「並木通りのシンデレラ」外伝
…1…

 

 

 さらさらと音もなく降りしきる雪。お昼過ぎから降り出したそれが、いつの間にか目に映る風景の全てを己が色に染め変えていた。何者も寄せ付けない…汚れのない白。道普請したばかりの砂利道を早足で歩いた。寒いから足早になっているのではない。もっと他に理由があった。

 つばのぐるりと回った焦げ茶色の帽子から出た耳がキンと痛む。まとっているのはその帽子と同じ色のコート…帽子と同じ、と言うよりは、コートのあまり布で帽子を仕立てたと言った方がいい。いつも頼む仕立屋はそう言う風に無駄を出さずに工夫するのが好きだった。

 男は、停車場を降りて大通りを道なりにいくらか歩いてから、ひときわ大きな屋敷の前で足を止めた。勝手知ったる庭、と言った感じで重厚な構えの鉄製の門をくぐり、建物への道を進む。そこは煉瓦が敷き詰められて見るからに優美なしつらえだった。イタリーからわざわざ取り寄せたものだと家主が言っていた。
 そして――その先にあるのは。二度の戦火を逃れてその姿を留めている、美しい洋館。こんなに大きく見事なものはこのごろではあまり見なくなっていた。昭和の初期に建てられたものだと聞いて合点がいく。中央にとんがり屋根をデザインした総二階の屋敷に一体何十の部屋があるのだろう…庶民の彼には皆目見当がつかない感じだ。毎週のように訪れるようになった今も、ここに来るたびに足がすくんでしまうのだ。
 屋敷の右手はこれまたどこまで続くのか知れない広大な森になっていた。それを初めて見た時に、もしかしたらふるさとに戻ってきたのかと錯覚したほどだ。男の生まれ育ったのは山間の小さな村だった。まあ、そこにいたのは10になるかならないかの頃までだったが。大きく枝を広げた広葉樹が、もしも白樺だったなら、そこはまさしく懐かしい場所だった。

 屋敷の入り口まで来て、呼び鈴を鳴らす。出迎えてくれるはずのメイドを待つ間に、彼は帽子を取り、肩に積もった雪を払った。粉の雪だから傘はいらないと思ってささなかったが、毛の布地にはわずか10分ほどの間にびっちりと白いものが積もっていた。

 

「…いらっしゃいませ」
 自分よりずっと年若いメイドは礼儀正しくお辞儀する。それだけで何とも言えなく気恥ずかしい。脱いだコートを受け取って貰い、促されるままに中に入る。顔なじみの彼女は彼が何をしに来たのかもちゃんと心得ている。あれこれ詮索することもなく、自然に奥へと招き入れた。

「今日は、御当主様は? 頼まれた本を持ってきたのですが」
 段差のない玄関で当たり前のようにスリッパを出されて、男は少し躊躇した。スリッパ入れの一番上段には家主である人のいつも履いている黒い室内履きが見えた。と言うことは彼は留守なのだろうか? 何しろ多忙な身の上だ、こうして自宅を訪ねてもめったに顔を合わせることもない。

「ご主人様は今日はご親戚のパーティーがございまして…夜までお戻りにならないとのことです。あの、お言付けはお嬢様が伺っていらっしゃるはずですので、そちらで」

 普通なら、こんな時には応接室に通されるものだろう。そこに家主なりなんなり、家の者がやってくるのだ。でも男が案内されるのは上がってすぐの右手の大きな扉…その奥は2間続きの大きなサンルームになっている。庭にせり出した部分が格子の硝子張りで出来ていて、天気の良い日にはさんさんと日が差し込むのだ。そして、その部屋の主は――…。

 

「まあ…いらっしゃいませ。こんなにお天気が悪いのに、申し訳ございません。駅から連絡をいただければ迎えの者を行かせましたのに」

 部屋の奥、赤々と燃える暖炉のそばの揺り椅子に腰掛けて、こちらに微笑みかける。この部屋に咲いているのは、窓を打つ雪よりもずっと透き通った白さを持った一輪の華だった。

 

◆◆◆


「本当に…篠塚様にはいつもいつもご迷惑ばかりお掛けしてしまって…」
 メイドがお茶の支度をしたワゴンを押してきて、テーブルの上に支度を整えている間、彼女は何度も頭を下げて申し訳なさそうに微笑んだ。ゆったりと体を覆うドレスをまとっている。彼女のはかなさを際だたせるような、淡いクリーム色。甘すぎない程度のレース飾りが施されていた。肩から暖かい色のショールを掛けて。

