Novel Top「Simple Line」扉>心に降る雨

Scene・5…指先の温度差
真雪Side*『心に降る雨』

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 地下鉄の階段を上がったら、ふわんと吹き込んでくる風。瞬きして、辺りを見渡した。そしたら、視界に飛び込んできたもの。

「あれ、……シャネルの新作だ」

 ころんと可愛いかたちので、私も欲しいなと思っていたバッグ。それが目の前を通り過ぎたから、思わず叫んでいた。

 バッグから、次第にフェードアウトして視線をその持ち主に移していく。足早に通り過ぎていく横顔。いかにも「仕事できます」なキャリアウーマン風の素敵な人だなあ。ああ、あんな人に持って貰うのが、バッグにとっても幸せね。

「……あ、あの人――」

 一緒に歩いてたまどかちゃんが何かを言いかけて、慌てて口をつぐむ。どうしたのかなって、振り向いて顔を覗き込んだら、すっごくばつの悪そうな表情。でも仕方ないなあと言う感じで、ぼそりと告げた。

「鴇田さんの、元カノだよ」

 えっ……? って、声になってなかったみたい。私は口を半開きにしたまんまで、サラサラと風に髪をなびかせる後ろ姿を見送った。

 

 知らなかった、春さんの元の彼女さん。――すごく……美人。話には聞いていたんだけど。

 春さんに、私の前にも何人も彼女さんがいたのは知っている。実際にどんな人だったのか確認したことはなかったけど。

 春さんに一目惚れしたとき必死でリサーチしたから、色んな情報を手に入れてしまった。今となってはそれが良かったのか悪かったのか分からない。春さんという人間をまっさらで認められなくなってる自分がいる気がするもの。

 

「あのさ、……まどかちゃん」

 あっという間に人混みに消えた背中。そこに視線を泳がせたままで、私はぽつりと言った。

「おしまいって、どんな風に来るんだろう……?」

「――はあ……?」
 まどかちゃんは何とも間の抜けた返答をする。また突風が吹いてきて、乱れる髪を押さえて。

「馬鹿ねえ、何考えてるのよ。幸せの絶頂にいる人が言う事じゃないでしょ? 真雪がそんなことを言っても、のろけにしか聞こえないわ」

 

 そう言ってにっこりと笑ってくれる。そしたら、もう――それ以上は何も言えなくなった。

 

…**…***…**…


 春さんは元カノさんと自然消滅したって聞いてる。もちろん本人の口からじゃない。春さんと同期で仲良しの小塚くんからの情報。

 もともと、あっちの方が押せ押せで、春さんは流されるように付き合っていたんだとか。だけど……どんなかたちであれ、彼女は彼女。しかも、あんなに素敵な人だったなんて。影で私のことを「鴇田さんにふさわしくない」とか噂してる人たちの気持ちがちょっと分かった気がする。

 

 9月の声を聞いた辺りから、春さんはまたすごく忙しくなった。週中や週末の出張も多くなって、本社と大阪支社とどっちが勤務地か分からなくなるくらいなの。あちこち飛び回っていて、なかなか連絡も付かない。ようやく、長期の出張から戻ってきてまたいっぱい会えるようになると思っていたのに、気が付いたら半月のご無沙汰。もちろんそれを寂しいなと思っても、口に出すのは我慢してるけど。

 今週もね、一度は会うのは見送ろうかってことになったんだ。でも……とっても寂しくて、私からどうしても、って我が儘言ってしまった。

 前にお弁当を作ったときに、手作りマーマレードのサンドイッチ入れたのよね。それがとっても美味しいって言われて。だから、今度オレンジをいっぱい買ったら、春さんにもひと瓶あげようって思ってた。会社にジャムの瓶を持っていくのも恥ずかしいから、休日の方がいい。お砂糖が少なめだから、あまり日持ちしない。もう仕上げて冷蔵庫の中にある。早く渡したい。

 

「え……でも。ジャムなんて、また作れるでしょう?」

 出先で、携帯の電池切れになっちゃって、公衆電話からの連絡。そう言った春さんの声がすごく遠くて、まるで他の人みたいだった。ガヤガヤと周りの音が聞こえてきて、私と春さんとの間にすごく深い溝が出来始めている気もして。

「でもっ……、いっぱい作っちゃったんだもの。ねえお願い、日曜日にこっちで打ち合わせが入ってるなら、土曜日には戻ってきてるでしょ? 夕方、ちょっとでいいから」

 必死で追いすがる自分を感じて、すごく悲しくなった。

 

…**…***…**…


「あれぇ、マユ。これから出掛けるの?」
 洗面所でドライヤーをかけていたら、お姉ちゃんが声を掛けてきた。

「今夜はお父さんたちがいないから、何か店屋物でも取ろうと思っていたのに。夕ご飯はいらないの? 夜は遅くなる……?」

「ん〜、……多分」
 気のない返事をする。でも、心臓はばくばくだ。ああん、お姉ちゃん。お願いだからあまり近寄らないで!

