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「11番目の夢」外伝
…2…

 

 

 あのときにすぐに首を縦に振っていたら、今はどんな状況に置かれていたのだろう。ひとりでぼんやりと物思いにふける夜などは、どうしてもそれを思わずにはいられなかった。

 

「しばらく……考えさせて頂けませんか?」

 

 あの瞬間に。震える胸を押さえながら、それだけ告げるのが精一杯だった。己の中にある様々な思惑が、純粋な恋心を封じ込めてしまう。

 誰彼構わず議論をふっかけて食らいついていく、どん欲な自分はどこへ行ってしまったのだろう。もちろん村越に対しても、いつもそんな風に接している。政治や社会のことをあれこれ論じたり考察したりする時間はとても有意義で素晴らしいものだった。

 ……でも。

 一番大切なことを訊ねることは出来ない。もし、自分が問えば、彼は答えてくれるだろうか? あの穏やかな眼差しのままでまっすぐに自分を見て、心の中の真実を語ってくれるだろうか?

 ――否。そんなこと、あるわけがない。

 

 村越が自分を約束の時間に迎えに来てくれて、至福のひとときを過ごす。そのきらめきの中で、瑠依子は常に世界中で一番気高く美しい女性になっていた。彼の瞳も声も、全てが愛を告げてくれる。瑠依子ほど素晴らしい女性はいないと彼は全身で語ってくれているのだ。
 今までの人生で味わったことのない穏やかな情熱を受け止めて、素直に嬉しかった。もしかすると、自分は彼と共に過ごすことで全く違う女性に生まれ変われたのではないかとすら思えた。

 唇が震える。もう少しのところで、思いの丈が溢れだしてしまいそうになる。……駄目、そんなの。絶対にしてはならないこと。分かっているのに止まらない。感情を抑制することだけが、瑠依子に残された全てだった。

 

 自宅に戻って、改めて鏡を確認する。みすぼらしい変身前のシンデレラがそこにいた。やはり、夢は夢でしかない。それを思い知らされるたびに、瑠依子はますます意固地になっていった。

 

◆◆◆


 プロポーズされたことはすぐに家族に報告した。父はもちろんのこと、姉も義兄もとても喜んでくれた。だが、どうしてもそれを素直に受け止めることが出来ない。

 ――体のいいお払い箱と言うところなのではないだろうか。

 いくら自分がこの家に住み続けたとしても、姉夫婦と父で構成された新しい家族の中で、ただの異端的な存在に成り果てている。自分がいなくなってもこの家は全く変わりない。それどころかうるさい穀潰しがいなくなって、せいせいするくらいかも知れない。

 最初は降って湧いた幸福に夢中になっていた。理想を遙かに超える男性が現れて、しかも信じられないことに自分を深く愛してくれる。抱えきれないほどの花束も、空に浮かぶ雲も、海底に眠る真珠も、きっと彼は瑠依子が欲すれば、自らの手で手に入れ与えてくれるはずだ。

 ……だが。悲しいかな、瑠依子はどこまでも現実的な一面を持ち合わせていた。物事にはすべからくして表と裏がある。建て前と本音がある。そうやって定義づけてしまうのだ。

 彼のような男性が……心の底から自分を愛してくれるわけはない。今まで、そんなことは望むべくもなかったし、これから先も同様だ。

 

 ふたりで連れ立って街を歩く。世の恋人たちのように腕を組んだり頬を寄せ合ったり、そんな風には出来ない。あんな風になれたらと思っても、心の中で思い浮かべるのが精一杯で。それでも村越のあの瞳を見たら、周囲の者は皆、自分たちの関係に気づいてしまう。その後に必ず起こる彼らの感情の揺らぎがたまらなく口惜しかった。

 ――何で、あんな見栄えのしない女と。

 自分たちに向けられる眼差しは例外なくそう語っていた。そうなのだ、彼になら自分じゃなくてもいいはずだ。こんな辛気くさい女じゃなくて、もっとたおやかな美しい女性が似合うはず。

 ……ああ、どうして。どうして、自分は美しく生まれなかったのだろう。いくら着飾って、上品なメイクをして、髪をセットしても、素材の善し悪しは隠せるものではないのだ。中途半端な頑張りは、かえって情けなさを増すばかりだった。

 愛されていることを実感するたびに、瑠依子は臆病になった。村越ほどの男なら、すぐに自分の間違いに気づくのではないか?