「お父様も…篠塚様にお願いした本ならば、ご自分が受け取りに行けば宜しいのに…」
 今日は少し体調がいいらしい。白い頬にいくらかの赤みがさしている。化粧など施すまでもなく、透き通った白さを持つその肌はその日の彼女の様子を映す鏡だ。医学の心得などはない男でもそれが分かるほどに。

 いくらかの安堵の心地で、本日の来訪の理由である頼まれものの本を差し出した。白くて長い指が綺麗に並んでそれを受け取る。細腕には少し余るほどのずっしりした重さを膝の上まで運び、彼女は愛おしそうにその表紙を撫でた。

「教育心理学…なにやら難しそうですのね。お父様ってば、お分かりになるのかしら…?」
 煉瓦色の固い素材を面白そうに眺めながら、くすくすと笑い声を上げる。綺麗に梳かれた髪が腰の辺りまで伸びて、やわらかく彼女を包み込む。透けそうな白い肌にとても似合う薄茶の髪。

 絵の中から飛び出してきたような少女。何度こうして対面しても、この人が俗世の人間だとは信じがたい。あの指先にぬくもりはあるのだろうか? 白い首筋に命を刻む脈を感じることが出来るのだろうか…?

「…如何、致しました?」
 食い入るように見つめていたのを感じ取ったのか、不思議そうな表情でこちらを見つめる。瞳の色も薄い。

 ――あの方とは、どうしてどこまでも違うのだろう…?

 それでもこの人が美しく愛らしいことに変わりはない。男は慌てて、視線をそらしていた。

「あ、いえ…すみません」
 緊張した手元が滑って、カップの底が受け皿に大きく当たる。がちゃん、と派手な音が出てもっと慌ててしまう。この家の食器はどれも高価な品だ。舶来ものの収集が趣味の家主がせっせと買い付けたもので、それを普段使いにしてしまうのがすごい。良かった、ヒビなどは入っていない。

 はあ…、と大きくため息を付いてしまうと、少女はまたくすくすと笑った。

「お疲れですのね、篠塚様。やはり父の進めている事業は大変なのですか? 色々と難題を押しつけてご心労が溜まっていらっしゃるのかしら?」
 ゆっくりしてらしてね、と小さく付け足して、彼女は静かに窓の外に目をやった。

「本当に…すごい雪…。今年は特に良く降りますものね。篠塚様のお家からこちらまで通われるのは大変でしょう」

「あ、いえ。…これも仕事ですから。何でもありませんよ?」
 慌ててそう答えてしまってから、後悔する。どうしてもっと気の利いたことが言えないのだろう? 女性の扱いなんて、とっくに心得てるつもりだったのに、この人を前にすると今までの全てが役に立たない。彼女が少しも機嫌を損ねることなく、緩やかに微笑んでいることだけが救いだ。

 

 「普通」とは何を指して言う言葉なのかも分からないが、目の前にいる人は俗世の人間などとは到底比べものにはならないほどの存在だ。触れれば砕けてしまいそうなはかなさがありながら、その一方で何とも言えない気品がある。この界隈でも有数の地主、戦前はそれこそ口をきくのも叶わないような家柄だっただろう。

 男…篠塚政哉(しのづか・まさや)は旧一籐木財閥が戦後名を改めた総合グループの一社員として働いていた。そこの頭取である一籐木月彦氏が旧知の友であったため、親族でもないのに彼の側近としての役割もしている。だが…親族企業の中での部外者は色々と難しい立場に立たされることが多い。そろそろ30も後半に入った彼にはいくら器用に立ち振る舞ったところで上手く行かないことが増えてきていた。

 月彦氏のそばにいて役に立ちたい、でも自分ではもうどうすることも出来ない…そんなとき、一籐木が事業の一環として、教育分野に手を伸ばすという話が持ち上がったのである。学生時代は教職者を志したこともあった彼は、その事業に携わることを決意した。他の幹部たちが閑職だと見向きもしなかったのも幸いした。
 むろん、月彦氏はそれをなかなか認めようとはしなかった。一籐木財閥がかたちを変えた企業とはいえ、それの基盤を造り大きく育てたのは月彦氏本人だ。大きくなりすぎたそれを支えていくためにお前の存在はなくてはならないと言うのだ。それはとても嬉しい言葉だった。だが、最後には政哉は自分の意を貫いた。

