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気が遠くなるほど延々と続くの金色並木。黒塗りの車はその脇を静かに通り過ぎていく。遠目に見ればどれも同じ色合いに見える葉が、間近になるとオレンジから薄い黄色まで様々に色づいているのが分かる。外は風がかなり強いようだ。さらさらと枝が揺れるたびに、まるで雪のように金色の葉が降り注いでくる。 ――今年も、もうわずかなのね……。そんな想いが彼女の心をよぎったとき、その桜色の口元からふっと溜息が漏れた。
「……どうしました、ご気分がすぐれませんか?」 不意に声を掛けられ、咲夜はゆったりとしたシートに埋めていた身体を正した。窓の外をぼんやりと眺めていた漆黒の瞳で振り向いて見れば、バックミラー越しに運転手の男がこちらをうかがっている。フロントガラスに落ちる朝の日差しに彼の眼鏡のフレームがきらりと光った。 「そう言えば、お顔の色もあまり良くありませんね。昨日は夜更かしでもなさいましたか。さわりがあるようでしたら、念のため主治医の先生の診察を受けられた方が宜しいかと。これから連絡を入れれば、それほど時間のロスはないはず。授業開始にもギリギリ間に合いますよ」
一籐木咲夜(いっとうぎ・さくや)――その名を聞けば、誰もがその顔を頭に思い描くことが出来るとさえ言われている。 その姿を一目見れば、もう忘れることの出来なくなるほどの美しさもさることながら、後ろに控えるものも壮大。そうなれば、物騒な今日、相応の警護は不可欠だ。このように毎日の通学も送迎付きで、放課後の寄り道などもあり得ない。何か入り用のものがあるときには行きつけの百貨店のVIP専用フロアに直行する。その時ももちろんガード付きだ。
「別に、どこも悪くないから大丈夫よ。このまま学園に行ってちょうだい」 自分の声がかなりとげとげしくなっていることに気付いた。ああ、嫌だ。どうしてこんな風に感情が表に出てしまうんだろう。きっと前にいる男も呆れているに違いない。何しろ一回り以上、彼の方が年上なのだ。初めて出会った7歳の時、もう彼は大学を卒業した若者だったのだから。 「そうですか、……大切なお身体なのですからくれぐれもお気を付けくださらないとなりませんよ。これから年末年始は色々な行事が目白押しです。咲夜様もあちらこちらからお声が掛かって大変ですから――インフルエンザの二回目の予防接種は来週でしたね」 咲夜はその質問には答えず、自分のスカートの裾を直した。一応「シルバーグレイ」という名で呼ばれているが、うす青ともラベンダーとも思える微妙な色合いはかなり珍しく、身につけていると遠くからでもよく分かる。高等部も同じようにセーラー服ではあるが、中等部のそれは襟が大きく丸みを帯びているのが特徴だ。リボンの脇に付いている校章と、それから生徒会のバッチが輝いていた。彼女は中等部の生徒会長なのである。 「今日は始業前にも皆を集めての連絡事項があるの。私だって、忙しいんだから」 そう言いながら窓をのぞけば、みっともないほどにふくれっ面。あまりにも情けなくなって、自分の指で頬をつついていた。
……***……
送迎の車は裏門から入るようにロータリーが出来ている。横付けにされた車から降りると、すぐに声を掛けられた。 「おはようございます、櫻田様。今日もいいお天気ね」 車外に一歩出たときから、自分が一枚仮面をかぶったような気がしている。いつもそうだ、くつろいでいられるのは余計な視線を感じない空間だけ。こうして公の場に出てくれば、彼女は「一籐木咲夜」を完璧に演じることになるのだ。これも身につけている習慣のようなもので、今更苦痛にも感じない。 ――他人を寄せ付けない雰囲気ね。 そんな風に影で噂されているのも知っていた。だが、気にするまでもない。咲夜にとって、学園での生活はこんなものであった。一籐木の娘としての自分でいることが大切であり、それ以上のものは何もない。授業や与えられた仕事は完璧にこなすが、そこに自分自身が楽しんでいるという実感はなかった。
