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「赫い渓を往け」番外(過去編)

… 3 …

 

 

 気付けば、午前中の暖かな日差しは分厚く覆われた冬雲の彼方に消えていた。

 正面から吹き付ける風が、沿道の落ち葉をカサカサと寄せていく。咲夜は子鹿色のコートの襟元を押さえながら、先を急いだ。傍らには少し緊張した面持ちの真結美が歩いている。背格好も髪型も同じふたりではあるが、やはりこうして並ぶと何かが違って見える。

 

「……こちらです、もうすぐ着きますから」

 案内されるままに、もう十分以上は歩いただろうか。生活のほとんどを車での移動に頼っている咲夜はあまり土地勘がなく、今どの辺に自分がいるのかも見当がつかなくなっていた。どうもこの辺の住宅地は込み入った細い道路が多いため、一方通行表示がそこら中にあり一度入ったら出られないと言われているそうだ。そのため、かなり手前で車を降りていた。

「あなたはもう、戻っていいから」

 惣哉の代わりとしてやってきた相模という年若い運転手にそう告げると、彼は明らかにそう分かるほど困った表情になった。

「大丈夫です、必ずご自宅まで責任を持ってお送りしますから」
 真結美も隣からそう言葉を添える。咲夜もその言葉に頷いて、再び相模をまっすぐに見つめた。

 途中まで真結美の家の者が迎えに来てくれるのだと聞いていたので、それならば甘えてしまおうと考えた。きっと少しばかりでも世話になった方が彼女も負担が少なくて済むと思ったから。こちらは快く申し出を承諾したのに、真結美の方は可哀想なくらい恐縮していた。それに見知らぬ土地をガードもなしに歩くことも、顔見知りの運転手以外の車に乗ることも、何だか小さな冒険のように思えてくる。

「ほら、彼女もそう言ってくださるし。いいじゃないの、今日は放課後のスケジュールも空いていたはずよね?」

 最後は強引に近いかたちで振り切っていた。これが惣哉だったら、こうはすんなりいかなかったであろう。彼の後輩に当たるという新人の男であったから簡単に済んだのだ。偶然にも今日がその日で良かったと思う。

 しばらくは互いに学園のことなどおしゃべりしながら歩いていた。似たような建て売り住宅が林のようにどこまでも続いている。先ほどもこの道を通ったのではないか、いや少し違うかも知れないなどと自分の中でひとりごとを呟いてしまう。うろたえていることなんて、絶対に知られたくなかった。
 中等部の合格のお祝いに買って貰ったという、ネイビーのスクールコートを着込んだ真結美には当たり前のクラスメイトとして接したい。彼女は咲夜のことを他の生徒のように腫れ物を触るように接することがない「特別」の人間だった。もちろん、皆から一目置かれている咲夜のことを「すごいな」と思っているようではある。でもそれをいたずらに褒め称えたり、自分を卑下したりすることがないだけ心地よかった。

 ――この子となら、出来るかも知れない。

 いつの頃からか、そんな期待が芽生えていた。今年同じクラスになって今までよりも顔を合わせる機会も増えてきて、その望みもふくらんでいく。
 当たり前の暮らし、駅前のスタンドでソフトクリームを買ったり、学校の帰りに可愛いショップに寄ったり。そんな普通の中学生がしてみたいなと思っていた。そう言うことについては真結美の方がいろいろ知っているはずだ。このような機会を増やせば、一籐木の娘というレッテルを外した新しい自分に出会えるのかも知れない。 

 

「あ……、ここの公園です。確か噴水の前って、聞いたんですけど――」

 その言葉を聞いて、低いフェンスと植え込み越しに中の様子をうかがう。不自然なほどに綺麗に整備された都会の一角。ゆったりと続く道の向こうに小さくしぶきを上げるその場所が見えた。

 その前に腕組みをして立っている黒っぽいスーツ姿の人物。彼は真結美が手を挙げるのに合わせて、背筋を正した。

 

