TopNovel「11番目の夢」扉>やわらかな鼓動・3



「11番目の夢」外伝
…3…

 

 

「今宵は……本当にどうされたのですか? いつもの覇気がありませんね」

 話しかけられて、ハッとする。長い長い物思いの中にいて、現実に戻ってこられなかった自分に気づく。

 食後のコーヒーがテーブルに運ばれていた。暖かい湯気が、小さなカップからふんわりと立ち上がり、やがて暖かい室内の空気に溶けていく。瑠依子は力無く顔を上げた。いつのときも変わることのない笑顔が静かにこちらを見つめていた。

「どこか、具合でも? そう言えば、顔色が優れませんね。このところの陽気は不安定で身体に触りますから、……もしや、体調を崩されましたか?」

 ……お医者様らしい、口調。あまり自分に向けて語りかけられる言葉ではないから、少し戸惑った。

 このように大切にされ心配されるのは姉の役目だ。自分にその立場が回ることはない。まだ世界が自分を中心に回っていた幼い頃はそれでも待ち望んだこともある。だが、そんな年齢はとっくにすぎていた。

「いえ……別に。何でもありませんわ」

 無理に微笑み返すと、頬がひくひくと波打った。伝えたいことと、それを拒む心が、自分の中で交錯する。自分の手で下ろさなくてはならない幕が、目の前にある。これを引けば全てが終わるというロープを握る勇気が欲しい。そう思う一方で、もうひとつの心が叫ぶ。

 でもっ……、そんなことしなくたって。いいじゃないの、望まれているなら受け入れれば。

 自分が愚かなことなど重々承知しているのに。心の中を巣くう悪魔が、待ったを掛ける。頷いてしまえ、結婚の申し出を承諾しろ。そうすれば、お前には未来の大病院の院長夫人としての輝かしい未来が拓けるのだから。

 目の前の男が、愛しくて憎かった。彼は色々な感情を全て押し殺して、なに食わぬ顔で自分に愛を告げる。頭のいい人だ、小娘一人を騙し抱え込むことなど朝飯前だと思っているのかも知れない。優しい笑顔の仮面の下にある本物の心。それを生涯隠し通そうとしているのか。

 

「今日はね……瑠依子様に是非、お目に掛けたいものがあるのです。ごらん頂けますか……?」

 彼女の心の中の荒れ狂う海に全く気づかず。彼は落ち着き掛けたその年齢に似つかわしくないほどの無邪気な表情で、自分の宝物をこっそり差し出すように手を開いた。

 真っ白な、革張りの小さな箱。彼の手のひらにすっぽり覆われてしまうほどのささやかな存在に瑠依子の目は釘付けになった。

「瑠依子様は6月生でしたよね。ならば誕生石は真珠。真珠は……お好きですか?」

 こくり、と息をのんだ。そして、自分の中に浮かんだ感情を払いのけるように、わざとぞんざいに吐き捨てる。

「真珠は…嫌いですっ! どうせならダイヤが良かったわ。あんなぽってりとして形ばかり大きくて、野暮ったいもの。父からもいくつも贈られていますが、身につけることなんてないわ」

 不愉快を表現する言葉を手当たり次第に並べ立てた。出来る限りの態度で、嫌な女を演じたいと思った。

「そうですか……」

 でも彼は、少しも態度を変えない。普通の人間なら、瑠依子のこんな憎々しい言葉を聞けば、呆れて話を切り上げるのに。男はまっすぐにこちらを見て、更に甘く微笑んだ。

「実はね、何となく入った宝飾店でこれを見つけまして。いつもなら、このような品に興味を示すことなんてないんですが……どうしても、手に入れて瑠依子様に差し上げたくなってしまったんです」

 そこまで告げると、静かに箱の蓋を開ける。瑠依子が見やすいように更にそれをこちらに近づけてきた。

 

 ――これは?

