。息が荒い、胸が痛い。少し距離を置くと、今まで千雪にかかっていた惣哉の腕が外れた。そっと、身を起こす。惣哉はやはりこちらを向いたまま、静かな寝息を立てていた。

 …惣哉さん。

 寝顔に向かって、囁く。心の中で。額にかかった前髪をそっとかき上げる。大好きな柔らかい髪。惣哉がかがんで千雪の顔を覗き込んだときだけ、その時だけ触れることが出来た。この身体も、心も全部自分に向いていたのだ。自分の心も身体も…全てがこの人に向いていたように。

 新しい涙はどんどん心から湧き出てくる。

「お母さんが幸せなら、赤ちゃんも幸せなんですよ」…院長先生の言葉。ごめんね、赤ちゃん。今日だけ、泣かせて…明日からはもう泣かないから。何があったって、私は一生あなたを守るから。

 見つめていれば、また触れたくなる。本当に自分の中の欲求には呆れるくらい終わりがない。いつもいつまでも離れたくないと心が駄々をこねる。…もう一度、もう一度だけ、と。

 …11回目。

 そう、次は11回目のキスだった。11、それは自分の手に余る数。11番目の夢は…自分の手のひらではすくい取れない永遠の夢。それこそが惣哉との幸せだったのかも知れない。

 惣哉の幸せは願うことが出来る、千雪の力でもこうしてどうにかかたち取ることが出来た。でも、千雪が一番欲しかったのは…何よりも望んでいたのは、11番目の夢。自分一人の力では到底叶うことのない、夢でしかない夢だった。

 時々、夢にまで見た。自分が…幸せな家庭の、惣哉に釣り合うような娘になっている。惣哉の親戚からも学園の職員からも役員からもみんなから祝福される…そんな夢。そしたら何を迷うことがあっただろう、何の心配もなく惣哉を愛することが出来た。
 朝目覚めて、ただ悲しかった。お父さん、ごめんなさいと言いながら泣いた。こんな風に無意識のままに父親を否定してしまう自分が悲しかった。たった1人の肉親なのに、心から受け入れてないなんて。心のどこかで否定してしまっていたなんて。そんな親不孝な自分が許せなかった。

 これは乗り越えなければならない、自分のための試練だ。惣哉のために、惣哉が幸せになるために。そのためには11番目のキスが必要だと思った。最後の…さようならのキスを。

「…うん…」
 惣哉が少し身体を仰向けにする。目覚めることはないけど。

 千雪は惣哉の傍らにそっと寄り添うと顔の脇に両手を付いた。静かに、ひととき見つめる…大好きな寝顔。見つめているうちに惣哉の頬にぽたんと滴が落ちた。ハッとして片手で顔を拭う。でも新しい滴がまた、ぽたんと落ちた。千雪はぎゅっと瞳を閉じた…涙を止めるために。言うことを聞かない自分自身をたしなめるように。でも、止まらない、惣哉の頬に額に…次から次へと落ちていくもの。

 …早く、終わりにしなくては。

 心が叫んだ。このまま泣いていたら、夜が明けてしまう。さようならのキスをしよう、最後に、もう一度だけ触れてみたい。永遠に…この想いを封印するために。

 そっと。

 唇を寄せる。…でも。あるところまで行くと、身体が進行を止めてしまう。あとちょっと、あとちょっとで触れ合うことが出来るのに…その数センチの距離が足りない。千雪の心が、身体が全てがこの行為を拒否していた。身体の内側から皮膚を切り裂くほどの強さで、惣哉と別れたくないと叫んでいる。支えにした腕ががくんがくんと揺れた。

 そんなこと言ったって…!!

 自分で自分に叫んでしまう。そんなこと言ったって、仕方のないことでしょう?

 

 今まで大抵のことは、努力すれば叶えることが出来た。たくさん勉強すれば成績は上がった。周囲に気を遣って努力すれば友達は出来た。必死で働けば認められた。そこではみんなが平等だった。
 
 自分の力だけではどうにも出来ない理不尽な世の中を知ってしまったのはここに来てから。惣哉と共に生きようと思ってからだ。上流階級の暮らしは今まで味わったことのないしがらみの世界。政治や経済の中心をなす者たちの思惑はお金と人脈にかたち取られて。きれい事ではやっていけない世の中だったのだ。

 今、惣哉は新しい事業に向けて確実に動き始めている。それを成功させるためにも、彼を支える力が必要なのだ。自分ではそれを果たすことが出来ない、もっと大きな絶大な力でないと。惣哉には日の当たる明るい人生を歩んで貰いたい、そのためには回り道や挫折させたくない。

 

 …さようならを、言わなくちゃ。もう一度、触れたいと思うなら…そう、もう一度だけ、触れることを許されるのなら…11番目のキスを。

 涙を拭っては、何度も何度も試みる。でも、どうしても身体がもうちょっとのところで言うことを聞かなくなる。そんな自分に苛立ちながらも、千雪は繰り返した。しゃくり上げ続けて喉の奥が痛くなる。目の回りがひりひりした。

 たとえば。

 この瞬間に、惣哉が目を覚ましたらどうするだろう? 払いのけられるのだろうか…それとも。それとも抱きしめてくれるだろうか? 千雪が出来ないのなら、僕から…そう言って。

 大きくかぶりを振る、馬鹿馬鹿しい妄想に。叶うはずのない夢に。それこそが手のひらに余る夢なのだ。

 頬から顎へ、首筋に。留まることのない溢れ出るもの。その流れを肌に感じながら、千雪はハナをすすって震える唇をきつく噛んだ。それから枕と毛布を元の通りに抱えると、柔らかいベッドを降りて、自分の部屋に戻っていった。

 もう、惣哉の傍にいるだけで辛かった。一瞬でも離れたくないのに、傍にいると苦しくて仕方がなくなる。

 

 よろよろと。ベッドの所まで戻って。そのまま、突っ伏して、大きく声を上げて泣いた。闇を押し込めた広い箱の中に自分の声だけが響き渡る。口惜しくて、情けなくて。

「さようなら」も満足に言えないのに、惣哉から離れられると思っていた自分が悲しかった。もう一生会うことはないと思いつつも、最後に触れることすら出来ないなんて。

 

 闇は深く、夜は続いていた。明けない夜があればいいと思った、明日なんて来なければいいと。今の瞬間に全てを封印したい、ここで世界を終わりにしたい。…でも、出来ない。そんなことは出来ないのに。

 爪の跡が残るほどの強さでシーツを握りしめる。手のひらに食い込んでいく痛み。それすらも自分の嘆く心のきしみには敵わないと千雪は思った。

続く(020718)

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