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「赫い渓を往け」番外(過去編)

… 2 …

 

 

 その一件を境に、咲夜は惣哉という人間に対して恐れにも似た感情を抱くようになっていた。

 どうして他の大人たちのようにご機嫌を取ってくれないのだろう、悪いことは悪いとはっきり言えるのだろう。礼儀作法のご教育係だって、彼女を注意するときには言葉を選んでいる。きちんと指摘をしながらも、決してこちらが不快になるような物言いはしなかった。ただの無礼者だとも思ったが、そうでもないらしい。

 恐ろしい、恐ろしくて仕方ない……でも。それと同じくらい興味深く思っていた。

 

……***……


「……ほぼ完璧ですね、合格です。途中の小指のスタッカートが甘いかなとも思いましたが、咲夜様の手の大きさではあれが限界でしょう。ここまで仕上がっていれば、本番も間違いなく上手に演奏できますよ」

 埋め立て地の一角に建設された新しいホール。その落成式の余興として咲夜もピアノを演奏することになった。三つの時から専門の講師について週に二度のレッスンは受けていたが、小学生低学年ではその腕前もたかが知れている。祖父は孫娘を自慢したい様子だったが、咲夜自身は当日会場に集まるたくさんの招待客になんと思われるのか不安で仕方なかった。
 失敗することは怖い。何故ならそのことが自分の責任だけに留まらず、一籐木の一族すべてに降りかかってくるからだ。子供のすることにそれほどの興味も関心も持たれないと言うことが、物事を良く見渡せるようになれば分かる。だが、当時はそこまで悟れない。周囲の賞賛が大きければ大きいほど、「もしも上手くいかなかったら」と考えるようになっていった。

 自宅のピアノでも日に何時間も練習していたが、それでも気が焦るばかり。当日の一週間前にはステージでの打ち合わせも行われたが、その時大事な音を三つも落としてしまったことがさらに不安に拍車を掛けていた。

 いつも通りに定時に学校まで迎えに来てくれた惣哉が、普段とは違うルートにハンドルを切ったことにすぐに気付く。咲夜はすぐに彼の顔をバックミラー越しにうかがった。いつも通りに涼しい顔で何を考えているのかさっぱり分からない。前もってスケジュールの変更は伝えられなかったし、それならば今日はまっすぐに帰宅してピアノのレッスンを受けなければならないのに。

 思いあまって、口から言葉が飛び出してきそうになったその時、赤信号で車を停車させた惣哉が振り向いた。

「そのように沈んでいらっしゃっては、せっかくオーダーしたドレスも可哀想ですよ? ホールでの演奏にはいくつかのポイントがあるんです。本日は特別にそれをお教えしましょう」

 車が辿り着いたのは、先日も訪れたばかりの新築ホールである。驚いたことに、ホールの使用許可も前もって取ってあり、キーも借用済みだった。そんな素振りなど一度も見せたことはなかったのに、どういうことだろう。そう思いつつも促されるままにステージに上がり、何度か腕ならしをした。その後、歩き方やお辞儀の仕方など、細かな指導を受ける。もちろん、アドバイスをするのは惣哉本人だ。

「失敗を恐れては駄目ですよ。あなたはあなたらしく振る舞えば、それで宜しいのです。誰もプロの演奏など求めていないのですから。あくまでも一籐木のお嬢様として、完璧になさいなさい」

 時として厳しく容赦ない言葉も飛び出すが、いつの頃からか咲夜はそのきっぱりとした物言いが心地よく思えるようになってきた。少なくとも、この年若い男は自分に対して嘘をつかない。そう信じられるから、彼の口から出る賞賛の言葉は絶対だった。「きっとお世辞を言ってるんだろう」などと勘ぐる必要もない、それが嬉しかった。
 最後に一通りの演奏を終えたときに、観客席から大きな拍手が聞こえて来る。たったひとりの人間の奏でるリズムなのに、咲夜にはそれが辺りを覆い尽くすほどの大音響に感じられた。

