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Scene・2…ふたりきりの空間
真雪Side*『未知との遭遇』

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 うわわわわわわわっ〜〜〜〜〜っ!!!

 どうしようっ! どうしよう、どうしよう、どうしようっ〜〜〜〜っ!!!

 頭の中はもうパニック状態。にっちもさっちもいかない感じ。どんどん体温が上昇して行くみたいだ。だって、だって、…どうしようっ!! 気がついたら、私、春さんのアパートにいるんだよ。ひとり暮らしなんだよ、ふたりしかいないんだよっ、完全密室だよ〜〜〜〜っ!!!

 

…**…***…**…


 いきなりだった。待ち合わせの場所に、少し遅れて辿り着いた。

 そしたら、春さんが…降り始めた雨の中、傘も差さずに座り込んでいる。どうしよう、声をかけた方がいいだろうか。でも足が動かない。春さんが困った顔して、携帯を見て。それから、待ち合わせ場所の噴水の周りをぐるんと回って。それからさっきと同じ場所に戻ってきて、また座って。

 私、物陰から見てるだけだった。ごめんね、ごめんね、春さん。私、どうしよう。どんな顔して、出て行ったらいい? このまま見ていたら、いつか怒って戻っちゃうかな? そうだよね、ビジネスマンの基本は時間に正確なこと。長い時間待たせたら、申し訳ない。

 

 大好きが、胸から飛び出してきそう。すごく危ない感じ。このまま、立ち上がった春さんの前に立ったら、抱きついてしまいそう。

「私は、春さんが好き。とっても好き」

 そう言って、きゅううっとしがみついちゃう。好きだから、離したくないの、ずっと一緒にいたいの。春さんが、私のいないこと、ちょっとでも心配してくれたならそれでいい。そばにいさせて、春さんの一番近くに行かせて。

 

 …いやだ、そんなことしたら、それこそ呆れられちゃうじゃないの。少女漫画的にはオッケーのシチュエーションも、当たり前のオフィス街ではやっていけないの。ああっ、私の馬鹿馬鹿馬鹿っ!!!

 し、深呼吸だ、吸って吐いて、吸って吐いて、吸って吐いて。…いいわ、だんだん落ち着いてきた。そして私は、ようやく春さんの前に歩き出したのだ。

 

…**…***…**…


「あの〜、まゆちゃん。食事に行く前に、ちょっとアパートに寄ってもいいかな?」

 しばらくのやり取りのあと、春さんはまっすぐな声でそう言った。すっきりした笑顔付きで。私もホッとする。だって、春さんの新しいスーツにいっぱい水滴がくっついてる。ある程度防水加工は施されているみたい。でも、やっぱり早く手入れした方がいいもん。いつもは冷静な春さんもやっぱり焦ってるみたい。そうだよね、大切なスーツだもん。

 

 春さんのスーツがただものではないと言うこと、見れば分かるよ。遠目に見ても仕立てが違う。どんな服でもおしゃれに着こなす春さんだけど、こんな風に質のいいスーツを着れば、さらにカッコイイ。もうクラクラ来ちゃうくらい。だって、ロッカールームで女の子たちが噂してたよ「今日の鴇田さん、ひときわ素敵」だって。内心わくわくしてたのよね、どんななんだろうって。

 こんな素敵なスーツをわざわざ雨の日に着てくるなんて、きっと今日はとても大事な仕事があったんだな。外回りで大切な取引先とのやり取りがあったのかな? それとも、社長に直々に呼ばれて…なんて言うのがあったりしてっ!! いやだ、いろいろ想像しちゃうじゃない。どの春さんもとっても素敵っ!

