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 その瞬間、風が通りすぎた。

 ぼんやりしていれば見過ごしてしまうほどの間合いに、思わず振り返る。年間を通して特に感性が研ぎ澄まされると言われる季節、自分の中の感覚に磨きが掛かったと思いこんでしまうのは、ただのうぬぼれだろうか。

 ―― 違う。

 視線の先に捉えた情景に、ハッと息をのむ。彼女だ。そう、長めの髪を小さくまとめて襟足を出している後ろ姿は今朝確認済みだ。柔らかいシフォンのチュニック、そのふわふわした裾から細身のパンツに包まれた足がすらりと伸びている。

 中堅規模のこの予備校には、明日のキャンパスライフを夢見る若者たちがひしめき合っている。もしかしたらちょっとした大学ひとつ分の人数を抱え込んでいるんじゃないだろうか。特に活気に溢れている新年度には正直その熱気にあてられそうになったものだ。しかし、これならばという若干の期待を裏切って、どういう訳か彼女はいつも俺の目線の先に律儀に飛び込んで来る。
  改めて考えるまでもない。ふたりの間には今、見えない壁が築かれている。職員と受講生、年齢的にも見た目にも大差がないとしても、それは明確すぎる区分だ。ふたりきりで会うときには、ふとした会話の拍子に思い出すまでは忘れていることが出来る。だが、こんな瞬間には文字通り「まざまざと」思い知らされるのだ。

 吹き抜けになったホールにある全面ガラス張りの壁。そう目新しいこともなく、外界と建物の中を仕切る当たり前の構造ではある。しかし彼女は、そこから眺める街の風景が一番好きだと言った。初めにその話を聞いてからというもの、俺も機会があればふとその場所から外を眺めるようになっている。そして、彼女は今まさにそこに立っていた。

 秋晴れの昼下がり。ほんのりと色づいた日差しが、もともと色素が少なめの髪を明るく染めていく。自身の数あるコンプレックスの中でも特に気に入らなかった箇所だと本人は言うが、とてもそうは思えない。綿毛のような後れ毛、微かに揺れて見えるのは彼女自身の鼓動の仕業だろうか。

 ―― 綺麗、だな。

 実際、こんなところで油を売っている暇はない。右手には急ぎの書類を持ち、左手にはそのついでにと頼まれたテキストのサンプル。タッチの差で次の講義室に移動してしまった講師を追いかけている最中だった。講義開始までのあと五分の間に、必要事項をチェックしてもらわなくてはならない。さあ、早く行かなくては。そう分かっているのに、どうして俺の足は床に固定されたままなのだろう。

 

 視界に入ってくる彼女をゆっくりと眺めることが出来るのは、向こうが俺の存在に気づいていないときだけ。くるくると良く動く茶色がかった丸い瞳に射貫かれた瞬間に、ほとんど無意識のまま視線をそらしてしまう。
  何て惜しいことを、ともうひとりの俺がどこからか囁く。でもこれはいわゆる「理性」のなせる技。どうしてもこれ以上ふたりの距離を縮めることは出来ない。そう思うから、必要以上に他人行儀になってしまうのだ。

 彼女と俺は年齢も立場も違う、本来ならば一瞬すれ違ってそのまま通り過ぎていたふたりだ。それが気まぐれな運命の神様の悪戯で、何となく顔なじみになってしまい今に至る。もちろん申し合わせて毎日出会うわけではないが、同じアパートの上と下に暮らしていれば日常的に似たような生活を送るようになるものだ。
  彼女は俺のことを未だに「センセ」と呼ぶ。いくら諫めても改まらないから、もうこの頃ではすっかり諦めてしまった。別に大したことではない、いわゆるニックネームのようなものだと思う。ただ、かたちの良い桜色の口元からその言葉が漏れ出でた瞬間に、ふたりの間に確かな隔たりが生まれてしまう気がする。彼女はそれに気づいていないに違いない、だから何気なく口にする。

「ねえ、センセ」

 いつものように市立図書館の自習室に向かい合って座り、お互いがお互いの世界に没頭していた。社会人一年目の俺にはやたらと覚えなければならない事柄が多い。その上、講義ごとに見合った教材をわざわざ手作りすることだってままある。
  貴重な休日を他人の講義のための準備に当て、もちろん時間外手当なんて出やしない。だが、下っ端ひよっこな俺に無報酬だからと断る権利はなかった。予備校にとって優秀な生徒が上客として特別待遇がなされるのと同様に、人気や実績のある講師もまた大切な資源なのである。些細なことでへそを曲げられて、来年度の更新をフイにされたら大変だ。
  ふんぞり返って偉そうにしている奴のご機嫌を取らなくちゃならないのも、雀の涙ほどのサラリーを得るための手段。そう思って怒りを鎮め、ひたすらに与えられた仕事をこなしていくしかない。

