TopNovel百年目の姫君*扉>海底編◇二

 自分の身に何が起こっているのか、それはわずかばかりに残った意識でなんとなく感じ取っていた。最初は曖昧だった感触が、次第にはっきりしてくる。
  ――なにやってんのよっ、コイツ! どうして、いきなりセクハラ……!?
  この状況を果たして「セクハラ」という言葉で位置づけることができるのかどうか、それには多少の疑問がある。ただ、混乱する意識とは裏腹に、息苦しかった呼吸が徐々に整っていった。
  いったいどうなっているのだろうか、この男はまさか魔術使い? それとも超能力者? 怪しげな見てくれと連動して、その行動までがあまりに不可解である。
  ……っていうかっ! こんなこと、断りもなくしていいの!?
「……あっ、あんたね! どさくさに紛れて、なにやってんのよ!」
  ようやく束縛が解け、大声で叫ぶことができた。どうせなら、その嫌らしい唇を噛み切ってやれば良かったと、あとから思う。
「こっちだって、やりたくてやってるわけじゃない」
  それなのに。
  男はいきなりの無礼を詫びるどころか、お前の方が礼儀知らずだとでも言いたげに睨みつけてくる。
「なっ、ななな……なんですって……!」
「そんな風に頭に血を上らせると、また先ほどのようなことになるぞ」
  吐き捨てるようにそう言うと、男は忌々しげに自分の髪をかき上げる。そうすることで、少しでも怒りを静めようとしているのか。
  しかし、沙弓としては無理矢理あのような目に遭った上にこのような態度まで取られたら面白くない。そうは思ったが、ここで取り乱しては駄目だと自分に言い聞かせていた。
  そして、男は改めて沙弓に向き合う。
「話には聞いていたが……あれしきのことでずいぶんと変わるものだな」
「え?」
「息をするのが楽になっただろう。お前たち、『陸』の人間には海底の気は重すぎる。それがわかったら、この先は行動に気をつけることだ」
  そう言い放った彼の瞳が、蔑むような色を帯びる。
「お前たちの世界では、助けてくれた相手に対して罵声を浴びせるのが礼儀なのか。まったく、野蛮な奴らだな」
「……な……」
  なにか言い返したいと思うのだが、上手く言葉が浮かばない。
  それに、さっきから「海底」「海底」と繰り返し言うが、ここが海の底であるわけがないじゃないか。人間が水の中で普通に生活するなんて、おとぎ話やファンタジーの中だけの話と決まっている。
  すると、そんな彼女の心の中を読んだように、美しすぎる男が言う。
「まだ、解せぬという顔をしているな。物わかりの悪い女だ」
「なっ、……なんですって……!」
  沙弓だって、ある程度の常識は身につけているつもりだ。ときには自分の感情を押し殺して過ごすことも必要だと知っている。だが、ここまで馬鹿にされて「はいそうですか」と黙って引き下がることなどできない。
「あっ、あのね! こっちが大人しくしてるからって、いい気になるんじゃないわよっ。やっぱり、あんたもあいつらの仲間でしょ。いい加減なこと言って煙に巻こうったって、そうは行かないんだから……っ!」
「おいっ、黙れ! また息が上がるぞ……!」
  その忠告を、もう少し前に聞きたかった。少し大声を出しただけで、信じられないくらいの体力が消耗する。それは疲労が溜まるというよりも、身体のどこかに穴が開いていてそこから体力が抜け落ちていくという表現の方が似合っている。
  沙弓は崩れる身体を男の腕に任せ、朦朧としていく意識と必死に戦っていた。
「若様、お待たせいたしました!」
  と、そこに、先ほどの女性が戻ってくる。その手には湯飲みほどの大きさの器があった。
「鈴、遅いじゃないか。早く、それをこちらへ」
「申し訳ございません、薬師(くすし)様が東所の方へお出でになっていて、暇が掛かってしまいました」
  器の中には、甘酒のような白い液体が入っていた。
「飲め、楽になるぞ」
  そうは言われても、やはり躊躇してしまう。これが毒薬でないという保証はどこにもない、もっとひどい状態になる可能性だっておおいにあり得るのだから。
「……や……」
  必死に首を横に振るが、その間にも沙弓の身体からはどんどん力が抜けてくる。
「まったく、強情な女だ。どうして言うことを聞かない、死にたいのか!」
  男の目は真剣だった、こんな眼差しで嘘偽りを言える人間がこの世に存在するはずもないと思えるほどに。
  ――このままではどうにもならない、どっちにせよ地獄行きだわ……!
