「並木通りのシンデレラ」外伝
…2…

 

 

 久しぶりに晴れ上がった空には雲ひとつなく、澄み渡った水色が遠くまで続いている。それがほんのりと霞んでいるのが季節の移り変わりを感じさせる。

 停車場を降りて古い家並みを歩いていく。こぢんまりした家屋が多い。まだ道の端にはこの前の大雪の名残があるが、もうほとんどが溶けだしている。雪の消え方の早さからも春の訪れを感じることが出来る。暦の上だけではない、確かにそれは足音を立てて、近づいてきている。

 冬の間、慣れ親しんだ厚いコートが少し重く感じていた。そろそろ衣類の入れ替えをしなければ。政哉は月彦の屋敷から援助を受け、大学を出た。しかしいつまでも居候しているわけにも行かない。そこで、母親とふたりで住む小さな家を借りていた。
 よく働く母で、70近くなった今でもせっせと外に出て仕事をしている。そのため、家の中のあれこれは政哉が自分で出来るようになっていた。これもしつけのたまものか。自分の衣類の入れ替えなどは朝飯前だ次の休みの計画などを考える。通い慣れたその道はそんなもの思いに耽るのにもってこいだった。

 

 やがて彼は一軒の家の前で立ち止まる。「片岡」と表札の出た小さなその建物は、それでも狭い庭じゅうに樹や草花が植えられて趣味のよいしつらえになっていた。門を開け、中に入ろうとした時に、背中から聞こえてくる軽やかな足音に気付いた。

「…おじ様っ!!」

 政哉は声のした方向を振り向いた。すらりと長身の健康そうな娘が駆けてくる。紺色のセーラー服、えんじのリボン。学校指定の三つ編みにされた髪は日本人にしてはあまりに淡い色で、彼女のミルク色の肌ととてもよく似合っていた。瞳の色もうす茶色…その奥に海の蒼があることを知っている人間はそう多くない。

「やあ、宵子ちゃん」
 にっこり微笑んで向かい合う。本当にこれくらいの若い娘はちょっと見ないうちに驚くほど大人びてくる。この先、どれくらい匂やかな女性になっていくのだろうか。

「また背が伸びたんじゃないかい? 育ち盛りなんだね」

「もう、やめてくださいっ! とっても気にしているんだから…ご存じでしょう!?」
 つんととがらせた口元がちょっとアンバランスでおかしい。政哉とはまだ目線がだいぶ違うが、女性の中では大きな方だろう。170センチくらいあるかも知れない。彼女なりに悩んでいるようだ。

 そんな微笑ましい仕草に自然と顔がほころんでしまう。政哉は気を取り直すため、ひとつ咳払いをしてから、かしこまって言った。

「高校合格、おめでとう…ほら、お祝いのケーキ」

「あら」
 政哉が差し出した有名洋菓子屋の箱を受け取りながら、宵子はまた、すぐに分かるほど不服そうな表情になった。

「ひどいわ、おじ様。いつまでも子供扱いしてっ!! せっかくのお祝いなのよ。どうせ銀座に行かれたのなら、スカーフの一枚でも買ってきてくださればよかったのに。私、お母様と出かけた時にショーウインドで素敵なのを見つけたのよ。ほら、駅前の…」

「まあ、宵子さん」
 その時。がらがらと玄関の引き戸が静かに開いて、その中から上品な装いの婦人が現れた。小柄ではあるが、花のような存在感がある。彼女がいるだけで周りの空気までが華やいでくるようだ。

「せっかく頂いたものを、そんな風に言っては駄目でしょう? ほら、早く着替えてきなさい。一緒にお茶にしましょう?」

「はあい」

 娘が家の中に入っていくのを目で追ってから、彼女はこちらに振り向いた。

「いらっしゃい、政哉。いつも悪いわね…そんな風に気を遣わなくていいのに…」

 申し訳なさそうに頭を下げる。でもその表情に浮かんだ穏やかな色は変わらない。陶器のように滑らかな白い肌もシミひとつなく、このつましい生活の中でも髪は豊かに黒々としている。さすがに娘時代のように長く伸ばすことはなく、それは肩先でふっつりと切りそろえられていた。やわらかいウェーブ。

「いえ、これは…私の一存で勝手にさせて頂いていることですので、どうかお気になさらず…梓お嬢様」

 手に届くほどの距離にありながら、触れたことのないその人を視線だけでなぞる。その静かな微笑みを黒目がちの大きな瞳がたしなめた。

「その呼び方、やめてくださいと言っているでしょう? …私は『お嬢様』なんかじゃないわ」
 少しふくれた頬もひそめた眉も変わらない。こんな些細な表情の変化を見るだけで、とても温かい気分になる。

