さらさらと音もなく降りしきる雪。お昼過ぎから降り出したそれが、いつの間にか目に映る風景の全てを己が色に染め変えていた。何者も寄せ付けない…汚れのない白。道普請したばかりの砂利道を早足で歩いた。寒いから足早になっているのではない。もっと他に理由があった。 つばのぐるりと回った焦げ茶色の帽子から出た耳がキンと痛む。まとっているのはその帽子と同じ色のコート…帽子と同じ、と言うよりは、コートのあまり布で帽子を仕立てたと言った方がいい。いつも頼む仕立屋はそう言う風に無駄を出さずに工夫するのが好きだった。 男は、停車場を降りて大通りを道なりにいくらか歩いてから、ひときわ大きな屋敷の前で足を止めた。勝手知ったる庭、と言った感じで重厚な構えの鉄製の門をくぐり、建物への道を進む。そこは煉瓦が敷き詰められて見るからに優美なしつらえだった。イタリーからわざわざ取り寄せたものだと家主が言っていた。 屋敷の入り口まで来て、呼び鈴を鳴らす。出迎えてくれるはずのメイドを待つ間に、彼は帽子を取り、肩に積もった雪を払った。粉の雪だから傘はいらないと思ってささなかったが、毛の布地にはわずか10分ほどの間にびっちりと白いものが積もっていた。
「…いらっしゃいませ」 「今日は、御当主様は? 頼まれた本を持ってきたのですが」 「ご主人様は今日はご親戚のパーティーがございまして…夜までお戻りにならないとのことです。あの、お言付けはお嬢様が伺っていらっしゃるはずですので、そちらで」 普通なら、こんな時には応接室に通されるものだろう。そこに家主なりなんなり、家の者がやってくるのだ。でも男が案内されるのは上がってすぐの右手の大きな扉…その奥は2間続きの大きなサンルームになっている。庭にせり出した部分が格子の硝子張りで出来ていて、天気の良い日にはさんさんと日が差し込むのだ。そして、その部屋の主は――…。
「まあ…いらっしゃいませ。こんなにお天気が悪いのに、申し訳ございません。駅から連絡をいただければ迎えの者を行かせましたのに」 部屋の奥、赤々と燃える暖炉のそばの揺り椅子に腰掛けて、こちらに微笑みかける。この部屋に咲いているのは、窓を打つ雪よりもずっと透き通った白さを持った一輪の華だった。
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「お父様も…篠塚様にお願いした本ならば、ご自分が受け取りに行けば宜しいのに…」 いくらかの安堵の心地で、本日の来訪の理由である頼まれものの本を差し出した。白くて長い指が綺麗に並んでそれを受け取る。細腕には少し余るほどのずっしりした重さを膝の上まで運び、彼女は愛おしそうにその表紙を撫でた。 「教育心理学…なにやら難しそうですのね。お父様ってば、お分かりになるのかしら…?」 絵の中から飛び出してきたような少女。何度こうして対面しても、この人が俗世の人間だとは信じがたい。あの指先にぬくもりはあるのだろうか? 白い首筋に命を刻む脈を感じることが出来るのだろうか…? 「…如何、致しました?」 ――あの方とは、どうしてどこまでも違うのだろう…? それでもこの人が美しく愛らしいことに変わりはない。男は慌てて、視線をそらしていた。 「あ、いえ…すみません」 はあ…、と大きくため息を付いてしまうと、少女はまたくすくすと笑った。 「お疲れですのね、篠塚様。やはり父の進めている事業は大変なのですか? 色々と難題を押しつけてご心労が溜まっていらっしゃるのかしら?」 「本当に…すごい雪…。今年は特に良く降りますものね。篠塚様のお家からこちらまで通われるのは大変でしょう」 「あ、いえ。…これも仕事ですから。何でもありませんよ?」
「普通」とは何を指して言う言葉なのかも分からないが、目の前にいる人は俗世の人間などとは到底比べものにはならないほどの存在だ。触れれば砕けてしまいそうなはかなさがありながら、その一方で何とも言えない気品がある。この界隈でも有数の地主、戦前はそれこそ口をきくのも叶わないような家柄だっただろう。 男…篠塚政哉(しのづか・まさや)は旧一籐木財閥が戦後名を改めた総合グループの一社員として働いていた。そこの頭取である一籐木月彦氏が旧知の友であったため、親族でもないのに彼の側近としての役割もしている。だが…親族企業の中での部外者は色々と難しい立場に立たされることが多い。そろそろ30も後半に入った彼にはいくら器用に立ち振る舞ったところで上手く行かないことが増えてきていた。 月彦氏のそばにいて役に立ちたい、でも自分ではもうどうすることも出来ない…そんなとき、一籐木が事業の一環として、教育分野に手を伸ばすという話が持ち上がったのである。学生時代は教職者を志したこともあった彼は、その事業に携わることを決意した。他の幹部たちが閑職だと見向きもしなかったのも幸いした。 ――そして。一籐木が運営する新しい学園を設立するためにと、土地提供を名乗り出たのがここにいる少女の父親である人物であった。
