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「11番目の夢」外伝
…1…

 

 

 気に入らないことはたくさんあった。

 今朝、目覚めたら外は雨。したがって、ネズミ色の薄暗い空。夕方の外出用にとわざわざ新調したオフホワイトのドレスは寒々しくて似合わなくなってしまった。その上、湿気が多いせいか髪のカールは決まらない。マニキュアも綺麗に塗れない。親戚から貰ったパリ土産の口紅は目にしたときは美しい赤だと思ったのに、ひいてみると毒々しい。

「ああっ! ……もうっ、嫌っ!」
 瑠依子は三面鏡の棚に置いたティッシュを乱暴に取り出し、自分の口元を拭った。

 もうどれくらい、こうして鏡の前に座っているだろう。留学から戻ってやることもない。午後5時の迎えだというのに、気ばかりが焦って早々に身支度を始めてしまう。そんな自分を家の者や使用人に悟られるのは彼女にとってこの上ない屈辱だった。

「だいたいっ、村越様も村越様だわっ! どうしてこんな雨の日に誘ってくださるのっ、お天気くらいどうにかして欲しいものだわっ……!」

 1週間前の約束だ。そのときに今夜の天気など正確に当てられる者などいないはずだ。それは分かってる、分かっているのだが、この怒りのはけ口が見つからない。

「こんなっ……」

 一度、窓の外を見る。

 明治の終わりに活躍した著名な設計士によってデザインされた、この上なく美しい洋館。瑠依子の部屋は二階の東向きに位置し、その大きな窓からは美しく芽吹いた庭木が見える。春の雨が若葉に降り注いでいた。窓は白く塗られた格子になっていて、優美なブルーのカーテンが掛けられている。イタリーから取り寄せたその花柄は瑠依子の一番のお気に入りだった。

 そして、改めて目の前の鏡に向き直る。――なんだろう、ここに座っている惨めったらしい娘は。

 すみれ色の縁取りをされたシンプルな薄紫のドレス。フィット&フレアーのその形は、彼女の自宅で身につける服の典型的なデザインだった。空調の効いた屋内で、5分袖からでた腕も寒くはない。しかし、鏡に映った娘はおもしろくなさそうに眉間にしわを寄せていた。

 浅黒い肌、どうやっても決まらない真っ黒でごわごわした髪の毛。太めの眉に、気の強そうな瞳。そばかすがたくさんある鼻はちょっぴり上を向いている。その全てが、彼女を憂鬱にさせていた。

 ――人間には努力して手に入るものと、そうじゃないものがある。それを思い知らされる、一番身近にある「自分」という存在で。

「もう、嫌っ! 今日のお約束なんて、この雨に流されてしまえばいいのに……っ!」

 力任せに手にしていたブラシを投げつける。鏡に跳ね返ったそれは、ごろんと反転して斜めに横たわった。その姿を目にした時、さらに惨めな気持ちが上塗られていた。

 

◆◆◆


 群青色の夕闇。洒落た街灯に照らし出された風景はレェスのような雨をかけられて、ひときわ優美に見える。

 そのひとしずくも肩にかかることもなく、銀座の真ん中にあるレストランに入っていった。自分が苦労しなくても、誰かが雨をしのいでくれる。その者の服にはびっちりと雨粒が付いたとしても、瑠依子は濡らされることはないのだ。

 そんな当たり前の生活を繰り返しながら、彼女はもうとっくに飽き飽きしていた。日本に戻ってきてからと言うもの、面白いことなんて何にもない。そりゃ、毎晩のようにパーティーや会食がある。病弱な姉はそんな席に出られるわけもないから、母亡き後の父の同伴はいつも瑠依子になっていた。それ用に、何枚もドレスを新調した。

 

 だけど、こんなこと、何になるの。

 

 父の真意がどこにあるか、それが分からないほど馬鹿な娘じゃない。自慢じゃないが、そこら辺の小娘と一緒にされてはたまらない。幼い頃から、勉学にいそしみ、学校の成績は誰にも負けなかった。運動だっていつもトップの成績だった。父の持つ莫大な財産の力を借りなくても、誰もが認める一流大学に進学し、そこでも優秀な成績で過ごした。さらにそれだけでは飽きたらず、英国に留学して教養を深めてきた。

