Novel Top「Simple Line」扉>チャンスは突然

Scene・2…ふたりきりの空間
春太郎Side*『チャンスは突然』

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「春さん、濡れてるよ? …大丈夫?」

 突然。頭の上に咲いた白い傘。ボタボタと雨粒が落ちる音が、耳に届く。その音をバックに、まゆちゃんの声がした。

「あ…」

 恥ずかしいくらい、声がかすれている。いつもの落ち着いた大人の俺が戻ってこない。喉の奥が震えて、言葉にならないんだ。

 

 まゆちゃんが、待ち合わせの場所にいなくて。もうどうしようかと思った。取引先に行って持参するはずだった資料を忘れたとしても、ここまでは慌てなかったと思う。仕事上のトラブルなら、回避する方法をたくさん知っている。それに、もしも大失敗してしまっても、また新規開拓をすればいいんだ。

 だけど――まゆちゃんは、この世にひとりしかいないから。

 いつの間にか、俺の中で。彼女の存在がとても大きくなっていた。あ、いや。断じて言うが、まゆちゃんはそんなばばんと目立つ様なタイプではない。近頃の女の子にしては言葉遣いも丁寧で、いつもにこにこと笑顔を絶やさずに、大人しやかだ。服装も派手ではないのに、さりげなく流行を取り入れている。
 くるくるんと風に舞うウェーブ。広がりすぎず、でもふんわりした綿毛のような髪の毛。俺はでかい方だから、大抵の人間は見下ろしてしまうのだが、もちろん標準的な女の子体型の彼女は潰してしまいそうにちっちゃくて。それなのに彼女の周りにはふわふわとした光りの輪が飛んでいるのだ。

 そして何より…俺を見つめる夢のような瞳。

「私は、春さんが大好き」

 淡いきらめきが、そんな風に俺の中で脳内変換してしまう。いいのか、こんなで。許されるのか、本当に。

 本当だったら、どんなにいいだろう。まゆちゃんが俺のことをそんな風に思ってくれたら。何度も何度も…気が遠くなるくらい自問自答した。彼女の真意はどこにあるのか。

 

「春さん、大丈夫? スーツ、濡れちゃう。…それ、新しいんでしょう?」

 ――はっ!? そ、そうだったっ! 俺はまゆちゃんのその言葉で一気に我に返った。慌てて肩を見ると、雨の粒がびっちり。夏用のスーツではあるが、もちろんドライクリーニングだ。と、言うことは…要するに水には弱いと言うことでっ!!

 わわわ、そうだった。そうじゃないかっ…、どどど、どうしようっ!

「はい、とりあえずこれで拭いて」
 俺が慌てていると、まゆちゃんはさっとハンカチを出してくれた。淡い色合いの綺麗な花柄で、ぴちっとアイロンがかかっている。

「あ…、ありがとう」
 まずいな、こんな風に慌てたところを見せたら格好悪いじゃないか。だが、冷静を装いながらも、心臓はばくばくだった。

 

 だって、このスーツは夏のボーナスで新調したばかりの一枚だったのだが…普通のスーツではないのだ。男の戦闘服とも言えるスーツではあるが、近頃では量販店で安いものがたくさん出ている。普通はそう言うので間に合わせていた。ただ、これはきちんとデパートに行って採寸したオーダーもの。俺にとってはそこまでするのは、入社の時以来だった。

 何故なら。もしかして、この先に人生の大きな山場が待っているかも知れないとか思ったのだ。

 そ、そうだろっ、…もしかして、まゆちゃんのご両親とかにお目に掛かりに行くことになったりしたら。その時に慌てないように、一張羅を新調したのだ。あまり流行を追いすぎない、でも柔らかい色合いの隙がないように見えそうな…気がするだけか? だけどな、いつものスーツの5倍もしたんだから、絶対に違っているはずだ。

