璃紗子は自分との結婚を考えてはいない。彼女にとって自分は、単なる父親の知り合い…仕事上の大切な相手だから、親しげに振る舞ってくれる。
それを思い知ったところで、政哉の璃紗子への想いが消えることはなかった。そればかりか、満たされないとは知りながら、焦がれる気持ちは日に日に深くなる。仕事をしている時は、それでも気が紛れる。しかし、ぽつんとひとりになった時に、胸に迫ってくる欲求があった。彼女に会いたい、今すぐに会いに行きたい。自分に微笑みかけてくれるあの瞳…それがもしも偽りであっても、すがりついてしまいたくなる。 たとえばあの屋敷の庭木のひとつになってしまえたら。そうしたら、彼女に気付かれることなく、ずっと姿を見つめていられるのに。いや、飾り棚の上の置物の人形でもいい。もしかしたらいつか彼女に手にとって貰えるかも知れない。もしも、あの細い指が自分に触れてくれたら…そう思っただけで胸を焦がす想いが己の身体ごと焼き尽くしてしまうような気がした。 ――もう、二度と会わずにいた方が良いのではないだろうか…?
駄目だ、このままでは気が狂ってしまう。 政哉は完全に自分の中の悪魔に負けていた。一時の幸福を味わいたくて、再び東城の家を訪れてしまったのである。
◆◆◆
「いらっしゃいませ、篠塚様…」 いつもと少しも変わることなくにこやかに出迎えてくれる。その微笑みをひと目見ただけで、胸がいっぱいになった。何か言葉を発しようとしても、なかなか声にならない。思わず額に手を当てて俯いてしまった。 「もうじき焼き菓子が仕上がりますわ。どうぞ召し上がっていって下さいましね」 メイドが心得たように一礼したあと退出していく。菓子の準備をしに行くのだろう。ひらひらとなびくエプロンのリボンを目で追う。会いたい一心で来てしまった今の政哉には言葉というものを思い出すだけのゆとりがなかった。 「そろそろ…学舎の建設が始まるそうですね。来年の春には開校出来る運びだとか。素晴らしいわ…」 美しくしつらえられた庭の向こうにこんもりと広がる森がある。深くてどこまで続くか分からないようなその土地を切り拓き、学園の建設が始まる。この仕事に就いて早いもので5年になる。政哉としてもこの施行については、胸に迫ってくる感動があった。 「…璃紗子様? お顔の色が優れませんね…」 ためらいがちにそう告げると、璃紗子がハッとして振り向いた。 「いえ…そのようなことはございませんわ。今日はとても気分が宜しいんですの…」 ただ事ではないだろう、そう思った時にはもう、上着を手に席を立っていた。 「人を呼びましょう…もうお休みになった方が宜しいです。もしもお体にさわると大変じゃないですか、無理をなさってはなりません」
「誰か…メイドの方をお呼びしましょう…お医者様も」 その時、がたんと席を立つ音がした。驚いて振り向く。 「…待って!」 「お待ちになって、篠塚様っ…! 本当に…わたくし、大丈夫ですから…っ…」 「…お嬢様っ!」 「やはり、…駄目ですよ、お休みにならないと。もしも大事になっては大変でしょう? せっかく春が来るのですから、お元気になられないと…」 「駄目っ…、政哉様。人を呼ばないでっ…!」 政哉は、ハッとしてテーブルに置いた自分の片手を見た。その上に璃紗子の手が添えられている。ふわりと羽のような力に感じたが、実際は彼女の出来る限りの力を振り絞っているらしい。指の先が爪の中まで白くなっていた。 「…璃紗子様…?」 政哉はゆっくりと向き直った。璃紗子が思い詰めた表情で、こちらを見ていた。大きな瞳が潤んでいく。そこから溢れた雫が、つっと色のない頬を伝って落ちていった。薄い唇が震えながら動く。 「わたくし、…本当に大丈夫なんです。だから、お座りになって。いつものように、色々なお話を聞かせて下さい…」 「駄目ですよ、このままどうにかなってしまったら、どうなさるんです。お体は大切にしなければ…」 しかし、政哉の腕の中で、璃紗子は力無くかぶりを振った。 「嫌…っ、そんなこと仰らないで。わたくしは大丈夫です、どこも悪くないですから。…だって、もしもそうだったら…政哉様がお帰りになってしまわれるでしょう…?」
