…14…
頬の上に乗った睡魔が邪魔をする。なかなか瞼を開けることが出来ない。ベッドの上に投げ出した手のひらできゅっとシーツを掴む。その力を頼りに、ゆっくりと目を開けた。
目の前に窓。千雪の部屋は2階の突き当たりだから、2方に窓のある贅沢な造りだ。格子窓の向こうには白い風景。まだ夜の明けきらない…あまり出逢ったことのない静寂。
名前を呼ばれたことすら、錯覚かと思った。空耳…? でもまたとろとろと眠りに引き込まれそうになったとき、背後からもう一度、呼ばれた。 「ごめん、もう起きてくれる? 大丈夫かな? 身体は辛くない?」 忘れるはずもない感触にふうっと振り向く。千雪の視界の先にに白いバスローブを着て、微笑んでいる人が見えた。洗い晒しの髪、眼鏡に付いた水滴。少しピンク色に染まった肌でシャワーを浴びたばかりだと言うことが分かる。 「…惣哉、さん?」 「体調は? …大丈夫?」 千雪は、言葉を発することすら面倒で、横たわったまま小さく頷いた。 「そう」 「――幸さん、千雪、大丈夫だって。お願いします」 「はいっ!!」 次の瞬間。 まだ明け切らない風景とはあまりに不釣り合いな元気いっぱいの声がして、惣哉の部屋との境のドアががちゃりと開いた。 「おはようございます、千雪様!!」 千雪はぎょっとして、それから慌てて上体を起こす。入ってきた人のその格好を見て、それから枕元のサイドテーブルに置かれた小さな目覚まし時計を確かめる。千雪がアパートにいた頃からずっと使っている、数少ない所持品のひとつだ。 …4時半。まだ日の出前じゃないか。 変だ、彼女たちは通常、8時からの勤務の筈。どうしてこんな日も昇らないうちにここにいるの? 「ささ、惣哉様。殿方は邪魔です、出ていってください」 「千雪様、お時間もございませんので。お急ぎ下さいませ」 「…時間? あの、急ぐって…どこに?」 慌てて、隅にやられた惣哉を振り向くと、彼の方は何とも言えない表情で千雪を見つめ返している。笑うのでもなく、悲しむのでもなく。心の中に何かを秘めているように。 「あ、あのっ…幸さんっ!!」 「お時間は余りございませんが、まずはゆっくりとお湯で温まってください。…それから、これを。しばらくお顔に当てていてください」 あっと言う間に身ぐるみ剥がされて、皆の手前、慌ててタオルで裸体の前を覆った。そう言いながら幸が取りだしたのは蒸しタオルだった。 「どうしたんですが? そんなに目を腫らして。惣哉様とケンカでもなさったのですか?」 「あのっ、…幸さん、これはどういう――」 「ほらほら、お時間がございませんわよ?」 背中をぐいぐいと押されて仕方なく、身体を流すと泡の中に身体を沈めた。泡の下はちゃんとよい湯加減のお湯が満たされている。心地よい温度。脱衣室との間のドアが閉められて、千雪はようやく目覚めて以来の初めての一人きりの空間に戻ることが出来た。
…何? どうしたの…? 幸に言われた通りに、蒸しタオルを瞼の上に置く。じんじんと浸みてくる、熱。痛い、そうだろう…昨日はあんなに途切れなく泣いていたのだから。自分の部屋に戻ってからも泣いて泣いて…涙が枯れるまで泣いて…最後はどうしたのだろう? 気が付いたらベッドの上で毛布にくるまっていた。自分で無意識のうちに上がったのだろうか? 時間がないって…何? 朝の早い出張であっても、こんなに早い時間に惣哉が支度を始めることなんてなかったと思う。かなり早朝スケジュールの出張なのだろうか? もう千雪の前にシャワーを終えているのだし。一体どこに出掛けるというのか? まあ、惣哉はいいだろう。でも自分は? 秘書が同伴する出張なのか? そんなの…普通ないはず。それに自分は昨日の夕方まで入院していた病み上がりなのだ。そんな状態で連れ出す気なのだろうか? …でも? もしや? 千雪の頭の中に、また新しい考えが生まれた。 …まさか。これから福島に、田舎に戻されるのだろうか? 千雪はゆっくりと瞼の上のタオルを取り去った。目の回りの腫れはだいぶ引いて楽になったが、今生まれたばかりの思考に心は暗くなった。確かに惣哉は自分が完治するまでは、千雪を世話すると言った。退院してこの屋敷に戻る車の中では。でも、その後、彼は再び出掛けたのだ。その先が、橋崎同窓会長の家だったとしたら…何か新しい話があったのかも知れない。