「ふうん」

 くるりときびすを返したのを鏡越しに確認してホッとする。少しくたびれてるスウェット、グレイのそれはよく洗濯を取り込んだとき、お父さんのかお姉ちゃんのか悩む一枚だ。外出の時にはすごく素敵に着飾るのに、どうして家着はあんななのかしら? まあ……人のことも言えないけどね。

「まあね〜、今夜は物騒だから玄関は閉めておくから。もし、戻ってくるんなら連絡ちょうだい。チェーンも付けておくから、そのつもりでね」

 ぎょっとして振り返ったら、もうお姉ちゃんの姿はそこになかった。

 

 お父さんとお母さんは、2泊3日の温泉旅行。商店街のくじ引きが当たったって、大喜びで出掛けて行っちゃった。うら若き娘をふたりも置き去りにして、いい気なものだわ。まあ、私たちも成人してるんだし、自分のことは自分で出来るしね。

 戻ってくるのは明日の夕方――これは、チャンスだなって思ったのよね。

 うちの両親、変なところで堅いんだもん。彼氏が出来たなんて知ったら、すぐに「いつ結婚するんだ!」とか「あっちの御両親にお目に掛からなくては!」とか話がぶっ飛んじゃう。

 お姉ちゃんが前に一度それで大変な目に遭ってるから、私は少し身構えているわ。だって、お姉ちゃんの時は余りの騒ぎに相手の人がびっくりして逃げ出しちゃったのよ。もう、しばらくは家の中が修羅場で大変だったんだから。

 ――そう、今日はもう戻らないって覚悟を決めてた。

 

 玄関を開けたら、びゅううっとすごい風が吹き込んでくる。普通にお買い物に行くんだったら「や〜めた」とか思っちゃいそう。でも、今夜はそんなわけにはいかないわ。

 

 バラバラと落ちてくる雨粒に慌てて傘を開こうとしたら、携帯が鳴った。――あ、春さんだ。

「どうしたの? こちらは今から出掛けるところなの」

 風の音がうるさくて、必死で耳を寄せる。でもじりじりという音に混じって聞こえてきた春さんの声は、少し困ったような感じだった。

「ねえ、……まゆちゃん。やっぱり今日はやめようよ。ジャムは残念だけど……」

「……え?」

 ばたばたとスカートが揺れる。私は思わず聞き返していた。

「だって、春さん。もう戻ってきてるって言ったでしょ? 何か、別の予定でも入っちゃったの……?」

「そうじゃないけど……、でも天気も悪いし――」

 がっと、大きな音がして。そのあと、ぷつんと会話が切れる。私の目の前で、シルエットになった大きな樹が、枝を激しく揺らしていた。

 

…**…***…**…


「……嘘。何で……」

 インターフォンを押したら、慌てて飛び出してきた足音。春さんは、私を見るなりそう言った。

 下から見上げた窓に灯りが点いていてホッとした。もしも、春さんがいなかったらどうしようかって思ってたから。あれきり携帯は繋がらないし、連絡の取りようもなかったんだ。

 まさか、自宅まで押しかけるとは思ってなかったんだろうな。春さんの顔には「びっくり」が貼り付いてる。

「ま、とにかく上がりなよ。……ああ、びしょびしょじゃないか。ちょっと待って、何か拭くものを……」

 私を玄関先に残したままで、足早に部屋の奥に消える。そしてすぐに、何枚かのタオルを手に戻ってきた。

「もう。こんな嵐の中……何考えてるんだよ、まゆちゃん」

 ジャムなんて、どうでも良かったのにって、小さな声で付け足した。それだけで突き放されたみたいな気分になる。

 私が動かないので仕方ないと思ったみたい。頭にかぶせてくれたタオルをゴシゴシしてくれる。毛先から飛び散った雫が頬に吸い付く。でも、そこも水浸し状態だから、すぐに下に流れてしまうけど。