「…せっかく、お出でになったのに。どうして戻られてしまうのです? …やっと、お出でになったのに…お待ち申し上げておりましたのに…」 新しい雫をぽろぽろとこぼしながら、それでも彼女は話をやめなかった。 「昨日は…お出でになると思って、ずっとお待ちしておりましたの。日が落ちて夜になって…でも、どうしても諦めきれなくて。曜日を間違えているのかと何度も確認しましたわ…でも、違って。きっと…もういらっしゃらないんだと、私のことなど見捨ててしまわれたのだとそう思ったら、悲しくて、昨晩は眠れませんでしたわ。こうしてお目にかかれたのですから、今しばらくここにいらして下さい。…ね」 「璃紗子…様…?」
こんな風に激しく心内を語る彼女を政哉は知らなかった。まさか、これほどに自分のことを待っていてくれたなんて。そして、この人が昨晩は自分と同じように眠れぬ夜を過ごしたなんて。信じられなかった…でも、緊迫した状況なのに、それをとても嬉しいと思ってしまう自分がいる。 同じように恋い焦がれて、同じように思い合っていたのだとしたら、もう何を憂う必要があるだろう。辛い想いの向こうにも、一筋の光を感じる。
「…分かりました」 「え…あのっ…?」 「…政哉様…?」 その心細そうな表情がたまらなく愛おしくて、政哉は目を細めた。思い切り抱きしめてしまいたい欲求をどうにかして抑える。この人を今、そうしたら…壊れてしまう。手のひらから感じ取れるささやかなぬくもりと重みだけで十分だと思わなければならないだろう。 「璃紗子様がお休みになるまで…お側にいましょう。そうお約束しますから、とりあえずは寝室に。横になって下さい…」
政哉は続き間になっている彼女の寝室に恐る恐る足を踏み入れた。 ここまでしていいものか、それは分からない。もしかしたら取り返しの付かない、とんでもないことをしているのかも知れない。そう思いつつも綺麗にベッドメイクされたカバーを取り、毛布とシーツをめくり上げた。その上に璃紗子の身体を降ろす。そして元のように寝具を掛け直した。 「政哉様…」 「ここにおりますよ?」 ベッドサイドに立ったまま、政哉が静かに微笑んで見つめ返すと、璃紗子はおずおずと片手を差し出してきた。 「…手を…」 ひとつ頷いてから、彼は震える指先を絡み付けた。冷たくて頼りないその存在を、限りなく愛おしく想いながら、もう一方の手も添えて両手で包み込む。自分の熱を少しでも分けることが出来るように。 璃紗子は嬉しそうに微笑むとそのまま目を閉じた。愛らしい寝顔を見つめる。政哉の胸には新たなる想いが溢れ出てきていた。
彼女は気付いていないのだろう、自分のことを「政哉様」と名前で呼んでしまっていることを。いつもなら少し距離を置きながら「篠塚様」と呼ばれる。それなのに…いつか、ここの家主である人、つまり璃紗子の父親に当たる人に言われたことがある。 「あなたがお出でになった日はもう大変なのですよ。普段は大人しくてあまり余計なことを話したりしない娘なのに、その日に限っては口を閉じる暇もないほどです。私を捕まえて、同じ話を何度も何度も…『政哉様』・『政哉様が』と本当に嬉しそうで。娘はやはりあなたのことを特別な存在だと思っているはずです…」 その話を聞いた時は、彼が政哉を喜ばせようと話を大袈裟に言っているだけなのだと思っていた。そんなわけないのだ、そんな夢みたいな話があるわけない。 信じて希望を持てば、それが破れた時の絶望が大きい。だからいつもあまり多くを望まないように生きてきた。…梓のことにしても。もっと強引に強く願えば叶わない夢ではなかったと思う。梓の娘・宵子だって自分に良く懐いていた。 「…おじ様が、本当のお父様になって下さったらいいのに…私、ずっとそうだったらいいのにと思っていたわ。おじ様が本当のお父様だったらいいのになって。どうしてそうなさって下さらないの…?」 まっすぐな瞳に見つめられて、息を飲んだ。でも…どうしてもその柔らかな夢に頷くことは出来なかった。梓の月彦への想いを思えば…強く出ることなどどうして出来る? どこかでいつも諦めていた。…だから、静かに穏やかに生きていけばいいと思っていた。あの方への想いは胸に深く沈めたままで…そうすれば、普通に生きていける。激しい情熱は煩わしいだけの存在だった。 …でも。