 本当、こうして並んでいるとまだ信じられない。私が、春さんの隣にいていいんだろうか。そりゃ、一週間に一度、こうしてきちんとお誘いが来る。ふたりで楽しく食事をして、たまに川べりなんか歩きながら、ちょっとおしゃべりしたりして。

 春さんの仕事の話ははっきり言って最初はちんぷんかんぷんだった。分からない単語だらけ。でも、たくさん調べたもん、だいぶ詳しくなったよ。でも、いつも緊張しちゃう。もしかしたら、見当違いの質問をしたりしてないかな? 春さんが気持ちよく話が出来るようにちゃんと気遣ってあげられてるかな? …相づちを打つところは間違えてないだろうか。


 …そんな素敵な春さんなんだけど。どうしてなんだろ、タクシーに乗り込んだ頃から、ちょっと元気がなくなった。無口になった春さんをちらっと横目で追う。あんまりじろじろ見たら、良くないだろうけど。もしかして、雨に打たれて風邪でも…? そうだったらどうしよう。心なしか、目も充血してるみたいだし。ああ、どうしよう、私のせいだ。私がなかなか出て行かなかったから…っ!

 雨粒のたくさん付いた窓から外を見ながら、私は申し訳ない気持ちで押し潰されそうだった。


 そして、春さんは。アパートの自分の部屋の前まで来て、キーを出したところで。一度、それを下に落としたんだ。

 もう、びっくりしたよ〜。春さんに限ってそんなドジなこと、するわけないのに。ああ、やっぱり体調不良なんだ。これって、私がおいとました方がいいんだろうな。そりゃ、ひとり暮らしの春さんが具合が悪いんだったら、お世話したいけど…いきなりそんなことしたら、迷惑になっちゃうだろうし。

「あの、春さん…」

 ――って、何度も言いかけたんだけど。どうしても上手く言えないの。今日は、もういいから、ゆっくり休んでって……言わなくちゃいけないのに、言えない。

 

 ここで、我慢しちゃったら。また一週間、春さんに会えなくなる。私、本当は毎日だって会いたいのに、声が聞きたいのに。朝から晩まで一緒にいたいくらいなのに。それなのに、会えないんだもん。会いたいって言えないんだもん、恥ずかしくて。

 やっと、やっと、会えたのに。これを逃したら、また、長い長い時間が私と春さんを隔ててしまう。そんなの嫌。ちょっとでもいいから、一緒にいたい。

 

「あ、あれ。まゆちゃんも、濡れてるじゃないか。ちょっと、上がって。あのっ、…今タオルをっ」

 もちろん、お玄関先で待つつもりでいた。そしたら、部屋の電気を付けて振り返った春さんがびっくりして声を上げる。ああん、いいのに。そんなこと心配しないでっ! 私は大丈夫だから、春さんは早く着替えてっ!!

 そう思うのに、春さんは慌てて奥の部屋に飛び込むと、大きなバスタオルを持ってきてくれた。

「…コレで拭いてて。ああ、そんなところに立ってないで、ドア閉めて上がりなよ」

 どこまでもスマートな身のこなしで、春さんがドアを閉める。ばたん、と音がして。私たちは密室に閉じこめられていた。

 

…**…***…**…


 春さんが、奥の部屋にさっさと行ってしまって。私はリビングにしているんだろうなと思われる部屋にひとり取り残された。春さんが、手渡してくれたバスタオル。それをそっと握りしめて、せっかくだから髪の濡れたのを拭こうかな…とか思って、顔に近づけた。

 ――うきゃあっ!!

 思わず、心臓が飛び上がった。だって、…だって、だって。このタオル、春さんの匂いがするっ!! タバコを吸わない春さん。彼の匂いは整髪料のつーんとした匂いだ。ちょっとミント系。ヘア・ムースとかワックスとかそのたぐいだろうな。しつこくない程度の香りが、ほのかに匂ってくる。それだけで、もうクラクラだった。

 あああ、もしかして。これって洗濯したてじゃないとか? …一度くらい、使ったかも知れないとか? 春さんが…あの、そのっ…、お風呂上がりに濡れた身体を拭いたりとか、ええと、その濡れた身体って、もちろん…裸で…。

 ――きゃああああああっ!! どうしよう、私って、変態!? とても女らしくない想像してないかしら、今。やだっ! 春さんは好意で貸してくれたのに、どうしてそんなえっちなことを考えちゃうのっ!?

 ああん、私の馬鹿馬鹿馬鹿っ!!!

