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Scene・3…会えない時間
春太郎Side*『涙のKiss』

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 さあ、どうしよう。

 外回りからの帰り道、カーッと照りつける真夏の日差しを浴びながら、俺はひとり物思いに耽っていた。

 まあ、そこは都会のビジネスマン。こんな状況でもスーツをパリッと着こなして、涼しげにしている。背筋もしゃんと伸ばして。そうだ、どこで誰に会うかも知れない。何より同じ社内にまゆちゃんがいるんだ。ちょっとそこまでと、お使いに出てくるかも知れないじゃないか。

 まゆちゃんの前では、特別に格好いい男でいたいんだ。だって、まゆちゃんと来たら、もうもう可愛くて、あのうるうるといつでもちょっと潤んで見える瞳で見上げてくるんだ、俺のこと。

 ――私は、春さんが大好き。

 そうそうそう! そうなんだよな〜っ! あの眼差しで見つめられたら、もう頑張っちゃいます。キムタクにだって負けないぞ。だいたいあいつはずるいぞ、シズカと結婚して娘がふたりもいるくせに、あんなに決まっていて。

 ……と、思考がだいぶそれてしまったので、修正。

 実は明日は1週間ぶりのデートだ。そう、あのトキメキの……ちょっとやりすぎて彼女を驚かせてしまったアクシデントから1週間。長かったよな〜滅茶苦茶。こんなに待ち遠しく感じたのは、小学校の遠足の前以来だ。

 もちろん、あの後は普通に食事をして、別れた。間違っても「お持ち帰り」とかしてないからな。ここは努めて紳士になった。いきなり豹変したりしたら、それこそまゆちゃんがびっくりして逃げてしまうかも知れないじゃないか。ああ、今まで積み重ねた苦悩の日々。一気に突っ走りたいのに必死で堪えたあの辛さ。それもこれも、彼女に俺のことを認めて貰いたい一心だったんだから。

 一瞬の油断で今までの苦労が水の泡になる、というのはビジネスに置いても心に留めておかなくてはならない注意点だ。もうちょっと、のところで気が抜けると大変なことになる。

 

 あの日、部屋に戻って。

 ドアを開けたときに何だか様子が違って見えた。いつもと同じテーブルの付近が妙に甘い香りがする。さすがに彼女が座っていた座布団を匂うのは変態だからやめたが、どこにもかしこにもまゆちゃんの気配がする。ああ、この部屋に彼女がいたんだ、数時間前。そう思うと胸がいっぱいになる。

 ――だが、いつまでもそんな妄想に耽っている俺じゃない。もう頭の中は次のデートのことでいっぱいだ。とにかくは買いあさった雑誌を広げて「彼女のときめくデートスポット」の記事を貪り読む。

 今までの彼女はみんな積極的で「今度はあそこに行きたい」「あのレストランのディナーがいい」とあれこれ要求してきた。うるさいなと思ったけど、こっちは忙しいし、そんな細かなセッティングなんてやってられない。そう思って言われるままに流されてきた。

 けどさあ、違うんだよな、まゆちゃんは。

 そりゃあ、こちらが「どこに行きたい?」「何が食べたい?」と訊ねれば、答えてくれる。すっごく控えめに真っ赤になって。そんな仕草を見ているだけで分かる。この子はきっと職場でも与えられた仕事を丁寧に一生懸命こなしているんだろうな。俺の期待に応えようと必死になってる彼女を見ていると本当に愛おしくなっちゃって、もう「とびきりのシチュエーションで喜ばせてやりたいな」って、気持ちになる。

 夏なら涼しいところがいいだろうな。海の傍とか。そう言うところだったら、食事の後にふたりで港のあたりをぶらぶら歩くのもいいなあ。涼しい風が吹いて、彼女の柔らかい髪が揺れて。ああ、ちょっと乱れてるよと直してあげる振りをして、抱き寄せちゃったりして――。

 

 うわわわわわっ……! どうして、いきなりそうなるんだ。何て野蛮な俺、嫌になるなあもう。

 

 ――ああ、でも待てよ。もしものことがある。

 頼んだワインが口当たりが良くてつい過ごしてしまった彼女。「何だか、ふらふらして歩けない」とか言い出さないとも限らない。そんなときに、ほら、そうだ。「じゃあ、ちょっと休んでいこうか?」とか何とか言うことになったらどうしよう。そこで慌てたら、おしゃれじゃないぞ。あくまでもスマートにこなさなければ。

