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Scene・5…指先の温度差
春太郎Side*『沈黙の領分』

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 ……あ、まただ。失敗したな。

 ベッドサイドの作りつけのデジタル時計。スイッチを入れたばかりの部屋の照明が徐々に明るくなるまでに確認して、俺はポケットの中で携帯を探りかけていた手を止めた。角張った数字が「0:35」と並んでいる。今夜もこんなに遅くなってしまったんだ。思わず、はぁと溜息。手にしていた上着をベッドの上に乱暴に投げると、ネクタイを緩めた。

 

 夢中で仕事を片づけていると、時間の経過を忘れてしまう。キリのいいところまで頑張ろうと思って、ついつい出張中は無理をする。
 今日も取引先との一杯に誘われて、それが終わったあとにまた社に戻ってしまった。ほんの30分くらいのつもりだったのだが、思ったよりも暇が掛かってしまったらしい。残業手当も付かないのに、まったくおめでたいことだ。

 いくら何でも日付が変わったあとに電話するのはヤバイと思う。自宅の電話なら当然だし、携帯だってそうだろう。

 まゆちゃんだって、普通に仕事をしてる。明日だって朝が早い、もう寝てるかも知れない。起こしちゃったら可哀想だ。「おやすみ」のひとことくらい言いたかったけど、仕方ないか。ああ、もう少し早く気付けば良かった。どうして肝心なところで抜けてるんだ、俺は。

 ――あ、そうだ。メールならいいかも。

 毎晩、ちゃんとまゆちゃんからは定期便が入ってる。仕事に集中したいから、いつもは電源を切ってあるプライベート用の携帯。今夜もちゃんと「西原真雪」の名前の受信メールがある。他にも数件入っていたが、もうそんなものには目がいかない。まゆちゃんの名前だけが燦然と輝いているのだ。

 よし、ここは俺からも……あ、駄目だ。

 情けなくひとり芝居をしたあと、もう一度大きく溜息。だよなあ、メールって言うのは届けば着信音が鳴るんだ。まゆちゃんのことだ、もしかしたら俺からのメールを待っていて、枕元に電源を切らない携帯を置きっぱなしにしてるかも知れない。やっぱ、起こしてしまうことになる、駄目だ、我慢しなくては。朝、おはようメールで許して貰おう。

 ……とか何とか。

 朝になると、バタバタしていてすっかり忘れてしまうんだよな。そんなことの繰り返し、やはり本社にいるときと違って、大阪支社での生活は何かと落ち着かない。同じ日本人なのに、どうして言葉も思考回路も違うんだろう。もちろんビジネスの場ではどんな相手でも合わせて行かなくてはならないが、ホテルの部屋に戻るとどっと疲れが出る。

 こっちの人間って、本当に元気がいいんだ。そうやって指摘をするとすぐに「関東人は冷たい、あっさりしすぎている」と突き返されるけど、正直一緒にいると元気を吸い取られそうな気がする。だから、つい合わせて行かなくてはと無理な努力をしてしまい、だんだん自分が変わっていくような気がする。

 出張から戻ったあとにまゆちゃんに会うと「……春さん、何かいいことがあったの?」なんて不思議そうに訊ねられたりするし。きっと無駄にハイテンションになってしまうんだと思う。

 何しろ、生まれ育った土地にいても「クールだ」「大人っぽい」「落ち着いてる」と自分の意図しない評価を下されてしまう俺だ。よっぽど無理をしないと彼らとは対等に渡り合えない。ハッキリとしたモノのいい方には時々肝を冷やすが、人間関係もビジネスの基本だ。「郷に入っては、郷に従え」と言うだろう。でも、ちょっと疲れたなあ。やっぱ、この辺で、まゆちゃんに慰めて欲しいかも。