 

 村越は決して焦る様子もなく、だが事をおざなりにするつもりもないらしい。会うたびに、控えめに返事を促してくる。そのたびに、さらに先延ばしにする自分がとても愚かで滑稽だと思った。暖かい眼差しに包まれて、承諾の意を伝えられない自分が情けない。

 今日こそは、今日こそはと思う。

 もしも、自分が彼のプロポーズを受けると言えば、どんな風に受け止めてくれるだろう。今までに見たこともないような嬉しそうな表情で微笑みかけてくれるだろうか? それともさらなる愛の言葉で瑠依子を酔わせてくれるのか。その瞬間に、味わうことの出来る幸福の絶頂がまぶしくて……そして、恐ろしかった。恋愛の頂点まで到達すれば、後は緩やかに下降するだけだ。

 きっと、取り残される。今のままではいられない。運良く妻の座に付けたとしても、その後、長い期間にわたって、彼の愛情を受け止めていく自信がなかった。

 ――なんて、情けないのだろう。

 返事を待って貰う間は、少なくともこうして会ってもらえる。そう思うからこそ、毎回、首を横に振ってもう少し考えさせてくれと告げた。

 

◆◆◆


 真夜中近い時間だった。

 なかなか寝付けなかった瑠依子は、なんとなく喉の渇きを覚えた。温かいココアでも飲みたいなと思う。今の時間に使用人を起こすのも悪いだろう。手にした呼び鈴を鳴らさずに戻し、ネグリジェの上からガウンを羽織る。そして、足音を忍ばせて階下に降りていった。

 

 ……あれ、と思って足を止める。薄暗い廊下の一角。灯りの漏れるリビングからぼそぼそとした話し声が聞こえてきた。こんな時間に誰だろう。つい、立ち止まってしまう。

「申し訳ございませんねぇ、うちの娘も強情で。ご迷惑をお掛けいたします、村越先生」

 聞こえてきたのは父の声だった。相手の声は聞こえない。そうか、電話で話しているんだと合点がいった。だが……それよりも瑠依子の心を震わせたのは「村越」と言う名が会話に含まれていたことである。

 彼が、父に連絡を取っているのだろうか? いや、父が彼に掛けたのだろうか? あまりに返事を先延ばししたから、とうとう愛想を尽かされてしまって――

 すぐに部屋に飛び込んでいって、受話器を取り上げてしまいたい。しかし、こちらとしては立ち聞きをしてしまった罪悪感もある。とてもそこまでは出来なかった。これ以上何も聞きたくない、早く立ち去りたいと思うのに、足がすくんで動かない。柱につかまって、息を潜めた。

「いえ……そのようなこと。先生の息子さんは本当に素晴らしいですよ。うちの娘などにはもったいないほどに――」

 父の話の相手は彼ではない、お父上の方だと分かった。でも……だとしたら、どうして? 何を話しているのだろう。

 その後、姉の主治医であるその人と、父は病状に関するいくつかの会話をしていた。自分の話題から話がそれて、ホッとしたようなもどかしいような気分になる。自分がいつまでも返事をしないことを、事情を知る誰もが不信に思っているはずだ。陰で何を言われているのかどうかと、とても気になっていた。

「はい……、それでは。あ、先生?」

 父は話を終えようとして、何かを思い出したようだ。一段と声を潜めるとしっとりと言い含める口調で言った。

「心配はいりませんよ。ふたりの話がまとまれば、すぐに医院の敷地拡張の方は地主に打診しましょう。建築費の方も、以前申し上げたとおり、こちらで……いえ、そんな。娘の嫁ぎ先の事とすれば当然ですから」

 

 ……え……!?

 

 瑠依子は体中の血液が、すうっと引いていくのを感じていた。すとんと、身体の熱が全て足下から床に流れ落ちてしまったみたいだ。

 ……何? ……父は一体、何のことを言っているのだろう……?

 受話器を置く音がする。軽く咳払いをする声を聞いて、慌ててそこから離れた。

 調理場の方向には行かず、そのまま来た道を逆流するように階段を上っていく。震える身体をどうにか支えながら部屋まで辿り着くと、ベッドの上に崩れ落ちてしまった。

 

 医院の建物を大幅に改築する話は、彼の口から聞いていた。跡継ぎが無事に見習期間を終え、戻ってきた。共に医院を切り盛りできるようになって、彼の父上も張り切っているという。古くなった建物に手を加え、今は林になっている隣接の土地も買い上げて、建て増しをすると言っていた。入院棟も整備して、医師の数も増やす。やがては地域に根付く総合病院としての環境を整え、大きく成長したいと考えているようだ。

 医療に携わる者としての彼の態度は信じられないほど無欲で真面目で、瑠依子にはまぶしいほどだった。利益を追求しようと言うようなおごった気持ちはどこにもない。苦しんでいる人を救いたいという純粋な気持ちだけが彼を医療の現場に向かわせていた。