確かに目の前のこの人と自分は同じ想いを胸に抱いている。それは間違いないのだ。…なのに、どうして自分と添い遂げようと思ってくれないのだろう? 璃紗子さえそう思ってくれれば、喜んでそれに従うのに。一体どうしてなのか、何が足りないのか…? 触れてはならないと知りながら、涙のあとが残る頬にそっと指を触れる。ひんやりした閉ざされた想いが感じ取れる。この頬をいつでもバラ色にほころばせて、微笑んでいて欲しい。そんなこの人を守っていきたい…でも。
◆◆◆
「…あの、篠塚様…?」 「如何致しました? …今日はまだ、お出でになる日では…昨日にいらしたばかりではありませんか…?」 一体何が起こったのかと言う表情で、璃紗子がこちらを見上げる。さすがに夕食も終わったような時刻に政哉を部屋に招き入れることはしなかった。もしも彼女がそれを望んだとしても、政哉は断るつもりであったが。 「…お嬢様に、どうしても今日中にお渡ししたいものがあって」 それを見つめた璃紗子が大きく目を見開いて、信じられないと言うようにかぶりを振る。 「…どうして…」 彼女の態度はもっともだった。古新聞に包まれたそれは…一抱えもある花、スイートピーの花束だったからだ。ピンクに白に薄紫。淡い色彩が入り乱れて、かさかさと揺れている。やわらかい花びらからは甘い香りが広がった。 「このお花は、今の時期に咲くものではないですわ…うちのお庭でも、もっと暖かくなって5月頃にならないと――」 彼はそんな仕草がたまらなく愛おしくて、思わず抱きしめてしまいたいほどの欲求に駆られた。しかしすぐに思い直す。今日はそんなことのために来たのではないのだから。 「私の学生時代の仲間が、千葉の房総の南端で花作りをしているのです。これはその、品種改良中の試作品なのですよ?」 「もともとこの花は、切り花としては不適切なものです。水揚げも悪く、保ちませんから。蔓を垣に巻き付けなければ身を起こすことも出来ません。でも…こんな優しい姿の花です、もしもこんな風に花束に仕立てて流通することが出来たら、どんなにか素晴らしいでしょう? 友人はそれを夢見て頑張っているのですよ…あちらはもう、花の盛りでした」 「篠塚様が、直接いらっしゃったのですか…?」 「今日は、仕事が空いておりましたので。電車を乗り継いで行って参りました…一日がかりの旅になってしまいましたが。近いようでいて遠い場所ですね。でも同じ季節が巡っているとは思えないほどのまぶしさでした。もうさながら初夏のようで…」 海岸線を走る列車の窓からは、青い海が手に取るように伺えた。「別天地」と言う言葉があるが、本当にここはそうなのかも知れない。 「そんな…でも、申し訳ないわ。ご苦労して手に入れられたものをわたくしなどに」 璃紗子は申し訳なさそうに、何度も首を横に振った。 「このような素晴らしいお花、とても受け取れませんわ。わたくしにはそうして頂く理由もございませんし…かえって、ご迷惑ばかりお掛けしておりますのに」 「璃紗子様」 「これは私の気持ちです、受け取って下さい。あなたを想いながら、この手で摘ませて貰いました…璃紗子様に差し上げるためだけに、選んだ花たちですから」 フリルのような花びらを揺らすこの花が、璃紗子には似合うと思った。儚げでありながら、匂やかな存在感があり、心を引きつけてやまない魅力がある。一度、囚われてしまった心はもう後戻りが出来ないのだ。花の香の満ちた温室で、政哉はそれを悟った。 「篠塚…様?」 こんな態度には今まで誰に対しても出たことはない、そしてこの先も二度と出ることはないだろう。今このときのためだけに、政哉は全ての想いを振り絞っていた。 「あなたのためなら、どんな困難でも厭いません。どこへ行って何を持って来いと言われても、喜んで従いましょう…ですから、どうぞ私を璃紗子様のお側に置いて頂けませんか? …私を選んでは頂けませんか…?」 「…え、あの…」
「…結婚して下さい、璃紗子様。私と共に…生きて下さい」
続く(030518)
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