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 のんびり、春霞。

 去年も眺めたはずの風景なのに、まったく違って見えるのはどうしてなのだろう。桜の蕾もふくらんで、頬をかすめる風もほんのり温かい。「春」はいつもこんな風に足音もなくやって来て、いつの間にか辺り一面に広がっているのだ。

「おはよ、センセ!」

 アパートの階段を下りて、遊歩道を十メートルほど進んだところで後ろから声を掛けられた。振り向く前から分かる軽快な足音、弾んだ響きが周囲の風景にぴったり似合っている。

「おはよう」

 今朝の彼女は肩から大きめのバッグをさげていた。荷物の少ない人なら二泊三日ぐらいの旅行に行けそうな大きさだが、若い女の子はこれくらいのを日常的に持ち歩いている。一体何をどれだけ詰めるためにあの大きさが必要なのだろうと思ってしまう、ある意味ブラックホール的な存在であった。ま、目の前にあるそれも同じようなものだろう。

「こんなにいいお天気なのに、ご出勤? ホントー仕事熱心だね、センセは」

 自然に並んで歩くかたちになる。それでももう、かつてのような後ろめたさはない。いくつかの合格通知を手にした彼女は、この春からは晴れて「女子大生」となる。ああ、こんな風にベタな格付けする辺りが、俺もオヤジ入って来たかな?

「当たり前だろ、社会人なんだから」

 無駄に先輩風を吹かせたところで、どうなることでもないんだけど。かっちりとスーツで固めた自分の姿が、「自由」から遙か遠ざかってしまった気がして寂しいような情けないような気持ちになる。とはいえ、ほんの一年前には俺自身も「青春を謳歌する若者」だったはずなのだが。思えば遠くへ来たもんだ、などと感慨深くなってしまう。

「ふうん、そうだよね。可哀想ーっ!」

 ころころと笑う彼女に、合わせて踊る髪。出逢ったあの日と変わらないまっすぐなロングヘア、あれから一年経ってしまったなんて信じられない。でも確かに、彼女も俺も一年分の時間を積み重ねていた。だから「今」があるのだ。

 それからしばらくは、お互い黙って歩いていた。共通の話題が全くない訳じゃない、だけどそれを口にしたところで不自然な温度差を再確認するだけ。今までにも幾度となくそんな違和感を味わい、そのたびに自分たちが別世界の人間であることに気づいていった。

「……ね、センセ」

 視界の先に、ガラス張りの建物が見えてきた。あれが俺の勤める予備校。新年度の受講生受付がピークを迎え、連日大忙しで過ごしている。彼女はかつて自分のまなびやであったその場所を見つめ、俺に呼びかけた。

「特別なお祝いとか、くれないの? 私、頑張ったでしょう、この一年。だから、ご褒美がもらえてもいいと思うんだけど」

 彼女の言葉はいつも謎かけだ。そのまま字面通りに受け止めても、その意味が全く分からない。

「……ご褒美?」

 こういうときには、言われたままの言葉でオウム返しをするに限る。カウンセリングの基本だ、新人研修でこの手のことは叩き込まれていた。

「うん、親とか親戚とか、とりあえずいろいろもらったけど。よく考えたら、センセからは何もないから」

 どうしてなの? という瞳で見つめられると、自分がとても不誠実な人間のように思えてくる。だが、それは違うだろう。俺たちは単なる隣人、同じアパートに住んでいるだけの付き合いなのだ。それだけの関係なのにいちいち祝いを渡していたら交際費がパンクしてしまう。

「もしかして、何も考えてなかったの?」

 あ、思い切り睨んでる。「うん、そうだよ」なんて、とても言い返せない雰囲気だ。

「冷たいなーっ、センセは。私、すごく期待してたのに」

 こうやってまとわりつかれるのも、あとわずかのことだろう。人生の先輩である俺には、それが分かっていた。だから、口から出任せの約束が出来る。

「……そのうち、考えておくよ」

 俺の言葉に、彼女は花がこぼれるような笑顔になった。そして「じゃあね」と駅に向かって掛けだしていく。その姿が春の風景に溶け込んで見えなくなるまで、俺はそこから動くことが出来なかった。