 いやいや、泣き言なんて言ってられないぞ。

 部長も言っていた、今回のプロジェクトには上層部もとても注目してるらしい。今回の結果いかんでは、その後のあれこれに大きく関わってくるかも。この不況下に就職できただけでもめっけもんだった。一応名前の通った大学を出たが、それでも卒業までに就職先が決まらない同級生はたくさんいたのだから。

 

「あ〜、ごめんよ。まゆちゃん……」

 液晶画面をぼんやりと眺めながら呟く。

 こんなことばかり繰り返す毎日。もちろん彼女のことはとても大切に思っているし、いつでも傍にいたいのは山々だ。だが、そんなことは許されることではない。始終べったりしていられるのは、学生の頃だけだと思う。あの頃はそれが面倒くさく思えたものだが、今になってみると懐かしい。いや、当時の彼女のことはそれほど思い出さないが、あの環境が、だ。

 それこそ、朝から晩まで。もしもまゆちゃんと一緒にいられたらどんなに楽しいだろう。どちらかというと束縛されるのは嫌いだったし、今まではそんな付き合い方は頼まれても嫌だと思っていた。だけど、まゆちゃんは違うんだ、特別なんだ。彼女の傍にいると、もっともっと頑張ろうと自然に力が湧いてくる。どんなドリンク剤よりも効果があるんだから。

 だから、せめて。

 まゆちゃんとの貴重な時間は、100%まゆちゃんのために使いたい。やり残した仕事があるとか、心配事がてんこ盛りになっているとか、そう言うのは嫌だ。いつでもまゆちゃんが大好きでいてくれる「素敵な春さん」でいたいから、万全の構えで臨みたいんだ。そんな風に必死で努力する部分は恥ずかしいから内緒だけど。

 メールはな〜、何しろ携帯からだと打ち込みが面倒だし。かといって、電話はどうしてもこちらの心境が表れてしまう。明日までに提出しなくてはならない資料を抱えたまま彼女に連絡しても、きっと上手に受け答えが出来ないと思うし。どうせならこの仕事を上げてからにしようと思うと、つい後回しになってしまう。

 そんな俺のことを、まゆちゃんは大人しくじっと待っていてくれる。時々温かい心のこもったメールをくれながら、俺が連絡したときにはとびきり嬉しそうな声で対応してくれる。そのたびに思うんだ。ああ、まゆちゃんって、本当に……何というか、滅茶苦茶いいコなんだよな〜って。俺のことしっかりと信じていてくれるんだと思うから嬉しい。

 

 ――あのね、まゆちゃん。

 ごろんとベッドに横たわって、天井の薄暗い模様を眺めながら心の中で呟く。

「今回の仕事が一段落したら、行きたいところがあるんだ」――そんな風に切り出したら、一体彼女はどんな顔をするんだろう。
 目玉がこぼれ落ちちゃうくらい目を見開いて、声も出なくなっちゃうかも。そうだよなあ、こういうのっていきなりじゃびっくりするだろう。俺としてはずっと前から考えていたんだけど、彼女にとっては寝耳に水という奴だ。

 多分、さすがのまゆちゃんも、この頃の不義理にはさすがにむかついてるかも知れない。今までの過去の経験からすると、そろそろどかんと行きそうな感じだ。まあ、まゆちゃんと以前の彼女たちを比べちゃ、可哀想か。何たって、まゆちゃんは特別なんだから。そこら辺の奴らとは比べものにならないんだよ。けど……さすがに電話口の声とか沈んできていて「ああ、申し訳ないな」と反省する。

 だからね、まゆちゃん。今は少し離ればなれになっているけど、そのあときちんとするから。まゆちゃんが「もう、いいよ」と嫌がっても絶対に離さないくらい、ずっと傍にいるよ。その時に何の憂いもなく俺の全てをまゆちゃんに向けられるように、今は頑張ってるんだ。

