…15…
ふわっと。 目の前に広げられたもの。 真っ白な服、真っ白な…そう、特別の…大切な日のための服。
千雪は、それが自分の目の前に現れることを予期していた。だから、分かっていたのだからこんなに驚くこともないのに…どうしちゃったんだろう? 「…あ…」 純白、と言うよりは甘いミルクの白。変わり織りの光沢のある布地で胸元から少しローウエスト気味の切り替えまで身体にぴったり沿うように作られている。共布で綺麗に作られた控えめな巻き薔薇が胸元に沿って並んでいる。 白だけで作られているのに、どうしてこんなに綺麗なんだろう。輝いているんだろう。 千雪の胸がとくとくととても速く波打っている。 「ほら、ちゆ。早く着て見せてよ?」 「…え? でもっ…」
…こんなもの、着ちゃ駄目。何考えてるのよ。
自分と、今ここにいないもう1人の人に対して、激しい憤りを覚えた。それなのに、自分の心の一番奥の部分がそれらを無視している。振り切って、自分の欲求を貫こうとする。 どうしていいのか分からずに。自分自身をもてあまして。千雪は唇を噛んだ。黙って俯いていると、ささっとお針子さんたちが千雪を取り囲む。 「タクミさんは〜邪魔です。レディーの支度に男の人はいないでください…って言うか、タクミさんははっきり言って部外者!!」 「ひっで〜〜〜、俺だって、貢献してるんだからね」 「はいはい、後で、後で」
その後、千雪は彼女たちの手で、瞬く間に様変わりしていた。ついさっきまでバスローブを着ていたのに。自分はほんの少しだけ、腕を伸ばしたり足を上げたりしただけで。鏡の向こうに映っているのは見たこともない自分だった。…いや、それが本当に自分自身であるのかさえ、千雪には自信がない。 「きゃあ〜〜〜、ぴったり!! こんなにスレンダーに身体に沿うデザインで、仮縫いもなしにここまで出来るなんて、先生はやっぱり天才だわ!」 「見てみて〜、アンダードレスの裾にまで、パールが付いてる!! 先生、これご自分でなさったんでしょ?」 お針子さんたちはもう大はしゃぎで、あっちをめくったり引っ張ったり。 でもまあ、その騒ぎも無理はない。本当に千雪の身体にぴったりに作られている。寸分の狂いもないのに、きつくもない。確かにここのお店では何枚もスーツを仕立てて貰っていた。秘書という立場上、パーティーに出席することがあるので、イブニングドレスも。でもそれには何度も繰り返して採寸やら仮縫いやらが必要だった。今回はそう言うことはない。大体、今の今までこんなものが用意されていたなんて知らなかったのだ。 ドレスの裾は千雪がまとうと身丈に余った部分が花びらのように床に広がった。信じられないくらいのレース使いなのに、着てみるととても軽い。身体全体に羽根をまとったようだ。少し動くとふわんふわんと袖がスカートが揺れる。それすらも舞う羽根の如く。 「すごいでしょ、特別なアンティークレースなんです。もう、国内の問屋さんの倉庫をひっくり返したような勢いでようやく見つけたんですよ。もうちょっとでイタリアにでも買い付けに行こうかとすら。先生、ご自分のイメージにどうしてもぴったりのものを見つけたいって。今、アトリエはレース地の巻きで山がいくつも出来てますよ」 「そうそう、お店を改装してウエディングショップにしちゃいたいくらい集めたから」 そんな声を聞いても、千雪は何も答えられない。 鏡に映っているのは…天使? それとも子供の頃、絵本で見たお姫様? 驚いた顔でこちらを見つめているのは本当に私なの? 私自身なの? 「まあまあ、千雪様。立ちっぱなしではお疲れになるでしょうから、お座り下さい。あ、浅くね…後ろの飾りが心配だから…」