誰よりも早く、生徒会室の鍵を開けて中に入る。朝の冷え切った空気が部屋の中に張りつめていて頬が切れるほどだ。しかしそれに臆することもなく、彼女はまっすぐに窓際まで歩いていった。そして四階の窓から外の様子を見下ろす。 ――何よ、大人ぶっちゃって。本当に腹が立つったら……。 そんな風に声にならない想いを心に落とすと、また溜息が出た。昨日から何度こんなことを繰り返しているのだろう。あまりにふさいでいたため、食事の時間に家族からも指摘を受けた。だけど、理由を話すことなど出来ない。特に祖父は孫娘の様子を心配そうにうかがっていたが、その優しさに甘えることなど出来るわけがなかった。何故なら彼女には確信があったから。 ――きっと、すべてはお祖父様がお決めになったことなんだわ。間違いない。 校庭を白く砂埃が通り過ぎていく。流れ落ちていく金の雨、それと同様に。誰からも悟られることなく密やかに、咲夜の心も泣いていた。 ……***……
突然の祖父の呼び出し。それには少なからず驚いた。 ―― 一体、どういうことなのだろう……? 先日の七歳の誕生日に祖父から贈られた大きなぬいぐるみを抱えたまま、咲夜は目の前に祖父とともに立っている若い男を見上げた。すらりと長身の彼が着込んでいるのはアイボリーのスーツ。柔らかな髪の色が染められたものでないことを証明するのは淡いミルク色の肌。ほとんど目立たない縁取りの眼鏡、その向こうの瞳も優しそうな色をしている。 「咲夜もそろそろ表舞台に立つ立場になる、お前の兄たちもそうであったように。一籐木の一員としてしっかりと務めて貰わなくてな。そのために彼に力を借りることにした」 まだ小学校の生活に慣れたばかりの少女にはあまりに不似合いな言葉。しかし、咲夜にとってはそれほど驚くことでもない。「とうとうその時が来たのか」という冷静な受け止め方が出来た。一籐木は大企業に上り詰めた今日にあっても、家族経営を基本としていて、数ある関連会社のトップにも親族の者が顔を並べている。 幼稚部から通う学園へは今までも専属の運転手による送迎が当然だった。その人は白髪のふさふさした優しいおじいさんで正確な仕事で知られていたが、やはり年齢的なこともありそろそろ引退が囁かれている。 「ああ、まだ人見知りをしているようだな。だが、案ずることはない、惣哉君はあの東城の息子なのだよ?」 「東城……の、おじさまの?」 「東城惣哉と申します。今後よろしくお願いいたします、咲夜お嬢様」 そう言って、大きな右手を差し出す。普段こんな風に大人から挨拶されるときには、すぐに頭を撫でられたり抱き上げられたりするのに。この人はきちんと私を大人として扱ってくれるんだ。 自分の小さな手が頼りなくて、両手を添えてみる。長くてすべすべしている指、今まで触れた男の人の手の中で一番綺麗だなと思った。
次の日から。朝決まった時間になると、彼は咲夜の住む一籐木の屋敷の庭先に車を停めた。身支度を調え、お手伝いさんに付き添われながら玄関を出てくる彼女に一礼し、後部座席のドアを開けてくれる。乗り降りのしやすいようにと、外国製の左ハンドルを選んでくれたのも彼だと聞いた。 惣哉とのそんなやりとりは新鮮で、咲夜は毎日の送迎の時間がとても楽しみになった。兄たちとも年が離れていたし女の兄弟もいなかったため、何となく大人ばかりの中で育つ環境になっている。もちろん惣哉も立派な大人なのだが、少しでも年齢の近い存在が「友達」みたいだったから。……そう、学園にもたくさんの友達はいたが、咲夜はどうしても心を開くことが出来ずにいたのだ。 初めは決められた通学路を往復するだけであったが、次第に小さな買い物にも付き合って貰うようになった。通学には学園指定の制服を着用するが、その他にも季節ごとに何着もの服を新調する。そのすべてはオーダーで、採寸から仮縫いまで何度も打ち合わせをしながら進められていく。もちろん希望すれば屋敷まで来てくれるが、咲夜はお店の服を覗くのも楽しみだったので店頭まで足を運ぶようにしていた。