 ま、まずいぞっ! 大舞台に出る前に水玉模様が出来てしまったら。昨晩、仕上がってきたばかりのコレを試着して鏡の前に立ったら、何だか男前になった気がした。やはり一番先にまゆちゃんにこの姿を見せたい。そう思ってしまった。天気予報くらい確認すれば良かったのに、その時はもう俺をうっとりと見つめるまゆちゃんの瞳以外思い浮かばなくなっていたのだ。

 

「あのっ…、春さん?」
 まゆちゃんは、片手で俺に傘を差し掛けながら、おずおずと申し訳なさそうに言った。

「ごめんなさい、…あのっ、私が待たせちゃったから」

 うわわわわっ…、泣き出しそうな顔でそんなこと言うなよっ! 違うんだっ、そんなじゃないんだ。俺が慌てているのは、君のせいなんかじゃない。冷静になれ、冷静に。でもっ、もう今日はこれ以上このスーツでいない方がいいかも知れないな。きちんとハンガーに掛けて、かたちを整えて手入れして、しっかり乾かさないと――。

「あ、あのっ…。まゆちゃんっ、大丈夫だよ。大丈夫だからっ…」

 

 どんどん雨足が強くなる。こんなところで押し問答していても埒があかない。大丈夫だと口では言ってみたが、やはりスーツの具合も気になる。女物の折りたたみ傘ではふたりを雨から守るには心許ない。着替えなくちゃ、どうにかして。そうか…、着替えればいいのか。

 

「あの〜、まゆちゃん。食事に行く前に、ちょっとアパートに寄ってもいいかな?」

 いや、ほんと。濡れたスーツをどうにかしたかっただけ。だからこそ、すんなりとそんな言葉が口から出ていた。

 

…**…***…**…


 とは言うものの。

 俺は自分がどんなに大変なことを言ってしまったのか、あとになって思い知った。

 

「ゆっくりで、どうぞ? 私、ここで待ってるから」

 どうにか鍵を開けて、俺が玄関で靴を脱ぐと、まゆちゃんが背中から声をかけてきた。慌てて振り向くと、白い傘をきちんと閉じて、靴を履いたまま静かに微笑んでいる。ただですら、20センチ近い身長差。玄関の段差でふたりの距離はさらに広がる。夕方の部屋の中は何だか薄暗い。俺は慌てて、電気のスイッチに手を伸ばした。

「あ、あれ。まゆちゃんも、濡れてるじゃないか。ちょっと、上がって。あのっ、…今タオルをっ」
 部屋が明るくなって初めて気付いた。まゆちゃんの服にも、たくさんの雨粒が付いている。そうか、俺が濡れないように傘を差しかけていたからだ。

「いいよ、大丈夫。春さん、早く着替えて…」

 彼女はそう言うが、どうして聞き入れることが出来る? そりゃ、スーツも大事だったが、まゆちゃんの方がずっと大切だ。もしも、風邪なんてひいちゃったら、どうするんだ。高熱を出して苦しむ彼女なんて可哀想で想像するのも嫌だぞ。
 リビングを横切ると、そのまま寝室にしている奥の部屋に入る。ええと、タオル、タオルっ…どうしてなんだ、バスタオルしかないぞっ!

「と、とりあえず、コレで拭いてて。ああ、そんなところに立ってないで、ドア閉めて上がりなよっ…!」

 ばたん。雨風の吹き込んでくるドアを閉めた。ほぼ、無意識に。

 その瞬間に。俺たちは外界から閉ざされたふたりきりの空間に入り込んでいた。

 

…**…***…**…


 ヤバイっ…、どうしようっ!