 自分がそんな風にインテリゲンチャになっていくことを、優しい父はずっと許容してくれていた。瑠依子としても自分が進むべき道はきちんとわきまえていたつもりだった。道はまっすぐにどこまでも続いていた。全ては順調だった。

 

 しかし――、自分の描いた理想の姿にようやく近づいたとき、それは急に無意味なものに変わってしまう。瑠依子自身にはまったく関係のない理由で。

「お前も……良き伴侶を迎える年頃になったのだからな。女の幸せはなんと言っても結婚にある。私がほうぼうに頼んでやろう、お前の目に適った男を夫とすると良い」

 

 英国に旅立つ前と、帰国したときで父の自分に対する意識が全く変わっていた。

 瑠依子はふたり姉妹で、2歳上の姉がいる。しかしこの姉は病弱で若くして他界した母に似て、とても儚い印象の人であった。人としてまともに生きられるわけもなく、病がちで学校にすら満足に通えなかった。少し庭に出ただけで熱を出し、入院騒ぎを繰り返す。

 戦前から続く資産家。多くの土地を所有する名家に生まれ育った。姉がそのような身体であったため、東城という家を守るのは自分しかいないと思っていたのだ。娘として家を守るためには婿を迎えなければならない。

 だからどんな男が選ばれても自分が不足ないようにと、誰にも負けない知性と教養を身につける必要があったのだ。婿に家を台無しにされてしまう例も少なくない。そうなってしまっては先祖に申し訳が立たないじゃないか。

 どんなボンクラが伴侶となっても、自分一人の力で立派に家を一族を切り盛りしよう。女だからと馬鹿にされないように、しっかりとしなくては。

 しかし……そんな彼女の決心も今や風前の灯火となっていた。

 

 姉が夫を迎えたのだ。自分が英国に渡っている間に、ふたりの間にはかわいい息子も生まれていた。医師も奇跡だと言った出産ではあるが、これにより家の将来は安泰となり――そして、瑠依子はもはや無用な人間となった。

 

◆◆◆


「お食事が進みませんね? ここの店の料理はお口に合いませんか……?」

 ぼんやりと考え事などしていたらしい。やさしく声をかけられて、瑠依子は俯いていた視線をあげた。

「あ……、いえ。そのようなことはございませんわ。とても……美味しいです」

「そう、良かった」

 

 当然のように、店の奥にある個室に案内される。まるで家庭のダイニングをそのまま模したような、落ち着いた暖かなしつらえだった。もう相手は先に来ていて、笑顔で瑠依子を迎え入れる。

 丸いテーブルにはふたり分のメインディッシュが並んでいた。舌平目のムニエルがレモンのソースでさっぱりと頂けるようになっている。この後に神戸牛のサイコロステーキが続くはずだ。伝統的な手法を守りながらも、時折斬新な味付けをする。いいシェフを使っているのはすぐに分かった。

 

 そんな店を瑠依子のために選んでくれた男は、テーブルの向こう側で静かに微笑んでいる。がっちりとした体つき。学生時代はラグビーなどもやっていたと言う。仕立てのいいスーツの上からでも筋肉のついた腕や肩が想像できてしまうほど。美術館で見た石膏像のように美しいかも知れないなどとつい考えてしまい、そんな自分が恥ずかしくなる。

 ナイフとフォークを滑らかに使いこなす手は大きくて、しっかりしている。そこに触れたことは手を添えてくれた瞬間のいくつかだけだったが、暖かくて守られているような気になった。

 男らしい輪郭に優しい顔立ち、穏やかな口調……何もかもが完成されて、それでいて気取りもない。話をしていても、その知識は多岐に及んでいて、飽きることがなかった。

「ここは先輩のドクターともよく来るんですよ。でもやはり食事は美しい女性と共に頂くのが一番美味しいですね」

 そう言いながら、一切れを口に含む。決して下品ではない、でも美味しそうに口を動かす様が好感もてる。この人には好き嫌いというものがないのか、どんな料理でも道ばたの屋台のサンドイッチでもとても美味しそうに食していた。それだけでも彼の人としての豊かさがうかがい知れる。