 ――大丈夫、もうちょっとだから。

 高原のコスモス畑、そろそろ見頃になるだろうか。秋の花は気温が下がると咲き出すから、標高の高いところの方が早いんだよな。

 思ったよりも仕事はさくさくと片づいてるし、この分ならきっと間に合う。ああ、まゆちゃんはどんな服を着てきてくれるだろう。綺麗な花畑や澄み渡った空の色を見たら、きっと喜んでくれるだろうな。そんな彼女に早く会いたい。だから、仕事、頑張らなくては。

 

 言わなくても、きっと伝わってる。だって、まゆちゃんは特別なんだから。俺のことをとても大切に想っていてくれて、仕事のことだって理解してくれている。今までの女たちみたいに小うるさいことを並べ立てて煩わしくなったりしないんだ。

 まゆちゃんに出会えて、本当に良かったと思う。俺がこうして頑張れば、きっと彼女は認めてくれるから。いや、もしも上手くいかずに行き詰まったとしても……そうだとしても、最後まで支えになってくれるはず。

 正直、こんな風に時間を気にしながら連絡を取り合ったり、気が付いたら不義理をしていたり、結構やりにくいなと思うこともある。俺にとって一番心地いい相手は空気のような関係だと思うんだ。ないと困るけど、必要以上に自己主張したりしない。改まって感謝することもないけど、とても大切に考えてるんだって感じの。

 俺たちは知り合って、まだ半年足らず。これからどうなっていくかはその先行きは分からない。けど、それでもまゆちゃんと一緒にいたいなと思うから。無理をせずふたりの関係を育んで行きたい。そのことについては上手くいきそうな自信がある。まゆちゃんの瞳の色、顔中で身体中で表現してくれる好意的な心。「私は、春さんが大好き」って、言葉が溢れて来るみたいだ。

 ――俺だって、大好きだよ。まゆちゃんのことが、誰よりも何よりも好きだよ。

 女と付き合うのは面倒だし、もういい加減にしようと思っていた。女なんてもうこりごりだなんて、悟ったようなことを考えていた。もう仕事が恋人でいいじゃないかと思い始めていたし。でも、まゆちゃんに出会って分かったんだ。世の中にはこんなにも素晴らしい女の子がいるんだってこと。

 だって、まゆちゃんがいるから仕事を頑張ろうと思える。そしてそんな俺の努力に対して、誰よりも何よりも心のこもった評価をしてくれるのがまゆちゃんなんだ。あんなにちっちゃくて頼りなく思える彼女なのに、一緒にいるだけでとてもくつろいだ気分になれる。ずっとこんな風だといいんだけどな。本当にそうなったらいいんだけどな。

 

 週末にかけて、大型の台風が進んできている――そんな天気予報士の声を聞きながら。俺はふかふかのベッドに身体を沈めて、心の中でまゆちゃんに「おやすみ」と言った。

 傍らにいてくれれば抱きしめられるけどそうもいかない。薄い毛布をたぐり寄せたら、ほんのちょっとだけ雰囲気が味わえた気がした。

 

…**…***…**…


「仕事と私とどっちが大事なのよ!」

 ――まるでドラマの中のような台詞を面と向かって言われたのは過去に何度あったか。きっと付き合った女の数よりもよほど多かった気がする。ようするにひとりから何度も言われたと言うことだろう。そのたびにうんざりとした気分が徐々に蓄積してきた気がする。

 

 ちょっと見栄えのする女が近寄ってきて好意を示してくれれば、そりゃあ嬉しい。中学や高校の頃のフォークダンスだって、可愛い女の子と手を繋ぎたいと思うじゃないか。もうリサーチするまでもなく、同僚たちの間でも噂になってるくらいの上玉なら、ちょっといいかなと思うのも男として当然の成り行きだと思う。

 ホント、今となっては最低な思考だったと思うよ。こんな過去をまゆちゃんに知られたら、幻滅されそうだ。相手のこともよく知らず、周りの噂とか自分の虚栄心とかそんなところから彼女を選んでいたなんて。情けないったらありゃしない。でも、一度付き合うことを承諾すれば、もうあとは相手のいいなりになってしまう。