……***……


「ごめんなさい、こんなことお願いするなんて間違ってると分かっているんだけど……」

 そう切り出したとき、もう彼女の目は潤んでいた。唇が可哀想なくらい震えている。自分でもどうしていいのか分からないと思いあぐねた果てのことであることがうかがえた。

「親戚の……従兄に当たる者が、咲夜さんにとても憧れているようなの。以前から何度もそんな風に話されてはいたんだけど、とんでもないことだと相手にしていなかったのよ。……でも」

 すぐさま言葉を挟むことも出来たが、そうはしなかった。やはり真結美のような性格の人間には本人のペースで話をさせることが必要だ。無理に急がせたり促したりしては、かえって聞き取りにくくなる。それを始終クラスや生徒会をまとめる立場に置かれていた咲夜は良く承知していた。
「そういうことなのね……」――内容が内容だったので、本来ならばすぐにでも断りを入れなければならなかった。惣哉にもいつも言われている、学園の中でも外でも、本当に信頼できる人間以外との接触は避けるべきだと。とくに色恋沙汰は相手が思わぬ行動に出ることもあるので油断が出来ない。ひとたび間違いがあれば、そのまま一籐木のグループ全体に迷惑が掛かる結果となるのだ。

「何か、お困りなの? 詳しくうかがってもいいかしら」

 なかなか次の言葉が出ずに苦慮している様子だったので、咲夜は優しい口調で助け船を出した。よほど安心したのだろう、真結美はホッと口元をほころばせる。だが、次の瞬間にまた険しい表情に戻った。

「実は……、父の工場が経営不振に陥っているの。それでどうにか立て直そうと今資金繰りに追われている状態で……中でも従兄の家はかなりの資産家で父もとても頼りにしているんです……」

 話を聞いているうちに、咲夜は徐々に真結美に同情していった。大会社の家に生まれて、幼い頃から当たり前のように経営することの大変さを知っている気がする。特に一籐木はいろいろな事業を幅広く展開しているため、そのどれもが順調に業績を伸ばしているとは言えない。中には新規参入した分野で惨敗したこともある。そのような時には他の部門からの補填が必要になったりもした。
 会社経営というものは、当たれば大きい反面外れると大変な損失となる。それを承知の上でその世界に身を投じる訳だが、一度始めたらあっさりと倒れるわけにはいかない複雑な理由が生じてくるのだ。真結美の自宅の規模の工場となれば、たくさんの社員を抱えているだろうし、もしも工場や土地が借地であった際には月々の少なくない支払いもある。一山乗り越えれば、きっとまたなだらかな道はやってくる、あまり短気にはならずに長い目で動向を見極めることも必要になるのだ。

 真結美のその従兄は、咲夜と自分を会わせなければ援助を打ち切ると言い出したそうだ。今はまだ学生の身の上ではあるが、経済学を専攻しているため彼の両親からはとても期待されている。だから、男が知識を持った目で「あの会社はもう駄目だ」と言い切れば、本当にどうなるか分からない。正直、とんでもない男だと思う。そんな風に自分の権力を振りかざして弱い者を牛耳るなんて。

「クラスの皆さんがお話ししているのは知ってます。咲夜さんは決してそんな申し出に同意することはないって。お誕生日に色めいた意味の贈り物を頂いても、きちんとお返しをなさって後腐れなくしていらっしゃるし。……でも、でも。ひとめ会うだけでいいそうなんです、それだけで十分だからって。もちろん、私も一緒について行きます。それでも……やはりお許しは出ないのでしょうか……?」

 真結美はそこまで告げると、ぽろぽろと涙をこぼした。生徒たちが行き交う廊下でのことであるので、皆は何が起こったのかと振り向いていく。咲夜としてもどう取りなしていいものか思いあぐねていた。それに始業時間も近づいてくる。

「わ、……分かったわ。大丈夫、安心して。スケジュールはこちらでどうにでも調整できるから……」
 気がついたら、そんな風に答えていた。きちんと考えた言葉ではない、ただ真結美を安心させてやりたい一心で。他には何もなかった。強い力に苦しんでいる者がいたとしたら、手をさしのべなければならない。それは当然の行為だと思う、中等部の生徒会長としてもひとりの人間としても。

