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 今年の冬は長い。

 初めから予感していたことではあったが、そのまっただ中にある今は改めて季節の深さを痛感させられる。さらに凍えていく外気と相まって。二月に入った途端に、それまでの喧噪が嘘のように構内は静まりかえっていた。大手の予備校のように難関校対策の直前講習があるところなら違っているのだろうが、ウチの場合はカリキュラムのほとんどが一月末で終了している。
  現在通ってきているのは資料や問題集のそろっている自習室を利用する者か、あるいは講師に個別に質問のある者くらい。その人数も日を追うごとに目に見えて減っていく。決算時のバーゲンセールのごとく、毎日どこかで受験が実施され合否判定がなされる。言うなれば、気の早い桜が咲いたり散ったりしているってところか。何とも忙しいことだ。

「ま、暇なのは今のうちだけだ。やれることからどんどん片付けていかないとあとで慌てることになるぞ、分かっているだろうな」

 したり顔で言う先輩事務員は、週末の天気がひどく気になっている様子。数年来の暖冬の影響で、ウインタースポーツ愛好家にとってはかなり厳しい状況になっているらしい。ここ半月ほどの冷え込みは彼らにとって「恵みの雨」ならぬ「恵みの雪」をもたらすことになるかも知れない。俺はといえばとにかく寒いのが苦手だし、何が悲しくてこの上雪に埋もれて凍えなくてはならないのかと思ってしまうが。
  まあ、人は人。こんな些細なことでいちいちやり合うまでもないし、自分に対して害の及ばないことに対しては極力黙って通り過ぎることにしている。
  改めて周囲を見渡してみれば、俺と同様のスタンスを取っている輩は想像以上に多い。その一方で「自分こそが絶対に正しい」と信じ切って我が物顔に振る舞う奴に出くわすこともある。実際、あの手の人間は単純で扱いやすい。何しろ思考パターンが透けて見えるし、感情も素直に表してくれるから安全だ。
  以前は居酒屋などで、出来上がった上司に低姿勢でへつらっているスーツ姿を見て「情けないな」と思ったりもした。だが、今は彼らの心境が手に取るように分かる。結局、人間は上手く時勢に乗って立ち回るのが得策なのだ。

「あのー、こちらの書類はどうしますか? 全て処理済みのものですが」

 殺人的に忙しかった年末から溜まりに溜まった段ボール箱。部屋の隅にうずたかく積まれたそれらの中身をひとつひとつ確認しながら整理していく。かなり面倒ではあるが、これも毎年繰り返される当たり前の作業らしい。言葉を替えれば「暇つぶし」とも言えるか? そんなこと、この際どうでもいい。

「そっちは全部個人データの写しだろ? だったらシュレッダーにかけないと。ただ、機械がメンテナンスに出てるから戻ってくるまでは無理だな。一応分かるようにして置いとけば? どうせお前の仕事なんだし」

 緩んだネクタイを締め直し、俺は段ボールの山の中で低く吐息を落とした。パソコンに向かったままの先輩はそれに気づかない。もっとも、気づいたところで大したことではないだろう。臨時で雇っていた職員達もいなくなり、さらに常勤のメンバーもそれぞれが順番に年休を消化している今。こうして規則正しく出勤して雑務をこなすだけで「真面目」のレッテルを貼られている気がする。

 ―― だとしても、家にいてもやることないしな。

 入社一年目の俺は研修で外に出る機会も多かったため、他の職員よりも残っている休みが圧倒的に少ない。だがそれは「残念なこと」ではなかった。正月に戻ったばかりの実家にわざわざ顔を出すのも面倒だし、かといって暇を持て余していれば懐は寂しくなる一方である。それならこうして、カッターナイフを片手に奮闘していた方がいい。

「そろそろ昼飯か。どうする? この陽気じゃ、外出るのも面倒だなあ。お前ひとっ走りして何か買って来いよ、下のコンビニでいいからさ」

 新たなる任務を与えられ、一足早い休憩を手に入れる。こういう息抜きは本当に有り難い。一面ガラス張りの窓から見えるのはグレイの冬空。何層にも重なり合って、青空のかけらはどこにも見あたらなかった。

 ―― 彼女は今、この空を見上げるゆとりがあるだろうか。

 朝から落ち着かない心地でいたことを、今急に思い出した振りをする。ふと目を閉じれば、無言で進む人波の中に子鹿色のコートが見え隠れする姿が容易に想像できた。

 

◆ ◆ ◆


 センター試験の結果は、本人的には「まずまず」というところであったようだ。

 現役の頃よりも点数を伸ばせたことが何より嬉しかったらしい。もちろんこの一年はただひたすらひとつの目標に向かって邁進し続けていたのだから、当然と言えば当然の結果である。だがしかし、現実はそう甘くはなく「去年の方がレベルの高い学校に受かっていたのに」などと愕然とする受講生も少なくない。