「センセ、ってば。ねえ、聞いてるの?」

 彼女の方は丁度ひと区切りついたところなのだろう。それまで広げてあった古文の参考書が脇に寄せられている。

「……聞いてるよ」

 ここでシカトを決め込むのは得策ではない。何故ならこちらが反応を見せるまで、彼女はいつまでもしつこくしつこく言い寄ってくるからだ。仕方なく手を止めて顔を上げると、どんぐり眼がじっとこちらを見ている。

「ねえ、私思うんだけど。来年の今頃って、一体どうなっているだろうなあって」

 しかし、投げかけられた質問はあまりに他愛のないものだった。それに彼女としても明確な答えを求めているという訳でもなさそうである。解答が幾通りもあるような証明問題のように、つかみどころがなく曖昧だ。

「そんなこと、君が一番良く分かっているんじゃないかい?」

 興味も関心もないように切り返しながら、実は胸内で思い描いている。納得のいく志望校に合格して、楽しくキャンパスライフを送る姿。今は意識してアウトローを気取っているみたいだが、本来の彼女はそう言うキャラじゃないと思う。友達に囲まれて明るく笑う横顔が容易に想像できる。

「……もぉ。分からないから聞いているんじゃないの」

 かたちの良い眉がつっとつり上がったものの、ここで時間終了。彼女はさっさと次のテキストを広げた。そうしてくれたことで初めて、俺はその姿を見つめることが叶う。さらさらと頬にこぼれる髪、ペンを握る細い指先。こんな風に間近で彼女の「観客」で過ごすのはあと数ヶ月のことなのだ。

「分からないことは、まず自分で考えてみた方がいいんじゃないの?」

 そのときに何気なくこぼした言葉が、今自分自身に訊ね返してくる。どうしてここから立ち去れないのか、立ち去りたくないのか。その答えは俺自身の中にしまい込まれている。

 

「……」

 にわかに、風が変わった。

 ぼんやりしていた思考を元に戻して、目の前の彼女を確かめる。彼女は、ひとりではなかった。今、細い肩のその隣には見覚えのある男が陣取っている。まるで初めからそこが自分の定位置であるかのようにぴったりと寄り添って、あれやこれやと彼女に話しかけてる様子だ。

 ―― 何だ、あの失礼な態度は。

 わざわざ思い返すこともない、あいつは彼女と同じこの予備校の受講生だ。半分以上の講義が被っていることもあって、かなり近しい関係にあると言っても良い。少なくても男の方は「単なる同級生」よりも深い感情を彼女に抱いているように見受けられる。
  それに、彼女の方だってまんざらじゃない様子だ。仲良さそうに肩を並べるシーンを見るのはそう珍しいことではない。別に俺がいちいち関知することもないのだが、何しろ彼女が視界に飛び込んでくる確率が高いから始末に負えないのだ。

 ここからではふたりがどんな会話を交わしているかは分からない。だけど時々小刻みに揺れる彼女の肩先が、楽しそうに笑い声を立てていることを想像させる。だけど、それが何だというのだ。別に俺の知ったことじゃない。彼女がどこの誰とどうしようが勝手だ、だいたいそんなことでいちいち腹を立てるほど俺は暇じゃないんだ。……っていうか、どうして腹を立てる必要などある……?

 さっさと立ち去りたい、でもそうすることが出来ない。幸いなことに、今の彼女は俺の存在に気づいていないからその姿を見つめることが出来る。そう……あとどれくらい眺めることが出来るか、期間限定の後ろ姿を。

 と、予鈴のベルが館内に響き渡る。

 そのときになって初めて、俺は自分が握りしめていた封筒の重みを思い出した。慌てて目的地へときびすを返したとき、首からぶら下げていた携帯が軽快なメロディーを奏でる。

「……?」

 大股で歩きながら、二つ折りのそれを開いて確認する。画面いっぱいに埋め尽くされた絵文字、その中央に申し訳程度の日本語が並んでいる。

『さっきからガラスに映ってるよ、センセ』

 ぎょっとして振り返ると、彼女はまだあの場所にいた。でも先ほどまでとは違いこちらに向き直ってひらひらと手を振っている。抑えたくてもこぼれてしまう笑顔がすっきりした輪郭を明るく彩っていた。

 ―― 隣に、もうあの男はいない。

 それをしっかり確認してから、俺は非常階段へと急いだ。

おわり(090410)

     

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