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咲夜が制服の乱れを整えて車から降りた頃には、もう広い背中はかなり遠ざかっていた。 柔らかいブラウンの上着は、ちょうど「ココア色」と表現するのにぴったりである。スラックスはそれよりも幾分色味を薄くした生地が使用されており、プライベートな装いを感じさせた。 つい先ほどまで。我が物顔にまくし立てていた男はうつぶせの格好のままびくともしない。それを薄気味悪く思いながら、咲夜は小走りに後に続いた。茂みが切れたところで彼は立ち止まる。その視線の向こうに誰がいるのかは分かっていた。 「……」 ようやく追いついたところで、咲夜は足を止めた。いや、正確にはそれ以上前に進むことが出来なくなったのだ。 「井上重工のお嬢様、真結美様ですね?」 「あなたのお連れ様は、あちらの車で休んでいらっしゃいます。多分、数日は運転が出来る状態ではありませんので、新たに迎えの者を頼んだ方が良さそうですが。……もしもお困りでしたら、我が社の方で運転手を手配しましょうか?」 いくら会社経営の表舞台には出たことがないと言っても、その厳しさは一籐木の屋敷で育っていれば分かっている。この先、一体どうするつもりなのか。感情の読めないままの惣哉が何でこんな言い方をするのかが分からず、咲夜はふたりの顔を何度も見た。 ざり、と惣哉が砂を踏んで一歩前に出たとき。ひいっと小さく叫んで、真結美は飛ぶように退いた。そしてすぐに車の方に向かって一目散に走り出す。その足取りが滑稽なほどにおぼつかない。 「――あと、もうひとつ」 惣哉の声は怒鳴っているわけでもないのに、冬色の空間を切り裂いて遠くまで響く。びくり、と真結美が動きを止めて、おどおどした仕草で振り向いた。 「明朝9時にご父兄の方と理事長室までお出でください。内々に、転校の手続きを致しますので。……宜しいですね?」 それだけ言い終えると、惣哉は何事もなかったかのようにゆっくりと歩き出した。
……***……
どれくらい歩いただろうか、先ほどとは違う出口まで辿り着く。 「何でしょうか?」 「井上さんは……その」 彼女のしたことを警察沙汰にするつもりなのだろうか。未遂とはいえ、法に触れることになるのか。一緒にいた大学生の男は成人しているし、計画的な犯行といっても間違いはない。普通の人間ではそこまで大事にするのは難しいかも知れないが、一籐木の力を持ってみればどうにでもなりそうな気がする。それに、このことが頭取である祖父の耳にでも入ったら、ただでは済まされないと思う。 「彼女は以前から学力の低下が著しくて、学園に在籍するのにふさわしくないと教員の間でも問題になっていました。本来ならば、年度末まで保留にするところですが、致し方ございません」 「でも……その」 「私が……しかるべき機関に届け出をするのではと思っていらっしゃるのですか? ご心配には及びませんよ、今回のことは相模にも口止めしてあります。お嬢様さえ口外なさらなければ、このまま内密に済ませることが出来ますよ?」 ――だから、早くお乗りなさい。そう言われている気がした。 でも、咲夜はいつも通りに車に乗り込むことがどうしても出来ない。立ちつくしたまま俯くと、いつの間にかほどけてしまった髪が頬に掛かってゆらゆらとしていた。もともと柔らかいウェーヴの掛かった髪なのだが、三つ編みにしていたことでカールがきつい。あちらこちらを向いた毛先は、きちんと櫛で整えないととても人前には出られなそうだ。 「権力で上から押さえつけるばかりが能じゃありませんよ? ここで恩を売っておくのも一興、将来はこちらの手足となって必死に働いてくれるでしょう。それも、処世術のひとつではありませんか。 その言葉には素直に驚いていた。……まさか、そんなことまで計算していたなんて。やはりこの人には敵わない、相手になれる訳もなかったのだ。 「最初に、井上重工のことをお嬢様からうかがったときから、何となく気になっていたのです。それでこちらで勝手ながらいろいろ調べさせて頂きました。出過ぎた真似をして、申し訳ございません」 俯いたままの咲夜がよほど衝撃を受けていると思っているのだろう、惣哉は控えめな口調でそう付け足した。 「……そうなの? じゃあ、惣哉さんは最初から知っていたのね」 「お嬢様がとても嬉しそうに話されるので……もしかしたら自分の思い過ごしではないかと何度も考えました。それに、何かあっても泥をかぶるのが私だけならいいですし。――そのための人間なのですから」 たくさんの生徒の中でただひとり「特別」な目で接して来なかった真結美。それすらも咲夜に心を許させるための作戦だったのかも知れない。 どんな風に答えたらいいのか、とても言葉が見つからなかった。ああ、そうだ。そうだったのだ。惣哉はいつもこんな風に、自分の前で盾になってくれていた。間違っていることをきちんと諭してくれながら、でもこの身に危害が加えられないように絶えず配慮を重ねて。 「……ごめんなさい」 惣哉は、今まで自分のためにどのくらい苦汁をなめてきたのだろう。もういい加減にしてくれと言いたいのではないだろうか。そうだ、もしも……あの日のように。ここで「もう惣哉さんはいらない」とひとこと言えば、その瞬間に彼は解放される。そうしてやれるのは、自分しかいないのに。 でも、言えない。言いたくなんかない。子供じみているとは分かってる、だけど離したくないのだ。誰のものにもなって欲しくない。 言葉にならない想いばかりが浮かんでは消えて、咲夜は桜色の唇を噛みしめた。その頬を、ひんやりとした風が通り過ぎていく。惣哉は咲夜が動かないので一度車のドアを閉めて、ゆっくりと公園の方に戻っていった。 