「並木通りのシンデレラ」外伝
…4…

 

 

 それきり、俯いてしまった璃紗子からはそれ以上の言葉を聞くことは出来なかった。

 無理もないだろう、政哉がもともとそう言う存在として父親に呼ばれたのだと言うことは承知していても、きちんと断りの言葉を述べているのだ。今更、どういうことだという想いが強いかも知れない。

 政哉としても、今この時に強く答えを迫る必要はないと思った。いわば、ここはスタート地点なのである。政哉が自分の言葉で、しっかりと璃紗子への想いを告げた。もう戻れないほどこの気持ちが確かなことを知ってさえ貰えればそれでいいのだ。この先はゆっくりと動いていけばいい。

 静かにいとまを告げて、外に出た。ひんやりとした早春の夜が、火照った心に気持ちよかった。

 

◆◆◆


 そうは思っても、やはり気になるものは仕方ない。学舎建設が間近になり、業者との打ち合わせで連日屋敷の敷地内を訪れるスケジュールになっていた。一籐木の社内で仕事を片づけている分にはそう感じないが、こうして近くまで来ていながら顔も見せずに立ち去るのは不義理な気がする。
 それに政哉としても璃紗子に会いたかった。すぐに承諾の意が聞けなくてもいい。それはいくらでも待てる。連日上がり込んではお茶を頂こうという図々しさもなかった。でも…ひと目だけでも会うことが出来たら。

 

 翌日、建設業者との立ち会いが終わり、敷地内をあてどなく歩いてみる。すると、これから掘り起こされる森の樹の根元に気の早い花園が広がっているのを見つけた。野生のスミレの群集。自分たちが掘り起こされることなど知らず、咲き誇っている。少し考えて、それのひと株を丁寧に掘り起こし、ハンカチで根元を包んだ。それを持って、目と鼻の先にある東城の屋敷に足を向けた。

 

 しかし、そこで政哉を待っていたのは信じられない事実だった。

「お嬢様は、本日は篠塚様にはお目にかかれないと仰っています…」

 いつもなら、何も言わなくてもスリッパを並べてくれる若いメイドが、政哉をひと目見るなり決まり切ったようにそう言い放ったのである。昨日までとは全く違う態度に戸惑った。

「え…?」
 最初は言葉を聞き違えたのかとすら考えてしまった。でも二度繰り返して同じ台詞を聞かされて、間違いのないことを知る。そして、次に心に浮かんだのは考えたくない予感だった。

「まさか…また、お体の具合でもお悪いのでしょうか…? もしや、熱でも。そうなのですか?」
 昨日はとても気分が良さそうだった。だが分からない。少しでも寒さが戻ったりすると身体に触るのだろう。

「いえ…」
 メイドは短く、でも明瞭に言い切った。

「そのようなことはございません。ただ、お目に掛かりたくないとの旨をお伝えしろと言付かりました」

「そんな…馬鹿な…」

 自分が結婚を請うた時、彼女は一瞬にしてその顔から血の気を失い、黙って俯いてしまった。意に添わぬひとことだったのは明白だ。だが…彼女とて、想いは同じはずだ。自分の来訪を楽しみに待っていてくれ、ひとときの時間を共有することに幸せを感じていてくれる。だから、一緒になれば、毎日そう言うふたりになれるじゃないか。それに早く気付いて欲しいと思った。

 確かにもっと強引な手段に出れば、難なく璃紗子を手に入れることは出来るだろう。父親の承諾は得ているのだ。彼の助けを借りれば、名実共に夫婦になることはそれほど難しいことではない。しかし、そんな風にして得られるかたちばかりの幸福を政哉は望んではいなかった。
 きちんと彼女の心が自分に向かったことを確認して、ふたりで同じ愛のかたちを築けたら。それすらもそう遠くない気がしていた。

「そんなはずは、ないでしょう? …もしも体調を崩されていらっしゃるなら、ひとことお見舞いを申し上げたい。起きあがれないと仰るなら、あなたを同席させた上で、寝室への立ち入りを許可して欲しい。お目に掛かりたいのです、ひと目だけでも」

「それは…」
 政哉がかざしたひと株のスミレを見て、メイドの顔色が少し変わった。でもそれも一瞬のこと。すぐに冷たい表情に改まる。

「そちらは、お預かり申し上げます。…ですから、お引き取り下さいませ。どうしてもお聞き入れ下さらないなら、奥から人を呼びますよ?」

 脅迫に近い言葉だった。家人の命令に素直に従っているこの人を動かすことなど到底不可能に感じた。政哉は何が何だか分からないまま、今日のところは引き取ろうと諦めかけた。