「そ……そんな」
 自分に向けられた言葉があまりに不釣り合いなのを恥じて、また俯いてしまう。だが、男の口調に偽りなど感じられない。心からそう言ってくれている、そう思えてならないのだ。そんなわけはないのに……「美しい女性」なんて、自分を形容する言葉であるはずはないのに。

 

「瑠依子様」
 魚料理の皿を片づけると、白ワインを口に運ぶ。そうしてから、彼はまた静かに彼女に問いかけた。

「今夜こそは……お返事を聞かせて頂けるのでしょうね……?」

 

 瑠依子はハッとして、また顔を上げる。だが、彼の視線に届くことはどうしても出来なくて、雨に打たれた花がしおれるように俯いてしまった。その耳に、夜の雨音がさらさらと響いてくる。心まで、その嘆きが注ぎ込んできた。

 

◆◆◆


「お初にお目にかかります……、村越和喜(むらこし・かずき)です」

 自宅の客間に迎え入れた男は、瑠依子をまっすぐに見つめてそう言った。お客人にご挨拶を申し上げるようにと呼ばれて、たいした支度もなく部屋に入った。その気恥ずかしさもあって、まともに目を合わせることなど出来なかった。

「お前の姉上の主治医をしてくれている、村越医師のご長男だ。今年、地方から戻られてお父上と共に医院を切り盛りしているそうだ」

 

 ――お医者様。

 顔をいまさらまじまじと見ることなどどうして出来よう。瑠依子の視線は男のスーツの胸元のあたりを行き来するばかり。父がどんなつもりでこの男を家に招いたかは明らかだった。それが分かるだけにさらに身の置き所がなくなる。

 出来ることなら、前もって支度する時間が欲しかった。こんな普段着のままではどんなにかみすぼらしいだろう。貴婦人のたしなみとして、家にいるときでもきちんとメイクをして髪を整え、恥ずかしくない格好はしていた。だが、外に出るための支度とは違う。

 

 父に席を勧められ、男がリードする形で会話をした。でも緊張のあまりか、旅行の話をすれば地名を間違え、歴史の話をすれば著名人の名前を間違える。男はそれに気づいても面と向かってたしなめることなどせず、さりげなく瑠依子をフォローしてくれた。プライドの高い彼女が腹を立てないほど、巧妙なやり方で。いつの間にか緊張も解けて、以前からの知り合いのようにうち解けていた。

 こんな人、今までに会ったことない。

 女だてらに、と言われつつも、男性に負けないほどに必死で勉強した。文字通り「肩を並べる」感じで、必死にやってきた。議論で打ち負かして、相手のプライドをへし折るのが快感だったし、誰にも負けない自分が好きだった。学問は絶対に裏切らない、それを知っていたから。

 女らしい容姿も、素直な心も持ち合わせていない。そんな自分が認められるためには、誰からも明らかなものを身につけるしかない。「あんながさつ女」「色黒のチンクシャのくせに」と陰で言われているのも承知していた。だが、そんなのは負け犬の遠吠えだ。気にすることもない。

 なのに……この男はどうしたことだろう。

 くみ上げてもくみ上げても枯れることのない湖のような頭脳を持っている。どんな話題にも瞬時に反応し、受け答えも的確だ。かといって、難しい話ばかりで凝り固まることもなく、適当にユーモアなども取り入れて笑いを誘ってくれる。こんな男性が、いたなんて。

 一目惚れという言葉があるなら、まさにこのことを言うのだろう。初めて会った男に、わずかの時間で瑠依子は夢中になっていた。だが、あからさまにそれを示すのは自分の気高いプライドが許さない。わざと素っ気ない態度を取りながら、もっと会話を続けていきたいと切望した。

 

 やがて、窓の外が薄暗くなってくると、男はちらりと腕時計を見て静かにいとまを告げる。その瞬間が来てしまったことを、瑠依子はこの上なく残念に思っていた。

 

 ――この方と、もう一度お目にかかりたい。

 

 今日のこの席が、父が仕組んだ「見合い」だということは分かり切っていた。初めてのことではない、日本に帰国してからと言うもの、数え切れないほどの同じような席を設けてきた。だからこの後の成り行きも知っている。