陽ざしに当たったドレスがキラキラと輝いている。白、ではなくて…「金」か「銀」? …でも、紛れもなく白なのだ。ふわふわのレースの上で組んだ自分の手。タクミが綺麗にマニキュアをしてくれた。パールピンクの爪。 気が付くと、広い惣哉の部屋から人気がなくなっている。いつの間にかお針子さんたちの集団もどこかに行ってしまった。
カチャリ。 自分の左手の…奥の部屋との境のドアのレバーが動く。ごくっと唾を飲み込む。肩に力が入った。そして、次の瞬間、入ってきたその人を、千雪は思い切り睨み付けた。 「…あれえ、出来たね支度…わあ、綺麗だ!」 「どういうことなんですか…? 人をからかうのもいい加減にして下さい!!」 「ごめんね、慌てて日程を決めたから、こんな早朝の時間しか取れなくて。でも間に合って良かった。…ほら、いつも散歩で通るでしょう? 僕が子供の頃通っていた教会、あそこで8時半からだったらやってくれるって言われたから…」 「そ、惣哉さんっ!!」 「どういうことなんですか!? こんなお芝居、私が喜ぶとでも思ったんですか? いい加減にして下さい!! 馬鹿にしないで下さい…こんな、こんなことをされたって、別に私、嬉しくなんてありませんっ!!」 「…千雪?」 惣哉は千雪のドレスと同じ生地で作られたミルクホワイトのスーツを着ていた。…タキシード? 白くてもタキシードって言うのかしら、と千雪は怒りで占められた心の隅っこでちょっとだけ考えた。裾が長めの上着も、細めのシルエットも、千雪の今の格好と合わせられていると言うことくらい、子供だって分かりそうなものだ。胸のポケットにレースのチーフと共に西洋クチナシの花が香る。八重のたくさん花びらのあるもの。 「気に入らないの? とても綺麗だよ…」 「そ、そりゃ…このドレスは綺麗だと思います。とっても素敵です…でも、そう言う問題じゃないでしょう!?」 「じゃあ、どういう問題なの?」 「…どういうって…」 「私、きちんと言いましたよね? 私は惣哉さんのことなんて、好きでも何でもないって。ただ、お金持ちで楽が出来そうだから、だから利用させて頂こうと思ったって…そう申し上げたでしょう?」 「うん、確かに。そう言ったよね?」 「それに、惣哉さん、橋崎同窓会長様の朱美様とご結婚なさるって…そう仰ったじゃないですか? だったら、ど、どうして…こんな、こんな風に私をからかうような真似を…」 千雪の頭にふっとひとつの考えが浮かんだ。思わず、言葉を途中で切ってしまう。 「もしかして、仕返しですか?」 そこまで言うと、何だかだんだん自分が情けなくなってきて、視線を下げてしまった。その次の瞬間、つつっと頬を流れるものを感じた。それは千雪の手の甲に落ちて、そのままころころと珠になり、レースの坂を転げ落ちていく。 「そうだね、それも確かに言った」 「私を…私をからかって、そんなに楽しいんですか!? …ひどいです、いくら…いくら私がひどいこと申し上げたからって、こんなに大掛かりに、みんなを巻き込んで!!」 震える声がだんだん小さくなる。ころころと転がる珠が段々増えていく。せっかくの新鋭アーティストの渾身の作品も形無しだ。幾重にも頬に付いた軌跡を感じる。きっと、メイクはぐちゃぐちゃだ。もう一度、惣哉の方を向き直ったが、ぼやけた視界で余りその姿を捉えることは出来なかった。 「そ、惣哉さんが…惣哉さんが、こんなにひどい人だとは思わなかった。信じられないです、もう…嫌い、大嫌いです!!」 もう、2本の足だけでは、自分の身を支えることは出来なくなっていた。ドレスのことも省みずにカーペットの上に崩れる。千雪は両手で顔を覆ってしまった。 「…千雪?」 