「電車、途中で止まっちゃったの。タクシーもつかまらないから、歩いて来ちゃった……」

 絶えず頭を打ち付けていた水のつぶてがなくなって、ホッとする。知らないうちに、ぼろっと涙がこぼれた。

 

 予定進路を大幅にずれた台風が週末の関東地方を直撃。今は本数を減らして徐行運転をしてるけど、いつ運転中止になるかも知れないからご乗車はお勧めできませんって改札口で言われた。

 案の定、あと二駅のところで電車はストップして。サンダルの足は水たまりの中を歩いているみたいで、傘は差しても全然役に立たなくて。けど、それでも諦めきれなかった。普通なら30分もかからないはずなのに、今夜は倍以上の時間を費やしていた。5時過ぎに家を出たのに、今はもう9時を回ってる。

 

 長い長い道のり。歩きながら、心底情けないと思っていた。どうして、こんなにこだわっているんだろう。馬鹿みたい、すぐに引き返せば良かったのに。

 でも、不安だった。いつから? シャネルのバッグを持った春さんの元彼女さんを見たときから? ……ううん、それよりも前からだと思う。

 忙しくなった春さんから、だんだんメールの返事も来なくなっていた。そうすると、何となくこちらからも送りにくい。朝晩の「おはよう」や「おやすみなさい」なんて、もしかしたらすごく子供っぽいことなのかな? そんな風に付き合わせたから、嫌になっちゃったのかも。

 電話の声も、心ここにあらずという感じ。いつもせわしなくて、焦っていて。最後はいつも「ごめん、ちょっと忙しいんだ」って、途切れた。

 一度気にし始めたら、止まらなくなる。いつの間にか、春さんの些細な行動のひとつひとつがサインになっている気がしてきて。そんなじゃないよって思いたいのに、それが出来なくなってた。

 

 ――ねえ、春さんにとって、私は何?

 

 春さんが私に訊ねたときに。あの時、便乗して聞いちゃえば良かった。何だか、甘いキスをして、それで全てが済まされた気分になっちゃったけど、大切なことをおざなりにしたままだったじゃないの。

 

「ええと、その服は着替えないとヤバイよな。俺のを何か着て貰えば……外、寒かったろう。シャワー浴びる?」

 ほら、今もそう。テキパキと頭を回転させて、次へ次へと考えてる。やだ、タクシー会社のナンバーまで確認してるのね。ちょっと待って、このまま帰すつもりなの?

 そんなじゃないのに。私が今、春さんに求めているのはきっちりスマートなエリート社員としての姿じゃないよ。どうして分かってくれないの?

「大丈夫、気にしないで……」

 今度は着替えを取りに行こうって言うんだろうか。また背中を向けた春さんのシャツを後ろから引っ張った。

「……まゆちゃん?」

 半袖のブラウスからのびた腕にびっしりと鳥肌。それほど寒い訳じゃないはずなのに、私は震えている。これ以上前に進むことが出来なくなって、振り返る春さん。見上げたら、また涙が頬を流れていく。私、どんなひどい顔をしてるんだろう。

「私、お風呂入ってきたから。だから、平気」

「え……?」

 一体何を言い出すんだ、って言うみたいに。春さんは怪訝そうにこちらに向き直る。その瞳の色が、まるで私を拒絶してるみたいに見えて、とても怖かった。怖かったけど……今夜の私はそんなことで負けたりしない。

 濡れた服をまとったままで、広い胸に飛び込んだ。

 

「まゆちゃん……?」

 私のいきなりの行動に、春さんは突っ立ったまま、呆然としてる。私はそのままぎゅっとしがみつくと、大きく息を吸い込んだ。

「……して……?」

 だけど、強い決心とは裏腹に、私から絞り出された声は、外の嵐のざわめきに負けてしまいそうなくらいかすれていた。

 春さんは動かない。もしかしたら、聞こえてないのかも知れない。もう一度言わなくちゃと思ったときに、いきなりぐっと身体を引きはがされてしまった。

「ばっ……、いきなり何を言い出すんだよ!」

 向き直った顔は、一目で分かるくらい色を変えていた。それを見た瞬間、私の心が凍る。自分の予想していたのと違う春さんの行動に、胸が破裂するくらいショックだった。

 ――拒絶、されてるんだ。まさか、そんなことがあるなんて。

「春……さん?」

 そこまで言ったら、また涙が溢れてくる。

 もう身体の内側も外側もぼろぼろだ。雨に打たれながらも、どんなにか泣いただろう。どんどん暮れていく空。余りにも視界が悪くて、歩いても歩いても進まなくて。このまま二度と春さんに会えなくなるような気がしたんだ。