 ぱらぱらぱら。

 あったぞ、プチホテルの特集。おお、内装までカラー写真で出てるじゃないか。色んな雰囲気のところがあるんだな〜。今まではどこに入ったってやることは同じなんだからいいかと思っていたが、今回は違うぞ。どんな場所だったら、まゆちゃんは喜んでくれるだろうかとか考えてしまう。……あ、単に休むだけだとしても、だな。

 やっぱなぁ、格好いい系よりは可愛い系だろうな。ヨーロピアンなアンティークのイメージも彼女に似合いそうだ。ああ、このピンクの上品な内装いいなあ。あまりゴテゴテしていないところが二重丸だ。ふりふりのカーテンとかだと「いかにも」で恥ずかしいし。

 

 ――待てよ。

 そこまで考えて、俺ははたと気づいた。

 それからずっと、正確には5日間も悩み続けている。よっぽど、同僚や後輩に訊ねてみようと思ったが、それもどうかと思うし。ああ、困った、どうしよう。

 

『若い女の子としては、男の下着は何を付けていて欲しいものなんだろうか』

 

 ……あ、今、笑っただろ。笑ったな。笑うな! こっちは本気で悩んでいるんだからな!

 告白するが、俺は子供の頃からトランクス派だ。小学校の頃からだぞ。当時はなかなか流行の先端を行っていて、クラスではちょっとしたブームになってしまった。一度身に付けると、もう二度と白いブリーフに戻ろうなんて思えない。大人になった気分だった。

 だが、世の中は日々進歩する。何か妙にぴたっとしたブリーフがあるなと思っていたら、それは「ボクサータイプ」と呼ばれるものだと判明した。あの、競泳用の水着のような奴。どうもそれが巷では流行っているらしい。そう言えば、ジムの更衣室でもよく見かけるな。

 女性は下着にこだわると言うが、男だって負けてない。それに……普段見せ合うものじゃないが故、気になるじゃないか。まゆちゃんとしては、俺にどんな風でいて欲しいのだろう。せっかくムードを盛り上げても「あ、お父さんと同じ柄」とか思われたら、一気に冷めてしまう。ああ、困ったどうしよう。

 

 ――ボクサーか、トランクスか。

 そんなことを考えつつ、エレベーターに乗る。5階フロアで降りると、ばったり先輩と出くわした。

「あ、鴇田。さっきから部長がお前を探してるぞ?」

 

…**…***…**…


 そして、あっという間に、彼女との距離は550キロ。

 何てことだ、いきなりの出張を言い渡されてしまった。それも2日や3日じゃない、少なくとも半月かかる。下手したらひと月かも。

 

 まあ、仕事なんだから仕方ない。と言うかこれはチャンスだ。また実績を認められれば、出世も早くなるかも知れない。そうすれば……きっとまた。

「春さん、すごいね。おめでとう」

 とか、まゆちゃんが喜んでくれる。もしかしたら「お祝いに」と、すごいものをプレゼントしてくれるかも知れないじゃないか。え? すごいものって何だって? ……そりゃあさ、今の俺が一番欲しいものだよ。それ以上言わせないでくれ。

 それに550キロが何だって言うんだ。

 今は文明の利器があるんだぞ。どこへかけたって電話代が変わらない、いつでも連絡が取り合えるという魔法の道具が。そう思って、自分を慰めつつ、そしてぎゅうぎゅうと後ろ髪を引かれながら新幹線に乗った。どうして同じことなら週明けまで待ってくれないんだ。まゆちゃんと別れを惜しみたかったのに。

 

 ――だが、この「携帯電話」。仕事上なら便利なものなのだが、プライベートとなると途端に融通が利かなくなる気がする。もちろん、彼女と連絡が取りたい。でも……いつかけていいのか分からない。

 ハッと気づくと夜中になっている。同じ開発チームに所属する人たちと夕食がてら飲んでいると、ホテルの部屋に戻るのが11時を回ってしまうこともしばしばだ。そうなると、色々考えてしまって諦めてしまう。