「…千雪様、そろそろ宜しいでしょうか?」 千雪の悶々とした物思いは、次の瞬間、幸の元気のいい叫び声に断ち切られた。たすき掛けをしてずんずんとバスルームに入ってきた幸は千雪の身体を瞬く間に綺麗に洗い上げて、髪もシャンプーして。
「さあ、次はこちらです!!」
◇◇◇
再び惣哉の部屋に戻ると、千雪はまた腰を抜かすばかりに驚く羽目になった。 今度はもう、自分の目が本当に信じられなくなった。何故なら、そこで千雪を待ちかまえていた人はこの屋敷の中に絶対いないような人物だったからだ。部屋の入り口で息を飲んで、立ち尽くしていると向こうから声を掛けられた。 「おはよう、ちゆ」 「…タクミ君?」 「時間がないんだから、てきぱきと動いて」 大きな回転椅子。その前にこれまた大きな姿見。いつもの美容院の設備ではなくあり合わせの即席な場所に座らせられる。すぐにふわりと綿のようなケープを肩に掛けられた。 「朝早くてさ、瑞穂は子供たちがいるから出られないの。1人で頑張るんだから、ちゆも協力してよね?」 「あの〜ドレスって、被るの? それとも下から持ち上げられる奴?」 「あ、下からで平気ですっ!!」 その返事の声に。千雪もくるりと振り返っていた。聞き覚えはある、でもやはり今ここにはいないはずの声、しかも複数。 「あ、千雪様! おはようございます〜〜〜〜っ!」 「…あ…」 ソファーの上に何やら並べながら、きゃあきゃあ言っているのは千雪とあまり年の変わらない娘たちだ。お揃いのライトブルーの制服、仕事の邪魔にならないように高く結った髪。 「そう、じゃあ…髪とメイクは先にしちゃっていいね?」 「は〜〜〜〜い!!」 「…タクミ君っ? あのっ…」 「あの、どうしてこんな所にいるの? …タクミ君も、彼女たちも…」 「…コノヤマ・シノブのお針子さんたちなんだって?」 「すごいね…若いのに、みんな職人肌で。さっきちょっと話したんだけど、みんなすげー詳しいの。驚いたなあ…」 「だからあ、そうじゃなくてっ! …私が聞きたいのは…」 ぴくっと、タクミの手が止まった。それから、ふふっと忍び笑いが漏れる。 「…タクミ君?」 「ちゆの、おーじ様に呼ばれたの、直々に。有無を言わせず」 「…え?」 タクミは千雪の髪を一房ずつ取りながら、目にも留まらない鮮やかな手さばきで綺麗に編み込んでいく。千雪の髪はさらさらふわふわの猫っ毛で、結うのがとても難しい。千雪自身はもう諦めていていつもおかっぱ頭にしている。 「あ、あの〜〜〜〜?」 「お兄さん、本当に『イズミノ』のタクミ・オオイシさんなんですか? 本物?」 「そうだよ〜〜」 「すっごーいっ!! ねえ、私たちも今度、メイクして下さいよ〜千雪様の知り合いと言うことで。ね?」 「…駄目」 「君たち、肌が荒れすぎ。不摂生してるでしょう? そんなんじゃ、いくら腕のいい俺だって綺麗にしてあげられないよ?」 「だってぇ〜、大変だったんですよ? 惣哉様ってば、突然なんですもの…私たち、1週間もお店に泊まりがけで頑張ったんですから。先生なんて、「仕上げは私にやらせて!!」なんて夢中になっちゃって、昨日もほとんど徹夜。…今朝はお疲れで起きられなかったんですから。置いて来ちゃいました〜」 「な〜に言ってるんだよ? 1週間もあればいいじゃない、俺なんか昨日の朝なんだよ? 本当だったら、今日は朝イチでスタジオ入りだったんだよ〜」 タクミは誰でも知っている日曜日の生放送のバラエティー番組と、これまた誰でも知っている大物アーティストの名前を口にした。あまりTVには出ないことで有名な歌い手、普段はアメリカのハイスクールに通っている。新しいアルバムのプロモーションで来日するらしい。 女の子たちの口から、感嘆のため息が漏れる。タクミは得意そうだ。 「俺の海外進出の足掛けになるかも知れない仕事だったんだから。なのにさ〜あの御曹司、何を考えてるんだか。