 

◆ ◆ ◆


 予想もしなかったことが、突然訪れることがある。

 俺たちの「出逢い」はまさしくその通りだった。同じアパートのひとつ下の階に住む彼女が、ついうっかりと階段をひとつ多く上がり過ぎてしまっただけ。そのときに、部屋の住人である俺が偶然戻ってきただけ。どこかでほんの少しでもすれ違いがあったら、今でも他人同士のままだったかも知れない。

「……あれ?」

 最後に彼女と話した朝から、わずかに五日後。久しぶりの休校日に寝坊をした俺は、階下がやけに賑やかなことに気づいた。一体、朝っぱらから何をしているのだろう。そう思ってベランダから覗いてみても、よく分からない。仕方ないから近所に出掛ける格好になって、階段をひとつ下りてみた。

「あら、真下さん。今日はお休みだった? 起こしちゃったかしら」

 丁度、上がってきた大家さんの奥さんに呼び止められる。元気のいい「肝っ玉母さん」風の人で、こんな今風のアパートよりも下宿屋でも経営した方が性にあっているんじゃないかなとか考えてしまう。彼女の手にはシューアイスとお茶のペットボトルの入ったコンビニ袋があった。

「何かあったんですか?」

 ドアストッパーで大きく開かれたのは、まさしく「彼女」の部屋だ。そして中ではがやがやと話し声や足音、そのほかの物音もする。

「ああ、これね。退室後のクリーニングよ。綺麗に使ってくれてたんだけど、一応入れておいた方がいいしね。高坂さんもそれで同意してくれたから」

 奥さんはてきぱきとそう説明してくれて「じゃあ、私これを届けなくちゃ」と俺の脇をすり抜けていく。ちなみに「高坂」と言うのは彼女の姓だ。しばらくは頭が真っ白になって、何が何だか分からないまま立ちつくしてしまう。だけど、ギリギリ、奥さんがドアの向こうに消えていく前に呼び止めることが出来た。

「ええと、……高坂さんは引っ越されたんですか?」

 馬鹿な、ひと言だってそんな話はしていなかったのに。数日前のいつも通りの姿を思い浮かべても、不自然な点は全く思い出せない。だけど、奥さんの方は俺のそんな問いかけの方が「不自然」だったらしい。あらあら、と大きく目を見開いている。

「ええそうよ、真下さんは何も聞いていなかった? 全く、近頃の若い人たちらしいわね。―― ま、そんなものなのかしら」

 彼女はそのあとも「ああそれからね、」と何か話し続けていたが、もうどんな言葉も俺には受け止めることが出来なかった。

 

◆ ◆ ◆


 彼女は消えた、何も言わずに俺の前から。

 その事実を受け止めるために、そう長い時間は掛からなかった。当然と言えば、当然。彼女が進学することになった大学はここからだと乗り換えの面倒な場所にあり、新しく近所に借り直した方がよほど都合が良さそうである。俺自身もそうするのかな? とか考えてみたが、あえて口に出して訊ねる気にもならなかった。

 だけど、こんなことってあるだろうか。いくら、ほんのちょっと知り合いだっただけとは言っても、自分がいなくなることくらい伝えてくれても良さそうなものなのに。しかもあんな思わせぶりな言葉まで吐いておいて、あまりに非常識だと思う。
  怒りという感情まではいかないが、確かに面白くない気分だった。勤務時間中はあまりの忙しさに気も紛れたが、帰宅してひとり過ごす夜には胸の中に何とも言えない気持ちがこみ上げてくる。何処を探しても彼女はもういない、その事実が俺を責め続けていた。

