TopNovel百年目の姫君*扉>海底編◇三

 本当に、ここは「海の底」なのだろうか。いくらそれが真実だと言われても、鵜呑みにできるはずもない。二十一世紀の今日、海底探索はかなり進んでいるだろう。もしも本当にそんな場所があったのなら、とっくに発見されていてもいいはずだ。
  しかし、すべてを冗談で片付けてしまうには不可思議なことが多すぎる。気圧が違うのだろうか、ここは空気が薄く、普段どおりに行動しているつもりでもすぐに息が切れてしまう。さらに強く動転したりすれば、たちどころに呼吸困難に陥るのだ。
  空間を満たしているものも、普段触れているのとはどこか違う。ねっとりとして肌にまとわりつくこの感覚は、水中を漂っているときと少し似ていた。
  ――私、……もしかして夢を見ているの? それとも、ここは天国?
  男は沙弓を窓のそばの椅子に座るように促した。そして、傍らのテーブルにグラスをふたつ置くと、そこになみなみと紫色の液体を注ぐ。
「野葡萄の酒だ、気持ちが休まるぞ」
  男はそう告げると、先に自らがそれに口をつける。上手そうに飲み干していくのを見て、沙弓も恐る恐るグラスを手にした。甘い香りがワインに似ている。
「……美味しい」
  その飲み口は軽く、驚くほどにフルーティであった。男は沙弓の反応に満足した様子で、少し目を細める。しかし、すぐにまたその表情は硬くなった。
「さあ、……どこからなにを話したらいいものか」
  男は背もたれに身体を預けると、ふうっと大きく息を吐く。それだけのささやかな動きで、彼の髪が柔らかく舞い上がった。
  男女にかかわらず、ここまで髪を長く伸ばした姿を沙弓は直に見たことがない。探せばどこかにそのようにしている物好きもいるかも知れないが、とんでもない変わり者であろう。
  背中の中頃まで伸ばした沙弓の髪は、この男ほどは黒くない。カラーリングなどはしていない天然のままの色なのだが、標準よりずいぶん明るいと言われていた。頻繁にかかりつけの美容院で手入れをし、自宅でも毎日のケアは忘れないが、それでも美しく保つには相応の努力が必要だと思っている。
  しかしながら、男のこの髪はどうしたことだろう。滑らかに艶やかに流れ落ちるその様は見事なばかりで、鬱陶しさの欠片もない。髪の量も多すぎず少なすぎず、理想的であった。
「え、ええと……」
  美しい黒髪に惑わされている場合ではなかった。今、自分たちは話し合いの席についているのではないか。沙弓は姿勢を正すと、できるだけ落ち着いた口調で続けた。
「ここが海底であろうと、他のどんな場所であろうと、それは構わない。私の要求は、一刻も早く家族との連絡を取ること、そして自宅へ無事戻ること」
  とても簡潔に、こちらの願いを伝えることができたと思う。この男はすべての手段を知っている。そんな確信が沙弓にはあった。
「……またその話か。正直に話そう、今すぐにお前の願いを叶えることは難しい。だが、永遠にその機会が訪れないわけでもない」
「それはいったい、どういう意味なの?」
「お前には果たさねばならない使命がある」
  沙弓を見つめる男の瞳は、信じられないほど澄み渡っていた。
「封印の扉は誰にでも開けられるものではない。この地まで流れ着くことのできたお前には、海底国の危機を救う力が宿っているのだ」
「は、はあ……」
  またもや現実離れした話題になってしまった。しかし、相手の口ぶりがあまりに真面目であるから、冗談で片付けることもできない。
「この海底の地が結界で護られているという話はしたな。その結界を司っているのが竜王と呼ばれる者だ。今現在は私の祖父の末弟に当たる御方がその地位に就いている。かなりのご高齢であるために、一刻も早い譲位が必要だ。しかしながら、私にはまだ竜王なるべき力が宿っていない――正確には、潜在的な能力はあるが、それが開花していないらしい」
  なにやら、非科学的な話になってきた。竜王の司る「結界」? その潜在的「能力」って……?
「ええと、じゃあ……私はこの先どうすればいいの?」
  許容範囲に超える情報はすっ飛ばし、結論に到着すればいいというのが沙弓の生き方だった。最後に辿り着く場所さえわかっていれば、そこまでのルートなど多少間違っていても構わない。
「それがわかれば苦労はしない、今回の話を伝えてきた占い師もそこまでは読めないと言った」
「え、えええっ……!?」
  なんて無謀なことを。しかも男の話はここで終わらなかった。
「異形の者であるお前がこの地に留まれるのは次の新月まで。その日までにすべてを終え、お前はこの地を去ることになる」
  沙弓は自分の背中を生ぬるい汗が流れていくのを感じていた。
「じ、じゃあ、……その日までにどうにもならなかったら、そのときはどうなるの?」
「そうだな、この世界は滅び、お前も海の藻屑と消えるだろう」
  真顔できっぱりと言い切られてしまっては、こちらも返す言葉がない。だが、どうにも納得できない話だ。
「でっ、でも! それって、そっちの勝手な都合でしょ? 人の力なんて借りようとしないで、あんたが自分自身で『能力』とやらを身につければいいじゃない。自分じゃどうにもならないからって、その責任を私に押しつけるなんて絶対に間違ってる!」
「……お、おいっ、落ち着け!」
「これが落ち着いてなんていられますか……っ!」
  また、やってしまった。
  ヤバイと思ったときにはもう遅い、信じられないほどの息苦しさが喉を覆い尽くす。
「た、助け……」
  自らの胸ぐらを掴んでうずくまったところで、逞しい腕に抱き取られる。二度目の行為となれば迷いもないのか、男はすぐに唇を重ねてきた。