 こっちは忙しい。だから、女の方がイニシアティブを取ってくれた方が有り難かったんだ。デートの行き先も、食事するレストランも、場合によっては泊まるホテルも。もちろん財布を開くのは俺だったが、あとのことはみんな相手のなすがままだった気がする。

 最初のうちは嬉々としてそう言うことをしてくれるのに、ある時期が来るといきなり態度が豹変する。これも毎回同じ成り行き。何でも友達の彼氏に比べて、俺は冷たいと言い出すのだ。もっと優しくしてよとか、最初の頃に比べると何もかもが手抜きよねとか言いたい放題。挙げ句の果てに、決め台詞の「仕事と私と――」が飛び出してくる。本当、もしかしたら台本があるんじゃないかと思うくらい、いつもそうだった。

 

 だからこそ、まゆちゃんの存在に最初は戸惑ってしまった。

 振り向けば、にこにこと笑いながらその場所で待っていてくれる。決して出過ぎた真似などはしないし、我が儘も言わない。俺が仕事で忙しいと知れば、デートのキャンセルに文句を言うどころか、こちらの体調を心配してくれる。始終控えめに、でも温かく見守っていてくれるんだ。

 今まで、そんな女の子はバーチャルな世界にしか存在しないと諦めていた。どんなに家庭的なイメージで売っている女優だって、子連れで離婚したりするじゃないか。現実はいつでも衝撃的だ。

 あまりにも理想的な女の子と遭遇してしまったために、かえって臆病になってしまった。どんな風に扱えばいいのかが分からない。今まではもう、会えば即エッチとかもあり得たけど、まゆちゃんとはそんな関係は想像も付かない。服に手を掛けたところで、「こんな春さんは嫌い!」とか涙目で訴えかけられてみろ、もう立ち直れないほど落ち込みそうだ。

 大切にしたいんだ、でも男としてはそれだけでは済ませられないんだなぁ。正直な欲望なんだから、あまりに堪えていると身体に毒なんだよ。けど、いきなりじゃあびっくりするだろうし、かといって、いつまでも清い仲と言うのも……。

 

 ――それにさ、この前の矢上のように。まゆちゃんをつけ狙っている奴が他にもいそうな気がしてならない。

 一応、まゆちゃんと同じ部署には同期の小塚がいる。奴には色々と貸しがあるから、まゆちゃんに危険が及ばないように監視を申しつけてある。なかなかに卑怯な手段ではあるが、始終柱の影から見守っているわけにも行かないじゃないか。仕方ないんだ、コレばかりは。

 まゆちゃんは近頃、ますます可愛くなったと評判らしい。もともと良く気の付く大人しいたちで、上司からとても可愛がられていたらしいが、この頃では取引先の人にまで色々と誘われているらしい。

「大丈夫だよ、まゆちゃんは鴇田のことしか頭にないんだから」とかフォローが入るが、それは分からないぞ。遠くの恋人よりも近くの他人だ。寂しがっている彼女の隙につけ込む不届き者がいないとも限らない。やはり……ここはそろそろ手を打たなくてはならないだろう。

 

 戻りの新幹線の中。

 ひとりで色々と思いを巡らしていると、部長から連絡が入る。元々の話で、日曜の夕方に今回のことで詳しい報告を聞きたいと言われていた。その確認の電話。でも話しぶりから見て、他にも誰か出席者がいるらしい感じを匂わせている。そもそも、わざわざ休日を指定してくる辺りも、ただごとではない気がしていた。

 

 ――これは……まさか。もしかしたら。

 

 俺の中にひとつの考えが浮かぶ。ただし、それはひとりだけの物思い。口にすることも憚られるような感じだ。

 ――もしかすると、今日のまゆちゃんとの予定はキャンセルして、もう一度しっかりと資料をまとめた方がいいかも知れない。

 そう思って、東京駅のホームに降り立つ。新大阪を出るときよりも、雨や風が一段と強くなってきている気がした。

 