 まゆちゃんからは、定期的にメールが届く。携帯のメールってとにかく短くて、それが何通かに分かれてずらずらっと届いたりする。

「春さん、おはよう」「今日はいい天気ですね」「お仕事頑張ってね」

 ああ! 何て可愛いんだろう。とぼけたフォントの隙間から、彼女の優しさが溢れてきそうだ。もう、朝からにやけてしまう。誰かに見られたら、とても恥ずかしい光景だ。

 だがしかし。

 受け取るのはいいのだが、返信が一苦労である。情けないのであまり公にしてないが、実は俺は携帯のメールがとても苦手なのである。何故って、普通のパソコンのようなキー操作ができなくて、とにかくまどろっこしい。「おはよう」のひと文を打つだけでも、だらだらと汗が流れてしまうんだ。

 だから、心の中で「まゆちゃん、おはよう」「今日の気分はどんなかな」「これから出勤か、気を付けて」……などと呟きながら、「こっちは曇ってますよ」と打ち込む。ああ、心ごと添付して送ってしまいたいくらいだ。何てもどかしいんだろう。

「春さん、おやすみなさい」と言うメールに「おやすみ」とひとこと返信する。手のひらにすっぽり収まるちっぽけな機械だけが俺たちを繋いでいる。早く、本物のまゆちゃんに会いたい。

 

 それでも最初のうちは頑張って直接話をしようと、何度も何度もかけてみた。

 でもこれがなかなか繋がらない。そしてこちらが諦めて飲み会の席に戻った後で、まゆちゃんからの着信があったりするのだ。それに気づく頃はもう真夜中で。すれ違いばかりを続けていた。それでも懲りずにかけていたんだけど。

 そしたら……8コール目で「もしもし」と受け取ったまゆちゃんの声がエコーがかかって聞こえる。どうしたんだろうと思っていたら、彼女は恥ずかしそうに言った。

「あのね……今、お風呂に入ってるの。タイミングが悪いのかな、春さんからの連絡があるのっていつもお風呂に入ってるときなんだもん。時間をいくらずらしてもそうだから諦めて、脱衣室に携帯を持って来ちゃった。今、じーっと耳をすましながら待っていたの」

 ――ええっ!? ええええええっ!!!

 ようやく声が聞けた嬉しさよりも、上回る妄想映像の方が心を独占してしまう。何だって、お風呂って……それじゃあ、まゆちゃん!? 今って、もしかしてバスタオル一枚とか? ええっ、そりゃ、今は真夏だし、湯冷めする心配もないけどさ。でもっ、でも。きっと洗い髪にタオルなんて巻いちゃって、それで肌はピンク色に色づいて、そこに雫が落ちて……うわっ、うわわわわわっ……!!!

「ごっ、ごめんっ! ごめん、ごめんっ! あの、またかけるから。どうぞ、ごゆっくりっ!」

 もう、それ以来。連絡を取ろうと携帯を手にした途端に、妄想映像が再生されるようになってしまった。誰か助けてくれ、俺は一体どうしたんだろう。ごめん、まゆちゃん。とんでもない姿を勝手に想像して。動悸・息切れ・肩こり・頭痛……こんな状態でかけたら、変態電話になってしまいそうだ。そんなの絶対に嫌だ。まゆちゃんの前では格好良くありたいんだから。

 

…**…***…**…


 週末。そんな感じで悶々としているところに追い打ちが掛かる。

 一緒にこっちに来ていた上司が「週末は家族をこっちに呼んだから、USJに行くんだ」とか言いだした。おいおい、それを早く言ってくれよ。ああ、どうして気が付かなかったんだろう。出張が長引くって分かっていたんだから、それなら彼女をこっちに呼べば良かったんだ。

 俺の馬鹿馬鹿っ! 本当に抜けてるよな〜っ!

 まゆちゃんに「泊まりがけで出ておいでよ」って言えば、それはもう、そうだろう。何もコスモスの咲き乱れる季節まで待つことはなかったんだ。今までの彼女とは長期の出張中にそんなに会いたいと思わなかった。どっちかというと相手の方が押せ押せだったしな。うるさく付きまとわれて辟易していたりして、逆に離れられるのが嬉しいとか思っていたんだ。

 でもっ、まゆちゃんには会いたいんだ。もう、バスタイムの妄想が頭から離れないくらい、せっぱ詰まっている。仕事はあとまだ1週間以上掛かる。と言うか、まだ出張してきてから1週間しか過ぎてない。こんなに長い7日間は初めてだ。

 

「あれ……?」

 週末はゆっくりと疲れを取りながら仕事をまとめようと思っていたから、予定は断っていた。ひとりのホテルでぽつんとしていると携帯が鳴る。見慣れないナンバー。一瞬、まゆちゃんかと思ったからがっかりする。仕事かも知れないと、一応、受信した。