 胸がひとりでに高鳴る。軽い目眩すら覚えた。

 やわらかなビロウドの台座に小さなリングが乗せられている。その愛らしい姿は瑠依子が今までに見たことのない美しさだった。小さめの淡いピンク色の一粒が大切そうに銀の土台の上にある。細工を施されたその部分は細くて、今まで持っていた「真珠の指輪」のイメージからは想像も付かないものだった。

 

「綺麗でしょう……でも、なかなか店の方でも私に渡してくれませんでした。ああいう店はなじみの客には愛想がいいですが、私のような貧乏人には冷たいものです。月賦払いにするとしても、品物の3分の一の金を頭金として納められるまでは、取り置きのかたちを取らせて貰うと言われてしまって。ようやく今月分の給料が出て、手にすることが出来ました」

 無言のままの瑠依子に対して、彼はいつになく饒舌に話を続ける。もう……、これ以上何かを話したら、そのときは自分がどうなってしまうか分からない。ぎりぎりの場所で瑠依子は震えていた。

 院長の息子であるというのに。彼は他の医師と立場を変えず、病院から月に一定額のサラリーを受け取っていた。その金額を聞いたこともある。医者というイメージにそぐわないものだった。多分、何ヶ月も掛けてようやく手にしたのだろう。瑠依子の宝石箱にあるあまたの装飾具に比べたらささやかすぎるこの輝きも、そんな背景を考えたらなおさら美しく見える。

 これを、受け取ることが出来たなら。どんなにか嬉しいことだろう。多分彼は家のことや瑠依子のことなどおくびにも出さず、ただ、一人の客として店に通ったのだ。権力を振りかざしたりしない、彼らしいやり方だ。瑠依子もそんな彼の態度が好きだった。

 ……そう、好きだった。こんな彼だからこそ、瑠依子は今まで誰にも感じたことのない深い想いを抱いてしまった。二つの心が瑠依子の胸を引き裂く。テーブルの下で握りしめた手が、ぎりぎりと音を立てた。

 

「……いりませんわ、こんな安物」

 

 心にもないこと、という言葉がある。たとえばこんな事を言うのだなと、緊迫した空気の中で瑠依子は考えていた。彼がごくりと息をのんだのが分かる。明らかに動揺している。そうしてくれるように振る舞ったのだから、当然のことだ。

「いつまでもこのように付きまとわれては迷惑です。結婚のお話はきっぱりとお断りいたします、もう二度と私の前には現れないで……っ!」

 それだけを早口で言い終えると、がたんと席を立った。彼に背を向けると部屋の一番奥まで進んでいく。窓際のカーテンを握りしめた。

 

「……瑠依子、様?」

 さすがの彼も、瑠依子のこの態度には心の乱れを隠せない様子だった。少し遅れて席を立つ気配がする。何か言葉を掛けられる前に終わりにしなくてはならない。瑠依子は自分を奮い立たせるように、話し続けた。

「お見送りは結構ですわ。私も車を呼びますから、村越様ももうお戻りになってっ……!」

 

 ああ、早く。早く、部屋から立ち去って欲しい。この身が崩れ落ちる前に、さっさと背を向けてくれないか。

 

 それなのに。瑠依子の願いとは裏腹に、彼の足音はまっすぐにこちらに進んできて、すぐ背後で止まった。

「私との結婚を……考えては頂けない、と仰るのですか?」

 震える声。先ほどまでの和やかな空気が嘘のように、彼の言葉には押し迫った悲壮感が表れていた。瑠依子はカーテンを握る手に力を込める。こうでもしていないと、自分の心を支えることが出来なかった。

「とっ……当然です。村越様もご存じでしょう? 私には他にもたくさんのお話がありますの。あなたなど、ものの数にも入りませんわ。失礼ですが、我が家とそちらではあまりにも釣り合いが取れませんもの。私、一生を楽しく過ごせるだけの富と名声のある方のところに参りたいですわ」

 

 自分でも何を言っているのかよく分からない。これ以上、この男と同じ空間にいたら気が触れてしまいそうだ。己によって八つ裂きにされた心が、それでも一番大切な想いを突きつけてくる。自分にとっての真実は何なのかは分かり切っている。だからこそ苦しかった。

 

「――嘘です」

 彼はきっぱりとそう言った。瑠依子の背がまた大きく揺れる。必死でブラシを入れた髪が、大きく波打った。そうする価値もないと知りながら、それでも自分を飾り立てなければ気が済まなかった。爪の先ほどでも彼に似合う女性になりたくて。

「瑠依子様は……偽りを仰ってます。こんなの、あなたの本心ではないはずだ」
 静かに、でも的確に突いてくる。その瞳の深さも熱さも、広く開いたドレスの背中から感じ取れるほどに。

「なっ、何を仰るの!? うぬぼれるのも、いい加減にっ……!」

 あまりに必死になりすぎたのだろうか。くらりと身体が揺れた。掴んでいる柔らかい素材のカーテンが、ぎしっと音を立てている。

 後方に崩れかけた瑠依子は背後の暖かいものに当たって、かろうじて難を逃れた。そのぬくもりの主は、決して出過ぎた真似などせず、柔らかく抱き留めてくれる。それだけの行為にすがりたくなる。こらえきれなくなったひとしずくが、音もなく瑠依子の頬を流れ落ちた。