 その時。

 ことん、と璃紗子の部屋の奥で音がした。政哉はハッとしてそちらを振り向いていた。彼女だ、と瞬時に悟る。彼女があの中にいるのだ。

「…璃紗子様っ!!」
 反射的に靴を脱ぐとメイドを押しのけ、ドアの前に駆け寄っていた。しかし、そこは中からしっかりと鍵が掛けられていて、政哉の手に負えるものではなかった。

「璃紗子様っ…、そこにいらっしゃるのでしょう? でしたら、ここを開けてください。私の話を聞いてくださいっ!!」
 拳で頑丈な板を叩きながら、必死に訴えた。この一枚を隔てて、向こう側に彼女はいる。自分が訊ねてきていることも分かっている。なのに、どうして会えないのだ。そんなことがあっていいはずはない。

「璃紗子…様っ…!」


 自分の荒い呼吸に混じって、部屋の奥から静かな足音が響いてきた。それがだんだん近くなり、やがて止まった。

「…お帰りになって、篠塚様。もう…二度といらっしゃらないで。お目に掛かりたくないの」

「…え…?」
蚊の鳴くような小さな声。それを確かに耳に入れながら、政哉は疑問の声を呟いていた。

「そんな…どうして。どういうことです…!?」

 耳が、心が。その全てが璃紗子の言葉を拒否していた。こんな冷たい言葉が聞きたかったのではない、いつものようににっこりと微笑んで招き入れて欲しかった。いや、そこまでは望むまい。だが、…せめて、ひと目だけでもその姿を見ることが出来たら。元気な姿を確認したら、すぐに戻るつもりだった。

「どうして、…どうしてっ…! 何故なのです、璃紗子様っ!! 開けてください、理由を聞かせてくださいっ…!」

 こちらが結婚を望んだからと言って、いきなりこれはないだろう。返事は急がないと言ったはずだ。承諾されなくても仕方ないと思っていた。もともと、彼女と自分とは身分も年齢も釣り合わない。彼女だってその気になれば、もっと似合いの縁談がいくつもあるだろう。

「昨日のことが、思いがけないことで…お困りなのでしたら、それはもうなかったことにしても構いません。ですから、ここを開けてくださいっ…!!」

 あまりに使いすぎて、拳が痛くなる。赤く腫れ上がり、皮がむけて初めて己の激しさに気付く。うっすらと滲んだ視界にドアに扉に彫られた優美な模様を映した。

「駄目です、開けられません。もう、篠塚様にお目に掛かることは出来ません。どうかお戻りになって、もう来ないでっ…!」

 この扉の向こう側にいるのは、間違いなく璃紗子だ。彼女はすぐそこにいて、それなのに会えないと言う。それどころか、もう二度と顔を見せるなとまで言うのだ。

 政哉は、はあっと熱い息を吐いた。何がどうなっているのか理解出来ない。璃紗子の心を手に入れようとしたのに、逆に遠ざけてしまった。

「…どうして…」
 ごん、と額を扉に打ち付ける。じんと痛みが広がり、そのあと胸に刺さるほどの絶望を見た。

「…お花を」
 璃紗子の小さな声が、扉の向こうから聞こえてくる。愛らしい響きがかすれて、別の人のように聞こえる。声の主が彼女であることは間違いないのに。

「せっかく咲き誇ったお花も、わたくしに見せるためには手折らなければならないわ。…そうなの、いつもそうなの。綺麗なものも美しいものも、わたくしにとってはあまりに遠くて。皆、わたくしのためと言って色々と心を砕いてはくれるけれど、そんなのは辛いだけですわ」

「え…?」


 どういうことだ? 政哉は必死に想いを巡らした。でも分からない、璃紗子の言葉の意図がどこにあるのか。あの花が気に入らなかったというのか? そうならばそれでもいい。もとより、彼女の好きなものも気に入るものも知らないのだ。知らないから、間違えたなら正していけばよい。

 でも、そうではない。彼女の言葉からはもっと重いものを感じ取れた。突き放されたような…空しさ。自分という存在を断絶しようとする強いもの。


「…私を、お側に置いては下さらないのですね。璃紗子様にはこれからもずっと、その意志はないと…」

 こんなに早く、白旗を揚げるとは思わなかった。10年は待てないけれど、半年や1年は待てると思っていた。しかし、扉の向こうの辛そうな声を聞いていると、今すぐにでも楽にしてやりたいと思えてしまうのだ。自分が彼女にとって、苦痛でしかない存在に成り下がったのなら、それはそれで仕方ない。