 それに――、咲夜はその瞬間にとても不思議な感覚に包まれていたと言える。今まで、たとえクラスメイトであっても、無意識のうちに一線を引いての付き合い方をしていた。こんな風に強く要望されたこともなければ、自分の方から働きかけたこともない。上っ面だけの表面的な交流だったと思う。
 差し出したハンカチが吸い取る真結美の涙はとても温かかった。そうだ、皆こんな風に体温がある存在なのだから、もっと踏み込んだ付き合いをしてもいいじゃないか。惣哉もおかしい、どうしてあんな風に何もかもを否定して掛かるんだろう。一籐木の人間として生きていくためには、周囲の人間たちとの細やかなやりとりも大切なはずだ。何故、それをさせてくれないのだろうか。

 ――そうよ、惣哉さんだって。彼が勝手に縁談を受けるんだったら、私にだって自分の自由にする権利はあるわ。きっと目を三角にして怒り出すだろうけど、そうしたら逆に言い返してやる。

 ふつふつと湧き上がる怒りなどおくびにも出さず、咲夜は優しい優等生としての顔で真結美をなだめ続けた。

 

……***……


 先に駆けていく真結美の後から、咲夜はゆっくりとした足取りで進んでいった。手にした鞄から、コロコロと心地よい鈴の音が聞こえてくる。
 それは惣哉のくれた一番最近のお土産。確か九州への視察だったと思うが、どこかの店でとても綺麗な石が売っていたので手にしたのだと言っていた。桃色の半透明のその石は水晶に色づけをしたものでそう珍しいものでもない。テディベアのかたちに仕上げられ、前に差し出した前足にはギフトボックスがある。何とも子供じみたデザインだと内心げんなりしていた。

 ……結局、私のイメージなんてこんなものなのね。

 子供扱いされたことへの不満はある、でもやはり彼からの贈り物だと思えば嬉しい。だから、こうして毎日の通学に持ち歩けるように付けてあるのだ。もしも携帯のストラップだったら、学園の校舎内は使用が禁止されているのであまり目に触れることがない。鞄に取り付けられるもので良かったと思っていた。

 きっと恋人同士だったら、もっともっと別のものを選ぶのだろうと思う。もしかしたら、その店で惣哉は付き合っているという「彼女」にも土産を購入したのかも知れない。それはネックレスだろうか、それともピアスだろうか。会ったこともない女性のことをあれこれと思い描いてしまう。
「恋人」――今はまだ、まったく想像出来ない存在だ。咲夜もいつかは今回の惣哉と同様に、しかるべき相手との縁組みがされるのだろう。自分の意志には関係なく、一族の繁栄のために。そんな時代遅れなことが許されるわけがないと言い出す者もいるだろう。だが、実際に自分の母親などを見ているとそれが単なる体裁を重んじるだけの行為ではないことが分かる。
 社長夫人として多忙な毎日を送っている彼女とはなかなか顔を合わせる機会もないほどだ。咲夜によく似たおっとりとした物腰の美しい女性であるが、そんな外見からは想像もつかないほどの修羅場をいくつもくぐり抜けてきたのだと聞いている。とても並大抵の人間では収まりきれることはないのだ。

 でも、咲夜は一籐木の娘であると同時に、ひとりの当たり前の娘なのである。あまり目を通すこともないが、TVのドラマや雑誌などでは、いろいろな情報が溢れている。これからクリスマスになれば、街は一気に恋人たちで溢れかえるであろう。聞くところによると、バレンタインと並んで最大のイベントと言われているそうだ。それが企業の商戦だと言う声もあるが。
 今まで、何度となく「付き合ってください」「彼女になってください」と言う申し出をされている。中には一日だけでいいからデートして欲しいという切実な訴えもあった。だけど、その声に耳を傾けることすら、咲夜には許されていなかったのである。