「あ、もしもし。春太郎くん!? 私、覚えてる? 美保よ、小村美保っ! こっちに来てるんだって? 昼間、東くんが会ったって聞いてさ。今ねえ、みんなで集まってるの、春太郎くんもお出でよ〜っ!」

 賑やかな音がバックに流れている。どこかの居酒屋らしい。もうその時点でかなりろれつが回っていない様子だったが、学生時代のゼミの仲間でこっちで就職している奴らが集まって飲んでると言う。寂しさを紛らわすには思い出に浸るのもいいかな……とか思ったのが運のつき。

 45分後の俺は、大変なショックを受ける羽目になった。

 

…**…***…**…


「まっ、まゆちゃんっ! ……まゆちゃんっ!?」

 いきなり途切れた会話。受話器の向こうの彼女はうんともすんとも言わない。と言うかもう通話が切れていた。俺は呆然と携帯を握りしめる。何なんだ、一体何が起こったんだ。

 

 まゆちゃん、驚いてた。声が震えていたもんな。そりゃそうだよ、いきなり俺に電話して、後ろから女の声がしたんだから。

 まあ、それは事実で。でも、美保はただの大学の仲間で――と、説明したかったのに、いきなり切るんだから。最初はちょっとムッとした。まゆちゃんともあろう子が、何てことをするんだ。こっちの言い分も聞かないで、いきなり切るな。

 

 ――だけど。腹が立ったのは一瞬だけ。自分の立場に置き換えて考えたら、すぐに分かるだろう。

 もしも……もしも、俺がまゆちゃんに連絡して、そこにいきなり知らない男がいたら、何かと思うぞ。絶対にとんでもなく悪い想像をしちまうぞ。それと同じなんだ、今のまゆちゃんは。

 ……それに、それに。何か、最初の声からして、ちょっと沈んでいた。もしかして、ずっと俺に会えなくて、彼女も寂しかったのかも知れない。寂しくて寂しくて、電話してきてくれたのに、何てことしてしまったのだろう。でも、いくら掛けても「電波の届かない場所にいるか、電源を切ってます」と言われてしまう。

 ああっ、まゆちゃん! なあっ、出てくれよ! 話をさせてくれっ!!

「なぁに、してるのよ〜っ! こっちに来て、一緒に飲もうよ。どうせまた、たちの悪い女にでもつけ回されているんでしょ? 春太郎くんは。いっつもそうだったもんね、困った人ねえ……」

 困った奴は、お前だろうがっ! と叫びたくなる。そりゃ、美保は酔っていたし、他の仲間だってわいわい言っていたし、別に誰が悪いと言うわけではないんだ。ひいていえば、悪いのは俺。俺がちゃんとまゆちゃんにマメに連絡を入れなかったから。

 女なんて、こっちが追い払ったってくっついてくる。だから、振り払う方法は色々考えたけど、大切にするやり方は知らなかった。25年の俺の人生ってなんだろう、きっとこんな俺を知ったら、まゆちゃんはどんなに幻滅するだろう。彼女が思い描く「春さん」に少しでも近づきたくて頑張ってきた。でも……でもっ、大変なんだよ、まゆちゃん。俺だって、慣れないことをしてるんだから。

 

 諦めちゃいけないのは知ってる。まゆちゃんをしっかりと手に入れるまで、努力は惜しんじゃいけないんだ。そうなんだ。

「大学の時の仲間で飲んでました。あれはただの友達です」

 考えて考えて考えて。

 でも結局はそうやって事実を伝えるしかなかった。まゆちゃんの目の前に美保を引っ張っていって、きちんと言い訳させればいいのか? そんなことをしても何にもならない。逆に疑われると思う。

 

 だから――月曜日の朝、まゆちゃんから「春さん、おはよう。この前はごめんね」ってメールが届いたときは、本当に嬉しかった。朝の着替えの最中だったけど、実は少しだけ泣けてきたくらい。

 俺の大切なまゆちゃんは、きっと信じて待っていてくれる。だから、もう、馬車馬のように働いて、必死になって頑張って、一日でも早く彼女の元に戻るんだ。そしたら、もう離さないぞ。この気持ちをちゃんと伝えるんだ。

 