 がたっと、扉が一瞬揺れた。身体を触れているからこそ感じ取れる程度の微妙な振動。向こうで、手か身体かを扉に付けている璃紗子が動いたということだ。


「…そうですわ」
 一瞬の間をおいて、静かな響きが聞こえた。

「篠塚様も、お父様が選んだ存在のひとつでしかないのです、そうでしょう? お父様が篠塚様に無理強いをなさらなかったら、わたくしのことなど知ることもなかったのですもの。わたくしは篠塚様も生きていく道のりにいるべき人間ではありませんわ。…もう、道を外すのはおやめになって」


「どうして…」
 政哉はもう苦しくて仕方なかった。まるで璃紗子の胸の痛みが自分に取り憑いたように、彼女と同じ憂いを抱えているような気がした。

「どうして…、こんなに愛しているのに…」
 ぽとんとスーツの袖に雫が落ちた。悲しいのではない、璃紗子を想うあまりに溢れ出た、愛のかたちだ。


 背後には心配そうに息を飲む、あのメイドがいる。成り行きをどうしたらいいのかと見守っているらしい。これだけ激しく騒いでしまったのだ、もしかすると屋敷の中ではたくさんの使用人が聞き耳を立てているのかも知れない。
 屋敷の跡取り娘。身体が弱く、縁遠い璃紗子に会いに来る家主公認の男…ふたりの成り行きを彼らなりにどうしたものかと思っているのかも知れない。

 まあ、政哉にとって、彼らのことはこの際どうでもいい。こう観客が多いとやりにくいと言うこともあるが、それよりも今は璃紗子とのふたりのことだけが大切だった。


「一時の、気の迷いですわ…すぐにお分かりになります」

 璃紗子の心はどこまでも頑なだった。とても政哉ごときにほぐせるものでもなく…あまりに急いでことを起こしてしまったことに多少の後悔はあるが、今となっては仕方のないことだ。それにこの胸の内にあふるる想いはもう抑えきれるものではなかった。璃紗子と共に生きる時間が欲しかったのだ、すぐにでも。

 …側にいてくれと、言ったのは…嘘だったのか? そんなはずはない、彼女がせっぱ詰まったあの状況で吐き出した言葉が真実でなくてなんなのだ?

 はっきりと拒絶されながら、それでもまだすがってしまう。情けない自分が恥ずかしかった。

「私には…きっと一生、悟ることは出来ないと思います。でも、もうこれ以上、あなたに辛い想いをさせたくはない。璃紗子様が会いたくないと仰るなら…それでいいです。仕方のないことです…」

 そう言いながらも、胸の中に燃えさかる想いは消えない。いくら駄目だと言われても、この想いを消すことなど到底出来ないと思った。

 …もしも。この気持ちを、本当に伝えることが出来たなら…。璃紗子の本当に欲しいものを自らの手で差し出すことが出来るなら。


 政哉の心にある望みは、少しかたちを変えていた。それは璃紗子の存在を求めて止まない、焦がれる気持ちではなくなっていたのだ。そして、もっと深く…璃紗子の気持ちだけを考えるようなそんな自分に変化していく気がする。

 そして。

 その日、屋敷を去る政哉の脳裏には、ひとつの情景が鮮やかに描き出されていた。

 

◆◆◆


 次の日から、彼が出勤時に着用するのは、仕立てのいいスーツではなくなっていた。スポーツを楽しむ時に着用する上下のジャージ。首からはタオルを掛けて、カバンにはスコップを入れた。

 借りてきた一輪車を押して、あの花園へ行く。そして丁寧に掘り起こせるだけの株を積んで、運ぶ。行き先はひとつだった。会社の方には休暇を取り、業者との打ち合わせの時だけはその姿のまま臨む。同居している母親も何が起こったのかと目をぱちくりさせたが、問いただしたりはしなかった。もとより、30も後半だというのに決まった女性もなく、ふらふらしている息子に非難めいた言葉のひとつも投げない出来た人だ。今回のことも、静かに黙認してくれていた。

 朝から日が落ちるまで、その作業を繰り返す。辛いとは思わなかった。璃紗子とは二度と面会を望んだりはせず、申し訳なさそうに詫びる東城氏にも笑顔で対応した。彼女が悪いのではない、少しやり方を間違えていたのだ。もっと早くそれに気付くべきだった。

