こめかみのあたりが、ちりちりと痛い。
たとえようのない気怠さの中から、沙弓は必死に這い上がろうとしていた。
「……う……」
自分のものとは思えないような低い呻き声。まるで喉の奥になにかが詰まったかのように息苦しい。なんだろう、やけに空気が薄くないだろうか。それでも一度、大きく息を吸って吐くと、少しだけ楽になった。
「――まあっ、気がつかれましたか! ああ、良かった……!」
ゆるゆるとまぶたを開いたものの、しばらくはいきなり飛び込んできた白い光が眩しすぎて目の前になにがあるのかすら判断がつかない。しかし、徐々に明るさに目が馴染んでくると、それが女性らしき人影であることが判別できた。
「誰かっ、……誰かすぐに若様にご報告を! 天からの使者様が目覚められたと……!」
「どこか痛むところはございませんか、すぐに気付けの薬湯などお持ちしましょう」
「お召し替えの準備も整っております、お食事はどうなさいますか」
複数の声に次々と呼びかけられても、すぐには反応することができない。それどころか、沙弓は今自分の目の前にあるものすべてを受け入れることができないでいた。
――これは……いったい。
暗闇の中を必死に逃げまどっているうちに、海に落ちてしまった。そこまでは覚えている。しかし、この状況をどのように説明したらよいものか。
今、沙弓のそばにいるのは赤や黒の髪を長く伸ばした女たち。しかも彼女たちは皆、まるで平安絵巻に描かれているような衣装を身につけていた。そして……なによりも驚かされたのは、その者たちの耳が魚のエラのように大きく広がっていること。
――あれは特殊メイクなんだわ、それではここは映画かなにかの撮影現場?
そういえば、この部屋の装飾も現代の住居とはまるで違う。朱色に塗られた柱には様々な文様が美しく彫り込まれ、部屋の隅に並んだ棚などもなかなかお目にかかれないほどの芸術品だ。
そう、建物そのものも時代劇の映画セットのよう。でも何故、自分がこのような場所にいるのだろう。
「――あ、あのっ、私は……っ!」
慌てて起き上がると、後頭部にキーンと鋭い痛みが走った。沙弓は思わず頭を抱えてしまう。
「いけません、急に動かれては! 徐々に慣らしていかなければお体に触りますよ」
着物の袖から伸びた手に制され、あっという間に元どおりに横たえられてしまう。どうも、自分の寝かされているのは足つきのベッドのようである。
「で、でも、私っ! そのっ、追われていたんです。あの男たちは何処へ? え、ええと、それよりも早く家族に連絡を入れないと――」
もしかしたら、すでに身元不明者として警察に連絡をしてくれてあるかも知れない。そうであっても、まずは家族に自分の無事を伝えなくてはならないと思った。昨夕、いつものように帰宅しなかったことで、どんなに心配しているだろう。
「お気を確かに、ここは安全ですから。追っ手の者など、たどり着けるはずもございません」
最初に声を掛けてくれた黒髪の女が、穏やかな口調で説明する。ちょうど沙弓の母親と同じくらいの年齢だろうか、笑うと目尻に小皺が浮かぶ。
「で、でもっ! だったら、電話を。携帯でもなんでもいいので、貸してください。私、自分の荷物をすべてあの車の中に置いてきてしまって――」
そこでまた、キンと強い痛みが沙弓の後頭部を襲った。
「とにかくは、落ち着いてください。……誰か、誰か早く薬湯の準備を」
耐え切れないほどの激痛に襲われながら、それでも沙弓はこの場所がどこか「違う」と感じていた。
女性たちの動きに合わせて、髪が衣がゆらりと舞い上がる。その動きが、まるでスローモーションのように緩やかなのだ。
自分の周りの空気がねっとりと身体にまとわりつくように重苦しく感じるのは体調が優れないせいかと思っていたが、それだけではないのかもしれない。
――なんなの、これ。いったい、どうなってるの……?
頭痛の上に精神的な混乱まで加わり、沙弓の心は大きく動揺していた。
まさか、この人たちもあいつらの仲間? みんなで私のことを監禁しているということ? こんな奇妙な姿をして、どういうつもり……!?