 カーテンを開ける。今日も暑くなりそうだ。だけど、俺も熱いぞ、エンジン全開だ。俺は、とびきりの想いを込めて「まゆちゃん、おはよう」と返信した。

 

…**…***…**…


「ごっ、ごめんっ〜! どっ、どうしようっ……、鴇田ぁ〜〜〜っ!」

 どうして、土曜日になるたびに色々と事件が起こるんだろう。

 元々が涙もろい奴であるし、未だに宮崎アニメを観ては泣いているという小塚だから仕方ないと思いつつも、開口一番の涙声には辟易した。でも、次の瞬間、くつろいでいた身体に緊張が走る。

 

「まゆちゃん」「矢上」――俺の中でふたつの名前が浮かび上がった。そりゃ、同じ会社の社員同士である。でも、彼らには直接の面識はないはずだし、だいたいこのふたりは俺の中で一番遠い場所に位置している。はっきり言えば、もっとも好ましい人間ともっとも好ましくない人間だ。

 矢上がセッティングした合コンに、彼とまゆちゃんだけが現れない。しかも、連絡先として必要だからと奴はまゆちゃんの携帯ナンバーを聞き出していた。これだけの条件がそろって、いくら人のいい小塚であっても不安になったらしい。俺に内緒で話を進めたことを詫びながら、泣きじゃくっている。

 ――矢上が、まゆちゃんを連れ出した。

 確かに、今、奴はフリーだ。彼女がいるという噂は聞かない。だが、今まで同じフロアで仕事をしてきて、奴がまゆちゃんの様な子を好きになるとはどうしても思えない。いや、好きになって欲しくないと言う俺の勝手な言い分かも知れないけど。

 奴が、まゆちゃんに近づこうとした理由――それには多分、俺の存在が関わっていると悟った。

 

 矢上との確執は入社当初からあったことだ。

 奴の方が、誰が見てもランクの上の大学を出ていて、しかもストレート。同期入社の中で、一番期待されていたのか彼だった。そして、彼もそれを自分で良く認識していたような気がする。「俺は特別なんだから」というオーラを絶えず感じていた。

 そんな奴が、一番気にくわないと思っていたのが、俺の存在だと思う。

 だけど、ここは真に受けては駄目だと知っていた。いくらあっちがけしかけてきたって、仕事をきちんとするかしないか、会社の中ではそのことだけが重視される。いかに上司に取り入っても、結局は実力の世界なんだから。自分の出した企画がことごとく却下され、箸にも棒にもかからないと言われて落胆する彼を見ても、同情の気持ちすら浮かばなかった。

 ――努力する人間が、報われるのだ。いくら頑張ったって、結果を出さなくちゃ誰も認めてくれない。こんなに努力したのに、と愚痴を言う前にもっと努力したらいいのに。周囲の人間が、見えないところで必死に頑張っているのをどうして気づかないんだ。

 呑みに行った先で、俺のことを悪く言いふらしているのも知っていた。でも、気にしなかった。誰にも相談もしなかった。黙っていたって、やることさえやっていれば、きっと認めて貰える。そう信じていたから。そう信じて頑張って、今の自分がいるのだから。間違っても、あんな風な人間の仲間にはなりたくない。

 同期の小塚も、俺が何も言わないから知らなかったのだ。もちろん、まゆちゃんだって。彼女には、俺の裏側を見せたくなかった。矢上のことを話せば、たくさんの裏事情をくっつけて説明しなくてはならない。そんな風にして彼女の中の俺のイメージが変わってしまうのは口惜しかった。いつでも「格好いい隙のない春さん」でいたかったんだ。

 そんな……そんな、思い上がった気持ちが、もしも裏目に出たとしたら。取り返しの付かないことになってしまったとしたら……!

 

 だいたい、合コンって何だよ。

 どうしてまゆちゃんを誘うんだ。そりゃ、矢上の差し金だろうけど、滅茶苦茶に腹が立った。俺とまゆちゃんが付き合っていることはだいぶ知れ渡っているはずだ。それみよがしにするのが嫌だったから黙っていたけど、本当はみんなに言いふらしたくて仕方ない気持ちだったんだから。それに……もともとふたりの橋渡しをしてくれた小塚が、どうしてこんなことを。

 ――そして、どうして。まゆちゃんが、そんな話を受けるんだ。ひとこと相談してくれれば良かったのに。何故、そうしてくれなかったんだよ。

「……っ、くそぅ……!」

 