 ――そして。一籐木が運営する新しい学園を設立するためにと、土地提供を名乗り出たのがここにいる少女の父親である人物であった。

 

「父が…いつか理想の学校を創りあげたいというのはもう口癖の様なものでしたから。皆、そんな大それたことをと本気にしておりませんでしたのに…篠塚様のお陰ですわ。父も毎日とても嬉しそうで…」

「あ、…いえ。そんな、私などは…」

 この人の奏でるのは夢に誘うような音色。一度耳に入れるといつまでも響き渡り、余韻に浸ってしまう。この感情をありきたりの言葉で語ることなど出来ない。それにこの少女と自分の間には何とも言えない複雑な溝があるのだ。

 …分かっている、分かっていても会いに来てしまう。

 少女、と形容してしまうが、目の前の人は何年か前に成人式を済ませていると聞いている。と言っても政哉とは10以上の歳の開きがあることになる。彼も歳の割には若く見られるが、それでも30を超えているというのは見て取れるだろう。

「あ、あのっ…今日は璃紗子様にもお渡ししたいものがあって…」
 いけない、もう少しで忘れるところだった。政哉は抱え持ってきた紙袋の中から小さな包みを取り出した。

「わたくしに…で、ございますか?」
 少女…璃紗子が少し小首を傾げて、こちらを見つめる。

「た…たいした物ではございませんが」

 受け取ったつつみを彼女が開いている間、もうどうしていいのか分からなかった。やがて、その品を目にした人が「まあ」と小さく声を上げた。

「素敵、これを…わたくしに?」
 璃紗子が手にしたのは焦げ茶色の手袋だっだ。手に馴染む細い形で、手首のところがボタン留めになっている。フチにぐるりと控えめにビーズ刺繍が施されていた。

「すみません、貰い物で…でも男の私が持っていても仕方ありませんので、宜しかったら…」

 言い訳などしなくていいのに、つい口を滑らせてしまう。いつもの仕立屋が、余りの布でこしらえたのだとこれをよこしたのだ。自分が妻帯者でないことなど知っているはずなのに、どうしてそんなことをするのかよく分からない。母親にやろうとも…もう年老いた彼女はこんなハイカラな品は自分にはもったいないと受け取らないのだ。

 政哉の言葉を黙って聞いていた璃紗子が、やがて静かに頷いた。

「ありがとうございます…でも、これはわたくしには使えないものですわ。海外留学しております妹が戻りましたら、渡しても宜しいでしょうか? それとも…篠塚様には他にプレゼントしたい方がいくらでもいらっしゃるのではございませんか?」

 すまなそうに、でもしっかりした口調で彼女は言った。政哉はハッとして、彼女の顔を見つめる。大きな瞳が少し潤んで見えた。

「申し訳、ございません…でも、篠塚様だってせっかくの品が使われないままでしたらお嫌でしょう?」
 彼女は膝の上で、元の通りに綺麗に包みを整えた。

「わたくしも…こんな素敵なお品を頂いたなら、綺麗に着飾ってどこかに出かけてみたいですわ」

 その言葉に、詫びるひとことも出てこなかった。何てことをしてしまったのだろう。ただ、今日はここに来るついでがあったので、つい女物ならばと持参してしまった。まあ…政哉から見てもこちらに差し上げてもそんなにおかしくはない丁寧な品だと思ったから。女性ものなどよく分からない。ただ、何か目新しいもので喜ぶ顔が見たいと思った。

 聞いていたのに。この人が身体が弱く、定期的な通院さえままならないので主治医が家に訪れていることを。窓を開けて庭を眺めることすら、月に何度も出来ることではない。無理をすれば必ず熱が出てしまう。

 外出用の品物など…この人にとっては辛いだけのものなのに…。

「…あ、お気になさらないで。お気持ちだけは有り難くちょうだい致しますわ。…さあ、お茶のお代わりをどうぞ」
 彼女の言葉に促されるように、壁際で控えていたメイドがテーブルに歩み寄る。

 心に刺さった後悔の棘がひりひりと痛むのを感じながら、それでも彼女に悟られないように必死で笑みを頬の上にかたち取った。

 