気安い間柄だと認識すると、だんだん子供らしい我が儘も飛び出してくる。時にはちょっと悪ふざけをしたり甘えたりしたくなった。でも、そんなとき惣哉は容赦ない。いつもの穏やかな物腰はそのままであったが、咲夜の要求をぴしゃりとはねつけた。 たとえば。車を降りたときに、咲夜の靴ひもが解けていたりする。そんなとき、彼のすることは黙って見守ることだけ。なかなか上手に結べなくて何度もやり直していても、決して手を貸してくれることはなかった。何度も頼んでみたが、全く聞き入れてくれない。 「一籐木のお嬢様が、そんな風でどうします。笑われて恥ずかしい思いをなさるのはご自分ですよ?」 そんな風に突き放されて、とても腹が立った。なんてことを言うのだろう、この男は一籐木月彦の孫である私が怖くないのだろうか? そう思って睨み付けてみたが、相変わらず涼しい笑顔。彼はどんなときでも全く乱れることがなかった。ぴっちりと形のいいスーツで髪に一寸の乱れもない。あまりに完璧な接し方に、いつか不安も生まれてきた。 ――もしかして、この男は私のことが嫌いなのかしら? だから、大人の態度でいじめるんだ、そうに決まってる。
「……惣哉さんって、偉くなりたくないの?」 とうとうある日、そんな風に訊ねていた。それは子供なりに咲夜が考えに考えて出した答えである。 なのに。惣哉だけが違うのだ。彼はこちらの機嫌などお構いなし、自分の基準で「正しい・正しくない」を判断する。そして咲夜にもそれを押しつけるのだ。 変だ、絶対に変だ。自分は祖父が目の中に入れても痛くないほどかわいがっている愛孫。日本の政界経済界の表も裏も牛耳っていると言われている祖父を味方に付けているのに、何で言うことを聞いてくれない大人がいるんだ。もしも、「あなたはクビよ」とひとこと言えば、その瞬間に彼は路頭に迷うことになるのに。全然分かってないのかしら、それともそれでもいいと思ってるの……? 「偉く、ですか? なにやら謎解きのようなご質問ですね」 ハンドルを握るときの彼は決してこちらを振り向いたりしない。その時もバックミラーをちらっと覗いただけだった。 「私はそのようなこと、あまり考えたこともありません。自分に与えられたことをしっかりとこなすだけですよ、とてもそれ以上のことなど出来ませんから」 あっさりと答えられて、咲夜は口をつぐんでしまった。なんて大人の発言だろう、でもとてもこの男らしい。 ……どうして、こんなにイライラするんだろう。言うことを聞かせたくて色々しても、全然駄目。いつも理論で言いくるめられてしまう。驚かせたくて褒められたくてしている努力も、そのすべてが空振りだった。周囲の他の人間たちと惣哉とのギャップが広がるごとに、咲夜はもうたとえようのないほどの苛立ちを覚えるようになっていた。 ――与えられたことをしっかりこなすって……違うじゃない。あなたは私のして欲しいこと、全く分かってないわっ……! 気が付いたら、思いがけないひとことが飛び出していた。上に立つ者として言ってはいけないことだとは分かっていた。でもこれしか、今の自分の想いを伝える手段はないから。 「……もういい。明日から、別の人にして貰って。惣哉さんの顔なんて見たくない」
翌朝。屋敷の玄関の呼び鈴を押したのは、見知らぬ運転手だった。多分、この人も一籐木の社員なのだろう。でも咲夜はすっかり混乱して、言葉も出なかった。 「どうして、……惣哉さんは来ないの?」 もちろん、昨日自分が言った言葉を忘れたわけではなかった。でも、それまで雨の日も風の日も、大雪が降った日も。一年以上、全く変わらずに毎朝毎夕の運転手を勤めてくれた人なのに。 「何だ、お前がそれを希望したんだろう? 惣哉君からすべて聞いたよ、だから他の者を頼んだんだ。別に彼にはいくらでも与えたい仕事があるからな。咲夜も言いたいことがあるなら、私に直接言いなさい」 振り向くとそこには祖父が立っていた。咲夜の大好きな優しい目をして。何でも言うことを聞いてくれる、どんな我が儘を言ってもそれは変わらない。
「ごめんなさい。……帰りは、惣哉さんに来てって伝えて。お願い」 車を降りるときにようやくそう告げると、ドアを開けた初老の男は優しい笑顔で頷いた。
続く(041202)
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