 俺は携帯をふたつ所持している。ひとつは会社から渡されたもの、そしてもうひとつはプライベート用のものだ。

 仕事で使用した電話料金は負担してくれるとの気遣いから支給されているものだが、今回は仕方ない。後で始末書を書くのを覚悟して、そちらの電話で矢上に連絡を取りまくった。

 もちろん、奴が電話口に出ることはない。一緒に呑みに行ったこともないし、奴が行きそうな所なんて分からない。一応、小塚も俺も、同期の仲間のところに連絡したが、埒があかなかった。だれも奴の行き先を知らない。

 

 プライベート用の携帯の方はずっとまゆちゃんに。

 ああ、どうして繋がらないんだ。まさか、電波の届かないような危険な場所にいるんだろうか。携帯を家に忘れたとか、そんなオチはないんだろうな。そうだったら、どんなにいいか。

 

 無駄に時間ばかりが過ぎていく。両手の親指の感覚がだんだんなくなってきた。

 もう、駄目かも知れない。俺は……どうして、まゆちゃんを守れないんだろう。まゆちゃんをこんなに大切に思っているのに。誰よりも何よりも大事にしたいのに。もっと、彼女に連絡を取れば良かった。携帯メールなんかで満足しないで、もっともっと、頻繁に連絡を取り合って、彼女のことを確認していれば良かったのに。

 後悔ばかりが、頭の中で渦を巻く。ああっ、まゆちゃん……! 俺はどうしたらいいんだ。こんなに離れていたら、君に何かあっても助けに行けないじゃないか。すぐに飛んでいきたい、まゆちゃんの元に……!!

 灯りを落としたままのホテルの部屋。窓の外の夜景がちらちらと滲む。

 携帯の表面に、ぽたりと雫が落ちた。信じられない、泣き虫なのは小塚じゃなかったのか。自分が情けなくて情けなくて、もう俺は気が狂いそうだ。大声で叫びたかった。そして、その声が、まゆちゃんにまで届けばいい。どこにいても、誰といても分かってくれ。

 

 ――俺はまゆちゃんのことが、まゆちゃんのことだけが、大好きなんだよっ!

 

 ……ぴくっと、携帯が一瞬震えた。慌てて、右手の方を見る。ちかちかっと青白い点滅。そして……。

「はっ……春さんっ……!」

 その言葉が耳に届く前に、俺は何かを叫んだと思う。でも、自分が一体何を言ったのかも分からなかった。ただ、聞こえてくる声、まゆちゃんの声っ……!

「春さんっ、春さんっ、……春さん……っ!」

 音声が揺れている。何故かは分からないけど、彼女は走っているのだ。走りながら、それでも俺の名前を呼んでいる。繰り返し繰り返し呼んでいる。その声が、だんだん震えて遠くなる。

 

 やがて。賑やかな通りの音が耳に飛び込んできた。彼女は必死で息を整えている。激しい息づかい、でもその中に少しだけ安堵の心が見える気がして、俺は身体中の力が抜けていくのを感じた。

「春っ……さぁん……!」

 彼女が俺の名前を呼びながら泣いている。きっと、どこかの店の壁にもたれて。涙を拭いながら、それでも後から後から流れていくものに手の甲を濡らして。

 

 気が付いたときには、俺の方もぼろぼろになっていた。

 普通は袖口を使うんだろうけど、半袖じゃあ埒があかない。仕方ないからワイシャツの裾を引き出して、ごしごしと顔を拭った。呼吸が乱れる、こんな風に泣いていることを彼女には悟られたくない。

 ……でもっ、大丈夫なのだろうか。もしも、何かあったのだとしたら、俺はどうしたらいいのだろう。彼女を守れなかった俺に、もう傍にいる資格なんてないんじゃないだろうか。

 

 彼女が落ち着くのを待って、俺は手短に事の次第を話した。

 どうして俺が彼女の携帯に連絡していたか、小塚がいち早く気づいてくれて、今もまゆちゃんのことをみんなで探していてくれることを。説明しながらも、声が震える。絶対に、矢上と何かあったんだ。何もなかったら、こんな風に動揺している訳がない。

 ああ、どうしたらいいんだろう。明日も朝一で、取引先との会合がある。あちらが示してきた、日曜日の予定だ。それが上手くまとまれば、来週の半ばには片が付く。そしたら東京に戻れると思っていた。