 リビングと寝室の間にあるふすまをぴっちり閉めて、上着を脱ぐ。ついでにネクタイも外す。このネクタイだって、スーツに合わせた新品だ。他のものに着替えるなら、色を合わせてまた違うものを締めなければ。

 気にしないようにしていても、鼓動がどんどん激しくなる。胸板を打ち付ける、痛いほどの振動。

 このふすまの向こうには、まゆちゃんがいるんだっ…! ふたりっきりなんだぞっ、俺の部屋に。ドアしめちゃったぞ、密室だぞ。

 どうしよう、これはっ。千載一遇のチャンスって奴かっ!? 俺っ…、どうしよう。無意識だったんだけど、もしかして計算尽くだと思われちゃうかな。下心見え見えのいやらしい奴だと思われてないだろうか。

 ふすまが閉まってるのに。それなのに、リビングにいる彼女の姿が透けて見えてくるようだ。超能力だろうか。夏だから布団を外してある家具調こたつのテーブル。その前にちょこんと座っている小さな背中。たしか、それほど部屋は汚れていないと思う。このごろの俺はきれい好きだ。――いや、そう言う訳じゃっ。いつでも彼女を連れ込めるようにとか…違う違う、断じて違うんだっ!

 

 …あれ?

 ぜいぜいと、肩で大きく呼吸する。ふと気付いた。まゆちゃんを部屋に上げたというのにお茶も入れないで、俺って何て気が利かないんだ。ああ、情けないぞ。

「あのー、まゆちゃん。冷蔵庫の中に――…」

 ふすまを開けて、そう言いかけた時。ばちん、と彼女と目があった。と、次の瞬間。

 

「…きっ、きゃあっ!?」

 突然。まゆちゃんが今まで聞いたことがないような叫び声を上げて、顔を背けた。くるくるの髪の毛の掛かった頬が真っ赤に染まっている。

 え…、えっ!? ど、どうしたと言うんだっ!

「まゆちゃん…?」

 何なんだ、いきなり。まさか、俺からヨコシマなオーラが…って…!?

「うわっ! …ご、ごめんっ! 悪いっ!!」

 今度は俺の方が慌てて、ふすまの影に隠れていた。うわわ、やべーっ! 俺、スラックス脱いでたよ。ほとんど無意識に。そりゃ、ワイシャツは着たままだったから、丸見えじゃない。でも…下着、しっかり見えただろうなぁ。そりゃ、着替えてるんだから当たり前の格好だとは言え、いきなり出て行ったら普通、驚くよ。

「ま、ままま…待って。す、すぐに着替えるからっ!」

 今日の俺は格好悪いぞ。まゆちゃんの前では、今まで最高にいい男を演じていたつもりだ。あの、ドラマとかに出てくる、カッコイイ隙のない役どころの。ほら、渡哲也とか、神田正輝とかだったら、ちょっと情けない役をやっても格好いいじゃないか。そ、そう、ダンディーとか言うんだ。

 いっ、いい男になるんだ。それで、まゆちゃんに…まゆちゃんに、素敵だなとか思って貰うんだ。もうちょっとなんだから、俺、頑張ってるんだから。

 自分で自分に言い聞かせる。でも、もう情けなくて泣けてくる。

 

「あのっ…、春さん?」

 ふすまの向こう。ことんと、音がして。すぐそこで声がする。今、この部屋には俺と彼女しかいない。と言うことは、俺に話しかけてくれるのは、まゆちゃんだけだ。

「ご、ごめんなさいっ。あのっ…、私。お姉ちゃんしかいないから、そのっ…いきなりだからびっくりしてごめんなさいっ!」
 ふすま越し。震える声がする。消えそうに、申し訳なさそうに…ああ、やっぱり、まゆちゃんだ。ぎりぎりいっぱいなのに、必死で頑張ってくれる。

「おっ、俺もっ…その、妹がいるし、何だか当たり前みたいになってて、ごめんっ。ちょっと待っていて、早く支度するからっ…!」

 ああ、食い違うなあ。情けないったらない。俺は慌てて、手にしたスーツを着込んだ。

 

…**…***…**…


「お待たせ」

 どうにか体裁を整え、ついでに呼吸も整えて、彼女の待つリビングに戻ってきた。

 俺のアパートは2LDKで玄関を入ると廊下づたいにキッチンとか水回りがあって、その奥に二部屋ある。本当は家族用なんだろう。隣近所からは子供の声がする。俺は風呂が好きで、追い炊きの出来るバスタブがいいと思った。そうしたら、ここしかいい物件がなかったのだ。