 この人と娘になる宵子はよく姉妹に間違えられると言うが、それももっともだと思う。背丈などはとうに逆転していた。それに娘の方は年齢よりずっと大人びて見える。あまりふたりが似ていないことから、その父親の容貌が容易に感じ取れるほどだ。もっとも宵子自身は自分の父親のことなど知らない。梓もひとことも告げていないらしい。

「でも、私にとってはいつまでもお嬢様はお嬢様です…あ、母からも宵子ちゃんにお祝いの品を預かって参りました」

「まあ」
 茶色いカバンから取り出された小さな包みを梓は丁寧に受け取った。

「レザーで作った財布だそうです。高校生ともなれば、色々とそのようなものを持ち歩く機会が増えますからね。不慣れな手作業ですから不格好ですが、造りだけは丈夫に出来ているそうですよ」

「都喜子さん…本当にマメだわ、目もしっかりしているのね。もうお歳なのに…羨ましいわ。お元気?」

 袋から出したその表面を滑らかな長い指が辿る。針仕事をしながら生計を立てているらしいが、この人からはいつまでも昔のイメージが抜けない。やはり生まれが違うというのはこういうところに現れるのか。どこか浮世離れしながら、それでもしなやかな強さを感じる。

「はい、お嬢様にもお目に掛かりたいと申しておりました」

 にこやかに微笑んで頷く人を何とも言えない面持ちで見つめる。慕い続けた人…だが、どこまで行っても届かない人…。初めからそうだった。だから仕方ないのかも知れない。心に抱き続ける想いだけが政哉を長い間支配してきた。

 

 この人…梓は、政哉の母が使用人として働いていたお屋敷の末娘だった。戦前では華族の家柄。妾腹の娘であったが、実子と同じように育てられていた。娘はいずれ、嫁に出すことが出来る。そうして出来る親戚関係が大きな家にとっては大切なのだ。そう言う家主の思惑があってこそであった。
 政哉が初めて会った時、この人はまだ幼い少女だった。小学校にも上がっていなかったと思う。彼女にはたくさんの兄や姉がいたが、みな習い事などで忙しい。もっぱら政哉が遊び相手になっていた。梓もよくなついていた。
 母親が梓の身の回りの世話をしていたこともあり、使用人のことしては申し訳ないほどの扱いだったと思う。政哉は梓の父である家主にも気に入られ、学費を払って私立の学校に通わせて貰った。

「いずれはこの後藤家のために立派な働きをしてもらうからな、出世払いとして貰いたいものだ」

 自分の子供たちよりも成績が良く、評判の良い政哉を家主はとても可愛がってくれた。そのことにより、梓の他の兄姉たちからは煙たがられ、ぞんざいな扱いをされることも多かったが、そんなことは別に大したことじゃなかった。たくさん勉強して、いつまでも後藤家のために、梓お嬢様のために尽くしたい。いつもそれだけを心に留めていたから。

 そして…。高等学校の卒業を待たずに、梓には縁談の話が持ち上がっていた。政哉が大学に在籍していた頃のことである。誰でも名を知っている、産業界きってのやり手と言われていた男。しかし、女性問題などの悪い噂もたくさんあったため、それは必ずしも良縁ではなかったのかも知れない。ただ…それはあくまでも梓サイドの問題で。後藤家にとっては痛くもかゆくもない些細な事柄だった。
 政哉にはそんな運命を背負わされても愛らしく微笑む梓が不憫でならなかった。この結婚はどうしても幸せには行かないだろう。幼い頃からずっと見つめてきた人…とても自分のものに出来るとは思わなかったが、だが、誰よりも幸せになって欲しかった。もっと誠実な彼女を愛してくれる男と添い遂げて欲しかったのだ。それを…口に出すことなどが許されることではない。心の中でひっそりと祈ることしか出来なかった。

 しかし。春が来て、高校を卒業して夏の婚礼を待つばかりになった頃――。何と、梓が身籠もっていることが発覚したのだ。そして、その相手は誰も知らないままだった。
 もちろん政哉にも相手の男に関して心当たりひとつない。親しい間柄であるから、何度も問いただしてみたが、彼女は政哉にも母親の都喜子にも口を割らなかった。政哉たちにも内密にしていた位だったから、それを屋敷の者が知るはずもない。

 梓の父である家主は怒り、どうしても父親を知らさぬなら、もう家に置いておくことは出来ないと言い放った。それより、そんな子供、腹の上から殺してやろうと彼が言い放った時、政哉の母親は身を挺して梓をかばった。それが家主の逆鱗に触れ、そのまま即、解雇されたのだ。
 家を追われた梓は、実の母親の親戚に身を寄せた。それは他でもない、育ての母である家主の妻のはからいであった。おなかを痛めた子ではないにせよ、彼女は梓のことを我が子同然に可愛がっていたのだ。表だって手を差し伸べることは出来なかったが、彼女なりにやれる限りのことをしてくれた。