 彼の話と、先ほどの父の言葉。それが瑠依子の中で、ひとつの真実に届くのに時間はかからなかった。

 

 ……そうか、そうだったのか。

 

 ひとつ、またひとつと、花柄のカバーの上に丸いシミが落ちていく。ぼたぼたと自分からあふれ出るしずくを持て余し、己の絶望が想像を大きく超えていることを悟った。

 口惜しくて仕方ない。あの笑顔の裏に隠されていたもの。彼も他の男たちと何ら変わるところはない。ただただ、瑠依子の家の資産や金が欲しかっただけ。病院の拡張に対する援助を求めていたのだ。

 そんなことが全くないと、彼を全面的に信じていたわけではない。心のどこかで、いつも疑いの気持ちは持っていた。次第に惹かれていき、後戻りの出来ない場所まで進みつつある自分が怖くて、どうにかして歯止めを掛けたかった。だから……、こんな風に真実が明らかになったところで、たいした打撃もなかったはずなのに。

 

 ……それなのに、何故、こんなにも辛いのだろう。春が芽吹きつつある季節の輝きとは裏腹に、瑠依子の心は徐々に凍り付いていった。

 

◆◆◆


 苦しみや悲しみというのは、それに傷つく人間に追い打ちを掛けるように後から後から訪れるものだ。

 

 それから数日後、瑠依子は村越の病院まで足を運ぶ事になった。姉が別の病院で受けた精密検査の結果を、届けてくるようにと父に言われたのだ。瑠依子があの夜の電話を立ち聞きしていたなどとは露とも知らぬ父は、気を利かせた自分に照れるように笑顔を浮かべる。

「もしも、予定が合えば、夕食でもご一緒にするといいよ」

 あのショックからまだ立ち直ったわけではない。それに、村越との約束までまだ日があった。週末は親戚の結婚式があり出席するので、会うことが出来ないと言われていたのだ。
 だが、日中はぼんやりと物思いにふけるだけで、たいした用事もない。断る理由も思いつかなかった。

 診断書の入った封筒を受付に出して、すぐに戻ればいいと考えた。村越だって、仕事中だ。そんな忙しい中を呼び出せるはずもない。父はそのあたりを気軽に考えているようだが、瑠依子はそこまでの傲慢さは持ち合わせていなかった。

 

 予定通りあっけなく用事を済ませ、逃げるように建物から飛び出した。何歩か歩いてから、ようやく振り返る。真っ白な木造の建物が木々に囲まれて建っていた。それは瑠依子が子供の頃から変わることのない風景。小さい頃から、姉が入院するたびに、何度もここに見舞いに来た。

 姉の主治医は落ち着いた物腰の男性。何度も顔を合わせていた。だが……彼に息子がいて、瑠依子と大して変わらない年齢であると言うことは知らなかった。知る必要もなかった。

 木々の青葉の間から、青い空が見える。時間さえもあのころに戻ってしまったようだ。いつでも孤独だった。病弱な姉にかかり切りの両親。家族旅行など叶うはずもなく、ただ姉の身体が健やかにあるように、家族が笑顔で過ごせるようにと願うだけだった。

 

 自分が、幸せになることなど。そんな風に望むことも思いつかなかった。瑠依子の笑顔よりも、姉の笑顔の方が喜ばれた。瑠依子がかけっこで一番になるよりも、姉が一日咳をしないことの方が重要だった。

 そんな理不尽さの中で、いつか世の中の全てが無意味なものに感じられるようになる。愛らしい容姿も小鳥のような歌声も持っていない。自分に残されたことと言ったら、姉の分まで頑張ることだけ。人の何倍も勉強して、いい学校に入ることも、周囲の誰もが認めてくれる成果だからこそ、有意義なものになった。可愛い気のない、鼻持ちならない女だと言われても、そんなの知った事じゃない。

 東城の娘として、家を守るために、大抵のものは捨て去ってしまえた。 

 

 誰かのために、何か自分が出来ることがあるのなら――抜け殻になってしまってもいいのかも知れない。自分を妻に迎えることで、この病院は大きな恩恵を受ける。彼の夢であるたくさんの人々を救える環境を造り出すことが出来るのだ。

 ……愛されたいなどと、願うことは愚かなのだ。何の取り柄もないただの娘なら、それもいいだろう。だが、瑠依子は違う。瑠依子は……守られる娘、ではない。

 白い外壁に、そっと手を当てた。

 本当にそれでいいのか。愛を持たないふたりが、幸せになれるはずもない。彼だって、心から愛おしいと思える女性と添い遂げた方が、ずっと実りの多い人生になるはずだ。彼の幸せが欲しい。それを与えられるのは自分ではない。……だとしたら。