「父が…いつか理想の学校を創りあげたいというのはもう口癖の様なものでしたから。皆、そんな大それたことをと本気にしておりませんでしたのに…篠塚様のお陰ですわ。父も毎日とても嬉しそうで…」 「あ、…いえ。そんな、私などは…」 この人の奏でるのは夢に誘うような音色。一度耳に入れるといつまでも響き渡り、余韻に浸ってしまう。この感情をありきたりの言葉で語ることなど出来ない。それにこの少女と自分の間には何とも言えない複雑な溝があるのだ。 …分かっている、分かっていても会いに来てしまう。 少女、と形容してしまうが、目の前の人は何年か前に成人式を済ませていると聞いている。と言っても政哉とは10以上の歳の開きがあることになる。彼も歳の割には若く見られるが、それでも30を超えているというのは見て取れるだろう。 「あ、あのっ…今日は璃紗子様にもお渡ししたいものがあって…」 「わたくしに…で、ございますか?」 「た…たいした物ではございませんが」 受け取ったつつみを彼女が開いている間、もうどうしていいのか分からなかった。やがて、その品を目にした人が「まあ」と小さく声を上げた。 「素敵、これを…わたくしに?」 「すみません、貰い物で…でも男の私が持っていても仕方ありませんので、宜しかったら…」 言い訳などしなくていいのに、つい口を滑らせてしまう。いつもの仕立屋が、余りの布でこしらえたのだとこれをよこしたのだ。自分が妻帯者でないことなど知っているはずなのに、どうしてそんなことをするのかよく分からない。母親にやろうとも…もう年老いた彼女はこんなハイカラな品は自分にはもったいないと受け取らないのだ。 政哉の言葉を黙って聞いていた璃紗子が、やがて静かに頷いた。 「ありがとうございます…でも、これはわたくしには使えないものですわ。海外留学しております妹が戻りましたら、渡しても宜しいでしょうか? それとも…篠塚様には他にプレゼントしたい方がいくらでもいらっしゃるのではございませんか?」 すまなそうに、でもしっかりした口調で彼女は言った。政哉はハッとして、彼女の顔を見つめる。大きな瞳が少し潤んで見えた。 「申し訳、ございません…でも、篠塚様だってせっかくの品が使われないままでしたらお嫌でしょう?」 「わたくしも…こんな素敵なお品を頂いたなら、綺麗に着飾ってどこかに出かけてみたいですわ」 その言葉に、詫びるひとことも出てこなかった。何てことをしてしまったのだろう。ただ、今日はここに来るついでがあったので、つい女物ならばと持参してしまった。まあ…政哉から見てもこちらに差し上げてもそんなにおかしくはない丁寧な品だと思ったから。女性ものなどよく分からない。ただ、何か目新しいもので喜ぶ顔が見たいと思った。 聞いていたのに。この人が身体が弱く、定期的な通院さえままならないので主治医が家に訪れていることを。窓を開けて庭を眺めることすら、月に何度も出来ることではない。無理をすれば必ず熱が出てしまう。 外出用の品物など…この人にとっては辛いだけのものなのに…。 「…あ、お気になさらないで。お気持ちだけは有り難くちょうだい致しますわ。…さあ、お茶のお代わりをどうぞ」 心に刺さった後悔の棘がひりひりと痛むのを感じながら、それでも彼女に悟られないように必死で笑みを頬の上にかたち取った。
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「あなたになら、全てを安心してお任せ出来る」 一体いくらの価値があるのか政哉などには計り知れない程の土地財産を学園設立のために提供しながら、東城氏は何度も同じ台詞を繰り返した。東城伍郎氏…有り余る資産を持ちながら、偉ぶったところの微塵もない穏やかな腰の低い男だった。政哉が山間の雪国出身の人間だと知っても蔑むこともない。不思議な人物だと思った。 しかし。東城氏のその言葉が、単に政哉をひとりの企業の有能な人材として捉えているのではないとだんだん気付いてくる。仕事上のつき合いだけではなく、彼は再三に渡り政哉を自宅に招こうとした。しかし、仕事と私事は分けた方がよい、私情が入ると上手く行かなくなる。そう思ってやんわりと断り続けていると、やがて彼は思い切ったように切り出した。 「私の妻は…若くして病に没しましたが…娘がふたりおりまして」 妹の方は大学を卒業したあと、英国に語学留学をしていると言った。しかし、姉の方は家にいると。ある程度の大きな家で。跡取りとなる息子がいない場合、娘にこれと見込んだ婿を縁づけようとするのは良くあることだった。 渡りに船のおいしい話だったのかも知れない。でも…政哉は頑なに固辞するしかなかった。そうしなければならない理由がある。それは…いくら、世話になっている東城氏の有り難い申し出であっても同じことだった。 「…それでは」 「遠目でも宜しいのです…一度、娘をご覧になって頂けませんか…?」