 

 1週間が過ぎる頃、ようやく彼のイメージに近いものが完成した。最後のひと株を掘り起こした時、何とも言えない達成感が湧いてくる。それを用意した鉢に移す。彼がまっすぐに足を向けたのは、真新しい「花園」であった。

 

◆◆◆


「…璃紗子様」
 この一週間、カーテンを引いたままだった格子窓を外側から軽く叩く。

「そこにいらっしゃるんでしょう? …でしたら、開けてください。お顔を出してくださいとは言いません、少しだけ隙間を開けてくだされば…お渡ししたいものがございますので」

 しばらく、沈黙が続く。しかし、政哉は辛抱強く待った。開けてくれぬのなら、それはそれで構わないと思った。

 やがて、カーテンが静かに揺れて、鍵を外す音がした。ちゃ…と、静かに掃き出しの窓が少しだけ開く。政哉はホッとして膝を付くと、カーテンの下の隙間からスミレの鉢植えを差し入れた。窓の手前の辺りは鉢を置いてもいいように煉瓦を敷かれている。だから、土を盛ったものを置いても、差し支えはない。

「璃紗子様に…春をお届けに上がりました。来月には掘り起こされてしまう花園が、あまりにも見事でもったいなくて…どうせなら、お嬢様にも楽しんで頂けたらと考えまして。家主様に承諾を得て、頑張ってみました。不慣れですから、そんなにいい出来とは思えません。でも、…これからはこの窓から一面に紫色の絨毯がご覧頂けますでしょう? 私に代わって、花たちがあなたを見守ってくれるはずですから――」

 やわらかく風が流れる。すっかり根付いたスミレの群集を揺らし、政哉の背後にある窓から、中に入り込む。カーテンが静かに舞い上がっていくのを感じたが、振り向かなかった。

 畳数枚分にもなるスミレたちの花園は、広い屋敷の庭の中では本当にささやかな空間だった。でも、この場所を出来る限り美しいものにすれば、中から眺める璃紗子にとっては何よりのものとなる。

「花はとても美しいです。この作業をしている間、私は始終満ち足りた気持ちに包まれておりました。でも…どんなに可憐な美しい花でも、あなたには敵わない。そのお姿を拝見することは叶わなくても、私の心の中には永遠にあなたという花が咲き誇っているでしょう。決して散ることのない、永遠の花が…」


「永遠…なんかじゃないわ」

 背後から、1週間ぶりに聞く声がした。微かに震えながら、でもしっかりとした音を奏でる。

「わたくしは…すぐに散ってしまう花。篠塚様がこうしてしつらえてくださった花たちが枯れるよりも、もっと短い命かも知れませんわ。とても…一緒に歩んでいくことなど、出来ない…」

「…そうですか」
 ようやく聞けた声は、政哉に新しい勇気をくれた。彼女がこの作業の間中、カーテンをしっかりと引いて、部屋の中を伺わせないようにしながらも、きっと自分を気遣ってくれていると知っていた。

「ならば、最後の一瞬までもご一緒にいたいと思ってはなりませんか? 人間の運命なんて分からないものです、私の方が明日にでも交通事故で死んでしまうかも知れませんよ? いきなり不治の病を宣告されるかも知れない。逝く順番なんて…誰にも本当は分からないのです」

「そんな…不吉なことを」
 困った声が反応する。それだけで、天にも昇るほど、嬉しかった。

「どうして、そんな風に明るく仰るのです? わたくしには、理解出来ませんわ」

 たしなめるように言う言葉に、あの日の痛々しさはない。彼女は自分の気持ちをはっきり理解してくれていると信じることが出来た。だが、政哉はそれに気付いてない振りで、話を続ける。

「私はこれから、このお屋敷の専属の庭師になろうと思っているんです。今の方が高齢になられているそうですから、弟子入りして色々仕込んで頂こうと思いまして。今回のことでも色々教えて頂いたのですよ? そう言う人生も悪くないと思います。今まで以上に四季折々を楽しめる、素晴らしいお庭をお造り致しますよ?」