「あ、いえ。…じゃあ、出かける?」
 まゆちゃんは、ぱっと顔を上げる。それから不思議そうに俺の顔をのぞき込んだ。

「春さん…あの、どこか具合が悪い? 何だか顔が赤いよ、無理しないで。今日はもう休む? …私、帰ろうか?」

「…え? えええっ、そんなことないよっ」
 な、何を言い出すんだっ。大丈夫だよ。これからまゆちゃんと楽しいひとときを過ごすんじゃないか、ひとりで帰らせるなんてそんな。おいしい食事をして、でもって、今日こそは勇気を出して話を…、あれ?

 まゆちゃんの手元。テーブルの上に旅行雑誌が開いてある。ああっ、俺が何冊も買いあさった奴っ…、何だろうとか思ったかな? 気付かれたかなあ…。

 

 ――と、ととっ!?

 

 うわっ、待てっ! 雑誌の山の中に、マニュアル本がっ! そう、あの情けなくも買わずにはいられないマニュアル本っ!! 「本命のあのコを口説く33条」とか「忘れられない夜にする、完全マニュアル」とか恥ずかしい見出しのてんこ盛りのっ!? ひゃあっ…、見た? 見られた? …見てないっ?

「まっ、まゆちゃ――っ…」

 

 ぐらっ。

 そして、お約束の光景。慌てて雑誌の山に飛びかかったつもりだったが、どうしてか勢い余って、こともあろうに彼女の上に覆い被さっていた。いきなり正面からのしかかられて焦ったのだろう、まゆちゃんは座った姿勢から仰向けに倒れてしまった。

 

 うわっ…、すげっ! これ、どうよ?

 俺は彼女の身体の両脇に置いた手のひらが、汗ばんでくるのを感じていた。ちょっと動かしたら、カーペットを爪がかいて、じりじりと音がする。こっちは四つんばいで、ちゃんと腕をまっすぐに伸ばしている。ふたりの間には十分な空間が保たれていた。…でも、だけど。これって、どうにでもなるぞ。

「ご、ごめんっ…!」

 もう、謝ってるんなら、さっさとどけとか言われそうな感じだ。そうしたいのは山々だけど、気持ちとは裏腹に身体が動いてくれない。怯える瞳が、こちらを見つめてる。大好きなまゆちゃんが、今にも泣き出しそうな顔をする。何か、言おうとしても、唇が震えてるだけだ。

 

 しーん…と、あまりに静かな時間が流れていく。ああ、馬鹿馬鹿。こう言う時は前もって、ムーディな音楽でもかけておけば良かった。甘い調べに乗せて、自然にそう言う感じになれるのに。

 

「…起きられる?」
 沈黙を破ったのは俺の方だった。何て意気地なしなんだろう、男らしくない。大好きな女の子を目の前にして、こんな風にうろたえてるなんて。もっとばばーんと行けないものか。

 何でもない振りをして、でも心の中では自分に思い切り絶望しながら、俺は元の通りに体を起こして座り直した。ついでにテーブルの上の雑誌はひとまとめに重ねる。良かった、背表紙のない装丁で。まゆちゃんが、自分ひとりの力でよいしょと起きあがってる。短めのスカートの裾を直して、髪を整えて。恥ずかしそうに俯いたままバッグを手にした。

「ごめんなさいっ、…今日の私、何だかおかしいね。どうしちゃったんだろ…」
 頬に手を当てて、火照りを冷ましているみたいだ。

 ようやく標準値に戻ったと思っていた心拍数が、またぎゅんと跳ね上がる。ああ、駄目っ、駄目だよっ! もう、仕草のひとつひとつにときめいてしまう。まゆちゃんが、可愛くて可愛くて…もう、食べちゃいたいくらいって、こう言うことを言うんだろうな。爪に塗られたピンクパールの輝きが、俺の胸をくすぐる。

