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 雨は降り続いている。

 週半ばまでぐずついた天候が続くでしょうとの予報がばっちり当たって、何もかもがどんよりじめじめ鬱陶しい。そんな中で唯一元気なのは、全自動洗濯機に内蔵されている乾燥機くらいだろうか。ああ、あれがなかったら今頃ワンルームな俺の部屋は不快指数200%じゃ収まらないだろう。
  通りに面した壁が天井から床までのガラス張り。こんなに見通しがいいと逆に落ち着かないと思うのは俺だけだろうか。外から全てが丸見えというのも良し悪し、これがコンビニだったら客引きになるかも知れないが、残念ながらそうではないし。

「ねえ、センセ」

 いつから見つめられていたのだろう。つい今さっきまでは問題集に顔を突っ込む勢いで集中していたはずの彼女が、茶色がかった大きな目をこちらに向けている。

「七夕が秋の季語だって、知ってた?」

 軽く首をかしげると、さらさらのストレートヘアがふわりと頬に掛かる。ちょっと明るく染めすぎじゃないかと最初は思った。でもそれは俺の勘違い、彼女の意志でそうなった訳じゃない。出身は一年の半分近くが雪に埋もれている北国。透けるような肌の白さも生まれ持ったものだったようだ。

「……知ってたよ」

 あっさりと切り返すと、途端に不機嫌な顔に変わる。ああ、ここは知らなかった振りをして彼女を喜ばせるべきだったかな。いやいや、仮にも俺は年長者なんだから、そんなことが出来るはずもない。

「なあんだ、つまらない」

 まるで責任の全てがこっちにあると決めつけてるみたいな目で睨み付けたあと、彼女は再び問題集に目を落とした。丁度空調の吹き出し口に当たるらしく、つむじの辺りの髪がふわふわと揺れている。本当に地毛なのだろうか。本人がそう言うのだから信じるしかないが、それにしても綺麗な色だ。
  どうしようもなく扱いづらい猫っ毛で、それでも高校時代は結構頑張ってみたがもうこの頃では諦めて余計なことはしないことにしてるといつか言っていた。まあいろいろいじくりまくるよりは、シンプルな今のスタイルが彼女に一番良く似合ってると俺は思う。

 雨はまだ降り続いている。

 ここはアパートからほど近い場所にある市立図書館。学園都市と謳われているだけに自習室の設備も申し分なく、こんな場所をただで使えるなんてイマドキの学生は恵まれていると思う。もちろん冷暖房も完備、自宅でエアコンを使えば電気代が馬鹿にならないことを考えればかなりの節約になる。
  長い一週間が終わり、ようやく迎えた定休日。学生時代からの友人も気軽に誘える距離にはいないし、そもそも休みが合わない。ウチの予備校は基本的に火曜定休。週末はそれなりに賑わうこの場所も今日は閑散としている。

 

 出掛ける予定など、そもそもなかった。

 下っ端の予備校職員の仕事は雑用ばかり。一日中細長いビルの上から下まで駆けずり回っている。帰宅する頃には足が棒のよう。この歳で湿布薬が手放せなくなった。今日は一日中ごろごろしていようかなと考えていたときに、彼女からのメール。成り行きでアドレスを交換してしまったために、一日に何通も送られてくる。

『課題で分からないところがあるから教えて』

 本当はこの十倍くらいのボリュームになるほどの絵文字が添えられていたが、それは割愛。のろのろと動き回るカタツムリの動画に呆然としていると、さらに追加のメールが届いた。

『今からそっちに行っていい?』

 冗談じゃないと慌てて起き上がり返信する。

『駄目、勉強なら図書館で』

 どう見ても、こっちの行動パターンを読まれているとしか思えない。俺が十分で支度を終えた頃、玄関のインターフォンが鳴った。

 

◆ ◆ ◆


「センセ」

 だから、その呼び方は止めてくれと言っているのに。端から見たら、講師も職員も同じように予備校に勤務している人間に思われるかもだが、実は双方の間には深い隔たりがある。この仕事に就いて初めて知ったのだが、一般職員として採用された人間が講師に抜擢される機会なんて皆無に等しい。そもそも採用の基準からして違うんだ。
  かなり早い頃から教職を志していた俺。その夢が絶たれた今も、どんなかたちであれ教える立場になれたらいいなと夢見ている。しかし今の予備校のような規模ではそれが果たされるはずもないし、かといって学生部の推薦で決まった職場を早々に退職するのも体裁が悪い。様々な選択肢はあるものの、それを実行に移すのは早くても数年後になりそうだ。