そう思ったらもう、いてもたってもいられない。沙弓は傍らの女性に食ってかかった。
「私っ、帰らなくちゃ! お願いっ、家に連絡させて。そうしないと、そうしないと……っ!」
どうにかして自分の意思を通さなくてはと、沙弓はベッドの上で暴れた。すぐに複数の腕がその動きを押さえつけようとする。しかも、もがけばもがくほど、さらに息苦しさは増していった。
「なんなのっ、あんたたち! 善良そうな顔をして、私のことを騙そうったってそうはいきませんからね。こっちはね、そこんじょそこらの金持ちのお嬢様とは訳が違うの。甘く見てもらっちゃ困るから……!」
周囲の女性たちの声が、強風に揺れる木々の枝のざわめきのように聞こえる。
――駄目、苦しい。息ができない。
「どうした、なにをそんなに騒いでいる」
そのとき。部屋の入り口の方から、初めて聞く声がした。若い男のもののようだ。沙弓はぼんやりと焦点の合わない目でそちらへと向き直った。
「……」
そこに立っていたのは、黒々とした髪を身丈よりも長く伸ばした麗人――いや、たぶんこの者は男性であるだろうから、この表現はふさわしくないのだが。和とも洋とも分類しがたい、神秘的な顔立ち。もしも普段の沙弓の言葉を使うとすれば「かなりのイケメン」ということになる。
「だ……誰?」
彼が着ているものも、これまたすごい。今まで見ていた他の女性たちの着物とは明らかに品物が違っていた。一番上に羽織っているのは金色を基調とした美しい一枚。そしてその下にも何枚もの着物を重ねているようだ。そう、いわゆる「十二単」のような重ね着である。
すると、沙弓と彼の間に、先ほどの黒髪の女性が割って入ってきた。
「まあっ、若様。年若い女人の部屋に軽々しく足を踏み入れてはなりません! ……誰かっ、こちらに衝立を運んできなさい……!」
しかし、男はその制止をもろともせず、強引に歩みを進めてきた。
「なにを言う、この者は私の客人ではないか。どうして、遠慮などいるものか」
形のいい眉がぴくっと動くのに反応して、群青色の耳が大きく揺れる。彼の歩みに合わせ、黒い髪が帯のようにあたりにゆっくりと広がった。
――な、なんなのっ、この人! 怪しいっ、あんまりにも怪しすぎる……っ!
目覚めた途端、奇妙な建物の中で奇抜な姿の人々に囲まれ、沙弓の平常心も揺らぎ始めていた。どうにかして気持ちを奮い立たせようと、自分の身体に掛かっていた布団を握りしめる。よくよく見ればそれも、豪華な刺繍をびっしりと施した超高級そうな着物であった。
「――鈴(すず)、人払いを」
運ばれてきた椅子に腰を下ろすと、男は威圧的な声でそう言った。
「で、でもっ、若様!」
「このような騒々しい中で入り組んだ話ができるか。お前は部屋に留まっても良い、だが他の者たちはすべて追い出せ」
「しかしながら、その……」
男と話をしているのは、やはり先ほどの黒髪の女性である。部屋にいる他の女性たちよりも年長に見えるこの人を、最初は男の母親かと思った。しかし、ここまでのやりとりから察するに、それはどうも違うようだ。
「私が客人に手荒な真似でもすると思っているのか、そんなはずはない。ここにいるのは百年の封印を解き扉を開けた者、この上なく丁重におもてなしをするのが当然であろう」
男が座っている椅子も、そして沙弓が寝かされているベッドも、かなりの値の張るものであることは間違いなかった。それだけではない、部屋にはそのほかにも普段の生活では見慣れないような道具がたくさん並んでいる。また、庭に面した間口には窓ガラスなどはなく、直に外を臨めるようになっていた。
「……あなた、誰?」
自分を置き去りに続いていく会話にしびれを切らし、沙弓はとうとう口を開いていた。気持ちを律したことで、不思議なほどに身体のだるさも頭痛も消えている。そうなれば、目の前の男の面差しもはっきりと見て取れた。