…**…***…**…


 最初からやっとの事で組み合っていた歯車。それはたった数ミリずれただけで、かすり合うこともなくなって、お互いが永遠と回らなくなる。でも、余りにもしっかりと噛み合いすぎても、余計な力が入りすぎて負担になるような気がする。だから、微妙な距離が大切だ。

 触れ合うように、でも近づき過ぎないように。

 自分では上手くやって来たつもりだった。もちろん、もうちょっと近くに行きたいと思ったのも本当だ。でも、適度な距離を保つからこそ長続きする。俺はまゆちゃんとずっと一緒にいたいから。

 

 ――だから。

 

 まるで根性で宅配をしていたデリバリーピザの店員のように。

 電車も止まるほどの大嵐の中を、まさかやって来るとは思ってなかった。一応、中止の意向は伝えたはずだし、もしもあのまま駅までたどり着いたとしても、あの時点でもう徐行運転をしていたはず。もしかしたら、すでに運転が停止していたかも知れない。

 思慮深いまゆちゃんのことだ。絶対に無理をするはずないと思っていた。もうこれからしばらくはあっちへの出張もないし、明日の大一番が終われば、ホッと一息付けるかも知れない。そしたらゆとりをもって改めて会えばいいんだから。

 

「……嘘。何で……」

 外の雨音にかき消されそうなインターフォンの音。とにもかくにもドアを開けたら、そこに立っていたのは信じられない人物。 しかも全身びしょぬれで、まるで海で服のまま泳いだようによれよれになってる。

 そりゃ、まゆちゃんには会いたかった。だから嬉しくないと言ったら嘘になる。でも……俺が会いたかったのはこんなまゆちゃんじゃない。どうして……何で?

 ぽろぽろと涙を流しながら切々と訴えるまゆちゃんは、今までに出会ったどの彼女とも違う気がした。俺の知らなかったまゆちゃん。全然想像も付かない姿。こんな彼女がいたなんて。でも、どうして。何がどうなってるんだ。全く分からない。目の前で起こっていることが、とても現実とは思えない。彼女に会いたいあまり、とうとう夢を見ているのではないだろうか。

 

「上がって、まずは着替えて。話はそれからだから」

 余りのことに呆然としていたら、まゆちゃんはそのまま帰ると言い出した。ちょっと待て、それはまずいだろう。大通りに出てタクシーを見つけるって、この嵐の中出来るとも思えない。慌てて引き留めていた。

 女の子をいきなり部屋に泊めるのはさすがに気が引けたけど、ここは仕方ない。明日の朝が来れば、きっと台風も通り過ぎているはず。ああ、洗面所のタオルは新しくしてあったかな。トイレの便座カバーは綺麗だっただろうか。

「……なの」

 消えそうな声が、背中を叩く。

 その時まで、俺は少し期待していたのかも知れない。そりゃ、そうだろう。いくら尋常じゃない感じでまゆちゃんが口走ったことだと言っても、俺は男だ。彼女の方から意思表示をされれば、従うのは本能だ。どうせならきちんとセッティングして、と色々と思いは巡らしていたが、もうこうなったら順序が逆でも仕方ない。

「え?」

 また、雨音が強くなる。彼女の声をきちんと聞き取りたくて振り向いたら、玄関を上がったところで立ちすくんだままのまゆちゃんが、まだ赤い眼をして俺を見た。

「おしまいが来そうで、怖いの。春さんは、私のこと、嫌いにならない? ……大丈夫かなぁ……」

 どうして、と聞き返したかったけど、声にならなかった。

 何でまゆちゃんがこんなことを言うのだろう。もしかして、誰かに吹き込まれたのだろうか。俺のまゆちゃんに限って、そんなこと考えるはずないのに。

「おしまい、って……?」

 何を言うんだ、俺たちはまだきちんと始まってもいないじゃないか。何も身体の関係だけが全てだとは言わないけど、その一線を越えるまではやはり手探りの状態が続いている気がする。物欲的で申し訳ないけど、やはり肌のふれあいって大切な気がするし。いや、もちろん。まゆちゃんとはそういうことも大切にはぐくみたいと思っていたけど。