「落ち着いてください、瑠依子様。一体どうなさったのですか? いつものように楽しい時間を過ごせると待ち望んでいたのに。今宵のあなたはどうかしている……私が何かお気に障ることを致しましたか?」

 静かに静かに、心にしみこんでいく声。遠慮がちに肩を支える手のひら。この人の腕にこうして落ちる日をどんなに夢見たことだろう。

「もしも、あなたが本気で私を嫌っていらっしゃるなら、無理は申しません。でも……私にはそんなこと信じられない。それでは、今までの間、私は一体あなたの何を見ていたのでしょう……?」

 ……ひどい。どうしてこんな風に仰るのだろう。

 お医者様だから、目の前にいる人間の心うちまで感じ取れてしまうと言うのか。そんな……そんなことを告げられても、はいそうですかと言うわけにはいかない。この人には、この人の幸せがあるはずだ。わずかばかりの金銭のために、道を外して欲しくない。

「嫌いだと……大嫌いだと、申し上げたでしょう? あなたには愛情のかけらも感じてはおりませんわ。ただ、あまりにしつこいから仕方なくおつき合いしただけのこと……!」

「そんなのっ……、嘘だっ!」

 暖かい腕が後ろから瑠依子を包み込む。決して、縛り付けるほどの強引さはないが、柔らかく抱きすくめられていた。今までほんのりとしか感じたことのない彼の香りが、瑠依子を包み込む。

「私には、あなたの愛を確信する瞬間がいくつもあった。身分違いなど承知の上で、それでも諦めきれなかったのはその希望があったからこそ。それともっ……、あなたはそれすらも、私の思い詰めた心が見た幻影だと仰るのですか?」

 

 ……ああっ……!

 今までの20数年の人生の中で、己の欲した多くのものを叶わぬ夢と手放してきた。だから、今回のこともどれほどの苦痛を伴おうともやり遂げようと思っていた。それなのに、どうしてこのような酷な仕打ちを受けなければならないのだろう。震える身体全体が瑠依子への真摯な愛を告げている腕の中で、魔物に魂を売り渡してしまいそうだ。かろうじてそれを阻止できるのは、その上を行く彼への愛情だけ。

 

「お離しになって、村越様。あまりにひどいことをなさると人を呼びますよ」

 この言葉がすんなりと口から出たことを、瑠依子は神に感謝した。自分の熱さとはほど遠いものを悟ったのか、彼の腕がするりと解ける。瑠依子はお互いの距離を置くために数歩後ずさりした。背中が壁に届いたところで大きくひとつ、深呼吸する。それからしっかりとした視線で面を上げた。

 穏やかな輪郭も優しい眼差しも、全部好きだった。この人の顔をしっかりと見つめられるのもこれが最後。そう思えば、どんなに辛くても、その表情のわずかな変化まで胸に刻みつけよう。

「もう……いいのです、村越様。お金のことは、お気になさらなくても大丈夫。私が父によく言いますから」

「……え?」

 いきなり話の向きが変わったことに、彼は驚愕の色を隠せない様子だ。何度か瞬きすると、その真意を探ろうと目の前の瑠依子を見つめた。無理に微笑みの顔を作る。最後にこの人の記憶に残るなら、笑顔でいよう。どんな娘でもふてくされているよりも、笑っている方が綺麗だ。

「父も……どうかしているのですわ。私との結婚を条件にそちらに融資の話を持ちかけるなんて。この地に長年支えられた家として、地域の発展に貢献するのは当然のこと。自分の私利私欲のためにすることではありません。どうか……安心なさって」

 言葉が紡げたのはそこまでだった。彼の視線に晒された頬に新たなしずくが落ちる前に、瑠依子はふっと顔を背けた。そして、彼の横をすり抜けて、一気に部屋の入り口まで進もうとした。

「待ってくださいっ……、どういう事ですか、それは」

 瑠依子の足は彼女の意に反して、立ち止まり動けなくなった。素早く捕まれたむき出しの腕が、彼の強さをこちらに直に伝えてくる。ハッとして振り返る。今までに見たことのない程、厳しい表情をした男がそこに立っていた。

「あなたは……私が金に目のくらんだ男だと、蔑んでいらっしゃるのですか? そのようにしか思ってくださらないのですか!?」

 男には女では想像も付かないほどの強い自尊心がある。自分の力で社会を生き抜いていくために、培われたものなのだろうか?