 男性が帰宅し、両親などと話をした後、仲人を通じてこちらに連絡してくるのだ。そしてそのときにこちらの意を伝えればよい。もとより、父の選んでくる者たちは、それなりの名の通った良家の子息。東城の家柄や資産もとても魅力的で断る理由などない。「喜んで、お話を進めたく思います」――皆、異口同音にそう言ってきた。

 だが、今までの瑠依子はその申し出を全て断っていた。結婚になど夢はなかったし、ただのお飾りのために妻の座に納まるなんて絶対に嫌だと思った。いつまでも年の行った娘が独身でいることを父は苦々しく思っているのだろう。早いところ片づいて欲しいと思っているに違いない。……だけど。

 

 庭先まで、自分の意志で男を見送った。そんな態度に出ることは今までになかったから、自分でも信じられなかった。広い背中を眺めながら後に付いていき、心の中で手を合わせて祈っていた。

 ……この方が、どうかお話を進めるように仰ってくださいますように……!

 父の術中にはまったようで、情けなくなる。だけど、絶対に自分も首を縦に振ろう。そうすれば、もう一度はこの方にお目にかかれる。今日のような楽しい時間を過ごすことが出来るではないか。

 秋の終わりの庭に花も少なく、どこか寂しげな風景だった。門のところまで進むと男が振り返る。瑠依子は彼が自分を見つめていると感じただけで、胸が締め付けられる気がした。

「お見送り、ありがとうございます。もう……ここまでで結構です」

 そう言うと、彼は感慨深そうに瑠依子を見つめた。親愛の色を乗せた瞳が、柔らかくでもまっすぐにこちらに向かう。

「お嬢様、……また私と会って頂けますか?」

 

 その言葉に、信じられない面持ちで、言葉も出ないまま固まってしまった。いきなり、こんな風に直接的に言葉をかけられるとは思っても見なかったから。

 どういうことだろう、この人は家に戻って両親と相談しないのか。自分の意志だけで話を進めようと言うのか。

 

 気がついたら。瑠依子はおずおずと頷いていた。声は出なかった。本当なら、可愛らしく微笑んで彼の意に答えたかったが、そんなこと出来るはずもない。彼女にとっては精一杯の意思表示だった。

「……良かった」

 恐る恐る顔を上げる。そこにあったのは、子供のような明るい笑顔だった。

 

◆◆◆


 その日を境に、瑠依子の日常はくっきりと色を変えていた。

 分厚い歴史書や論文ばかりを読んでいた時間を、自分を磨き立てることに費やすようになったのだ。自分でもその変化には驚いたし、もちろん周囲の反応と言ったら彼女の予想を遙かに超えるほどだった。

 どんなに頑張っても、女性らしい美しさなど自分の身につけられるものではないと諦めていた。この世の中にはお金さえ出せば、女性を飾り立てられる全てのものが揃っている。でも、そんなものは自分にとって無用の長物だと信じてきたのだ。

 

 幼い頃から、可憐な花のような姉と比べられて育った。病弱なせいもあり、姉の肌は透けるように白く、髪も淡い色合いで柔らかいカーブを描きながら素直に流れ落ちていた。ほっそりとした手足にピンク色の形のいい爪。見る人を安らぎの世界に導くような笑顔に、女らしい物腰、静かな暖かい語り口。

 そのひとつでもいいから、自分に欲しかった。だが神様が瑠依子に与えてくれたのは、頑丈な身体と負けん気の強さだけだった。線が細いのだけは姉と一緒だったが、そこにたおやかな女らしさはなく、ただごつごつと骨張った栄養失調のようなみすぼらしさだけがあった。肌の色も浅黒く、大きな目がやけにぎろぎろと光って見える。大きめの口は「男を取って食いそうだ」とまで言われていた。

「女」としての部分で勝負は出来ない。だから、男に負けないように生きてきたのだ。……それなのに。その20数年間の人生すら、あの男の前では豹変してしまう。

 自分に出来る限りのことをして、肌の色を隠すようなドレスを選び、女らしく見える髪型を作った。姿見の前で、必死に笑顔を作ってみた。だけど――、こちらを見つめる女は「愛らしい」と形容するには一番遠いような表情で、貧相に媚びを売っていた。頭の中で描いたとおりの自分にならない。それが口惜しくて。きっと次にあったら、幻滅されてしまうとひとり嘆いた。