「まっ…、まゆちゃんっ…!」

 駄目だ、もう限界だっ! 俺は立ち上がりかけた彼女を強引に引き戻し、自分の胸に抱きしめていた。

 

 ザーッと外で風と雨の音がする。またちょっと、雨足が強くなったのかな? 今までは張りつめた緊張感で、外の天候のことも忘れていた。

 

 …うわ、あったかい。

 もう、どうしようという感じ。俺の腕の中にすっぽりと収まったまゆちゃんは、想像していた以上に小さくて頼りなくて。こんな風に抱きしめたら、ようやく「俺のもの」って気がする。別にまゆちゃんはモノじゃないし、誰かの所有物と言うわけでもないんだけど…。

 もっともっと、ぬくもりを近くに感じたいと、回した腕に力を込めた。そして気付く。…カタカタと小さく震えている彼女の身体が、美術室の石膏像のように硬直していた。

 

 こ、これは、どういうことなんだろうか。もしかして、すごく嫌がっているんだろうか…? そうなの? どうなんだよ〜、まゆちゃんっ! 黙ったまんまじゃ、全然分からないぞっ!?

 

 遠くに聞こえる雨の音。近くに聞こえるのは、俺の呼吸と、まゆちゃんの鼓動。

 このまま、どうしよう。そりゃ、知ってる、段取りは。ああして、こうして、こうなって。でも、そんなことをしていいものか。いや、それをせずに俺は済ませられるのか。こんなになってるんだぞ、もうまたとない好条件。まだ、日が暮れてすぐだから時間はたっぷりあるし、自宅通勤の彼女だって、その後に余裕で家に戻れる。何をためらってるんだ、鴇田春太郎・25歳っ!!!

 

「まゆちゃん…」
 腕を緩めて、彼女の顔をのぞき見る。俯いたままだから、手のひらを添えて、ぐっと上向かせて。

 涙のこぼれそうな瞳が、揺れながらこちらを見る。何を考えているんだろう、彼女の目に俺はどんな風に映っているんだろう…?

 緊張して、何も言えなくなっている唇に、そっとキスした。あまり最初からディープなのはまずいだろうなと、触れるだけのソフトな奴。でも、それだけで甘い香りが俺の鼻をくすぐって、胸がぎゅーっと締め付けられた。

 柔らかいよ〜、でもって、何だかとても新鮮な味がする。心ゆくまで味わいたいような、でも一気にそれをするのはもったいないような、何とも形容のしがたい感じ。

 かくん、と。手のひらに感じていた緊張感がふっと途切れた。何て言うんだろう、抵抗がなくなった、と言う感じだろうか? まるで自分の意志でそうするように、彼女の身体が俺の胸に倒れ込んできた。

 ――こっ、これはっ…!? 同意、と見ていいのだろうか。オッケーだと言うことなんだろうか。

 何か言ってくれよ、まゆちゃん。黙っていたら分からないじゃないか。いいのか、襲っちゃうぞ? 何も言わないとそのまま承諾と見なしちゃうぞ。

 

 この期に及んで、まだためらっている俺。普段から控えめな女の子に、積極性を望んでも無駄なのに。今まで付き合ってきた女たちとは全然タイプが違うから、戸惑ってしまう。ここは…そうだ、きちんと自分の気持ちを伝えよう。出来心じゃないって、分かってくれればいいんだから。

 強く抱きしめたら壊れてしまいそうな身体、感じる手のひらに少し力を込めて。俺は自分の心臓の音を聞きながら、一気に言った。

「ま、まゆちゃん…! あのっ、好きだよっ! 俺、まゆちゃんのことが、大好きなんだっ! …あのっ…!」

 

 しーーーーーーーーー…ん…。

 

 何だ? この沈黙は。耳に届くのは雨の音ばかり。まゆちゃん、まるで呼吸まで止めてしまったみたいに、うんともすんとも言わない。そりゃあ、驚いているのは分かるけど、何かひとことくらい言えないか?