 政哉はまだ学業が残った状態で放り出されて途方に暮れていたところを、同郷出身の月彦に救われた。彼は政哉同様に夫と死に別れた母と共に雪深いふるさとを捨て、親戚を頼って東京に出てきた似たもの同士だった。ただし、その後の成り行きは異なる。ずっと使用人の子だった政哉に対し、月彦は母親が仕えていた屋敷の主人に気に入られ、養子となったのだ。
 いくらか政哉より年長の彼は、数年前に大学の課程を修了して、家業を継いでいた。しかも妻を娶ったばかりの。その彼のお陰で無事、残りの学生生活を終え、更に仕事まで世話をして貰った。月彦は政哉の人生の恩人なのである。彼の元で「一籐木」と言う家を大きくしてきた。今では押すに押されぬ総合企業として君臨している。それは他でもない月彦の手腕によるものであった。

 

 …だが、政哉は知らなかったのである。いや、こんな近くにいながらどうして気付かなかったのか自分でも分からない。言われてみれば全てはつじつまが合うのに…。

 数年経ったある日、月彦に告白された。人払いをしたふたりきりの場所で。

 言われてみれば、造作ないこと。…そう、宵子の父親が彼であったこと。ふたりはどこから見ても親子に違いなかった。それくらい宵子の中に月彦を見ることが出来た。梓はいつの間にか、彼の子を宿していたのだ。そして、それを隠したまま、ひとり産み育てていたわけである。

 梓のことを、後藤家の内情のことを、月彦には告げていなかった。そんな風に暴露するのは良くないと思った。だから、ただ母親が粗相をして解雇されてしまったとしか言わなかったのだ。それが事実の発覚を遅らせた。梓との関係のあと、娶った妻と月彦の間には数年が経ち、もう何人もの子がいたのである。

 

「あの…梓お嬢様」
 お茶の支度のため、家の中に向かおうとした梓を政哉はもう一度呼び止めた。

「彼が…やはり、宵子ちゃんに何かお祝いを、と言ってきてるのですが…」

 彼、と言うのは他でもない月彦のことだ。彼はある日偶然、幼い宵子の手を引いた梓と道ばたで再会してから、ふたりのことをずっと気に掛けてきた。彼自身は表沙汰になることも構わないことだったらしい。しかし、梓はそれを望まなかった。

 彼女は政哉の言葉に困ったように小さくため息を付いた。

「いつも申し上げているでしょう? …そのようにお心遣いを頂くのはとても迷惑なの。あの人と私は全く関わりはないのですから。それは、宵子とて同じこと」

 そう言って、政哉を見つめる瞳にはひとことでは言い尽くせないほどの深いものがあった。それを汲み取った上で、政哉も諦めたように微笑む。

「…そう仰ると思っておりましたので。彼にはあらかじめ断りを入れてあります。…ただ、伝言もありまして」

「…え?」
 梓はきょとんとして、小首を傾げた。その少女のような仕草が、彼女の過ごしてきた苦難の日々を忘れさせる。後ろ盾もなく、たったひとりの力で娘を育ててきた。何不自由なく育った彼女のどこにそんな強い力があったのかと驚かされるばかりだ。

「あなたがそんな風につれなくされるので、今までの分はみんな貯蓄とさせて頂きます、と。いずれ満期が来たら一気にどかんと行きますから、…その時はご容赦下さいとのことです」

「まあっ…!」
 芝居じみたその言葉に、梓は声を立てて笑った。

「何だか、政哉が言うと…本当に何かありそうね。少し恐ろしいものがあるかも知れないわ…」

 そう言いつつも、この人はしなやかに逞しい。たおやかに女らしい姿でありながら、その真はまっすぐで強い。政哉は実際の距離よりずっと遠いこの人を改めて感慨深く見つめた。

 

「ところで、政哉?」
 引き戸に手を掛けたところで、梓はもう一度思いだしたように振り返る。漆黒の髪が輪郭に沿って滑らかに流れた。ぴっちりと生えそろった長いまつげの下で、大きな瞳が泳ぐ。

「今日はどうしたの? 何か心配事かしら…顔色が優れないわ」

「え…?」
 その意外なひとことに、政哉は自分の頬を指で辿った。その仕草を梓の視線がおかしそうに追う。

「この前、ここに来た時は何だか心がここにあらず、と言う感じで宵子にたしなめられていたでしょう? その時はもっと幸せそうだったのに。今日のあなたはどうしたの? …何かあったの?」