「当日はもっともっと自信を持たれて大丈夫です。本当にご立派でしたよ?」

 賞賛の言葉など、聞き飽きたと思っていた。何も目新しいことなどなく、誰もが判で押したように同じようなことを言う。だからなんと言われようと、心は動かなくなっていた。

 だが、どうしたことだろう。惣哉のいつもと同じ柔らかなトーンの声を聞いたとき、何とも言えない喜びが心からあふれ出てきた。すべてが完璧で突き崩しようのない男。でも間違ったことは絶対に言わない、だから信じていいのだ。この人に褒められるように、頑張ってみよう。

 後日、小耳に入れたところによると、惣哉はお得意先との商談をいくつもキャンセルしてスケジュールを調整してくれたらしい。いくら就職間もない若手とは言っても、彼は東城の家の人間であり、人望も厚い。代わりの者を行かせようとしても承知しない顧客も多いのだという。それでも、第一に自分のことを考えてくれた。他の誰も気付いてくれなかった、一番の不安を取り除いてくれたのだ。

 

 ――惣哉に褒められたい、という気持ち。それが徐々に咲夜を支配しはじめていた。

 優しい眼差しがすぐそばにいると信じられたからこそ、自分には無理と思う事柄にさえ挑戦することが出来る。多忙な両親や兄たちとも、甘やかしてくれる祖父や他の使用人たちとも違う存在。彼は小さな咲夜にとって、空から舞い降りた救世主にも思えていた。

 

……***……


「来週の水曜は特に放課後のご予定はありませんでしたね。大変申し訳ございませんが、当日は私の都合がつきませんので、放課後のお迎えだけ代理の者になります。あらかじめ、ご了承くださいませ」

 普段と何も変わらない帰り道。毎日のように赤信号で止められる交差点を眺めていたら、突然そんな風に切り出された。

「何か、あるわ」――刹那、そんな風にゆるりと心が動いたのは何故だろう。一籐木の社員としてもそれなりの地位にある惣哉には海外出張などの予定も入ることがあったし、今までにも何度となく代理の運転手がよこされることはあった。何も珍しいことではなかったのに。

「ふうん、……そうなの。分かったわ」
 何でもないように言葉を返しながら、咲夜はミラー越しにも意識的にそらされる視線を追いかけていた。

 

 初めて出会った頃から、気が付けば七年もの月日が流れている。

 惣哉が落ち着いていながらもどこか他の社員と較べると頼りない面も垣間見られたのは、もう過去の出来事。今では、グループの中にもその名を知らない者がいないほどになっている。一族の中には、あまりに有能な「外者」に良くない感情を抱いている者までいるようだ。何を張り合っているのかと笑ってしまうが、それくらい彼の存在は大きくなっているのだろう。

 彼は以前と少しも変わらず、咲夜のそばにいてくれる。先日もクリスマスのパーティー用にドレスを何着か新調する打ち合わせや仮縫いに同行してくれた。幼い子供のことならいざ知らず、もう大人をしのぐほどの色香を感じさせる娘のドレスのデザインのあれこれを、惣哉は全く変わらない表情でアドバイスしてくれる。

「そうですね、スカートの丈はもう若干長い方が……短すぎるのも子供っぽく見えて良くありませんよ」

 淡いパープルピンクのドレスはまだしつけ糸の状態で、あちこちにまち針が止められている。でも、新鋭のデザイナーが腕によりを掛けたデザインは流行を追いすぎてないのに新鮮で、咲夜も大いに気に入ってしまった。
 何枚も見せられたデザイン画の中からどうしてもひとつに決められず、無理を言って二枚一緒に注文してしまったほどだ。あとから祖父に、ひとつのところばかりを贔屓にしないようにと注意されはしたが、自分の選択に間違いはなかったと思っている。堅苦しいパーティーにいくつも出席しなくてはならないのに、お気に入りのドレスでも着ていなかったら、絶対に満足できないと思う。

 試着室で鏡に映してみた自分は、かなり大人びて見えた。もともと可愛らしいと言うよりは大人びた顔立ちをしているのだから、装いによっては高校生や大学生に見間違えられるほどである。女性は実年齢よりも年上に見られることを嫌う傾向にあると聞くが、咲夜はそうは思わなかった。早く大人になりたい、そればかりを願っていたから。
 学園でも「隙がない完璧な優等生」で通っている。運動神経にはそれほど自信がないが、それでも平均よりは勝っていると思う。他の教科については芸術方面を含め、ほぼ満点の成績だった。