「…え?」
 璃紗子が突然の告白に驚いて、声を上げる。

「そんな…いきなり何を仰るのです? 篠塚様がそのような…学園の方はどうなりますか?」

「学園など、私がいなくてもどうにでもなりますよ? でも…璃紗子様のお庭は私がしつらえたい。お側に置いて頂けないのですから、これからも璃紗子様の目を楽しませるように、存分に頑張らせて頂きますよ? 土にまみれて生きるのもあなたのためと思えば幸せですから」
 笑いをかみ殺しながら、かろうじて平静を装う。思った通りの璃紗子の反応が楽しくて仕方なかった。

「だって、学園の設立と運営には…どうしても篠塚様のお力が必要だと…」

「学園なんて」
 わざと言葉を遮る。

「今の私にとっては何の価値もない。こんなに近くにいながら、あなたに会うことも叶わない。お屋敷を素通りして、学園の敷地に向かう、そんな人生はまっぴらです」

「そんな…篠塚様は…」
 璃紗子はもう泣き出しそうだった。声が震えている。

「春も夏も…秋も冬も。余すことなくお届けしましょう。それをあなたが喜んでくだされば…」


「篠塚様っ…!」

 政哉はゆっくりと振り向いた。うす桃色のカーテンを背に、白い花のような璃紗子が立っていた。春の柔らかな日差しを浴びても、肌は白く透き通っていて、色の薄い髪はさらさらと柔らかな曲線に沿って腰まで流れている。

「どうして…どうして、そんな風に仰るんです? わたくしが…どんな気持ちでこの数日を過ごしていたのか、篠塚様は何もご存じないから…」
 そこまで言うと彼女はたまらない感じで口元を両手で抑えた。その上を涙の雫が流れていく。


「璃紗子様…」
 政哉が軽く肩に手を添えると、彼女は大きく何度も息をして、震える唇を開いた。

「あなたが…土をいじっているお姿をずっとカーテンの陰から見ていたんです。本当は、わたくし、お隣でご一緒に作業がしたかった。せめて、流れる汗を拭いたり、小雨の降る日は傘を差して…でも、そんな些細なことですら、わたくしは出来ないんです。当たり前のことを何も、これからもずっと…」

 璃紗子はそこまで言うと、大きくかぶりを振った。

「篠塚様の…政哉様のお力になれるようなことは…何も…」

 たとえようのない想いを感じる言葉は、そのまま暖かい春の雨のように政哉の胸に染みこんでいく。

「そんなことはありません。こうしてお顔を見せてくださっただけで、それだけで十分です。やはり本物のあなたは…私の心の中に咲いているどのあなたよりも可憐で美しい。その花を愛でることが出来るなら、何を厭いましょう。何事にも代え難い幸福です」

 政哉がそう言い終わる前に。璃紗子の細い身体が彼の胸に崩れてきた。

「最初は…恐ろしかったんです。政哉様のお心があまりにまっすぐで、わたくしには受け止めることは出来ないと思いました。でも、お花を植えているあなたを見ていて、いつか私もあの花になりたいと思っていました。あなたのてのひらの上に乗せられて、優しく微笑みかけられて…ずっと、お側に行きたかった」

「璃紗子様…」
 政哉はゆっくりと彼女の背に腕を回した。あまりにも頼りない小さな身体。どうやって扱ったらいいのかも分からないような儚い存在でありながら、この胸をしっかりと掴んで離さない。

 

「質問しても宜しいですか?」
 髪に顔を埋めると、ほんのりと花の香りがする。知らず胸が高鳴った。

「私を庭師にしますか? …それとも、あなたの夫にしてくださいますか…?」


「まあ、そんなっ…」
 璃紗子は政哉の腕の中で軽く身じろぎすると、少し呆れた顔で見上げた。

「ご自分のことはご自分で決めて下さいませ。わたくしには政哉様の人生を選ぶ権利はありませんわ」

「…そうですか」
 政哉は喉の奥で、くすりと笑った。それから、璃紗子の細い輪郭にそっと手を添える。

「それでは、私が決めてしまって宜しいのですね…?」

 にっこり笑って顔をのぞき込むと、璃紗子はハッとして頬を赤らめて俯いてしまった。政哉の背に腕を回して、きゅっとしがみつく。


 やがて。その答えが風に乗って、政哉の花壇に届く。紫色の花たちがほんのりと色を染めて、くすぐったそうに揺れた。そんな可憐な姿を確かめる間もなく、政哉は腕の中の花をしっかりと抱きしめる。この人こそが我が春なのだと、手のひらに感じながら。

 

 ひとつになった影の向こうで、政哉の手折った花たちがあの日と変わらぬ姿で静かに佇んでいた。

 

 

了(030519)

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