  沙弓は意を決して、器の中の液体を飲み干した。そうするにも男の介添えが必要だったが、今はそのことを気にしている場合じゃない。
  液体が胃に流れ込んでいくのと同時に、それまでの不快感が嘘のように消えていく。しかし、それと同時に沙弓の意識は徐々に途切れていった。

 次に目が覚めたとき、窓の外はもう薄暗くなっていた。部屋の中は明るいが、天井のどこにも灯りらしきものは見あたらない。
  ――あの男は? それに何人もいた女の人たちも何処に行ってしまったのだろう。
  再び目を開けたそのときには元の世界に戻っているのではないか。沙弓の期待ははかなくも破れた。しかし今は、そんなことにいちいち落胆している場合ではない。
  身体はとても軽く、あっさりと起き上がることができる。胸のつかえも取れ、とても快適であった。
「……この服……」
  そのときになって初めて、沙弓は自分の着衣が改められていることに気づいた。そういえば、最初にここで目覚めたときにもなんとなく違和感があった。だが、あまりに周囲の状況や自分に関わる人々が異様すぎ、そこまで気が回らなかったのである。
  白い衣は羽のように軽く、沙弓の動きを少しも妨げなかった。身体をずらしベッドから下りてみたが、歩きづらくはない。腰から下は袴のようになっていて、これも色は白。昼間見た女性たちも皆、色はそれぞれであったがこのようなものを身につけていたことを思い出す。
  ――やっぱり、なにか変。ここはいったい、どこなの……?
  あの男の言葉を、そのまま鵜呑みにすることなどできなかった。ここが海の底であるはずはない、そんなの小さな子供だってわかる。
  だが、そうであるなら、心にまとわりつくようなこの違和感をどうやって説明しよう。身体の動きに合わせて、ゆらゆらと舞い上がる髪、服の袖や裾。そのすべてがスローモーションのように緩やかな揺らぎを見せているのだ。
  部屋を満たす灯りの正体もすぐにわかった。壁際に身丈ほどの細長い台がいくつも置かれ、その上で蝋燭の炎が揺れている。飴色の輝きはあまりにも幻想的で、部屋の装飾も昼間とはまったく違うものに見えた。
「――目覚めたのか」
  どこからか、凛と響く声がした。
  沙弓があたりをぐるりと見渡すと、その声の主はひとり庭先に立っている。あの偉そうな物言いをする男ではないか、彼もまた服を改めていた。上は沙弓と同様に白い着物で、下に着けた袴は藤色である。そして肩からはもう一枚、向こうが透けるほどの薄衣を掛けていた。その上を、しっとりとした黒髪がさらさらと流れていく。
  ――これはどこかの民族衣装? それともただの仮装? 男のくせに髪をこんなに長く伸ばして、馬鹿みたい。
  異様な男の姿を眺めながら、沙弓は心の中でそんな風に呟いていた。同時に妖艶な美しさもたっぷりと感じ取っていたが、そのことを自覚するのは悔しすぎてできない。
「気分はどうだ、だいぶ楽になっただろう」
  沙弓の心内を知ってか知らずか、男は抑揚のない声でそう続けた。
「え、ええ。……おかげさまで」
  不本意ではあったが、とりあえずは礼を口にする。しかし、なんともいえない気恥ずかしさに、男の顔を直視することができずに目をそらす。
「そうだな、顔色も良くなったようだ」
  彼は窓のすぐそばに立っていた。その場所は花園になっていて、膝丈ほどの赤い大輪の花が揺れている。ほらまただ、と沙弓は思う。心を惑わす催眠術のような動きが、無理矢理に気分を落ち着けさせようとしているようで嫌だ。
  理由はわからない、でもどうにも受け入れがたい「なにか」がこの場所にはある。沙弓の心の一番奥にある感覚が、目に映るものや肌に触れるもののすべてを拒否していた。
「そ、その……私、とりあえず家族と連絡が取りたいんですけど。電話、貸してくれませんか。可能なら、今からでも迎えを呼びますから」