「真に受けてはいけませんよ、ご自分の置かれた立場を良くお考えください」

 惣哉はいつの時も、ぴしゃりとはねつけた。その言葉を本人が直接聞いたら、少なからず傷つくだろうと言うくらいばっさりと。まあ、彼の立場とすれば、このような厄介ごとはすなわち自分の仕事が増えると言うことつながる。中学生の頃からこんなに頻繁では、この先どうなるのかと彼はいつになくむっつりとした表情で言い捨てた。

 ……でも、惣哉さんだって。自分ばかり好き勝手にして、私にどうこう言う資格はないわ。

 もしも彼の心の中に、仕事上のことだけでは留まらない想いがあるのだとしたら、こんな苛立つ姿も嬉しく思えるのだろう。だが、惣哉はそうではない。だからこそ、恐ろしかった。もしもあまりにも手を煩わせたりしたら、彼は自分を警護するという仕事からあっさりと手を引いてしまうのではないだろうか。いくら咲夜自身が彼に負担にならないように必死になっても、外部からのことまでは阻止できない。
 どうにかして、自分ひとりの力で解決できれば。そうすれば惣哉はあんな風に悩んだり苛立ったりせずに済むのだ。簡単なことじゃないか、いつも惣哉がやっているのと同じように、きっぱりと交際の意志がないことを相手に伝えればいいのだ。

 どこかでクラクションの音が聞こえる。咲夜は真結美とその従兄という男の元へまっすぐに進んだ。寒空に他に人影は見つからない。コロコロと、またキーホルダーが音を立てた。

 

「やあ、一籐木さんっ! 嬉しいなあ、本当に来て貰えるなんて……! やっぱり真結美のおかげだ、藤野木に通える優秀な従妹がいて良かったよ」

 あと一メートル、という距離まで来て、彼はこちらを振り向いた。その表情を目にした途端に、たとえようのない違和感を覚える。ぬるりと自分の心に流れ込んでくる思考を、咲夜は必死で払いのけようとした。
 近くで見るとそれほど上背はない。スーツもところどころに見苦しいシワが出来ていて、きちんと仕立てられたものでないことが分かる。足下の靴はかなり汚れていた。

「初めまして、田端さんですね?」

 努めて微笑みを作ろうと心がけたが、上手くいったかどうかは分からない。頬がひくひくと震えているのが自分でもよく分かって、とても情けなかった。
 男の方は咲夜のそんな素振りには少しも気付いていないらしい。表情はそのままに数歩こちらに踏み出した。

「ねえ、今日は暇なんでしょう? 良かったら、ドライブにでも行かない? これでも運転には自信があるんだ」

 ハッとした瞬間にはもう片腕を取られていた。話の展開の速さについていけない。そんな話は聞いていない、真結美はただここに来るだけでいいと言ったじゃないか。二言三言話をしたら、後は彼女の用意してくれた車で自宅に戻ることが出来ると信じていた。

「あっ……あのっ!? 困ります、その――」

 想像していた以上の力の強さに、簡単に振りほどくことができない。必死に身をよじったら、その拍子に鞄が手からすり抜けて、地面に落ちた。慌てて拾おうとしたが、身をかがめる自由すらない。それでも必死にもう片方の腕を伸ばすしたとき、真結美が先に拾い上げてくれた。

「これは……お預かりしておきますわね。携帯とか鳴らされたら、面倒なことになりますもの。いいわよ、お兄様、もうあとはご自由に。ご健闘をお祈りしているわ」

 ありがとう、と言おうとした口元。自分のもちものであったはずの学園指定の鞄、それを持ち上げる人の表情を見た瞬間、咲夜は動きを失った。

 自分の知っている「井上真結美」という人間は一体どこへ行ってしまったのだろう……? いつもおどおどと周囲の動向ばかりを気にしていて、自分を前面に出すことが出来なかったクラスメイトだったはず。毒々しくさえ見える赤い唇の端が持ち上がる。これは、笑っている顔? ――でも、それにしては親愛の色が全く見えない。

「予想以上に簡単に騙されてくれたわね、本当にあなたって何にも知らないお嬢さんなんだもの。一籐木の娘と聞いたら、普通はみんな恐ろしくて手を出したりしないんでしょうけど。ガードが固い分、ご本人は何の構えもないんですものね。こっちはあまりにおかしくて、笑いを堪えるのに大変だったわよ」

 ふふふ、と忍び笑いをするその顔は、今までの咲夜の人生でお目に掛かったことのないほど邪悪なものを宿していた。そんなはずはない、この娘は自分と同じ中学三年生。ならば、気でもふれたのか……?