「お目覚めにございますか、薬湯をお持ちいたしました」
  柔らかな声にまぶたを開けると、目の前にいつもの黒髪の女性が立っていた。手には昨日見たのと同じような器がある。
「ご気分はいかがでございましょう、お顔の色はだいぶよろしいようですね」
  この女性はあの男から「鈴」と呼ばれていた、それが名前なのだろうか。
「は、はあ……」
「すぐに朝餉の膳も運ばせましょう、お食事の前にお召し替えも済ませてしまった方がよろしいですね」
  そう言って、当然のようにこちらの着衣に手を掛けてくるので慌ててしまった。
「いえっ、あの……着替えなら自分ひとりでできますから……!」
  自宅にも身の回りの世話をしてくれるお手伝いさんは何人もいる。だが、その人たちにも着替えまでは任せていなかった。
「……左様にございますか、ではお召し物はこちらに置いておきますね。しばらく次の間におりますので、ご用がありましたらいつでも呼んでください」
  沙弓はゆっくりとベッドの上に身を起こし、額に軽く手を当てた。
  昨夜の記憶が途中で途切れている。あの男との会話の途中にまた取り乱して、そして――そのあとのことがなにひとつ思い出せない。
  ――でも、あれは夢ではないわ。
  何故かはわからないが、そんな確信があった。ということは、あの場で聞いた話もすべて真実だということになる。
「私がこの世界の運命を握っているって? そんな話、どうやって信じろというの」
  あまりぐずぐずしていると、ひとりでは着替えられないと思われてしまうかも知れない。まずはやることからやろうと、沙弓は甘い薬を一気に飲み干して着替えを開始した。
  着付けの心得はあり、ひとりでもほとんどのことはできる。ふだん身につけているものとは形状が違うが、順に重ねていけばそう難しくはない。薄紅の着物に葡萄色の袴、その上に桜色の衣を羽織るらしい。
「……すごい、こんなところにまで細かく刺繍がしてある」
  袴の裾をつまみ上げて、沙弓は感嘆の溜息をついた。このように細密な手仕事を施すには、どれだけの時間が掛かるのだろうか。そう思うと、身につける一枚一枚がとても値打ちのある品のように思えてくる。
  やはり、この土地は今まで自分がいた世界とはどこか違う。世界は広いのだから、探し回ればこのような文化を持った国もあるかも知れない。でも……あの男の話もあながち嘘ではないのではないかと沙弓は思い始めていた。
「ちゃんと最後まで話を聞くべきだったかな……」
  そうは思っても、あとの祭り。それに、あの者の口ぶりはいちいち偉そうで、こちらを馬鹿にしているような態度も鼻につく。沙弓とて、ぎりぎりのところまでは我慢しているつもりだが、やはりものには限界があるのだ。会話が途中で破綻してしまうようでは、お互いが話し合いの相手にはふさわしくない。
  運ばれてきた朝食は、小振りの器がずらりと並び、そこに一口ずつの菜が彩りよく盛りつけられていた。主食は雑穀米のようである。漬け物や川魚の甘露煮など、多少の古めかしさはあるがどれもとても美味しい。よくよく考えたら、昨日は一度も食事を摂っていない、自分でも驚くほどの食欲が湧いた。
  膳を下げに来た女性もそのことに気づいたのだろう、嬉しそうに顔をほころばせる。
「もしも、こちらのお食事がお口に合わなかったらどうしようかと思っていました。きちんとお召し上がりいただけて、ホッとしております」
  この言葉を素直に受け取ってしまってもいいか、沙弓は悩んだ。年頃の娘として、ひとつ残らず綺麗に平らげるよりも、いくつか箸をつけずに残した方が良かっただろうか。まあ、過ぎてしまったことは仕方ない。
「え、ええと……」
  この人が食事の膳を持って下がってしまったら、またひとり残されてしまう。その前に、いくつか確認しておきたいことがあった。
「昨日の男の人は? 今朝は姿が見えないけれど」
  鈴という名の女性は、おやおやという顔になった。
「ああ、若様ならば、昼餉まではご公務に就かれています。ただいまの竜王様は若様の大叔父に当たる方ですが、ご高齢であります故に表向きのことはすべて若様が取り仕切っていらっしゃいます。なにか、急ぎお伝えしたいことがございますか?」
「あ、いえ――」
  沙弓は慌てて首を横に振った。
「それならば、あなたでも構いません。その……、この土地のことを詳しく教えてくれませんか。私、まだ知らないことばかりで、とても戸惑っているんです」
  そうだ、なにもあの男だけに訊ねる必要はない。また、言い争いになってしまうのがオチだ。二度も失敗したのだから、今度こそ心得なくてはならないと思う。
「あなた様のお出でだった場所は、こちらとは違うのですか? ……ああ、そういえばお召し物もずいぶん違っていらっしゃいましたね。金物の装飾など、わたくしどもの見たこともないもので皆で感心していたのですよ」
「は、はあ……」
  金物の装飾とは上着についていたファスナーのことだろうか。この土地の人は古風な言い方をするので、頭の中でいちいち自分にわかるように切り替えなくてはならないのが困る。
「本日は穏やかな陽気ですし、このあと表庭などをご案内しましょう。そこでいろいろとお話ができると思います」
  鈴は穏やかな口調でそう告げると、包み込むような柔らかい笑みを浮かべた。

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