 あ、いや。あまり短気なのは良くないぞ。

 ちら、と時計を見た。…秒針がぐるりと回転する。一周…二周、三周。ちょっと待て、いくら何でも待たせすぎだぞ!? 何か言えよっ! …言ってくれよっ!!

 

 沈黙はその後も続いて、とうとう5分が経過した。アポイントなしで訪れた先で「しばらくお待ち下さい」と言われたら、5分を目安にする。それ以上待たされるなら、さっさと席を立つ。いつまでも粘っているしつこい営業だと思われたら逆効果なんだ。

 好きだよって…一応、コレ、告白のつもりだったんだけど。

 もしかして、返事がないのって、その気がないってこと? 今のこういう状況も、実はすっごく嫌だったりする? まゆちゃんにとって、俺は尊敬出来る先輩であって、でも恋愛の対象ではなかったのだろうか。

 舞い上がっていたのは…俺の方だけ?

 どどどど、と空しさが押し寄せてくる。何してんだろう、俺。ひとりで舞い上がったりして。相手にとっては迷惑以外の何者でもなかったのに。これ、イメージダウンだろうな、呆れられただろうな。その気のない奴に迫られたら、はっきり言って気色悪いよな。

 

 ――どうしよう、俺。

 勝手に盛り上がっていた自分が馬鹿みたいだ。まゆちゃんの気持ちも考えないで、ひとりで突っ走っていたんだから。軽蔑されたよな…そうだよな。

 もう…二度と会って貰えないかも知れないな。

 

 ちくしょうっ! 自分が情けないぞっ!! でもっ…ここでヤケを起こしたら、それこそ惨めになる。俺は一度大きく深呼吸した。それからゆっくりと彼女を解放すると、静かに立ち上がった。そして、目を合わせないように後ろを向く。目指すのは玄関。

「食事、…行こうか?」

 まゆちゃんが立ち上がる気配はなかったけど、そのままずんずん歩いて、玄関まで行くと靴を履く。最後まで、いい男でいよう。泣き言なんて言って、彼女を困らせたらいけない。

 ドアに手をかける。…本当に、こんな風に早まるんじゃなかった。もっと、彼女の気持ちをちゃんと考えて、確認してから階段を上がるべきだったんだ。

 

 …と。自分の馬鹿さ加減に打ちのめされている俺の背後から、ぱたぱたと足音がした。

「はっ…春さんっ!!」

 振り向こうとした瞬間に、背中がふんわりとあたたかくなる。ハッと気付くと、彼女の腕が胸のところに回っている。後ろから抱きつかれたんだと、気付いた。身体が硬直する。

 

 ごくっと、息を飲んで次の言葉を待った。でも、待っても待っても彼女は何も言わない。俺の名前を呼んだきり、黙ってしまった。

 

 何なんだ? …何なんだよーっ!?

  俺が訳分からなくなっていると、まゆちゃんは手探りで俺の手を見つけて、それを両手できゅうううっと包んだ。俺の右手とまゆちゃんの両手は同じくらいだ。柔らかくて、しっとりしたぬくもりが、しっかりと吸い付いている。それだけで、十分なくらい彼女の想いが伝わってきた。指先がじんとして、そこから嬉しさがこみ上げてくる。

 

 ゆっくり、ゆっくり行こう。それでいいじゃないか。まゆちゃんのペースに合わせなくちゃ。いきなり親密にならなくたっていいんだ。こんな風に、少しずつお互いを感じていけば。

 どうして、靴を履いちゃったんだろ。もうちょっと、ふたりきりでいたかったよなぁ。これでまた上に上がったら、馬鹿みたいだし。もう…段取りが悪いんだよな。

 

「…行こうか?」

 深呼吸して、それから短く確認する。まゆちゃんが、こくんと頷いたんだろう。俺の背中に、こつんと額を当てた。




…おわり…(031016)

 

 

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