 ――でも、駄目なのだ。いくら賞賛の言葉を浴びても、もはや少しも心を動かされることはない。そんなのは当然のことだから。人知れず努力を重ね、他の生徒よりも何倍も頑張っているのだから同級生に勝つことは予想の範疇を越えない。彼女が目指しているものは、もっともっと高い場所にあった。

「この人に、褒めて貰いたい」――そんな感情がいつか色を変えていた。自分が努力して出した「結果」にはそれ相応の評価はしてくれる。でも、それでは全然足りない。他に代わりがないほど、特別に思って欲しい。会えない時間に焦がれるほど自分を想って欲しい。中等部三年生になった咲夜が一番欲しいと思うのはほかでもない、惣哉の心そのものだった。
 願うだけ馬鹿らしいと言うことは百も承知である。彼は初めて会った頃から大人で、自分は小さな少女としてしか認識されてないのだから。惣哉の周りにいる大人の女性と較べたら、自分はどんなにか頼りないことか。だからこそ、一人前に扱って貰えないのだ。

 惣哉は何もかもが完璧に行える人物だ。少なくとも咲夜はそう信じていた。どんなに立派な身分の人間に対しても決して臆することはない。だが、一般庶民――たとえばショップの店員や学園の教師、果ては咲夜の家の屋敷のメイドにも彼はおごった態度など取ることはなかった。

「でも、素晴らしいです。肩先のギャザーの寄りも、しつこすぎずシンプルすぎず。お嬢様のお美しさを一番引き立てるふくらみになってますよ。これならば、次の注文も続けてお願いできそうですね」

 その後もしばらく、彼らは言葉を交わしていた。さらに、デザイン画をふたりでのぞき込んで細部の調整をしている。それも幼い頃からオーダーが当然になっている咲夜にすら分からない専門用語を交えて。
 惣哉が咲夜の試着姿をちらと一瞥しただけだったのも気になった。確かにあれだけでも全体のバランスなどは見極めることが出来るだろう。でも、それでいいのか。若い娘の着飾った姿を、もっと見つめていたいという衝動には駆られないのだろうか。
 今となっては咲夜も、始終大勢の視線にさらされている身である。家でも使用人たちが、一歩外に出れば沿道の通行人たちが、学園では生徒たちが……誰もが自分に注目していた。べっとりとまとわりつくような視線だって、知っている。女としての部分を値踏みされるのは気持ちのいいことではなかったが、それでもそう思われるだけの存在になりつつあると分かるだけ嬉しかった。

 気になるのはこの年若いデザイナーだけではない。いつの間にか惣哉の周りにいるすべての女性が気に入らなくなっていた。彼が自分以外の女性と親しげにしているだけで許せないと腹が立ってくる。すべてが疎ましく思える中で、一番口惜しかったのは自分と彼との年齢の差。こればかりは、どんなに努力しても埋めることが出来ない。

 ――早く大人にならなければ、そうしなければ間に合わないのだ。

 自分の中に芽生えた感情を、恋心として認識することが長いこと出来ないでいた。長い時間、惣哉は師であったのだから。圧倒的な存在である彼に少しでも追いつきたくて、普通の自分と同じ年代の娘たちには到底思いつかないほど頑張ってきた。ただ、褒めて貰いたくて、もっとそばに行きたくて。

 

 数年前から、彼の周辺が騒がしくなってきたのにもうすうす感づいていた。惣哉は東城家という名家のひとり息子である。そうなればしかるべき相手を見つけて、早く身を固めるのが大切であろう。三十の声を聞く頃ともなれば、尚更だ。
 それに彼自身になんの不足があるものか。柔らかくおっとりとした顔立ちと身のこなしは、それだけでも若い女性を魅了するものがあった。さらに誰もが名を知っている国立の大学を出ており、社会人としてもしっかりとした足場を築いている。家も裕福であるし、父親に当たる政哉氏は咲夜も通う名門「藤野木学園」の実質的な経営者。何もかもが恵まれた環境である。

