月の消えた夜。
少しは闇に目が慣れたと思ったのに、ぐるりとあたりを見渡しても目印になる灯りひとつ見えない。
すぐ目の前で、白く立ち枯れた草原が波のように揺れている。風がだいぶ強いようだ。
「……もうっ、携帯くらい持ち出せば良かった!」
長い髪が大きく煽られるのを感じながら、沙弓(さゆみ)は怒り任せに叫んだ。きりりと勝ち気そうな顔立ちが、闇の中で少し歪む。
いったい、ここは何処なのだろう。自分はなんのためにこんな場所まで連れてこられたのか。突然の出来事だったために気持ちが混乱し、どこから考えたらいいのかもわからない。しかし、ぼやぼやしている暇はなかった。こうしている間にも追っ手がすぐそこまでやってきているかも知れないのだから。
「まさか……命まで狙おうと思っているわけじゃないと思うけど」
もしもそうなら、捕まった時点で息の根を止められていたはずだ。生かしておいてこそ利用価値がある、そう判断されたに違いない。
突風が通り過ぎ、首に巻いたストールが長く後ろにたなびいた。かなり冷え込んできている、じっと立ちつくしていると凍えてしまいそうだ。
「だけど、この先は何処へ行けばいいというの?」
このような暗がりでは方角もわからない。
大学のキャンパスを出たのは夕刻であったから、それから数時間は経過しているだろう。この気温の下がり方を考えれば、すでに夜半にさしかかっているかも知れない。
自分を連れ去ったのは黒塗りのワゴン車。いきなり開いたスライドドアに強引に乗せられたあと、すぐに意識が途切れた。だから都心からどこに向かったのか、それもわからない。
目覚めたとき、車は停車していた。窓の外は闇。沙弓の両隣には体格の良さそうな背広姿の男たちが眠っていて、運転席には誰もいない。タバコでも吸うために外に出ているのだろうか。幸いなことに、手足は拘束されていない。
沙弓はとっさに左手を伸ばし、スライドドアの開閉ボタンを押した。ピッと短い音がして開き始めた空間に勢いよく飛び込む。そしてそのまま、闇雲に走った。
いくらも進まないうちに、背後で男たちの怒鳴るり合う声がする。ドアが開けば、車内灯も点く。そうなれば、沙弓の姿が消えたことに気づくのは当然だ。
相手は少なく見積もっても三人、真っ向勝負で勝てるはずもない。武道の心得はそれなりにあったが、あいつらだって素人ではないだろう。
「どうしよう、これから……」
まずは身の安全を確保しなければ。自分はたぶん、何者かに拉致されかけたのだろう。どこか近くに民家があればそこに逃げ込むのだが、残念ながらそのような場所も見あたらない。
急斜面を転がるように駆け下りたあとは、延々と平原が続くばかり。車道に戻った方が人目につく可能性は上がるが、その方角には奴らがいる。
そのとき。
複数の足音が沙弓の背後に響いた。続いて、叫ぶ声。
「いたぞっ、こっちだ!」
「良くやった、早く捕まえろ! 多少、手荒にしたって構わない!」
沙弓は弾かれるように走り出した。冗談じゃない、こんなところで捕まってなるものか。どんな奴らに追われているかも見当がつかないが、自分に友好的な相手じゃないことだけは確かだ。
「この小娘がっ! 手こずらせやがって……!」
あっという間に追いつかれ、肩に男の手が掛かる。
「……なんなのよっ、離して! 離しなさいってば……っ!」
慌てて振りほどこうとした、そのときだった。
それまで沙弓の足下にあったはずの地面が不意に消える。がくんと、世界が崩れ落ちる音。
「――えっ、……きゃああああーっ……!」
どこかで潮の匂いがする。そう思ったときにはすでに遅く、沙弓の身体は波立つ白いしぶきの中に消えていった。