 知らないうちに、またも体温は急上昇。顔は真っ赤になっちゃうし、もうどうにかしてよ。はあっ、…ええと、どうにか気を紛らわそうっ!!

 

 見ると。

 テーブルの上に無造作に積み重ねられた雑誌がある。…何だろ、と覗くと…「秋のペンション情報〜紅葉を訪ねて」「コスモス街道・秋の旅」――へええ、また同期会でどこか行くのかな? いいなあ、もしかして持ち回りの幹事さんとかやってるのかな、春さん。

 別に私が見ても支障はないだろうと、一番上の雑誌をめくってみる。真っ青な空、一面に広がるコスモスの畑。向こうには海が見えて。真ん中には真っ白な壁の煉瓦屋根の可愛い建物が建っている。すごい、イギリスの片田舎のようだわ。
 いいなあ、…こんなところに行きたいな。住所を確認したら、日帰りは無理でも一泊なら余裕の場所。なら、週末に行けるじゃない。…そうよ、週末に。

 

 ぼぼん、とその時、また想像してしまった。

 広々としたコスモスの花畑を眺める春さんと私。うっとり…って、それ、お泊まり旅行ってことっ!? やだ〜、私ってば、何て大胆なことを考えてるのっ!! もう、今日の私、相当変だわっ。こんな気持ちでいること、春さんに気付かれたら、きっと呆れられちゃうっ!!

 

 ――ああ、もう。雑誌はやめるっ!!

 そうだ、喉が渇いたな…春さんもお茶の一杯くらい飲みたいなとか思っているかも知れない。いれてあげようかな…、でもいきなりお台所を使ったりしたら、図々しい女だと思われるかな。

 少し、身を乗り出して。カウンタ越しに向こうにあるお台所を見る。ああ、結構広そう。あっちにテーブル置いてご飯も食べられそうだな。だって、ここのアパートって何だか、ファミリー向けなんだもん。春さんがひとりで住むにはちょっと広すぎ。このリビングだって、本当はふたつに分かれるんじゃないかな? こんなに大きな家具調こたつを置いても、まだ広々してる。角部屋だし、最高だな。

 そうよ、これなら。結婚しても住めるよね。新婚さんで…子供が小さなうちなら、余裕だよ。へえ、そうかあ、何だか素敵だな。

 ぺたん、と、ほっぺをテーブルに押し当てた。こうしてると、ちょっとは火照りがひいてくるみたい。もう気がつくと、顔が赤くなってるんだもん。どうしたんだろうな、何をこんなに緊張してるんだろ。

 ――あ、テーブル。ちょっと埃が積もってる。窓の桟も、少し。

 そうだよね、春さん男の人だもん、それにしては綺麗にしてあるなと思ったけど、それでも細かいところがちょっと汚れてるかも。でも、その方がいいや、だって、春さんがきちんとひとりで暮らしてるって、分かるもん。これで光り輝くほど、完ぺきにお掃除されていたら、男のひとり暮らしじゃないわ。

 

 もしも。…あ、想像だよ、もしも、だからね。

 もしも、私が春さんのお嫁さんになったら。そしたら、春さんがお仕事に行っている間、頑張ってお掃除しよう。気持ちいい空気を部屋にいっぱいに入れて、春さんが住みやすい素敵な場所にするんだ。

 朝はどんなに眠くても、春さんよりも早く起きて、きちんと朝ご飯を作る。…ええと、何にしようかな? トーストとスクランブルエッグと、ボイルウインナーとブロッコリーと…コーンスープ? いや、待てよ。やっぱり日本の朝ご飯は和食かな。ホカホカの炊きたてご飯に、ワカメとお豆腐のおみそ汁。鮭の焼いたのに、ノリに生卵に、キュウリの浅漬けに…そうだ、作り置きでひじきの煮付けとかいいかも。お手製のイカの塩辛とかもいいな。きゃ〜、何だか嬉しくなってきた。