「お嬢様には……本当に驚かされてばかりです。よくもまあ、こちらの予想を裏切ったことをしでかしてくださるのでしょうか? あなたはご存じないかと思いますが、これでも私は学生の頃からすべてに置いて完璧な人間で通っていたのですからね。そのプライドがもはやズタズタですよ、心臓がいくらあっても足りません」 何となくその背中を追いながら、咲夜は彼がぽつりぽつりと落とす言葉を聞いていた。 ……ううん、知ってる。惣哉さんはすごい人だよ。誰からも一目置かれているし、何でも出来るのに決してひけらかしたりしないで。本当に……こんなところで小娘の警護なんかの仕事してるのもったいない。自分に関わっている時間をもっと別のことに使えば、どんなにか有益なんだろう。一籐木という企業にとっても、彼個人にとっても。 「……もう、降りたいって思うの?」 咲夜が振り絞るような声でそう言うと、驚いた顔で振り向いた惣哉が静かに首を横に振った。 「いえ、……私はお嬢様の部下ですから。私がおそばにいるのは、お嬢様のお気持ち次第ですよ?」 柔らかい微笑み、大好きだった。この人に認められて、この笑顔を向けて貰えるなら、どんなことにも頑張れると思った。ずっとずっと追いつきたくて、いつか隣に行きたくて、足掻いて、でも無理で。 「じゃあ、……ずっとそばにいてって言ったら、聞いてくれるの? 私以外の人のそばに行かないでって言ったら、そうしてくれるの……? 私だけ、見ててくれる……?」 これだけ告げるのが精一杯だった。もしかしたら、突っぱねられてしまうかも知れない、きちんと意をくみ取ってくれないかも知れない。でも……そう望むだけで、惣哉さんが手にはいるなら。 「……突然、何を仰いますやら」 「私の心はすべてお嬢様のものですよ、誰の存在も入る隙はございません。残念ながら、……そんなに心の広い人間ではありませんから」 その瞬間、頬にしずくが落ちて。最初はとうとう雨が降り出したのかと思った。優しいてのひらが、それをぬぐってくれる。一瞬のためらいを抜けて、広い胸に飛び込んでいた。 「あの……惣哉さん、今日は何か用事があったんじゃないの?」 温かなぬくもり、こんな風に抱きしめて貰うのは本当に久しぶりだった。 まだまだ幼かった頃、ぐずってなだめられた経験が何度かある。もう思い出すことも出来ないほど遠い日になっていた。手を伸ばせば届く距離にいて、それなのに遠い人。年齢という絶対的な壁を越えることなど、不可能だと諦めていた。 「いいのですよ、あちら様には失礼をしてしまいましたが。どちらにせよ、お断りをするのには変わりないのですから。埋め合わせなど、あとでいくらでも出来ますよ。造作ないことです……実はその他にも、本日は失敗をしましたけど」 髪を撫でてくれていた手が外れて、彼はポケットを探った。そして小さな紙切れを咲夜の目の前にかざす。 「いやはや、こんなこともあるんですね。対向車が合図してくれるのにも気付かないほど、夢中で運転していたらしいですよ。お恥ずかしいばかりです、……月彦様になんと申し開きしましょうね?」 スピード違反……そんな行為は惣哉に一番似合わないと思っていたのに。相模からの知らせを聞いて、飛んできてくれたのか。 「ううん、大丈夫。私が急がせたんだって、ちゃんと口添えしてあげる」 恥ずかしそうに告げた顔がおかしくて、笑ってはいけないところなのに思わず吹き出しそうになる。どうにか堪えようと、またスーツに顔を埋めた。 「あ……それから。もうひとつ聞きたいことがあったの。どうして、私の居場所が分かったの? 私だって、自分がどこにいるのか分からなかったわ。面倒だから携帯の電源も切っていたし……相模さんだってあの場所からじゃ、どの方向に進んだのか分からなかったはずよ?」 まっすぐにここを目指してくれたことが、とても不思議だった。わかりにくい場所にあり、表を走っているのは四車線道路。進行方向があちら側だと、右折が不可能なので車を回すことも出来ない場所だ。公園の中も広くて、見通しが悪い。あの敷地内だけでも迷子になりそうなのに。 「ああ、そのことですか。……説明するまでもないほど簡単なことなのですけどね」 「これ、ただのキーホルダーじゃないんですよ。中に超小型のセンサーが埋め込んであります、それが私の車のナビで確認できるようになってますので……この頃物騒な事件も多いですし、大事があってはと思いまして。騙すような真似をして申し訳ございませんでした」 咲夜の鼻先で、あどけない表情の熊が揺れている。思わず何度も瞬きをして、彼女は改めて目の前の男を見上げた。 「だって……もしもこれを私が鞄に付けなかったらどうするつもりだったの? 何の役にも立たないじゃないの」 すると惣哉は、ゆっくりと微笑んで言う。 「大丈夫ですよ、私からの贈り物ならば咲夜様が大切にしてくださると信じておりましたから……その通りだったでしょう?」 思わず、頬が赤くなる。やはり分からない人だ、控えめな振りをしていながら自信たっぷりにこんなことを言うなんて。 「でも、このようなことはもう勘弁して頂かないと。スピード違反くらいで済めばいいですけど、ハンドル操作を誤って自爆でもしたら冗談にもなりません。その時は化けて出ますよ?」
ゆっくりと差し出される手に、自分の手を重ねる。こんな風に寄り添う時間が許されないことを咲夜は気付いていた。でも、信じてみたい、この心が望むままに。この人を、失いたくない。 灰色の空の彼方で今年最初の雪が舞い降りたことを、咲夜はまだ知らなかった。
Fin (031221)
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