『この仕事は、それよりもずっと大切な仕事だと思いますよ?』…だって、何なんだよ」 千雪は何か言おうとした。でも、今、タクミは髪を結い上げ終わって、メイクの作業に移っている。目を開けることはおろか、口を開くことも出来ない。今、自分がどうなっているのかすら、全く分からない。 「そんなこと言っても〜私たちだってねえ…」 「あのね、タクミさん。私たちは惣哉様の専属じゃないんですよ? そりゃあ、惣哉様は大切なお得意様です。でもね、他のお仕事だってちゃんとあります。でも、惣哉様からお話があったとき、ウチの先生はどうしてもやりたいって…それからは、もう信じられない地獄絵の仕事場でしたよ?」 「そうよ、先生は日中はお店のお仕事で。お店を閉めた後、デザインから入って…すごいわよねえ、職人芸よねえ…本当に」 うんうんと頷き合う声。彼女たちは今、暇らしい。おしゃべりに花を咲かせていた。 タクミの顔が自分のすぐ近くにあるのが分かる。ふうっと息がかかった。 「ちゆ、ビューラーだから…ちょっと、薄目開けて」 金属の匂い。何だかこの頃そう言うものに敏感になっている。前よりも涙もろくなった気がするし、感覚も感じやすくなってる。暑いとか、涼しいとか…あと微妙な香りとか。 タクミが緊張しているらしく、こくんこくんと何度も息を飲む。薄く開いた視界の向こう、タクミの喉が動くのが見える。 「…さて、いいかな。こんなもんかなあ…」 ふううっと、ため息。千雪はおずおずと目を開いた。自分の目の前は姿見。バスローブの上からケープをてるてる坊主のように掛けた…自分。首から上だけ綺麗になってる。とてもおかしな姿だった。 「細かい仕上げは顔映りを見てからやるからさ。うーん、どうかなあ…俺としてはまあまあかと思ってるけど…」 鏡の中の自分が。とてもむっつりしているのが分かった。不機嫌な顔、自分が自分を睨み付けてる。
コノヤマ先生のお店のみんなとタクミが話している会話。それに途中からは突っ込みを入れることもなく黙って聞いていたのは、メイク中だからというばかりではない。別に少しくらいしゃべってもいいところでも黙っていた。何か言う気力がなかったのだ。 もう分かっていた、大体の話の筋は読めた。千雪はそんなに鈍い方じゃないと思う。目覚めてから今までの記憶をひとつずつ辿れば、もう分かり切った結末が見える。いつも以上にはしゃいでいる幸、朝早くから仕事についていたお手伝いさんたち。そしていきなり現れたタクミにコノヤマ先生のお針子さんたち。今の会話。 …綺麗に飾り立てられていく自分。 自分を取り巻く空気の全て、人間の全てがウキウキとしている。とても楽しそうだ。それがとても滑稽なものに思えて仕方なかった。どういうつもりなのよ、こんなことして何になると思っているの…? 周りが浮き足立てば、それだけ自分が惨めな情けない心になっていく。悲しいというのとも違う、でも馬鹿馬鹿しいというのともやはり違う。ふるふると微妙な怒りで身体が震える。ちょっと泣きたい気分だ。
「うーん…少し、オレンジを入れようかなあ。ちょっと、目を閉じて?」 そんな千雪の心中を知ってか知らずか、タクミはさっと大きめのメイクの筆みたいなモノを取った。オレンジ色の粉をそれに付けて叩いて、手の甲で色を見ている。千雪は言われるままに瞳を閉じた。ふわりふわりと頬をくすぐる感触。羽根でなでられているみたい、くすぐったい。 「ま、こんなもんでしょ。お嬢さん方、お待たせ〜お姫様のできあがり!」 「ほら、誰もが憧れる人気ブランドの最新デザインだって。自信作にコメントをどうぞ!」 くるんと。 気を利かせて回転椅子を後ろに回してくれる。自分が窓の方に向き直ったのが感覚で分かった。閉じた瞼の裏に明るい光が感じ取れる。
目を、開けたくなかった。開けたところで、どういう顔をしたらいいのか分からない。みんなが待ち望んでいるような反応はできっこない、期待を裏切ってしまう。
千雪は、大きく深呼吸した。あまりきつくないメイクの匂いがする。 それから。 勇気を振り絞って、自分の視界を広げた。 続く(020720) |