 そして私は。朝ご飯をテーブルの上に綺麗に並べて、それからエプロンを外して春さんを起こしに行く。

「春さん、朝ですよ〜」

 …あ、違うか。この場合は「新婚さん」なんだから、そんなのナシね。

「あなた、朝ですよ…」

 きゃあ、そうよ。ちょっと甘えた声を出しちゃったりして。ああん、いいなあ、うっとり。そしてそして。そうすると、ベッドの上で春さんが眠そうに寝返りを打って、ごろんとこちらに向き直るの。ちょっと寝癖の付いた髪の毛、それを見られるのも奥さんの特権よね。

「ああ、おはよう、まゆちゃん」

 …これも、違うわ。そうよ、夫婦なんだから、そんなよそよそしい言い方やめてよね。やっぱり、ここは男らしく決めて貰おう…。

「ああ、おはよう、真雪」

 ふふふ、いいなあ。真雪、だって。本当に、新婚さんっぽいじゃない? 寝起きの春さんの声はちょっとかすれていてセクシーなの。んで、むっくりと起きあがって…。それで、それでっ…!?

 ――ここはやっぱり、…そうよねえ。おはようのキスをするのね。

 …って、どうするのっ!! いやん、ちょっと待ってっ!! 春さんとキスっ!? そんなのまだしたことないのにっ! キスなんて、高校の頃に付き合ってた先輩としたっきりで…えええ、どうしようっ!!

 

 ううう、心臓が痛い。苦しいよっ…どうしたらいいんだろ、私。おかしいよ〜、早く春さんが着替えてくれないと、どんどんおかしな想像ばかりしちゃう。春さん、助けてっ〜〜〜っ!!!

 

…**…***…**…


 その時。まるで、私の心の叫びを聞きつけたかのように、春さんがふすまを開けた。

「あのー、まゆちゃん。冷蔵庫の中に――…」

 ホッとして、振り向いたら。目の前にあったのは…その、あのっ!? すね毛のしっかりと生えている春さんの生足だった。


 思わず、大声で叫んじゃったから、春さんもびっくりしてすぐに引っ込んじゃった。私はすぐに、ものすごい後悔の念に押し潰されそうになった。

 ああん、どうしてよ、そんなの、当たり前じゃないの。男の人が着替えてるんだから、足ぐらい出すわよ。だいたい、水着にでもなったら、足は全部見えちゃうのよっ!? それなのに…あんな風に。私、もしかして、すごい失礼だった? カマトト振るのもいい加減しろ、とか言う? でもぉ…、びっくりしたんだもん、本当だもんっ!!

 

 静まりかえった空間が、何とも居心地が悪い。春さん、気を悪くしたかな? いきなり叫んだりして、やな奴だとか思ったかな? …どうしよう、嫌われちゃったら。

 すすす、とふすまに近づいて。どうにかして、言い訳しなくちゃと必死で声をかけた。

「あのっ…、春さん?」

 ふすまの向こう。こちらを振り向いた様な気配がする。そんなの見えるはずないのに、春さんがこっちを見てる気がする。

「ご、ごめんなさいっ。あのっ…、私。お姉ちゃんしかいないから、そのっ…いきなりだからびっくりしてごめんなさいっ!」

 ――もう、ほんと。なんと言って謝ったらいいのやら。あまりに情けなくて、取り繕うことも出来なかった。ただ、ただ、心の中で「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返して。それで、必死で説明した。お願い、嫌いにならないで。私、春さんのことが大好きなの。ごめんなさい、ちょっとびっくりしたの、それだけなのっ…!!

「俺も妹がいるし、何だか当たり前みたいになってて、ごめん」

 ふすまの向こうから、ほんの少しだけうわずった声がした。でも、どうにか伝わったみたいで、ホッとする。ううん、春さんは優しいから、もしかしたら失礼な奴だと思いながら、はっきり言えないのかな、そうなのかな…?