 

 ――もしかしたら、もう「おしまい」はすぐそこまで来てるのかもって、思った。

 

 わずかなほころび。最初は目に見えないほどの小さなところから、始まっていくんじゃないかな。結局春さんにとって、私は負担でしかなかったのかも。

 このまま、次第に連絡が来なくなって、私たちは自然消滅する。そして、いつか春さんの隣には私よりもずっと素敵な女性が座っているんだ。そんな未来が来ても、きっと不思議じゃない。ただ、そうなったときに、私が春さんを諦めきれるかどうか、それが不安だった。

 ストーカーになっちゃうかも知れない。諦めきれなくて、繋ぎ止めたくて、電話したりメールしたり待ち伏せしたりして、嫌がられるかも。

 そんなの嫌、春さんに嫌われるのは絶対に嫌。ずっと、頑張ってきたのに、春さんの好みにぴったり合う素敵な女性になりたいって。一生懸命、背伸びしてきた。普通の人には当たり前のことだって、私にはすごく大変だったんだから。自分でもびっくりしちゃうくらいだったんだよ。

 最初から必死の恋だった。だから今夜だって、こうやって体当たりすれば、大好きな春さんに会えるかと思ってた。ふたりきりの思い出が欲しかったのに。いつか別れてしまうなら、その前に。こういうのも、春さんから何もしてくれないなら、私が頑張るしかないんでしょ?

 けど……もう駄目なのかも知れない。春さんの気持ちが分からない。何で会えなくても連絡が取れなくても平気なの? 私なんて、いてもいなくても同じなんじゃないの……?

 元彼女さんとは、したんでしょ? 年休取って、旅行行ったって話も人づてに聞いたよ。他の人とは出来るのに、どうして私とは何もないままいるの。そんなに魅力ないのかな、だから……?

 

「だめ……なの? 春さんっ……」

 がくんと膝が落ちる。私は雨に濡れた身体のままで、玄関にうずくまった。

 ずっと歩き続けた足がじんじんしている。今でもサンダルの底が水の中をじゃばじゃば歩いている気がする。ああ、おしまいって、こんな風になるんだ。恐れていたその瞬間が私の目の前に舞い降りてくる。もっと取り乱すのかと思ったのに、喉の奥からは嗚咽すら出てこなかった。

 足の底から湧き上がってくる悪寒にぞくぞくする。自分で自分の肩を抱いた。それでも……震えは止まらない。「女」の部分を売り物にして、それで受け入れて貰えない。地の底まで落ちてしまった私。このまま、消えてしまいたかった。

「ま……ゆちゃん?」

 春さんの声が、だんだん近くなる。まるで花びらが一枚、ひらひらと舞い降りて来るみたいに。ふわんふわんと耳に届いた。

 髪に柔らかく手が触れて、次の瞬間、私はそれを振り払っていた。春さんの声が近いと言うことは、きっとすぐ傍まで来てるってこと。顔を上げたら、みっともなくてどうしようもない私が見られてしまう。だから嫌、絶対に嫌。

「ごめんなさい……もう、いいから」

 何をこんなに思い詰めてしまったんだろう。春さんを好きになりすぎて、私の中の感情が壊れ始めた。もっと上手に立ち回らなくちゃいけなかったのに。相手が春さんだったから、きっと頑張り過ぎちゃったんだ。可愛く甘えたり拗ねたりして、魅力的な女の子でいなくちゃ駄目。そんなの恋愛の初歩だよ。我が儘を言うんだって、それなりの方法があるはず。

 私、もうとっくに自分で自分がコントロールできなくなっていた。春さんに嫌われても当然なんだ。きちんと出来なかったんだから。

 何を物欲しそうに、こんな雨の中を図々しく。……どうしてこんな風にしか想いを伝えられないんだろう……?

 

 ――けどね、春さん。

 私、一度だけ……一度だけでいいから、しっかりと春さんの恋人になりたかった。春さんも私のことがすごく好きって言うこと、錯覚でもいいから受け止めてみたかったんだよ。あんな綺麗な人だって、駄目だったんだもん。いつか私だって、春さんにとって邪魔になっちゃう。

 だから――その前に。

 

「平気……。このまま大通りに出て、タクシーを拾って帰る。だから……気にしないで」

 壁に手をついて。視線を落としたままでゆっくりと立ち上がる。薄手のブラウスは少しの時間にもう部屋の暖かさと体温でだいぶ乾いていた。スカートもどうにか大丈夫そうだ。少し、シワになっていても、それくらい。

 私がこれ以上、よれよれな駄目な人間になる前に、春さんが引き留めてくれたんだね。そう思わなくちゃ駄目なんだよね……?