◆◆◆


 自分の生活とはそれほど離れていない場所に、こんな異質の空間があるとは知らなかった。運命にただ従うように学業を終え、一籐木という企業の一員となり、がむしゃらに仕事に没頭してきた。そうしていなければどうにもならない想いがあったから。忙しさに身を投じているしかなかったのだ。

「あなたになら、全てを安心してお任せ出来る」

 一体いくらの価値があるのか政哉などには計り知れない程の土地財産を学園設立のために提供しながら、東城氏は何度も同じ台詞を繰り返した。東城伍郎氏…有り余る資産を持ちながら、偉ぶったところの微塵もない穏やかな腰の低い男だった。政哉が山間の雪国出身の人間だと知っても蔑むこともない。不思議な人物だと思った。

 こういう仕事をしていて出逢うのはどうしても資産家が多い。戦後の今では皆が平等に同じ身分であるが、その昔は様々な称号を持っていた由緒正しい家系の人間たちだ。家柄を重んじる人々は自分たちの地位を誇りに思うあまり、目下だと決めた者を見下す傾向にある。何度、そんな目で見られたことだろう。学生時代から、それは絶えず政哉に向けられていた視線だった。

 しかし。東城氏のその言葉が、単に政哉をひとりの企業の有能な人材として捉えているのではないとだんだん気付いてくる。仕事上のつき合いだけではなく、彼は再三に渡り政哉を自宅に招こうとした。しかし、仕事と私事は分けた方がよい、私情が入ると上手く行かなくなる。そう思ってやんわりと断り続けていると、やがて彼は思い切ったように切り出した。

「私の妻は…若くして病に没しましたが…娘がふたりおりまして」

 妹の方は大学を卒業したあと、英国に語学留学をしていると言った。しかし、姉の方は家にいると。ある程度の大きな家で。跡取りとなる息子がいない場合、娘にこれと見込んだ婿を縁づけようとするのは良くあることだった。
 実際、政哉にそんな話が持ち上がったのは二度や三度ではない。学歴にも人としての全てに置いても申し分ない。柔らかな人当たりの良い物腰も好感が持てる。しかも…身軽だ。継がなければならない家も財産もない。貧しい田舎を捨てて母とふたりこの都会に出てきた彼には帰る故郷もないのだ。

 渡りに船のおいしい話だったのかも知れない。でも…政哉は頑なに固辞するしかなかった。そうしなければならない理由がある。それは…いくら、世話になっている東城氏の有り難い申し出であっても同じことだった。

「…それでは」
 東城氏はどこか思い詰めた様な表情で政哉に言った。

「遠目でも宜しいのです…一度、娘をご覧になって頂けませんか…?」

 

 そう言われて。いくらかの後ろめたさを抱えながらも、庭先からこっそりと東城の娘の部屋を眺めることになった。

 大きく庭にせり出した硝子張りの南向きの格子窓。そこの一角が開き、中にいる人の姿がかいま見ることが出来た。服の上からでも分かるほっそりとした少女が、淡い微笑みを浮かべて外を見ていた。細い三つ編みを2本肩から垂らして、膝に編みかけのレース編みを置いて。ハタチを越えているとは思えないさながら絵の中の少女だった。

「…医者にはあとどれくらい命をとりとめられるか、それも分からないと言われています。でも私としては…娘に人並みの幸せを与えてやりたい。こんなことをお願いするのは申し訳ないと思います。でもあなたになら娘も…私の財産全てを託してもいい、そう思うのです」

 隣りにいる東城氏が震える声でそう告げた。

「もちろん、篠塚さんの思いのままに…無理は申し上げません。娘にはそれとなく告げておきます。ですから…もしも宜しければ、時々でいいので家を訪ねてやってくださいませんか? 娘は年少より病弱で友達らしい友達もおりません…あの部屋から出ることすらないのです」

 娘のために、丹誠込めて植えられた四季咲きのバラ。「小春日和」という言葉がふさわしい初冬の日差しにも咲き遅れてかぐわしい香を放っている。

 政哉は長い時間、そこから動くことが出来なかった。あの人を妻にすることなど、どうして出来るだろう? あんな透明な美しさを放つ存在をこの腕に抱き留めることなんて出来ない、…でも。

 声が、聞きたいと思った。自分に向けられた瞳の色が見たいと思った。…側に行きたかった、それだけが確かにその時彼の中に湧いてきた純粋な欲求だった。

 