 でも、今すぐまゆちゃんの元に行けないものか。新幹線はまだ走っているだろう。どうにかして、今、彼女の元に走って抱きしめてあげたい。だけど……それまでだって3時間も、それ以上も時間が掛かる。どうして、こんなに遠い場所に来てしまったんだろう。

 

「……大丈夫、逃げられたから。すごいところ、蹴り上げちゃった」

「え……?」

 まゆちゃんが、そんな俺を気遣うように言う。かすれた声を聞いたとき、思わずぎょっとして聞き返していた。「逃げられたから」というのは、かなりヤバイ状況に置かれて、でも大丈夫だったと言うことだろうか。だがしかし。

 

 ――すごいところって、あの、まさか……。

 

「そっ……そうかぁ。それは……」

 まゆちゃん、君って……もしかして、かなり過激だったりする?

 いやあ、こういっちゃなんだけど。ちょっとだけ矢上に同情するかも。奴もよもや思わなかっただろうなあ、あんなに可愛いまゆちゃんがよりによって。きっと今頃まだ苦しんでいるかも知れない。あれ、かなり厳しいんだよなあ……。

 

 けど、良かった。まゆちゃんに、どうにか大事がなくて。これなら……大丈夫かな。俺の大切なまゆちゃんは、思っていたよりもずっと勇敢だった。何も出来なかったのは俺の方。ああ、男っていざとなると何て弱いんだろう。まゆちゃんに恥ずかしいばかりだ。

 ホッとしたら、急に笑いがこみ上げてきた。ああ、こんな状況で不謹慎だと思いつつも、止まらない。ああ、ごめん。まゆちゃんも、ムッとしてるかなあ。

 

「まあ、この電話切ったら、すぐに小塚に連絡してやって。あいつ、責任感じて、ぼろぼろになっていたから。でも、ちょっと軽はずみだよな……俺も戻ったらボコボコにしてやるから。まゆちゃんも一発入れておいていいからね?」

「……えっ……?」

 本心から、言ったんだけど。まゆちゃんの方はとっても驚いてる。

 もう、優しいんだからな、まゆちゃんは。そんな危険な目に合わせられたんだから、小塚のことガツンと言っていいんだよ。あいつもちょっと人が良すぎるんだ。このくらいで済んで良かったけど、全く困ったものだ。

 

 受話器の向こうからもくすくす笑い。ああ、良かった。まゆちゃんも笑ってる。本当に良かった。鈴が転がるような心地よい響きに胸が震える。早く会いたいな、まゆちゃんに。仕事、一生懸命頑張るぞ、そして東京に戻ったら、誰よりも早くまゆちゃんに会うんだ。

 こんな、半月ちょっとの出張で大変な思いをするんだ。もしも、半年とか1年とかの長期だったら、きっと気が狂ってしまう。だけど、近いうち、そう言うこともあるかもな。

 その時はまゆちゃんも一緒に連れて行きたいな……そんなことを言ったら、びっくりするだろうなあ……。

 

「あ……春さん、月が」

 耳元でまゆちゃんの声が踊る。導かれるように見上げると、まん丸の月が窓の外に見えた。

「ああ、……本当だ」

 まるで、すぐ隣に彼女がいて。ふたりで並んで同じ月を見ているようだ。こうしているうちも腕を回して抱きしめられるような、そんな気がする。

「ねえ、まゆちゃん。ちょっと、目を閉じてくれる? ……一瞬で、いいからさ」

 

 550キロ離れた場所にいるまゆちゃんを抱きしめる。

 柔らかくて暖かくて、本当に一緒にいるみたいだ。心の中でするキスはしょっぱい味がした。きっとふたりの心が繋がった証拠だね。

 

「……分かった?」
 ――腕を外して、そう囁いたら、

「う、ううん、分からない。……何したの?」
って、答える。

 分かっているくせに、ほっぺが真っ赤でしょう? ドキドキの心臓の音がこっちまで聞こえるよ。

「おやすみ」って、囁くように言って電話を切る。もう一度、窓の外を見ると、月がまん丸の笑顔でこっちを見つめていた。

 

…**…***…**…


 ああ、小塚の奴に。一発かますついでに、聞こう。奴はどっちの下着を付けてるのか。直接、ひん剥いてやるのもいいかな。

 こうなったらあいつには、俺とまゆちゃんの未来のために、とことん協力して貰おう。




…おわり…(040323)

 

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