 

 ――なんかなあ、情けなくなって来ちゃった。何やってるんだろう、私。

 

 本当にその時は帰るつもりで。だから、春さんに背中を向けて、ドアノブに手を掛けようとした。でもそれよりも早く、私の腕を掴む、春さんのぬくもり。

「何言ってるんだよ、このまま帰せるわけないだろ? 馬鹿だな、まゆちゃんは……」

 不思議な言葉を聞いた気がした。

 何故、今更そんなことを言うんだろう。頭の中にたくさんの疑問符が生まれて消えて、ゆっくりと振り返って顔を上げる。頬がひりひりした。目の前に、春さん……大好きな笑顔。

「上がって、まずは着替えて。話はそれからだから」

 

 春さんはいつも、私に魔法をかける。身体が勝手に動き出すのはどうして? 気が付いたら、私は水を含んで重くなったサンダルを脱いでた。

 

…**…***…**…


 外は相変わらずひどい荒れ模様。窓を打ち付けるバラバラという音。部屋の明かりは落としてるけど、すぐ傍に街灯があって、それに雨粒が反射してキラキラしてる。その一粒がつうっと下に流れていくのをぼんやりと見ていた。

 

「……しないの?」

 ふたりでベッドに寄りかかっていた。畳の床に腰を下ろして。私は春さんの腕の中にすっぽりと包まれたまま、もう一度拗ねるようにそう言った。

「うん、今夜は駄目」

 そう言いながら、春さんは私の額に唇をを落とす。そして、髪を撫でてくれる、すごく優しい仕草で。あったかいなって思うんだけど、ちょっと物足りない。でも、いくらお願いしても、春さんは聞きいれてくれない。

 

 誰にも邪魔されない空間にふたりっきりでいるのに、どうして何にもないんだろう。

 春さんは大人の男の人なのに、何故平気なの? こういう時って、それほど好きじゃない相手でも襲いたくなるもんじゃないのかなあ……?

 

 不思議だなって思って、でもってちょっと口惜しくて顔を見上げたら。春さんは困ったように微笑んで、私を優しく抱きしめた。

「まゆちゃんをこんな風に泣かせる自分が嫌なんだ。そりゃあ……欲しいのは山々だけど……なんか自分が許せなくて。やっぱり、笑ってるまゆちゃんがいいな」

 ふうって溜息。でも、イライラしてるとかそんなじゃなくて。春さんがすごく近いから、みんな伝わってくるんだよって言うみたいな感じ。

 こういう風に寄り添っていくと、だんだん心音までが同じリズムを刻み始める気がする。こんな心地を自然に感じ取るまでには、まだまだ時間が掛かりそう。

「……ごめんなさい」

 また、心配かけちゃった。私は春さんを前にして、どんどん我が儘になってしまう。こんなことは言っちゃ駄目、って思うことばかりを口にして、困らせてばかりいる。いつかこんな私が春さんに愛想を尽かされてしまうんじゃないかなって、それが一番怖い。

 けど、言わなくちゃ伝わらないこともきっとあるはず。時々は、お互いを確認し合わないとすぐに見失いそうになるよ。

 

 勇気を出していい?

 私が今、一番望んでいること、言ってもいいかな。春さんじゃなくちゃ、叶えられないんだ。もう一度、春さんのシャツをしっかり握りしめる。心がこぼれないように。

 

「私、春さんと一緒にいたいの。……春さんが駄目って言っても、会いたくなっちゃう。どうしたらいいのか分からないけど……ずっと、傍にいたいな」

 あんまりあったかくて、ホッとして。そうするととろとろって眠くなる。こんなに寄りかかったら重いだろうなって思うんだけど、でも心地いいから甘えちゃおうかなって。すううっと、何かに引っ張られるみたいに意識がどんどん遠くなる。

 

「ずっと……一緒にいられる方法を考えてみようか……?」

 そんな春さんの声がした気がする。でも……それは夢の中の出来事なのかな?

 

 聞き返そうとした意識が、そこで途切れた。




…おわり…(040501)

 

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