そう言われて。いくらかの後ろめたさを抱えながらも、庭先からこっそりと東城の娘の部屋を眺めることになった。 大きく庭にせり出した硝子張りの南向きの格子窓。そこの一角が開き、中にいる人の姿がかいま見ることが出来た。服の上からでも分かるほっそりとした少女が、淡い微笑みを浮かべて外を見ていた。細い三つ編みを2本肩から垂らして、膝に編みかけのレース編みを置いて。ハタチを越えているとは思えないさながら絵の中の少女だった。 「…医者にはあとどれくらい命をとりとめられるか、それも分からないと言われています。でも私としては…娘に人並みの幸せを与えてやりたい。こんなことをお願いするのは申し訳ないと思います。でもあなたになら娘も…私の財産全てを託してもいい、そう思うのです」 隣りにいる東城氏が震える声でそう告げた。 「もちろん、篠塚さんの思いのままに…無理は申し上げません。娘にはそれとなく告げておきます。ですから…もしも宜しければ、時々でいいので家を訪ねてやってくださいませんか? 娘は年少より病弱で友達らしい友達もおりません…あの部屋から出ることすらないのです」 娘のために、丹誠込めて植えられた四季咲きのバラ。「小春日和」という言葉がふさわしい初冬の日差しにも咲き遅れてかぐわしい香を放っている。 政哉は長い時間、そこから動くことが出来なかった。あの人を妻にすることなど、どうして出来るだろう? あんな透明な美しさを放つ存在をこの腕に抱き留めることなんて出来ない、…でも。 声が、聞きたいと思った。自分に向けられた瞳の色が見たいと思った。…側に行きたかった、それだけが確かにその時彼の中に湧いてきた純粋な欲求だった。
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どんな人間にでも同じく向けられるであろうあの親愛の瞳の色を、そうと知りながらも嬉しく見つめ返してしまう。この胸の痛みは何だろう? まさか、少年の様な自分ではあるまいに。それなりの人生を歩み、女性の影がなかった訳ではない。ただ、どのものにも心内を晒すことは出来なかった。恋愛は恋愛であり、それはその場限りのことでしかなかったのだ。 …自分は、どうしたのだろう。どうなってしまったのだろう。 いとまを告げて席を立つ時に、自分を見つめる瞳。「お気を付けて」と告げる口元。別の言葉を奏でて欲しいと思ってはならないのか。再び、ここを訪れることを心待ちにしていると言って欲しい。いや、もうしばらく留まって欲しいと…どうして伝えてくれないのだろう。望まれれば、どんなに困難でもそうしてしまうだろう。この人の微笑みを頬から消さないように、自分が出来ることは一体何なのだろうか…? 片手にも余るほどのか細い存在が、いつしか政哉の全てを支配し始めていた。もちろん、仕事はきちんとこなす。それはひとりの人間として当たり前のことだ。でも、あの屋敷での時間が自分を支えていることがはっきり分かっていた。あの人に会えるから、頑張れる。
◆◆◆
…何か、特別の話があるのだ。 自宅ではなく、こんなところに呼び出すのはそれなりの理由があるのだろう。心当たりと言ったらひとつしかない。政哉の胸が知らずに高鳴った。 「…もう、お察しのことと存じますが…」 「娘の…璃紗子のことなのですが…」 ――やはり。次の言葉が出るまでの時間がもどかしい。政哉の乾いた唇が軽く空を切った。しかし、次の瞬間に耳に届いた言葉は彼が期待していたどれでもなかった。 「何度も訊ねてみたのですが…あなたとの縁談は承諾しかねると申しております…私としても大変、残念なことですが…」 「…え…」 信じられなかった。嘘だと言って欲しかった。あの静かな親愛に満ちた微笑みの下に、何の感情もないのか? 訪ねるたびに招き入れてくれるあの部屋。テーブルに来訪を喜んでくれるように花が活けられて、食べ切れぬほどの自家製の菓子が並ぶ。時としてはそのまま夕食の席に招かれることもある。あんなに嬉しそうに自分の話を聞いてくれるじゃないか。…それなのに。 ただの、社交辞令。父親の知り合いだから、仕事上の大切な人間だから、…だからなのか? それ以上の何者でもないのか…。
薫り高い特製ブレンドの水面が静かに波打つ。それきり、何ひとつ、言葉を発することは出来なかった。
続く(030509)
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