  昼間にも同じことを訴えて拒否されている。しかし、そうであっても、このことが今の一番の望みであることには違いない。
「また、その話か」
  薄闇の向こうで、男は少し眉をひそめた。
「それはできない相談だと言っただろう。まったく、物わかりの悪い奴だな」
「で、でもっ……」
  男が短く溜息をついたのがわかった。沙弓は唇を噛みしめる。
「お前はまだ信じていない様子だが、ここは紛れもなく海の底。お前が今まで住んでいた場所とは遠く離れた地だ」
  また、その話か。沙弓が怒りを込めた表情で向き直ると、そこにはこちらをまっすぐに見つめる闇色の双の瞳があった。
「なんらかの理由で海に落ちたのだろう、そのことは覚えているな」
「ええ、……それは」
「そしてお前はこの地に辿り着いた。普通ならとっくに死んでいるはずだ、その幸運に感謝しろ」
  表情をまったく崩さず、あまりに信じられないことをのたまう。沙弓はカッとした。
「またその話? ……いい加減、聞き飽きたわよ!」
  ポーカーフェイスを装っているとすればあまりに見事であるが、口にしている言葉があまりに突拍子もないため、残念ながら現実味はまったく感じられなかった。
「あのね、どんな大仕掛けで私を騙そうとしたって無駄。だって、ちょっと考えればわかるでしょう。もしも、あんたの言うとおりにここが本当に海の底だとする、だったらあんたたちはどうして生きてるの? 普通に息をして生活してるわけでしょう、そもそもそこからして矛盾してる!」
  我ながら、なかなか鋭い指摘だと思った。真面目に議論するのも馬鹿馬鹿しくなるような話題だったが、相手が理詰めで来る以上、こちらも真剣に返さなくてはならない。
「……本当に、どこまでも頭の固い女だな」
  それなのに、男は白旗をあげるどころか、呆れてものも言えないとでも言わんばかりに額に手を当てる。
「お前のような石頭にはなにを言っても無駄だとは思う。だが、この話は冗談でもなんでもない、ひとつ残らず真実だ。そのことに早く気づかないと、今度こそ命取りになるぞ」
「……は?」
「この地は古(いにしえ)より竜王の護る結界に包まれた王国。そしてお前は、百年の封印を破り、扉の向こうからやってきた。この国の未来を握る使者として。竜王家の、そして海底国すべての民の行く末がお前に掛かっているのだ。この話を信じる信じないは関係ない、だが私の口より語られることに嘘偽りはない」
  それはまるで、耳からではなく心の中に直接落ちてくる真実の声のように感じられた。信じるわけにはいかない、だが疑う理由もない。
「そ、そんな馬鹿な。そんなこと、あるわけないじゃない……!」
  沙弓は大きく首を左右に振ると、震える声で叫んだ。
「私っ、帰らなくちゃならないのに。早く帰って、家族を安心させなくちゃ。ねえっ、帰して。帰してってば……!」
  沙弓はテラスのようになった場所から外に出ると、男に食ってかかった。
「おいっ、落ち着け! あまり騒ぐと、また昼間のようなことになるぞ」
  ふたりの間に気流が起こり、男の長い髪があたり一面に散らばっていく。その様子を見て、沙弓はよく見ていたある光景ととても似ていると思った。
  ――ああそうだ、ここはまるで水槽の中のようだ。
  自宅のリビングには父親が育てている熱帯魚の水槽がいくつも置かれていた。そのガラスに四角く閉ざされた中では、魚たちの泳ぎに合わせて水草たちが絶えず揺れている。
  そう……まるで今目の前で見ている、この光景と同じように。
「昼間の話の続きをしてやる、夜の方が『気』が重い。少しばかり動揺しても、身体にあまり支障がないだろうからな」
  男はそう言って、くるりときびすを返す。
  身につけている衣のせいだろうか。その動きのひとつひとつが、見事な舞のようだと沙弓は感じていた。

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