「……う……」

 まゆちゃんはまた辛そうに口元を覆うとその場に崩れ落ちそうになった。もう痛々しくて見ていられない。俺の知らないところでまゆちゃんが何を想い何を憂えていたのかは分からない。でも……もうこれ以上は駄目だと思った。

「ほらほら、まずはシャワーを浴びて。その間に着替えを用意しておくから。――ゆっくり暖まっておいでね」

 抱きかかえるようにしてどうにか立たせると、洗面所と一緒になっている脱衣室に彼女を押し込む。正直、ちょっと身体を寄せただけで理性が爆発しそうだったけど、もう必死に耐えた。

 

 ――シャワーの音を遠くに聞きながら、俺が奥の部屋でこっそりと何をしていたのか。それは聞かないでくれ。その後、男泣きに泣いたのも秘密だ。

 

 今まで。

 まゆちゃんに「すごい」って思われたくて、必死に頑張ってきた。仕事にがむしゃらに打ち込んでもそれを嫌がるどころか後押ししてくれる、そんな彼女がどこまでも大切だと思っていたんだ。

 まゆちゃんを旅行に連れ出そうと思って、ひとりで内緒で計画を立てていた。話をしたら驚くだろうけど、でも喜んでくれるって信じていたし。まるで鼻先ににんじんをぶら下げた馬みたいに、ひた走っていた気がする。――その暴走で、まゆちゃんを置き去りにしていたとしたら?

 初めて会ったときから、特別な存在だった。理想の上を行く、そんな女の子。くるくると表情を変えながら、いつでも新しい姿で俺の心を魅了する。何度も夢だったらどうしようと思った。ホンモノだって分かったら、もっと信じられなくて、だからこそ大切にしたいと思ったんだ。

 

 ――何を勘違いしていたんだろう、どうしてこんなにも思い上がっていたんだろう。

 

 黙っていても、この想いがしっかりと伝わっているって信じ切っていた。まゆちゃんなら、大丈夫だって思っていたんだ。

 ごめんよ、まゆちゃん。やっぱ、俺は君をとびきり喜ばせて幸せにしてあげないと駄目だよ。そりゃ、こんな大嵐の中、必死で会いに来てくれたのは嬉しい。でも、だからといって、今夜「いただきます」をしちゃ、自分がすごく情けなくなって、許せなくなりそうだ。

 正直、まゆちゃんと一緒にいて、何もないままで過ごせる自信はない。でも……それくらいの罰を自分に与えないと、もう二度と立ち直れなくなってしまう。

 

…**…***…**…


 彼女の使うシャワーの音が止まるのを見計らって、レンジで温めたミルクを用意した。今はそれくらいのことしか出来ないけど、ふわふわと上がっていく湯気のように、まゆちゃんを想う俺の心が部屋の空気に溶けていることを少しでも分かって貰えるといいな。

 

「そばに、行ってもいい?」って、聞かれたときはさすがにドキドキしたけど、どうにかクリアした。

 俺のいつも着ているスウェット(注:きちんと洗濯済み)越しに彼女の体温が伝わってきて、今までになく親密な距離に自分を抑えるのに必死だった。オフホワイトのスウェットだから、まゆちゃんはまるで白ウサギのようだ。もう愛らしさ120%、まだまだ上昇しそうな感じ。

「……しないの?」

 そう上目遣いで訴えられたときは思わずびびったが、そこは必死で堪える。今夜は駄目だよって言うまでの少しばかりの間は、俺の意志の弱さだ。もうちょっと即答できると格好いいんだけど。

 まゆちゃんは、ふうっとつまらなそうに溜息をついて。でも、思い直したみたいにまた口を開く。その瞳の色があまりにも真剣で、胸が高鳴る。い、一体何を言おうとしてるんだ……!?

