周囲の壁よりも少しだけクリーム色が濃い部分。 外界からプライベート空間に突入するたったひとつのゲートを開くと、そこに広がっていた光景は俺が予想していたものとは違っていた。 新築のワンルームマンション。もちろん賃貸。そして、今の流行なのか何なのかは知らないが、電化製品からとりあえずの家具まで一通り備え付けられている。その分家賃は他の物件よりも割高だったが、こちらとしては即生活を始められるのが一番だったから丁度良い。就職を数日後に控えた今、右も左も分からない引っ越したばかりの土地で買い物をする手間を考えたらどんなに楽なことか。 だから今俺が手にした近所のコンビニの袋には夕食用の弁当と三本入りの焼き鳥のパック、それからビールが二本だけ入っている。申し訳程度のひさしがあるだけの外通路、しかも三階ともなれば吹きさらしの夕風が背中に冷たい。 「誰? 君は」 何度かの瞬きを繰り返したあと、俺は唸るように訊ねていた。驚いたなんてもんじゃない。だって、考えてみろよ? 何で自分ちに見知らぬ人影があるんだ。はっきり言ってこれは「不法侵入」だろう、立派な犯罪だ。 「……」 くるりと振り向くその刹那、肩の下まで真っ直ぐに伸びた髪がふんわり舞い上がる。後ろ姿を見たときに「女の子だ」と分かった。クリーム色に見えたワンピースには、よくよく目をこらすと細かい小花が散っている。 「あなたこそ、誰?」 感情の見えない顔で、彼女はそう言った。無意識な瞬きに長いまつげが揺れる。 「鍵、開いてたよ? ドアに靴が挟まってた」 ―― 何だよ、コイツ。 想像していたよりも幼い顔立ち、肌は透けるように白いがこれは多分ノーメークだ。先月まで在籍していた大学にも年頃といわれる女はごまんといたが、そこに充満していた毒々しさがこの娘には全く感じられない。でも、だからといって、この失礼な物言いを許してやるわけにはいかないぞ。 「身体検査、してみる? 私、何も盗ってないから。ただ興味があっただけ、ここから見る風景ってどんなかなって」 都会の女ってのは、ここまですれているのか。愕然とする俺に対し、彼女は不敵に笑った。笑った、という表現には語弊があるかも知れない。それは注意深く観察しなければ気付かないほど、微かな動きだった。 「大した違いはないわね、一階上がったくらいじゃ」 そこまで言い掛けると、彼女は一度口を閉じた。一文字になった薄い口元、天然色のピンクが色づいてる。 「挨拶に来たの、玄関先で失礼するつもりだったけどお留守だったから上がらせてもらっちゃった。私、この部屋の真下に住んでるの。あなたより、二日早く越してきたわ」 あ、そうだったと首をすくめて、彼女は小さな紙袋を差し出した。 「これ、お近づきの印に」 ほとんど重さを感じないそれを残して、細い肩先がドアの向こうに去っていった。
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「あ……」 私服姿の学生が溢れかえるロビーで、すれ違いざまに視線が絡み合った。向こうもすぐに俺に気付いたのだろう、さすがに驚いた顔をしている。 「何だ、センセイだったの」 返ってきた言葉はそれだけ。次の講義へと急ぐ彼女は足早に教室へと入っていく。次の瞬間に俺もハッと気を取り直して、手にしていた書類ばさみを持ち直した。事務室にこの変更届を提出するのが今すべき仕事。口うるさい事務長に睨まれないように急がなくては。 ―― そうか、ここの受講生だったんだ。 初めて会った日の、感情を隠した態度を思い出す。志望校を目指してもう一年努力をすることを決めた浪人生とそれを支えるスタッフ。「予備校」という世間の波から取り残された異空間に時間が止まったような独特な空気を生み出すのは、そこにある押さえ込んだ感情たちだ。彼女も、俺と同じだったのか。そう気付いたときに、何かが少しだけ変わった気がした。
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「―― センセ」 後ろから近づいてきた足音がやがて横に並ぶ。声のした方向を見ると、やはり彼女がいた。 「今帰り? 私も一緒だよ」 屈託がない、と表現するには少し違和感のあるその横顔は、初めて会ったときと同じ不思議な色をしていた。その後はお互い無言のまま、同じ場所を目指して歩いていく。それも当然だ、俺たちは他人も同然なのだから。そりゃちょっとは知った間柄かも知れないが、だからといってこれ以上親しくする必要はない。 沈黙は、よどんだ時間を生み出す。散り遅れた花びらが一枚、また一枚とはらはら舞い降りて、白い色を薄暗い舗道に沈めた。何だか、今の自分の姿みたいだ―― そう思ったら、不意に言葉が口から飛び出していた。 「俺、センセイじゃないから。なりたかったけど、なれなかったから」 何でこんなこと話しているんだろう、不思議そうな顔でこちらに向き直る彼女の姿が視線の端に映る。押さえ込んでいた感情、どこかで振り切らなくてはならないと分かっているのにまだ往生際悪く追い求めそうになる夢。理想と現実の狭間で悩み続けた日々が、俺の心を閉ざし続ける。 「そうなんだ、……大人って大変だね」 もう一年頑張ることを決めた彼女が、滑走路を降りた俺に告げた言葉。就職浪人を決めた仲間もいたが、俺にはそこまでの勇気がなかった。現役でこんなに大変だったんだ、二年目三年目はさらなる苦境に立たされるだろう。そのときに頑張りきれる自信がないと悟った。 「だけど、私だってこの先上手くいくかどうか分からないんだよね」 彼女はそう言うと、そっと手を伸ばした。そして丁度指先に届いた花びらを、宝物を見つけたように手のひらに絡め取る。まるで忘れた春を惜しむように。 どこかで見覚えがある、初対面の気がしないと思っていた。ようやく今、その答えに辿り着いた。 新しい季節を迎えて浮き足立つ風景に、今年はどうしても乗りきれなかった。そうしているうちに自分の目の前はどんどん変わり続ける。それに戸惑う権利すら、自分にはないのだと思っていた。
―― 誰かのものじゃない、自分のための季節を迎えるために。これから何をすれば良いのだろう……?
「センセ?」 彼女はそう呼びかけてから、しまったという顔になる。そのあと重大な秘密を打ち明けるみたいに、小さな声で言った。 「この間は、ごめんなさい。あのね、私ぼんやりしていて階段をひとつ多く登っちゃったの。部屋に入っても造りが同じだから全然気付かなくて、窓の外を見て初めて分かって。しまった、って思ったときにはもう遅かったの」 両手を合わせて詫びる彼女が、やっと人間らしい一面を見せてくれた気がした。それにつられて俺も笑顔になる。周りの風景も急に色を変えた。 「お詫びに、今夜のおかずを分けてあげる。昨日、作り過ぎちゃったの。センセ、肉じゃがは好き?」 俺は彼女に見つからないようにと祈りながら、買い物袋を後ろに隠した。その中に何が入っているかは、あえて説明する必要もないだろう。 「う、うん。もちろんだよ」
遅れて訪れた季節は、まだよそ行き顔をしている。だけどこの先の毎日は楽しくなる、そんな予感に胸が疼いた。 おわり(080222)
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