 この一年、つかず離れずサポートする立場から受験生を身近に見てきて、試験結果とはほとんどの場合は努力の大きさに比例すると痛感した。良く「火事場の馬鹿力」とか言うが、結局は地道な努力に優るものは何もない。コツコツと積み重ねた実績こそが、本番で受験者自身の背中をしっかり押してくれるのだ。
  本当に様々な受講生がいた。楽観的な者、悲観的な者、地道な者、短絡的な者。予備校の職員は高校の教員ではないから、怠けている受講生に対して「何やってるんだ」と檄を飛ばしたりはしない。あくまでも「お客様」として対処し、出来うる最大のフォローを心掛ける。そのことをもっと冷静に自覚した方がいいと思う者もかなりいた。

 そのような多種多様な面々の中で、彼女は常に抜きんでていた。毎回の小テストでも外部模試でも常にトップクラスを維持し、見ているこっちが惚れ惚れするほどの「模範生」であり続けた。

「だって、私はこうするために浪人したんだもの」

 いつだったか、何故そこまで頑張れるのかと聞いたときに彼女は即答した。まるで俺の質問が不思議で仕方ないと言わんばかりに、ただでさえ大きな眼をもっと見開いて。

「誰かと競うとか、勝つとか負けるとか。そういうのはあまり興味ないかも。ただ、自分にだけは負けたくない。絶対に後悔したくないの」

 何とも見上げた心がけである。俺自身もそれほど不真面目ではなかったが、以前彼女と同じ立場にあったときにはここまで真摯に「学ぶこと」と向き合ってはいなかったと思う。

 

「ただ、たまーにちょっと寂しいなって思うのね。その先のことを考えると」

 いつもの市立図書館、自習室の指定席に向き合って。白い指先でシャープペンシルを弄びながら、小さく呟く。その瞳はまっすぐに俺を見つめていた。

「寂しい? だって、春からのキャンパスライフを考えたら、楽しいことばかりだろう」

 当たり前の単語を無意識に並べて、俺はさっさと話を終わらせようとした。彼女の鋭い感覚はその刹那、何かをしっかりと捉えたのかも知れない。それ以上の言葉が発せられることはついになく、ふたりの間には元通りの静寂が戻った。

 ―― 一体、どんな言葉を望んでいるのだろうか?

 彼女の中にある心細さは相当のものがある。それが分かっているだけに、少しでも不安要素はつみ取ってやりたいとは思う。でも、正直言ってその方法が分からない。こんなとき、お互いが同じ立場にいない事実がもどかしくてたまらなくなる。

 

「あのさ」

 その日、帰り道。彼女はようやく重い口を開いた。

「桜、咲く頃。私はどこにいるんだろうね」

 細く流れる北風が、彼女の素直な髪を揺らす。誰にも答えを求めていない問いかけ。彼女はそれを自分の心の中にひっそりと戻した。

 

◆ ◆ ◆


『おはよう、今日は頑張って』

 まだ薄暗い時間に早起きをして、ひとつ下のドアの前に立った。呼び鈴を押すだけの勇気はなくて、手にした小さな紙袋をドアレバーに引っかける。手のひらに乗るくらいの小さな花束。薄ピンクの可憐さが彼女によく似合う。そこに添えるカードの短い言葉を、何時間も必死で考えた。

 センターの結果を聞いたあと、彼女からの連絡が途切れた。もちろん部屋にいることは間違いない、遅い時間に戻ればそこに灯りがあるから。向こうが何も言ってこないなら、こちらも黙って見守るしかない。過度な干渉はこの時期の受験生にとって好ましくないのだから。

 だけど、今朝は。せめて、ひと言だけでもエールを送りたかった。この一年、必死に頑張り続けた姿を見守ってきた人間として、……そして。

 

 定時に上がってアパートに戻ったとき、彼女はまだ帰宅していなかった。階下から見上げてそれを確認したあと、少し重い足取りで階段を上がる。別に何を期待していたわけでもない。その部屋のドアは意識して見ないようにした。

「……?」

 そして、自分のドアの前。俺はハッと息を呑む。真っ赤な紙袋がそこにある。何とも不用心な、と思ったが、実はその朝に自分も全く同じことをやらかしていたことに気がついた。入っていたのは、さらに小さな包みと、一枚のカード。

『おはよう、センセ! 応援、ありがとね。元気に行ってきま〜すv』

 色とりどりのハートマークが乱舞する。今日がまさしくバレンタインだったことに、少し遅れて気づいた。

おわり(090618)

     

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