 男勝りな瑠依子であったが、今まで付き合ってきた男たちとのやりとりの中でも追いつくことが出来ないと思うのがこれであった。一番大切なそれを傷つけてしまったとき、彼らの怒りは頂点に達する。地雷のようなものだと思っていた。

 でもまさか……、今の瞬間、村越にそれがあるとは思っていなかった。瑠依子としては「図星」とも思えることを言ったまでのこと。彼にとっては痛いところをつかれたという感じなのだと。

「え……、だって」

 普段、穏やかな男だから、こうなってしまったときの姿に戸惑ってしまった。

「他に理由など思いつきませんわ。村越様が、私を選んでくださるのに、それ以上のことは……」

 力無く首を横に振り、どうにか束縛を逃れようと試みた。だが、力の差は歴然としている。それどころか彼の手には更に力がこもった。

 

「お言葉が過ぎますよ、瑠依子様」

 ぐい、と腕を引かれる。ふたりの距離がぐっと詰まった。あの夜のプロポーズよりももっと近い場所に立っている。彼はこちらから目をそらそうとはしなかった。

「私の最愛の人を、これ以上侮辱することは許しません。何故、そのように仰るのです。私の……何が足りませんでしたか? いつでもこの想いを全てあなたにお伝えしていたはずです」

 

「そんなっ……、でも」

 真剣すぎる態度に怯えてしまう。いつもの気丈さはどこへやら、瑠依子は小さな子供のように震えていた。そこまで想ってもらえる理由が思いつかない。お金のためだと知った瞬間に、どうにか帳尻を合わせることが出来たのだ。ここに来て、まだ疑っている。この男は自分に対し、一生役者の顔を続けるつもりなのではないだろうか。

「あなたを心から愛おしいと想ったからこそ、意を決して結婚を申し出たのではないですか。身分の差を考えると身が震えて仕方がありませんでしたが、それでも……あなたが欲しかったから。何故、私の気持ちを偽りだと仰るのです。あんまりです、こんなにひどい仰りようはないですよ」

 

 あごを強引に捕まれる。意識してそらした視線を、強引に戻されてしまった。……怖かった。何がそんなに恐ろしいのだろう。彼の瞳の奥の燃える色が、瑠依子の心を押さえ込んだ。

「許さない……、あなたであっても、このような真似をされたら、もう許すことは出来ません。ここは――私が声を掛けなければ、誰も入っては来ません。ドアは閉まっていて、音が漏れることは少ないでしょう。今ここで、あなたを私だけのものにしてしまうことも可能なのですよ?」

 目の前の男の変わりように、瑠依子は途方に暮れた視線を向けた。あんなに穏やかに自分の返事を待ってくれていた、彼はどこに行ったのだろう。優しい笑顔の下にあったのは、こんな残虐な一面だったのだろうか?

 

「いやっ……! こんな村越様は嫌ですっ……、どうかいつものあなたに戻ってください。こんなっ……こんなのって……!」

 瑠依子の中で、緊張の糸が途切れた。がくんと膝が落ち、そのまま長い毛足のカーペットの上に崩れ落ちる。体中からあふれ出るもので頬が濡れていく。嗚咽を抑えようと、口元を覆った。

 彼は瑠依子を捉えていた手を解くと、ほうっとため息を落とす。それから、瑠依子と同じ目線になるように、自らも膝を床に着いた。

「お馬鹿さん、……そんなに意地っ張りでどうするのです。他の誰にはそれでも構いません。だけど、……どうか私の前では素直なあなたになってください」

 そのまま、優しく抱きすくめられた。向かい合わせに身体を重ね合わせたことでお互いの鼓動が伝わり合う。その音色が反響し合って、暖かい空間を形成した。

「あなたのまっすぐな心が私を捉えて離さないのです。初めてお会いしたときから、全てに惑わされてしまった。再びお目にかかりたくて仕方ない。離れている時間もあなたのことばかり考えている。子供のような分からず屋の自分を、どんなにか持て余したことか。……あなたが、どうしても欲しかった。狂おしいほどに」