 惣哉は自分から余計なことを話したりしない人間であったから、彼のプライベートについては咲夜は何も知らされていない。時々顔を合わせる彼の父親もそのような話は一切しようとしなかった。
 そうは言っても、もしも縁談がまとまるようなことがあれば、すぐにその情報は彼女の耳に飛び込んでくるはずだ。まあ、あれこれと噂話は聞くものの、どれも信憑性に欠けるものばかり。相変わらず、彼はトレードマークとも言える穏やかな表情で朝夕の送迎に現れる。

 ――だけど。きっと、今回は私の勘が当たっていると思うわ。

 咲夜は帰り道の車の中で今日一日のあれこれを報告することも忘れ、ずっとそのことばかりを考えていた。もしも仕事ならば、きちんと理由を説明してくれるはずだ。もしも海外へ赴くことになれば、咲夜への小さな土産なども買ってきてくれる。つい先日も、小さなキーホルダーを貰ったばかり。隠す必要のないことなら、こんな風に言葉を濁すことはないのだ。

 ……でも、嫌っ! そんなことは許さない。どうして待っていてくれないの? 何故、気付いてくれないの……!?

 

 大抵において、メイドというものはおしゃべり好きで通っているが、やはり一籐木の屋敷にも数名その道に明るい者がいるのを知っていた。彼女たちには独自の情報網があるらしく、誰よりも早く正確な話題を提供してくれる。少しばかりの餌をまけば、大喜びで食いついてくるのだ。

「取引先の令嬢との縁談」――かなり具体的に決まっていることなのだと、得意げな表情で年配のメイドは教えてくれた。咲夜が意外そうな表情を意図的に作ると、彼女はますます嬉しそうに大きな身体を揺すって語り出す。もともとは相手方からの熱心な働きかけであったが、東城の家の方でも嫁選びには頭を悩ませていた様子で好意的に受け止めたらしい。惣哉もお得意様相手なら無下に出来ないだろうとの計算も働いたのか。

 おおよそ予想していた事実であったのに。聞いた瞬間に目の前が真っ暗になって、何も考えられなくなった。
 惣哉が、結婚してしまう? ううん、すぐにそこまではいかないにしても、自分以外の女性を第一にと考えるようになるのだろうか。いくら頼んでも一度も乗せてくれたことのない助手席に招き入れ、優しく言葉を交わしたりするなんて。そんなことは、あってはならないことだ。

 だけど、そうは言っても、自分に何が出来る? いや、出来ることなんて何もない。もしもこの想いを彼に伝えたとしても、軽くあしらわれておしまいになってしまうだろう。咲夜にだって分かっている、惣哉には惣哉の人生がある。いくら自分の身の回りの世話をしてくれていても、それは単なる「仕事」でしかない。彼自身の意志は全くそこにないのだ。

 それに……幸か不幸か、こちらからは何の感情も抱いていない相手から想われる煩わしさを咲夜は身にしみて知っている。小等部の頃は何も分からないままに、中等部に上がると今度は意図的なものを含みつつ、思いもよらない相手から告白されることが多々あった。その都度、相手を傷つけないように断る方法を見つけることにどんなに心を砕いてきたか。そして、その時にいつも助言してくれたのが他の誰でもない、惣哉だったのだ。

 彼はいつも冷静だった。直接自宅に届けられれば咲夜の手に渡ることはないと知っているのか、その手の「恋文」と呼ばれる手紙が届けられるのはいつも学園の中であった。そうなると最初に話を打ち明けるのはいつも迎えの車をよこしてくれる惣哉になってしまう。どこで知識を得たのだろう……? 別の意味で勘ぐってしまうほど、惣哉はいつでも的確に判断してくれた。
 そんな姿も咲夜にとっては頼もしいばかり。ただ、待っていればいい。そうすれば彼が助けてくれる。だからいつの間にか、とんだ思い違いをしていたのかも知れない。自分が彼を必要とするのと同じ重さで、彼の中にも自分の存在が息づいているのではないかと。あり得ないことだと、すぐに分かることなのに。