 ううう、どうしよう……。

 すぐに着替えるから、と言う春さんの言葉を信じて、私は緊張しすぎてガチガチになっている身体を持て余していた。

 

…**…***…**…


「お待たせ」

 そう言って、春さんが落ち着いた笑みを浮かべて出てきて、本当にホッとした。ああ、いつもの春さんだ。いきなり生足が出ていたり、寝起きで寝癖が付いて、ついでにパジャマの前がはだけていたりしない、普通の春さん。良かった〜、これで私はこの苦しみから解放されるのね。

 春さんは、私のこと、話をよく聞いてくれる後輩だって思ってくれているのに。それなのに、ひとりで暴走しちゃって、ほんとに見苦しい。そりゃ、春さんとはステディーな仲になりたいよ。でもっ…そんなに上手く行くわけないでしょ?

 

 少しずつ、少しずつ。積み重ねてきたふたりの時間。それを壊したくない。

 私、春さんの好みのタイプになりたいって、色々研究したし、自分らしくない態度を取ったりした。そう言うのって、姑息だと思われそうだけど、出来るだけ好印象でいたかったんだ。そうすれば、いつか春さんが私を特別の存在だって見てくれるかも知れない…。

 

 ふっと、顔を上げて春さんを見た。…あれ、やっぱ、少し変。

「春さん…あの、どこか具合が悪い? 何だか顔が赤いよ、無理しないで。今日はもう休む? …私、帰ろうか?」

 ああ、駄目。やっぱり、無理はさせられない。今夜、ゆっくり寝て、明日に備えて。企業戦士の春さんにはたっぷりの休息が必要よ。風邪なんてこじらせたら大変。もしも、寝込むなら、もうちょっと私と仲良くなって、看病に来られるようになってからにしてっ…! ――というのは我が儘か。

 それなのに。そんなことないって、無理に微笑んでくれた。もう、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。それから。私がさっき覗いていた雑誌に目がいって、そしたら春さんの顔色がにわかに変わった。

 ――え、ええ…っ!? 見ちゃ、まずかったの? どうして? …人の部屋のものを勝手に覗いたりしたら良くなかった? …あっ、あのっ…。


 …がばっ!!!

 いきなり視界がひっくり返った。しばらくの間、一体自分がどうしたのか分からなくて。何が何でどうなっているのかと必死で思いを巡らして…そしたら。そしたら、目の前に、春さんの顔があった。

「ご、ごめんっ…!」

 その声を聞いて、ようやく自分の置かれている状況に気付く。雑誌を手にしようと、身を乗り出した春さん。はずみで私が後ろにひっくり返ったから、その勢いで一緒になって倒れ込んじゃったんだ。

 

 きゃああああっっ!! ごめんなさいっ…!! でもっ、でも…、これって、すごい状況なんですけどっ!?

 

 春さん、動かない。それくらいびっくりしたんだろう。いきなり、きわどい体勢になって、驚きのあまりすぐには動けないみたい。そうだよなあ、普通びっくりするよな…だって、これって、まるで襲われてるみたいだよ?

 春さん、その気もないのに、危ない状況にされちゃって、慌ててるんだ。――何だか…、すごい、申し訳ない。

 私が、ぐらついたりするから、春さんも倒れちゃったんだし。こんな状況で、実は少し期待していたりする自分がすごく嫌だった。

 男の人なんだし、春さん。こう言うときって、そんなに乗り気じゃなくても、いきなりそう言う感じになったりするんじゃないかな? ほら、やっぱ、こういうのって勢いじゃない? あまり好きでもない子でも、何となくそう言う気になっちゃうコトってあるらしいよ。お酒の席で、同僚の男の子が話してるの、聞いたことある。

 

 ――もしも…、もしもだよ? 

 春さんが、急にそう言う気になって、それで一線を越えるようなことがあれば、そしたら私は今日から恋人!? …だよなあ、勢いだって何だって、身体の関係が出来ちゃえば、真面目な春さんのことだ、真剣に考えてくれるかも…知れない。

 …これって、これって…、チャンスっ!?

 

 そう思った途端、はたと気付いた。

 …ちょっと待ってっ! 今日はどんな下着を付けていたかしら? 確か、通販の安売りで買ったのだったわ。それも何度も洗濯して、ちょっとくたびれているかも。…それを、春さんに見られるの!? どんなに表面を取り繕っていても、下着はぼろを着てるって、そんなの情けないっ!!