「……井上さん?」

 どうにか正気に戻って欲しい、そんな願いを込めて咲夜はクラスメイトの名前を呼んだ。だけど、彼女はその声を聞いてさらに大声で笑い出す。

「やあねえ、そんな意外そうな顔しないでよ。あなただって、内心は他の奴らと同じように私を馬鹿にしてるんでしょ? 本当に、藤野木なんて見た目ばっかりよね。一歩踏み込んでみれば、私利私欲の固まりで、みんな見栄の張り合いばっかり。あんな空気の悪いところにいられますかって、父の言いつけじゃなかったら、絶対に御免被るわ。でも……おかげで、こんな幸運にも巡り会えたけどね」

 信じられなかった、一体何が起こっているんだろう。彼女はどうしてしまったのか。これ以上の会話が成り立つことは不可能だと悟ったとき、今度は背中で男の声がした。

「全くな、ちょっと考えれば分かりそうだけど。ま、そんなところもお嬢様と言うことで、ここは『可愛らしい』とか形容しなくちゃならないんだろうな。いいよ、ここまでの純粋培養もなかなか味わえるもんじゃないからな。ここは役得というものか、一籐木の椅子に座るのも悪くないよな。さ、こんな目立つところに長居は無用だ」

 何を言っているんだろう、この者たちは。驚きのあまり上手く動かない思考回路で必死に考える。でも、このままではとんでもないことが起こると言うことと、今の自分にはそれを阻止する手段が思いつかないという結論しか浮かんでこなかった。

「……あなたたち……!?」

 男が強引に植え込みの方に歩き出す。もちろん、腕を掴まれたままなので、咲夜もずるずると引きずられる。

「車、そこに停めてあるんだ。ふふ、この公園、反対側から入ればすぐに大通りなんだよな。回り道をさせて悪かったけど、これもあんたの運転手をまくためだから仕方ないんだよ。いい運動になっただろ、お抱え運転手付きじゃ、堅苦しいだろうからな……」

 背中の向こう。がちゃり、とドアが開く音がした。次の瞬間には、吹き飛ばされるほどの勢いで中に押し込まれる。つんときつい香水の香りが充満した車内は妙に薄暗い。よく見ると、後部座席にはカーテンが閉められていた。背もたれの倒されたシートはまるで簡易ベッドのように見える。男は何を考えたのか、舌なめずりをして詰め寄ってきた。

「あのな、普通は気付くだろ? 真結美のオヤジの工場が経営不振だったら、一族すべてが火の車なんだよ。同族企業なのは、何もあんたのとこみたいな大会社だけじゃないんだ。銀行もこれ以上の融資は出来ないと突っぱねてくる、どこを叩いても一銭も出てこないんだ。こうなったら、新たな金づるを見つけるしかないよなあ……、そうだよな。
 金は天下の回りものって言うだろ? 高いところにいるんだったら、低いところに流してくれよ? 俺の女にしてやるから、出来るよな……!?」

 がたっと、車全体が大きく揺れた気がした。その刹那、今まで我が物顔で話し続けていた男が自分に襲いかかってくる。目の前が黒っぽいスーツで埋め尽くされて咲夜は思わず瞼を閉じていた。

 

「……何をしていらっしゃるんですか?」

 その声に、ハッと我に返った。そして、慌てて身を起こす。見ると男の身体がそのまま前のシートとの隙間のくぼみ部分に埋め込まれていた。

「あ……」

 声がかすれて出てこない。ドアの前に立っていた男はそんな咲夜をレンズの向こうから一瞥すると、そのままくるりときびすを返した。


 

続く(041217)

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