 次の約束の日。人生の全てに絶望したような瑠依子を迎えに来た男は、初めて会ったときと同じ笑顔だった。あなたに会えて本当に嬉しいと、そう言わんばかりのあふれる暖かさ。こんなことがあるわけない、自分は夢を見ているのだろうか、それとも巧妙にだまされているのだろうか。そう疑ってみたいのに、震える心が自分の意志すらも受け付けない。

 それからは何度も誘われるままに、色々な場所に行った。

 能の舞台に観劇。一般公開に先駆けた映画の特別試写会。かと思えば、郊外のバラ園に。その先々で、瑠依子が味わったのは、今までに誰も体験させてくれなかった最高の貴婦人としての扱いだった。
 どんな場所でも男は瑠依子に対し、この上ない愛おしい存在を大切に包み込むように接してくれた。こんな風にしたら、こちらが恥ずかしくて仕方ないと思われるような行為も躊躇がない。身のこなしもスマートで、誰に対しても暖かく接する。たとえば、チケットを切る添乗員などにも明るい笑顔を忘れない。

 だけど……彼が一番に大切にしてくれるのは瑠依子なのだ。

 

 男に会うまでの時間は、あれこれと気をもんだり、もしも粗相をして嫌われたらどうしようとそればかりが気になってしまう。だが、一度会ってしまえば、もうそこからは夢の時間が待っていた。

 長く長く。出来るだけ長く続いて欲しい夢。だけど、楽しい時間はすぐに終わりが来る。もう少し、今少しそばにいたい、この人の笑顔の隣にいたい。でも……そんなこと、瑠依子の方から告げることは出来なかった。

 別れ際。決まって男は瑠依子を見つめて、出会ったあの夕べと同じ台詞を告げる。

「また、私と会ってくださいますか?」

 その言葉が今夜も彼の口からこぼれたことを神に感謝しつつ、溢れてくる想いを口に出来ずにただ頷くことしかできない。

「……良かった」

 その瞬間の笑顔が永遠になればいい。瑠依子は自分の身体を流れる血液の最後の一滴までが彼のために存在していることに気づいていた。

 

◆◆◆


 白い雪が、東京に降り積もった夜。足場の悪いコンクリートの防波堤を歩いていた。フェンス沿いに停泊している船の灯りがちらちらと見える。

 

 その夜、瑠依子は短めの袖のドレスを着ていた。肩に大きな飾りがあって、それが気に入って選んだのだが、似合うコートがない。どれを合わせても肩のラインが不格好になるのだ。みすぼらしい姿になるくらいなら、とショールだけを羽織って済ませてしまった。

「寒くはありませんか?」

 何度会っても、彼のその笑顔は変わらない。瑠依子のとがった心の全てまでも包み込んでしまうような暖かさで、まっすぐに見つめてくれる。嬉しくて、でも信じられなくて。何度もこの男の心を疑いながら、それでも会うのをやめられないのだ。

「だっ、……大丈夫ですっ! お気になさらないで」

 優しい言葉が胸にしみいるように嬉しいのに、わざとぞんざいな態度を取ってしまう。何度優しさに触れても、瑠依子の元来の気性が改まるわけもない。それを男がどう思っているのか、不安で仕方ないのに、自分の力ではどうすることも出来ないのだ。

 

 ふわり。

 次の瞬間に、瑠依子の肩に羽のような暖かいものが舞い降りた。

 

「…え…?」

 彼の、コートだった。チノの薄い色の表布で、裏地は毛になっている。肩を包んだぬくもりが男のものだと知った瞬間にたまらなくなった。

「瑠依子様」

 

 結構です、とすぐに脱いで返すつもりだったのに。コートに触れた手を、彼の手が包み込んで制する。ちりっと冷えた肌の表面の奥から、暖かい想いが溢れてくる気がする。白い息がふたりの間を行き交った。

 

やがて男は、意を決した表情で瑠依子に告げる。

「結婚してください、……私の妻になって、私と共に生きてはくださいませんか?」

 

 彼の瞳に、沖を行く船の灯りが流れ、通り過ぎていった。

 

 

続く(031122)

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