 買ってあったんだよっ、勝負下着。ちゃんとワコールの、でもおしゃれな奴なんだ。もちろん、ショーツもセットで。胸のかたちを綺麗に見せる特殊ワイヤーを使ってあるもので、でもそんなふうには見えなくて。小花模様のレェスがすごく可愛い、ベビーピンク。もうね、「可愛い・食べちゃいたい」を絵に描いたような。

 …は、初めては、あの下着が良かったな…。でも、ここで躊躇したら、もうこんなチャンスは二度とないかなっ…。覚悟、決めた方がいい……? でもぉ…。

 

 口惜しくて、やるせなくて。春さんを見つめた。春さんも私を見てた。そして、ふっとちょっと困った見たに笑うと、すっと身を引いた。私の上にあった、春さんという障害物が綺麗に取り除かれてしまう。

「…起きられる?」

 ああ、――おしまいか。どうしたらいいのか分からなくて焦っているうちに、春さんの方が正気に戻ってしまった。

 でも、あの状態でどう言えば良かったの? まさか、私の方から「…抱いて」とか言ったらヤバイでしょ? 春さんが襲いかかってくれるの、待つしかなかったんだよ。男の人の上手な誘い方なんて、知らないんだから。自慢じゃないけど、初めてなんだからっ!!

 春さんが私と目を合わせないように体勢を整えてる。だから、私も仕方なく、よっこらしょと起きあがった。そしたら、初めてめくれ上がったスカートに気付いて、それも恥ずかしくて慌てて直した。

「ごめんなさいっ、…今日の私、何だかおかしいね。どうしちゃったんだろ…」

 

 今更、何を取り繕ってるの? 最低だよ、私。

 ひとりで、勝手に盛り上がったりして、春さんの気も知らないで。…そうよ、ふたりっきりで部屋にいても、そんな気持ちの全然起こらないような、そんな存在だったんだよ、私。春さんにとっては、それだけだったんだよ。

 

 じっとしてると、本当に涙が溢れてきそう。よろよろと、立ち上がりかけた時、異変が起こった。

 春さんの手が、いきなり私の片腕を掴んで。そしたら、そのままぐいっと引っ張られた。


 …うそ、と思う間もなくて。そのまま、春さんの胸に飛び込んでしまった。

 

 ザーッと外で風と雨の音がする。空まで私の気持ちと連動しているのかな? 今までは張りつめた緊張感で、外の天候のことも忘れていた。

 

 ど、どうしたの? 春さんっ!? いきなり、どうしちゃったの…!?

 突然のことに、私は気持ちの収拾が付かない状態。心臓はもう急発進でばくばく鳴り出して、胸を突き抜けて出てきそうだった。

 でもっ…、あったかい。春さんに包まれてる。怖いくらい幸せって、こんなコトを言うのかも知れない。春さんに抱きしめられたら、もうそれだけで溶けちゃいそうなくらい幸せになれる。そう信じていた。今の私は、自分が溶け出さないのがすごく不思議だ。

 どうしたら、…どうしたら、この状況が長く続くだろう。春さんの腕にすっぽりと入り込む私になれるのだろう…? 幸せすぎて、もうなんにも考えられない。ただ、ぼんやりとしていた。


「まゆちゃん…」
 春さんが腕を緩めて、私の顔をのぞき見る。俯いたままだったから、手のひらを添えて、ぐっと上向かせて。

 どうしたの? と、聞く暇もなかった。そのまま春さんの顔がどんどん近づいてきて――…。

 ……きゃ。

 くっついちゃった。唇と唇。いきなり、もう、そのまんまのキス。どうしたの、春さんっ! いきなり密室の魔法に掛かったの? どうなっちゃったの、どうなるの? どうしたらいいの、これから。

 唇が外れた瞬間、私は身体中の力が抜けて、春さんの胸に倒れ込んでいた。


 ――どうしよ、これから。

 このまま、じっとしていたら、春さんがどうにかしてくれるのかな? もしかして、お姫様抱っこして、ベッドまで? そんなっ、…いきなりそうなるの? あのっ、シャワーとか浴びなくていいのかなっ。でも、そんなことを聞くのもおかしいし。

 ……どうしよう、ほんと。

 頭の中ではごちゃごちゃと思いを巡らすのに、身体は全然動かない。もう硬直して、春さんに身を委ねている状態。主体性のない奴だと思われるかな? でもっ…どうしていいのか、全然分からないんだもん。

 春さんの腕に力がこもる。本当に背骨がぴきぴきと言うほどの力で、ぎゅうううっと抱きしめられた。

「まゆちゃん…! 好きだよ! 俺、まゆちゃんのことが、大好きなんだ! …あのっ…!」

 

 ――え? ええええっ!?