 ―― どうしてあのとき、きちんと言葉にして気持ちを伝えなかったんだろう。

 最初から、心のどこかで諦めていた。あの眼差しも、あの声も、彼女が特殊な環境下にいる「今」だからこそ与えられるもの。いわば期限付きの関係であり、そのことは年長者の俺の方がしっかりとわきまえていないといけない。そう考えいていたから、踏み出せなかった。結局、彼女は何も知らずに俺から去っていってしまったじゃないか。
  恋という名のときめきは、上手く隠しているつもりでも心のどこからかはみ出して来てしまうもの。彼女もそこに気づいていたんじゃないだろうか。それなのに、……何故。もしもこうして決定的な別れが来ると知っていたなら、俺はきっと迷わなかったのに。
  普通の関係とは確かに違う、だけどもしかしたらいくつかの季節の中で感じていた触れ合いは今までの俺の人生で感じていたどれよりも懐かしく、そして魂の響きに近い気がしていた。

 ……そんな風に伝えたら、彼女は笑っただろうか。

 

 その日。夕方、買い物袋を下げて戻ると、今度は隣の部屋が騒がしかった。何だろうと首を伸ばすと、ちょうどドアから大家さんの奥さんが出てくる。彼女は俺を見ると、確かに一瞬、意味深な瞳の色になって、それからすぐに「あれまあ」といつものオーバーなジェスチャーをした。

「ごめんなさいね、一日に何度も騒がしくして。今度はこちらのお引っ越しなの、とは言っても退室はもう数日前に済んでいて今日は代わりの人の入居なんだけどね。ああ、この時期は忙しくて大変。でもこうして間を置かず借りてくれる人がいるのは有り難いことね……」

 奥さんはその後もおしゃべりを続けるつもりだったのかも知れない。でもそのとき、ドアの向こうの呼び声に俺たちの会話は中断された。

「ねえ、おばさん。このスイッチはちょっと接触悪くない? 前の部屋はこんなじゃなかったよ、ちゃんと点検してくれないと困るわ」

 自分の部屋のドアレバーを握りしめたまま、俺は動きを止めた。そんな馬鹿な、……いやしかし。

「何だって、本当かい。悪いね、ほっちゃん。明日にでも業者に来てもらうから」

 どうも新住人と大家の奥さんは親しい関係らしい。高校を出たばかりの女の子がひとりで上京するとしたら、出来るだけ信頼出来る場所に住まわせたいのが親心。おばさん、と呼ぶからには相応の間柄なんだろう。そうか、そうだったのか。

そして、ゆっくりとそちらを振り向くと―― 。

「久しぶり! センセ。私がいなくて、寂しかった?」

 別れた朝と同じ笑顔の彼女がそこに立っている。そして、ぺこりと頭を下げた。

「今度お隣に引っ越してきた高坂です。よろしくお願いしますね!」

 何だ、それ。どういうことなんだよ、全く。それならそうと、どうして言ってくれなかったんだ。彼女も、そして大家さんの奥さんも性格悪すぎ。お陰で今日は一日、薄暗い気分のまま休日を過ごしてしまったじゃないか。

「真下です、こちらこそよろしく」

 くすぐったい風が、ふたりの間をすり抜けていく。首をちょっとすくめた彼女が、またひとつ嬉しそうに笑った。

「それでは、私は片付けが残ってますのでこれで」

 あくまでも他人行儀にすごそうとする芝居じみた態度がどうにも。やっぱり、この前のことを少し気にしているのかな? あのときにすぐに返事をしなかったことでへそを曲げているのかも知れない。

「―― ほなみ、ちゃん」

 その背中に呼びかけた声。良かった、舌がもつれて上手く言えなかったらどうしようかと思った。もちろん、彼女は最大級に驚いた顔で振り向く。思わず吹き出しそうになったけど、必死でこらえた。

「そっちが片付いたら、夕ご飯でも一緒にどう? 引越祝いに、奢るよ」

 何かが始まる確かな予感。夕暮れの名残の赤の中で、俺を見つめる彼女の頬もほんのりと色づいていた。

 

おわり(090717)

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