「私、春さんと一緒にいたいの。……春さんが駄目って言っても、会いたくなっちゃう。どうしたらいいのか分からないけど……ずっと、傍にいたいな」

 涙に濡れている瞳はとっても綺麗で、一気に血液が逆流。もう鼻血が飛び出そう。

 やだなあ、まゆちゃんは。コレって無意識なのかな、挑発しないでくれよ。一回抜いたぐらいじゃ、足りなかったかなあ。仕事疲れのわりに俺も元気だなと、他人事のように感心してしまう。あああ、今はそんな時じゃないって。

 俺だって、会いたかったよ。仕事が終わって一息つくと、いつでもまゆちゃんのことを思い出す。優しいメールの文面でも十分癒されるけど、やっぱこうして身体をくっつけてまゆちゃんのぬくもりと心臓の音が聞こえる距離がいいな。

 

 ――出来ることなら。

 

 いつ会おうとか、何時まで大丈夫とか、時間を気にしないで会えるようになりたい。ありきたりかも知れないけど……そんな風に思い始めてるんだ。

 しっかり捕まえてもいいかな? もう離さないよって言ったら、やっぱり驚くかな? でもでも、まゆちゃんが傍にいる、そんな時間が増えるといいと思う。いつも、いつまでも一緒にいられたらいいなと思うよ。

 

「ずっと……一緒にいられる方法を考えてみようか……?」

 背中に回した腕が震える。もう、前言撤回していい? 限界だよ、まゆちゃんが可愛すぎるのがいけないんだ。これ以上我慢していたら、俺は発狂してしまうぞ。ごめん、やっぱ――。

 

 ――あれ?

 何だよっ! 今「くぅ」って、声がしたぞ。待て、待ってくれ。どうしてここで寝るんだよ。そりゃ、雨に打たれて歩き回って、疲れただろうとは思う。でもさ、せっかく盛り上がってきたところなのにそりゃないだろう。頼むよ〜、俺をひとりにしないでくれ……!

「まっ、まゆちゃん……!」

 駄目だ、起きない。もしかして、まゆちゃんって、すごい寝付きがいいとか? ほんの30秒前まで普通にしゃべっていたじゃないか。信じられないよ、全くもう。いいよ、このまま襲っちゃうぞ! ……いいんだなっ……!?

 ――は、さすがにまずいか。何考えてるんだ、俺は。サイテーじゃんか。

 妙に火照る身体の中心。そりゃ、出張帰りで俺も十二分に疲れてるんだけど、頭だけが妙に冴え冴えしている。ああ、どうにかしてくれ。このまま耐えろって言うのか。そりゃ、自分で言い出したことなんだけど、真に受けないでくれよ〜、人間は突然気が変わることだってあるんだからさ。

 

 ううう、まゆちゃん。もう覚悟してろよ。朝、寝起きを襲うからな。そうだよ、俺は言ったはずだ、今夜は駄目って。だったら、明日の朝になればいいんだ。そうだ、そうだよなっ……!?

 ああ、畜生! 可愛いぞ、まゆちゃんの寝顔。いつか眺めてやりたいものだと思っていたけど、俺に寄りかかって甘えるみたいに目を閉じてるまゆちゃんは、もうもう想像を絶するくらい愛らしい。耐えろ耐えろ、今夜は我慢するんだ。どうにかして、全力で我慢するんだ。

 

 知らずに荒くなりそうになる鼻息。胸のドキドキを必死で堪えながら、微笑みのかたちに閉じた口元に「おやすみ」のキスをした。

 

…**…***…**…


 ――ちゅん、ちゅん。

 お決まりの朝のスズメの鳴き声。ああ、瞼の向こうが眩しい。朝の光が満ちあふれた部屋の中、台風一過の青天……そして、腕の中には。腕の中には……、あれ?