「そう、僕は確かに言ったよ、橋崎の朱美様と結婚するって。でも、その前にこうも言ったよね?」 「…え?」 「君が…千雪が、本当にそう望むのなら、それなら…って、そうじゃなかった?」 「千雪は、そんなこと望んでないでしょう?」 その言葉に、ハッと我に返る。千雪は大きくかぶりを振っていた。 「そんなっ、申し上げた通りですっ! 惣哉さんは朱美様とご結婚なさるべきです、今だって、そう思ってますっ!!」 「そう?」 「僕はそんな風には思わなかったけどな。あの時の千雪は瞳にたくさん涙を浮かべて、僕に訴えていたじゃない。心の中で『惣哉さん、大好き』って…」 その言葉に、千雪はぐっと詰まって何も言えなくなっていた。 「ちゃんと、聞こえたんだけどな…」 「実を言うとね、あの時まで少し千雪のことが分からなくなっていたんだ。いきなりおかしなことをたくさん言いだしたかと思ったら、子供のことを隠していたり。とうとう愛想を尽かされたのかと本気で思ったな」 …そんなじゃないです、最初から好きでも何でもなかったんですから。そう言いたかったけど、そうも行かなかった。喉の奥にへばりついた言葉が出てこない。 「僕はどんなことをしてでも千雪を手に入れたいと思ったけど、千雪の心までは自由にならないからね。もしも僕のことを君の相手として考えられないなら、それも仕方ないのかと思ったよ。でも、あの瞬間に、はっきりと分かった、千雪の言葉は本心じゃないって。千雪は…何かを隠して、自分に嘘を付いているんだってね」 「そんな…そんなこと、嘘です。私は、思ったことをそのまま申し上げただけで…何も隠してなんかいません。私は惣哉さんなんて…少しも…」 「困ります、こんなこと。惣哉さんの戯れ言に付き合っている暇なんてないんです! …もう、すぐに止めてください、周りの皆さんにも迷惑ですっ!!」 「…駄目?」 言葉ほどは緊張感のない表情。千雪の全てを包み込んでしまう瞳。こんなものに飲まれているようでは仕方ない。千雪は思った。 「嫌ですっ!! もう、すぐに止めてください! …私をこれ以上、惨めにさせないでっ…」 もう、必死だった。こぼれそうになる涙を堪えながら。溢れ出しそうになる思いを押し込めながら。差し伸べられる温かい手を振り払うのは、千雪にとって身を引きちぎられるほど辛かった。
「…そう」 柔らかい言葉を耳にして。千雪は顔を覆っていた自分の手をそっと下ろした。どこまでも湖の水面のように静かな瞳がこちらを見ている。 「あのっ…、分かって、下さったのですか?」 「…もちろん」 ぎゅっと、心臓を掴まれる気分。自分がどんな顔をしているのかも分からない。 「そう…それは、良かったです。ありがとうございます」 それでも、少しホッとしていた。自分の言うことが伝わったのだ。こんな馬鹿げたお芝居を終わりにして貰えるのだ…もしかすると、惣哉は初めから自分をからかうつもりだったのかも知れない。大掛かりなお金のかかりそうな話だが、有り余る財力を誇る東城の家の人間なら朝飯前なのかも知れない。 千雪は何とも言えない気持ちで、すっと視線をカーペットに落とした。 「…じゃあ、これを」 視界に白い封筒が入る。惣哉がそれを差し出しているのだと気付いた。 「封筒の上からでいいから…君の手で、破り捨ててくれるかな? これが…僕の気持ちだから」 「…え?」 何だろうと思い、つい、中から引き出していた。カサカサと音を立てて開く。次の瞬間、ハッと息を飲んで、傍らに立つ人を見上げていた。 惣哉はこちらを見つめて、柔らかく微笑んでいる。
区役所に提出する…婚姻届。千雪の記入する欄を残して、そのほかの全部が埋められている。…でも。
「…うそ…」
続く(020721) |