 どうしちゃったの? 春さん…。もしかして、私の気持ちがくっついていたら、うつっちゃった? 今の春さんは私と同じ気持ちになっちゃったのかしら…?

 

 突然の、告白。そりゃ、嬉しかった。でもっ…、何て答えたらいいんだろう。それに、春さん? 「…あのっ…!」って、続きがあるんだよね? どうして、そこで切るの? 最後まで言ってよ。

 しばらく待ってみたけど、春さんは黙ったまま。どうしよう、これって、私も答えるの? でも…こんなに静かな空間で、外の雨音まで遠く聞こえるのに、どうやってなんと言えばいいの…?

 もちろん、私だって。春さんが、大好き。すごく好き。…でも、それを、どうやって伝えたらいいの? 緊張しすぎて、この状態じゃ、きちんと舌も動かない。声がうわずってしまいそう。


 …と。

 春さんが、ひとつ深呼吸して。それから、元通りに腕を解いた。そして、私と目を合わせないまま、すっと立ち上がって後ろを向く。

「食事、…行こうか?」

 まるで、今までのことが夢だったみたいに、そんな風にあっけなく元に戻ってしまった。


 …どうしよう、どうしよう。

 今日の私、自分の中で考えをこねくり回しているばっかりだ。全然、素直じゃない。

 だって、どんなふうにしたら、春さんにこの想いが上手に伝わるか分からないんだもん。春さんと、ずっと一緒にいたいって。好きだよって言ってくれたの、すごく嬉しかったって。どうやって伝えたらいいの。

 やだ、そんな風にさっさと靴を履かないで。もしかして、早く、出て行こうって思ってる? ここの空気がおかしいの? 密室の魔法が掛かってるから!?

 ――今、言わなかったら。もう駄目になっちゃうの?

 

「はっ…春さんっ!!」

 夢中で、それほど長くない廊下を駆け抜けて、ドアのノブに手をかけた春さんにきゅううっとしがみついた。でも…その続きの言葉が出てこない。春さんも、固まったままぴくりともしない。

 

 声が出ないの、どうしたらいいの!? でもね、この気持ちは本当なのっ!! 嘘じゃないのっ…!

 

 ぎゅうぎゅうと手を伸ばして、腕が回りきらないほどの身体の向こう側で、ようやく春さんの手のひらが見つかった。そしたら、やっとホッとして。それから、想いの全てを込めて、両手で握りしめた。

 ――お願い、春さん、気付いて。私が、どんなに春さんのことを好きなのか、気付いてよっ…!


「…行こうか?」

 そう言って、振り向いた春さんの目が、優しい色をしてた。泣きたくなるくらい嬉しくて、もう何て言ったらいいのか分からない。

 金魚みたいに、口をぱくぱくして。情けないくらい、動揺してる私。玄関の段差が、ふたりの目線を合わせてくれる。心が、同じ高さになる。その時――。

 …くぅ。

 えっ…、えええっ…!? 思わず、真っ赤になって春さんの顔を見た。

 やだ、笑ってる。聞こえたんだ、おなかの虫の声。だって…、おなか空いてるんだもん。今日は中華のフルコースだって言われたから、お昼も軽くしてスタンバっていたんだもんっ。

 

 真っ赤になって、下を向いたら。くすくす笑いが頭の上に落ちてくる。春さんの香りがふっと近づいて、またふんわりと幸せに気が遠くなる。

 そして、雨の音を聞きながら。私たちは二度目のキスをした。




…おわり…(031022)

 

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