◆◆◆


 週に一度ほど…ほんの短い時間ではあったが、政哉は東城の屋敷を訪ねるようになっていた。初めは家主である東城氏のいる時に。そして…だんだん慣れてくると彼が不在と分かっていても。触れることも叶わない純白の天使に会うために時間をやりくりしていた。
 淡い微笑みを視界に捉えて、ここへ来て良かったと思う。明るい頬の色を見て安堵する。ゆっくりと紡ぎ出す会話が心を温かく和ませていった。正月を過ぎ、立春を過ぎ…それでも春はまだ遠い。暦の上では訪れを告げても、今年は特に雪が多く、白いものが日陰に溶けぬうちに新しいものが落ちてくる。真っ赤な寒椿が積もった重みに耐えきれず、その花弁ごと白い大地に落ちていく。

 どんな人間にでも同じく向けられるであろうあの親愛の瞳の色を、そうと知りながらも嬉しく見つめ返してしまう。この胸の痛みは何だろう? まさか、少年の様な自分ではあるまいに。それなりの人生を歩み、女性の影がなかった訳ではない。ただ、どのものにも心内を晒すことは出来なかった。恋愛は恋愛であり、それはその場限りのことでしかなかったのだ。

 …自分は、どうしたのだろう。どうなってしまったのだろう。

 いとまを告げて席を立つ時に、自分を見つめる瞳。「お気を付けて」と告げる口元。別の言葉を奏でて欲しいと思ってはならないのか。再び、ここを訪れることを心待ちにしていると言って欲しい。いや、もうしばらく留まって欲しいと…どうして伝えてくれないのだろう。望まれれば、どんなに困難でもそうしてしまうだろう。この人の微笑みを頬から消さないように、自分が出来ることは一体何なのだろうか…?

 片手にも余るほどのか細い存在が、いつしか政哉の全てを支配し始めていた。もちろん、仕事はきちんとこなす。それはひとりの人間として当たり前のことだ。でも、あの屋敷での時間が自分を支えていることがはっきり分かっていた。あの人に会えるから、頑張れる。

 

◆◆◆


 翌日。関係者を集めての定例の会議が開かれた。各種の手続きも終わり、とうとう森を切り開き、実際の学舎建設が始まろうとしていた。一籐木と東城氏の意を汲んだ、素晴らしい人材も揃いつつある。確かな手応えを得て、心地よい疲労感を味わっていると東城氏が傍らに来ていた。これから、お茶でもどうかというのだ。
 いつものように彼女の待つ屋敷に招かれるのかと思った。しかし、彼が指定したのは駅前にある小さなコーヒー専門店だった。二階の見晴らしのいい特等席に案内される。

 …何か、特別の話があるのだ。

 自宅ではなく、こんなところに呼び出すのはそれなりの理由があるのだろう。心当たりと言ったらひとつしかない。政哉の胸が知らずに高鳴った。

「…もう、お察しのことと存じますが…」
 いつもと変わらず、静かな口調で彼は話を切り出す。政哉はその先にある真実を願って、テーブルの下で膝の上に置いた手を固く握りしめていた。

「娘の…璃紗子のことなのですが…」

 ――やはり。次の言葉が出るまでの時間がもどかしい。政哉の乾いた唇が軽く空を切った。しかし、次の瞬間に耳に届いた言葉は彼が期待していたどれでもなかった。

「何度も訊ねてみたのですが…あなたとの縁談は承諾しかねると申しております…私としても大変、残念なことですが…」

「…え…」
 吐息と共に、微かに声が漏れていた。どういうことだ? …どうして?

 信じられなかった。嘘だと言って欲しかった。あの静かな親愛に満ちた微笑みの下に、何の感情もないのか? 訪ねるたびに招き入れてくれるあの部屋。テーブルに来訪を喜んでくれるように花が活けられて、食べ切れぬほどの自家製の菓子が並ぶ。時としてはそのまま夕食の席に招かれることもある。あんなに嬉しそうに自分の話を聞いてくれるじゃないか。…それなのに。

 ただの、社交辞令。父親の知り合いだから、仕事上の大切な人間だから、…だからなのか? それ以上の何者でもないのか…。

 

 薫り高い特製ブレンドの水面が静かに波打つ。それきり、何ひとつ、言葉を発することは出来なかった。

 

 

続く(030509)

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