なるべく感情を抑えた声で訊ねると、男はぴくっと反応する。そしてまた、エラの耳がゆらりと揺れた。
「人に名を聞くときには、まずは自分が名乗るのが礼儀ではないのか。その言葉、そのまま返そう――お前は誰だ」
凛とした響きに斬り込まれ、沙弓は思わず口をつぐんでいた。言われてみればそのとおりである、しかし面と向かって言われるとやはり腹が立つ。
「沙弓、……海宝沙弓(かいほう・さゆみ)。海宝グループ会長の孫娘、って肩書きも付け加えた方がわかりやすいかしら?」
誰もが目の色を変える素性を明かしても、男は顔色ひとつ変えなかった。
「私は、華宴(カエン)。この海底国にあって、次期竜王となることが決まっている男だ」
「……え?」
沙弓は、思わず聞き返していた。
こちらは真面目な話をしているつもりである。それなのに、この男は冗談でも言っているのだろうか。口にした名前も本名とは思えなかったが、「海底」だの「竜王」だの、それこそ訳がわからない。
「あ、あんたねーっ! 人が大人しくしているからって、いい気になるんじゃないわよっ。カエンだかダエンだか知らないけどっ、とっとと電話貸して! そしたらすぐにここまで迎えの者を来させるから……!」
天下の海宝グループの直系である自分が事件に巻き込まれたのである、今頃はどんなに大変な騒ぎになっていることだろう。祖父母や両親の狼狽ぶりが目に浮かぶようだ、無事を知らせて早く安心させてあげたい。
「――それは、無理な相談だな」
しかし、華宴と名乗ったこの男は、沙弓の怒り任せの言葉にもまったく動じない様子。
「なっ、なんですって……!」
「当然だ、ここはお前たち風に言えば『海の底』なんだからな。……ま、諦めるんだな」
真面目な顔をしてとんでもないホラ話をする人間もいたものだ。沙弓はあまりに驚いてしまい、すぐには切り返すことができなかった。
「ち、ちょっとぉっ! なんなのっ、あんた! 少しは真面目に話をするつもりはないの!? それともなに? もしかして、やっぱ、あんたもあいつらの仲間? その格好、中国マフィアとか、そっち系のつもりなのっ、ばっかにするんじゃないわよ……っ!」
まずい、と思ったときにはもう遅かった。
大声で叫ぶと、たちどころに息苦しくなる。それがわかっていたはずなのに、ついつい我を忘れてしまった。すぐに、あの激痛が後頭部に走り、それ以上の言葉を発することも不可能になる。
「おいっ、落ち着け!」
「なに言ってんのっ、これが落ち着いて――」
ごぶっと、鈍い音の咳が出た。それに続いて、喉の奥から血の匂いがする。焼けただれるように熱い、どうしていきなりこんな風になってしまうのだろう。
男は崩れ落ちそうになる沙弓の身体を抱きかかえると、傍らの女性に言った。
「鈴っ、すぐに薬湯の手配を!」
「は、はい! ただいま!」
衣擦れの音が遠ざかっていくのを、夢の中の出来事のように聞いていた。そうしているうちにも、身体はどんどん熱を帯び、我慢の限界がやってくる。
――なにっ、なんなのよ、これ! もしかして、変な薬でも飲まされたりした? うん、そうに違いないから……
「まったくっ、どうなってるんだ、こいつは。本当に世話が焼けるったらないな……」
男の腕の中はひんやりとして、信じられないほど心地よかった。人の話を真面目に聞こうともしないとんでもない奴なのに、その腕に身を任せているだけで穏やかな気分になれる。
「おい、良く聞けよ。お前の身体は、本来ならばこの世界で生きながらえられるものではない。そのことを承知した上で、今後は無謀な行動は極力慎むんだな――」
男の長い指先が、沙弓の顎に触れる。そのまま上向きにされても、彼女にはもうそれを振り払うだけの気力は残っていなかった。
ごくっと息を呑む音が間近で聞こえ、その直後に唇が重なり合う。刹那、沙弓の脳裏に浮かんだのは風に揺れる一面の白い花畑だった。