「そんな……、信じられませんわ。今までそのように仰ってくれる方などいらっしゃらなかったから。村越様のような素晴らしい方が、どうして私など」

 言葉が発せられるごとに、瑠依子を抱きしめている身体全体がふわりふわりと波打つ。こんな風にぬくもりまで一緒に語りかけられると、最後の抵抗までなくしてしまいそうだ。

「私は……自分にとって、愉快で楽しい人生を送りたいのです」

 その言葉に導かれるように顔を上げた瑠依子に、彼は照れた頬で微笑んだ。

「あなたと知的な会話を楽しむ時間は、この上なく私にとってのくつろぎです。人生の伴侶にまさかそんな人を望めるとは思わなかった。女性は皆、素直で……でも、物足りないものだとばかり思っていたから。あなたに出会えたことで、私の世界観は大きく変わりましたよ。もう……後戻りが出来ないほどに」

 優しく頬を包まれる。未だに信じ切れない心で見つめる瑠依子を安心させようと、彼は更に暖かく微笑んでくれた。

「あなたがいない闇など、もう欲しくない。失うことなど、考えられない。どうか……共に生きると仰ってください。そうしないと私は気が狂いそうだ」

「でっ……でもっ、私」
 まつげが触れるほどの距離が、恥ずかしくて仕方ない。大きく頭を振って、束縛を解くと、広い胸に顔を埋めた。その場所はまるで瑠依子を待ち望んでいたかのように、しっくりとなじんだ。

「こんなにやせっぽちで色も黒くて……美人じゃないし。女らしいところなんて、ひとつもないのに。きっと……すぐに呆れて他に目移りなさいますわ。村越様の周りにはお綺麗な方がたくさんいらっしゃるから」

 

 同僚の女医に看護婦に患者さん。彼の職場には瑠依子など及びもしないほどの素晴らしい女性たちが溢れている。こうして求められ、愛を告げられるのはとても嬉しい。でも……、恋なんていずれは冷めていくものだ。そんなときに、取り残される自分は何を知らなかった頃よりもずっと惨めだと思う。

 だからこそ、彼の愛情をそのものを偽りだと思うしかなかったのだ。そうやってつじつまを合わせれば、納得がいく。きちんと理由が分からなければ曖昧すぎて不安になる。

 

「またそうやって……本当にあなたは可愛らしい方だ」

 こっちが本気で悩んでいるのに。彼の方はくすくすと笑い声をあげている。その緊張感のない態度に、憮然とする。人の心をおもちゃにして楽しまないで欲しい。

「すぐに頭で考えようとする。それがあなたの魅力ではあるのですが……ここは、もっとおおらかにしてくださいませんか? 大丈夫ですよ、私が一生あなたを守って見せます。何があっても、どんなときでも、あなたの味方になりましょう。大船に乗ったつもりで、楽しんでいてくださればいいのですよ?」

「……まあ」

 あまりにもきっぱりと言い切られて、呆れてしまう。あまり大袈裟なことを言ってしまうと、後で収拾が付かなくなって大変なのに。本当にこの人は、自分と一緒に生きていこうと思ってくれているのだろうか。守られて、導かれて。これから先は、いつでも差し伸べられる手を道しるべに歩いていけるのだろうか。

 

 今まで忌々しい存在にしか思えなかった雨音が、ふたりを祝福する歓喜の音楽に聞こえてくる。鳴りやまない幸せへの凱歌は、やがて辺りをますます彩り豊かに変えていく。春が……深まっていく。やがて心の中までにも注ぎ込むほどに。

 

「だけど、……ひとつだけ。お願いがあるんです」

 村越は少年のような瞳で、瑠依子に問いかける。

「あんまり、私に対しては意固地にならないでくださいね。今日のようにあなたに拒まれると、私も自制心がきかなくなる。実は……かなりわがままな人間ですので、思い通りに事が進まないと大変なことになりますよ?」

 

 瑠依子はまじまじと彼の顔を見上げた。漆黒の瞳に映る自分が、やがてふっと微笑むのを見つける。こんな風に穏やかな心地になれたのは久方ぶりのことである。もしかしたら、とてつもない幸運を、自分は手に入れたのかも知れない。

 愛される女になれるのだろうか? 願っても叶うことはないと思っていた夢に手が届く日が本当に来るのだろうか?

 

「でも……怒ったお顔もとても素敵でしたわ。なんだか、癖になりそう……」

 

 彼が一瞬、表情を止めて、それからふっと微笑む。頬に再び指が触れたとき、今まで耳に聞こえていた雨音が遠のいた。

 

 もうひとつの鼓動にやわらかく包まれながら。瑠依子は……自分が天使になれる口づけを、その唇に迎え入れた。

 

 

了(031125)

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