 

「……まゆちゃん!?」

 がばっと起きあがる。待て、何なんだ。いないじゃないか、まゆちゃんは。いつの間にか肩に掛かったタオルケット。俺は寝室に一人っきりで取り残されていた。待ってくれ、もしかしてコレって夢だったとか? 昨日のまゆちゃんも全部幻想だったとか……!?

「あ〜っ、おはよう。春さん、起きた?」

 ぱたぱたと足音がして、元通り乾いた服をきちんと着込んだまゆちゃんが、爽やかな笑顔で部屋に飛び込んでくる。短めのスカートから覗いている膝小僧。片手にお玉。可愛いんだけど、……すごく可愛いんだけど。いや、あのね。実は俺、ちょっと――。

「今ね、ちょうど朝ご飯が出来たの。春さんちの近くにも、24時間ストアがあって良かった。冷蔵庫が空っぽなんだもん、私のポイントカードもそのまま使えてラッキーだったわ」

 

 早く、早くと急き立てられて、のろのろと立ち上がる。隣の部屋を覗くと、テーブルの上にはホカホカと朝ご飯の色々が並んでいた。狭い空間に溢れるばかりの皿数。卵焼きがあって、あじの開きがあって、みそ汁があって、浅漬けもあって。

「いっぱい作ったから、どんどんお代わりしてね。どれでも食べたいもの、お好きなだけどうぞ」

 ご飯を盛った茶碗を差し出しながら、どこまでもすっきりした笑顔。

 ど、どうしたんだ。昨日の思い詰めた涙目のまゆちゃんがどこにもいないぞ? まるで今日の天気のように爽やかじゃないか。女心と秋の空、とは言うけどさ。こんなに天候通りに豹変していいのか? 納得いかないぞ、俺は。正直、やる気満々でいたんだからな……!?

 

「ふふふ、嬉しいなあ……」
 頭の中を煩悩で埋め尽くした俺がそれでもすごすごと食卓に着くと、まゆちゃんは感慨深げにふうっと溜息をつく。

「私ね、こうやって春さんに朝ご飯を作ってあげるのが夢だったの。何だか今朝は本当に幸せだったわ。だから、これからも時々は早起きして春さんの朝ご飯を作りに来ようかなとか思うんだけど。今日は和食だったけど、次はトーストと目玉焼きとかもいいわね……何だか、楽しみだなぁ」

 いただきます、と両手を胸の前で合わせて。それからみそ汁のお椀を手にして一口、ああ美味しいと微笑む。そんな彼女を、俺は箸を持ったまま呆然と眺めていた。

 

 ――待て、何言ってるんだ。そんなの少しも楽しくないぞ。

 

 朝、まゆちゃんがやって来てご飯を作ってくれるんじゃ、美味しいところがすっぽり抜けてるじゃないか。

 彼女の手作り朝ご飯というのはそりゃあ魅力的だぞ、男の永遠の夢、ロマンだとは思う。けどさ、それは前の晩の「お約束」があるからこそ、引き立つものであって……。

 

「あれぇ、春さん、どうしたの? 朝は食欲ないのかな。駄目だよ、どんどん食べて」

 ううう、そんな風に上目遣いに訴えないでくれ。朝ご飯だってもちろん食べたいよ。でも一番食べたいのは、今、目の前でにこにこと笑っている女の子なんだけど。……分かってないだろうなあ……。

「ああ、腹が減ってたんだ。嬉しいなあ……本当に」

 声が思わずうわずって、ちょっと目がうるうるしているのは――素敵な朝ご飯に感激しているんだとどうか誤解してくれ。何かなあ、計算されてると思えてくるくらい、まゆちゃんとは健全なんだよな。まさか、このままずっとコレが続くんじゃないだろうなあ。

 

 昨晩、突っ走れなかった自分の情けなさを恨みつつ、俺はまゆちゃんの「夢」の詰まった朝ご飯を口いっぱいに頬張った。




…おわり…(040511)

 

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