「え…いえ、そんな」
 真実を見透かす瞳に見つめられると、胸がすくわれる思いがする。どぎまぎしてしまう心臓を持て余し、政哉はどうにかこの場を取り繕うとした。

「隠すことないのに。長いつき合いなんだから、あなたのことはだいたい分かるわ? …この間は、贈り物がどうとか言ってたわよね? 若いお嬢さんはどんなものを喜ぶか、とか。もしかして、いい人でも出来たのかと喜んでいたのだけど…違うの?」


 まっすぐな言葉に、政哉の方は返事をすることすら出来なくなった。言われてみればもっともである、この人とはもう30年近いつき合いになる。政哉にはまだ梓の謎めいた部分が多く見受けられるが、梓の方は政哉のことなどお見通しらしい。そんな風にいつも、人の心内まで見えてしまうような洞察力がある人だった。
 この人と…宵子を。ずっと守っていきたいと思っていた。出来ることなら、妻として一生涯を過ごしたい。そう願った日もあった。だが、いつでもきっぱりとその意は拒絶された。

「あなたの中にあるのは、愛情じゃないの。それは私と宵子への同情だわ。そんな風に見られるのはとても迷惑なの…気付いてないのかも知れないけど、私にはよく分かるわ」

 そう言われても、自分の気持ちは変わらなかった。ずっとこの人だけを見つめてきたのだ。他の女性なんて考えられない。もしも妻に出来ないなら、こうして一生をかけてお守りしよう。それが自分に出来る全てなら。
 親友であり人生の恩人である月彦が、時々羨ましく妬ましくなることがある。彼は最愛の妻がありながら、こうして梓の心まで手にしている。梓が一生を捧げたのは彼なのである。子持ちであっても彼女には縁談の話がなかったわけではない。だが、梓はきっぱりと断り続けた。それが月彦への愛なのだと思うとやりきれなかった。


「…それは…」

 東城家と璃紗子とのことは、話していなかった。だけどあんな風に何度も家に出かけるようになって、手ぶらでは行けないと思った。璃紗子は小食で刺激の強いものなどは身体に触るという。だから食べ物は良くない。でも、だからといってかたちの残るものは負担になるのではないか?

 あまりにそれを考えていたから、知らないうちに梓や宵子の前でも口にしていたらしい。自分が恥ずかしくなった。あの頃はまだ、璃紗子の側に結婚の意思がないことをきっぱりと告げられる前だったから。

 …秘められた天使との逢瀬を夢見がちに思っていた頃だったのだから…。


「困った人ね、政哉は」
 梓はうなだれてしまった彼を前にくすっと笑うと、首をすくめた。

「ひとつ…教えてあげましょうか? あなたの気付いてないこと」

 政哉が思わず顔を上げると、梓は静かに花のように微笑んでいた。政哉の憧れて止まない、永遠の微笑み…でもそれが憧れでしかないことに今は気付く。璃紗子に出逢ってしまってからは。彼女が心の中をひたひたと満たしていく中で、政哉にとって梓の存在が全く違うものになっていた。

「あなたは女性を守ろうとするでしょう? 自分の力で、幸せにしなくてはと考えているでしょう…?」

「…は?」
 梓のまっすぐな瞳を見つめながら、政哉は間の抜けた返事をしていた。

「あのね、政哉」
 梓はふっと、視線を泳がせた。そして、新しい季節に芽吹き始めた木の枝を愛おしそうに見つめた。

「私、思うの。宵子は女の子で良かったって。…だって、そうでしょう? 女性はひとりでも生きていけるわ、でも男性はそうじゃないの。温かく守られていないと壊れちゃう。気付かない人も多いけど…女より、ずっと弱い生き物なんだって、そう思うわ」

「梓お嬢様…」
 政哉は梓の言葉の真意がくみ取れなかった。ただ自分を惑わすために口から出任せを言っているんじゃないか、とすら考える。だが、この人がそんないい加減な人間でないことも知っていた。

「政哉、守ってやろうなんて傲慢な考え方をしては駄目。あなたは守られなくてはならないのよ? 今まで私や宵子には本当に良くしてくれたと思うわ…だから、幸せになって欲しいの。それを心から願っているわ」

 ああ、この人はやはり強い。そう思わずにはいられなかった。政哉が憧れて止まない存在は、やはりいつまでもその輝きを損なわないままに咲き誇る。愛情という名の意志を持って。…月彦への止まない愛情を大切に抱き続けて。だからこそ気高い、だからこそ…何者にも負けない真の女性なのだ。

「…ありがとうございます、お嬢様」


 どこまでも続く平行線の距離が、時として嬉しくなることもある。この人とはきっと永遠に変わらない。だからこそこうしてお側に仕えることが出来るのだ。そう言う愛もある、それに気付かせてくれる。答えは見いだせないままだが、少しだけ、心が軽くなった気がした。

 

 

 

続く(030518)

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