「そんなつまらなそうな顔してなくたっていいじゃない。何よ、退屈してるだろうと思って誘ってあげたのに」

 結局のところ、彼女は俺の助けを借りることもなくさっさと課題をやり終えた。

 口を開けば生意気な言葉ばかりを吐き出すが、意外にも真面目で優秀な受講生なのである。講師たちの間でも評判が良く、このまま行けばかなりの上位校が狙えると言われていた。予備校にとっては、成績の良い受講生は大切な大切なお客様。彼らの成功の度合いがそのまま来年度の集客に繋がる。
  ただ、気になる点と言えば、彼女がいつもひとりでぽつんとしていることだろう。もちろん完全に孤立している訳ではないが、誘い合ってどこかに出掛けたりする仲間は未だにいない様子だ。いつかそのことをさり気なく指摘したら、案の定不機嫌な返答が戻ってきた。

「ひとりになりたいから、知り合いの誰もいないところを選んだのよ。それなのに何で馴れ合わなくちゃならないの」

 彼女の言葉は少し矛盾している。本人がそれに気付いているかどうかは分からないが。

 帰り支度を始める彼女に合わせて、俺も読んでいた文庫本をカバンに突っ込む。結局、今日も読書は進まなかった。昼過ぎから夕暮れまでの数時間、俺の視線は窓の外の風景と俯いた彼女の姿を行ったり来たりしていただけだったような気がする。

 

「私、誘われちゃった」

 ガラス張りの長い通路を歩きながら、彼女はぽつんと言葉を落とした。謎解きのようなひと言に思わず振り向くと、こちらをじっと見つめる視線とぶつかる。

「週末の夏祭りに一緒に行きませんかって。……私も案外捨てたもんじゃなかったんだな」

 一体、俺に何と応えろと言うのだろう。本当に彼女は訳が分からない。俺たちの関係は同じアパートの上と下に住んでいる「ご近所さん」、それ以上でもそれ以下でもない。たまに彼女が作りすぎたおかずをくれたり、俺が出張のお土産を渡したりはする程度の仲である。こんな風に並んで歩いていれば特別な関係に見えないこともないだろうが、そもそも最初から対象外なのだ。

 俺の沈黙をどう受け取ったのか、彼女はそのままするりと脇をすり抜けて先に歩いていく。相変わらずふわりふわりと柔らかい髪の流れ。その手触りを知りたいなと思う瞬間は確かにある。だけどそれは単なる好奇心。そう自分に言い聞かせてる。

 玄関先まで辿り着くと、雨足はさらに強くなっていた。これでは用心して歩いても、かなりの跳ね返りがありそうである。今日の彼女の服装は清楚な外見によく似合う柔らかい素材のワンピース。今までに一度も見たことのない一枚だ。

「……ちょっと休んでいこうか? 少し待てば、小止みになるかも知れないし」

 図書館の入り口には、小さな喫茶店が併設されている。サンドイッチやパンケーキなどの軽食もあり、軽い昼食ならここで済ませることが出来そうだ。

「いいの?」

 今度は彼女が振り向く番。いつもの身構えた眼差しが、いくぶん和らいで見えた。

「奢るよ、給料出たばかりだし」

 たかだか四歳の年の差ではあるが、十代の彼女と二十代の俺との距離は果てしなく遠い。彼女が一体何を考えているかなんていくら悩んだところで答えは出そうにないし、それは彼女の方も同じだろう。相手の気持ちが全く見えない、だからどう扱っていいのか分からない。だけど気になる、気になるけれどどうにも出来ない。思考はすぐに袋小路に突き当たってしまう。

「ここ、外から丸見えだよ。誰かに見られたら、どうするの」

 今初めて気付いたようなことを言って、彼女は不安げに俺を見上げた。こう言うときはやっぱり年長者であるし、落ち着いて対応するべきだろう。

「見られて困ることがあるの?」

 ああ、これじゃちょっと意地悪が過ぎたかな。彼女はすぐには答えず、メニューに視線を落とした。ガラス越しに雨音が響いてくる。高く低く、強く弱く。

「……私、断ろうと思っているの。だって、せっかくのお祭りなら本当に行きたい人とがいいもの」

 

 その日は遅番だから上がりがかなり遅くなるんだけどな、なんて勝手に考えている俺がいる。いいんだ、頭の中だけで考えている分には。別に何の害もないし。

 雨は相変わらず降り続いている。でもそれが、急に優しい音楽に聞こえ始めたのは俺ひとりだけだろうか。

おわり(080807)

     

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