 千々に乱れる心。彼のことを何よりも大切に考えなくてはと思う反面、どこまでも未練たらしく諦めきれない自分がいる。

 ――偽りでも、いいじゃないか。

 一瞬でも長く、愛されているという錯覚の中にいたい。彼だって、馬鹿じゃない。きっと上手に演じてくれるはず。自分は誰よりも愛される理想的な妻として、幸せな数年を送れるはずだ。未来の大病院の後継者だ。次世代を担う血を分けた子供は必要である。その当たり前の成果を得るために、しばらくは妻として愛されることになるだろう。
 そして……その末に、彼の子を宿すことが出来たなら。そのとき自分はかつて願うことも許されなかった幸運を手に入れることが出来る。心から愛したただ一人の人。その人の分身をはぐくむことが出来るのだ。どんなにか素晴らしい人生だろう。

 彼を失って、生きていく自信がなかった。彼の人生の中で、自分はたいした位置を占めてはいない。でも……自分にとって、彼の存在はあまりに大きい。会うたびに感じてる幸せの重みは、瑠依子にとって甘美な鎖になっていった。

 誰か答えてくれないだろうか。それを願う自分がとても愚かであることを。早く目覚めよと促してくれる真の理解者はどこにいるのだろう。……否。誰も止められない、この熱い情熱は。

 


「でもっ……本当に驚いちゃったわ〜」

 いきなり誰かの声がして、ハッとする。柱の陰からのぞくと、昼休みを終えたのであろうふたりの若い看護婦が建物に向かって歩いてくるところだった。緊張した仕事時間とは異なり、その表情にもくつろいだ色が見える。ふたりは楽しそうにおしゃべりに花を咲かせていた。

「そうよ、野木婦長、いきなりご結婚なさるって仰るんだもの……私また、若院長と……って、信じていたのに」

 またも、彼の名を耳にすることになってしまった。だが、今更出て行くことも出来ない。こんなところでまで、立ち聞きをする羽目になった。自分の行動が情けなくて仕方ない。

「野木婦長って……若院長の従姉妹さんなんでしょう? おふたりの結婚の話はずいぶん前から出ていたという噂よ。婦長の口から直接聞いた子もいるみたい」

「えっ……、じゃあどうして?」

 野木、と言う名には覚えがあった。自分よりいくらか年長の看護婦だ。姉の診察の折りに、医師が同伴して瑠依子の家まで連れてくることもあった。すらりとした知的な美人で、女性としてのあこがれを全部持ち合わせている羨ましい人。主治医とのやりとりを見ていても、とても信頼されている様子がよく分かった。

「さあ、そこまでは分からないけど。若院長に落ち度があるわけないし、何でしょうね。婦長のような方が奥様なら、この病院もますます発展するのに。惜しい魚を逃したという感じね。若院長も、情けないわ」

 ふたりはそう話しながら、たいして差し迫った様子もない。楽しそうに笑い合いながら、建物の中に入っていった。

 

 ……若い院長、彼のことだ。彼には婚約者がいたのだ。知らなかった、そんなこと。誰も教えてくれなかった。まあ、当然のことだろう。彼ほどの男に、適当な相手がいなかったとは思えない。

 

 ……ああ、どうして……!

 もう、何がなんだか、考えるのも辛くなってきた。彼が自分の意に添わぬ結婚を受け入れざるを得ない状況にあることだけでも十分に不幸だと思っていた。だのに……、もしも瑠依子の父の融資の提案が、好き合っていた恋人同士を引き裂く結果になっていたのだとしたら。そんなひどい話があるだろうか。

 戦前だったら、いくらでもこんな事はあったかも知れない。だが、もう今は新しい時代なのだ。いつまでもしがらみにとらわれることなく、自由に恋愛したり結婚したりが叶う。

 

 いつの間にか、病院の庭先にしゃがみ込んでいた。目はしっかりと開けているはずなのに、絶望の闇しか見あたらない。いつまでも、こんなところにいるわけにも行かない。自分が来たと聞いた彼が探しに来たらどうしよう。

 

 誰よりも愛しい人……でも、今はどんな顔をして会えばいいか分からない。

 

 やっとの事で立ち上がると、ふらふらとよろけながら足を進める。だが、この先どこまで歩いても、自分にはもう希望の光は差してこない気がした。

 

 

続く(031124)

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