 ――自分に何も話してくれない。それが何よりの証拠だ。

 惣哉の縁談を壊すにはどうしたらいいのかと思いを巡らせ、次の瞬間に思い直す。ここで彼に対して情けない態度を取ってなるものか。せっかく長い間、彼に認められるようにと頑張ってきたのに。すべてが水の泡になってしまう。あくまでも彼の前では完璧なお嬢様でありたい。

 決心したところで、幼い心にはどうしたらいいのか見当がつかない。さらに思い知らされる、自分のふがいなさを。誰かを異性として愛したことなど覚えがない。何故なら、最初から目の前には惣哉がいたから。彼に較べたら、他の同世代の男の子たちなど情けなく見えるだけだ。

 


「では、相模という社員がお迎えに上がります。私はまた、明朝にお目に掛かりますので」

 結局、何も出来ないまま。問題の水曜日当日は来てしまった。車のドアを開けてくれた彼は、降りる咲夜に念を押すように告げる。何も答えることは出来なかった、言いたいことは胸の内で渦を巻いていたが、それを伝えることは咲夜のプライドに反する。

 ――惣哉はどこまでも大人だ、だったら自分もそれに負けないくらいしっかりしなくては。

 何度も何度も自分に言い聞かせる。だけど、こうしている間にも、足下からすべてががらがらと崩れ落ちていくようであった。

 

……***……


「……あの、咲夜さん……?」

 生徒会委員を集めての話し合いが終わった後、部屋の戸締まりをして廊下に出たところで声を掛けられた。何だろうと振り向いた咲夜の顔がふっと緩む。そこには同じクラスの女子生徒が立っている。もちろん、向かい合ったふたりは同じ中等部の制服を身につけていた。

「あら、井上さん、おはようございます。どうしたの、あなたは華道部だからこちらの棟には用事はないでしょう……?」

 にこやかに微笑みながらそう訊ねると、彼女は恥ずかしそうに頬を染めて俯いてしまった。そうなのだ、この井上真結美という生徒は珍しい中等部からの編入者と言うこともあり、なかなか学園の雰囲気にとけ込めないでいた。咲夜も気になって多く声を掛けるようにしている。幼い頃から華道を嗜んでいるという話を聞いて、部活への入部を進めたのも咲夜自身なのだ。

 幼稚部から高等部までがエスカレーター式になっているこの学園では、中途の編入者がほどんどいない。ただ、名家の子女が集まる私立の学校であっても一定のレベルを保持するために年度末の試験で成績のふるわないものは他校へ転校を余儀なくされる。咲夜たちの学年の中等部進学時の編入者はわずか5人、その誰もがかなり優秀な生徒たちだった。
 そのメンバーの中でも真結美は見るからに浮いていた。おとなしい顔立ちをしているのもひとつの理由だろうが、この学園の生徒たちにありがちな鼻につく快活さが彼女には感じられなかった。いつも誰かの後ろに隠れるようにおどおどしている。自宅は某有名メーカーの下請け会社だと聞いていたが、それでも社長令嬢には変わりない。不思議な人間もいるものだと興味が湧いた。

 管理棟の四階という場所では意外な顔であったが、あまり身構えずに付き合える相手でもあったので悪い気はしなかった。自然と教室までを並んで歩くことになる。最初はクラスのことなど他愛のない雑談をして過ごしていたが、そのうちにまた真結美の方から話を切り出された。

「実は……折り入って、咲夜さんにお願いしたいことがあるの」

 そんな風に言われるのも初めてだったので、何だろうと思った。注意深く聞き取らないと、周囲の雑音に紛れてしまうほどの小声で、真結美がどんなに必死で話を続けようとしているかが伺える。クラスメイトとして咲夜が出来るのは、黙って彼女の話を最後まで聞くことだろう。

「何かしら、私にお役に立てることだったら喜んで協力するけれど……」

 咲夜の言葉が嬉しかったのだろう。顔を上げた真結美の表情が、ぱっと華やぐ。それを見たときに、一瞬前まで心のすべてを覆い尽くしていた闇が、晴れていくような清々しい心地がした。

 

続く(041214)

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