表に面した出入り口から外に出てぐるりと見渡せば、建物の前に広がる庭園は驚くほど広大なものであった。視界の向こうまで住居らしい建物は見あたらず、目に映るのは美しく整えられた草木に色とりどりの花々。そして、右手奥の林は鮮やかなピンク色に染まっている。桜の花にしては色が濃いが、それならばどんな種類の樹木なのだろうか。
「ここも春……」
待ち望んだ季節に一斉に色づいたように見える風景を目の当たりにして、沙弓は思わず呟いていた。木々の枝にも薄緑の若葉が揺れている。空は白く霞み、何処までも遠く続いていた。薄紫に煙る山並みとの境は、翡翠色にぼやけて見える。
自分が元いた場所も、新年度が始まったばかりだった。大学も二年目ということで勝手はわかっていたが、学年がひとつ上がったことで専門科目も増えて慌ただしい。こんな場所でのんびりしているわけにはいかないのだが、戻る手段がわからないのだから仕方なかった。
こちらの心内も知らず、おっとりとした笑顔が沙弓を見つめる。
「ええ、この数日ほどで見違えるほどに春めいてまいりました。とくに向かって左手は春の御庭ですから、その美しさもひとしおです。ここは竜王様とそのご一族が住まう御殿になります、公式な
そこまで告げると、鈴はくるりと後ろを振り返った。
「竜王御殿は、向かって右手が竜王様のお住まいになる『東所』、そして左手が地方の要人が都入りをしたときにお泊まりになる『西所』。それから、今わたくしどもが出てまいりましたのが『南所』と呼ばれる対になります。こちらには次代の竜王となるべき方がお住まいになります」
建物は「御殿」という名にふさわしく、大きな鳥が左右に羽を大きく広げたような造りになっていた。平屋で屋根瓦は虹色に輝き、朱色の柱に白い壁。その細部に至るまで美しい装飾が施され、その荘厳さは息を呑む程だ。
――これが映画のセットであるなら、ずいぶんと金と手間暇を掛けているということになるわ……
どこの馬鹿な金持ちが、ここまでの散財をするのだろうか。目に映るすべてを未だに真実として受け止めきれない沙弓には、なにもかもが滑稽に思えて仕方なかった。
もちろん、なかなかに趣向を凝らした見事な装飾であることは認める。だが、ここまで本格的にする必要がどこにあるのだろうか。
沙弓が戻るべき自宅も大邸宅と言われる類で都心の一角にあるとは思えないほど広々していたが、ここにはあの家が敷地ごとすっぽりと収まっても、まだ倍以上のゆとりがありそうだ。しかもただ大きいだけではない、なんともいえない「風格」を感じさせられる。
そう、長い時間を雨風に晒され、そのことがさらに建物の歴史的価値を与えているような……いうなれば「わざとらしくない、自然な年季の入り方」なのだ。これもずいぶん腕のいい職人でなければできない仕事である。
歩くたびに揺れる髪も着衣も、やはり独特の動き方をしている。湿度が高いときにこのような感覚に触れることもあるが、それにしては肌触りが心地よくまとわりつくような不快感にはほど遠い。
やはりなにかが違う、ここは今まで住んでいた場所ではない。でもそれを認めてしまっては「負け」のような気がする。
「たいそう難しいお顔をなさっていますね。あなた様の――『天からの使者』様のお住まいの場所とこちらとは、それほどに異なっておりますか?」
その不可解な言葉を聞いて、沙弓は立ち止まった。
「『天からの使者』……確か、昨日も私をそう呼んでいたわね」
そういえば、昨晩にあの男が言っていた。沙弓が「封印の扉」を開けた者だと。「天」とは沙弓が今まで住んでいた地上のことを指しているのだろうか。
「お気に召しませんか、わたくしどもは便宜上そのように呼ばせていただいているのですが」
沙弓の言葉がきつく響いたのだろう、鈴は慌てて説明する。
「使者なんて、大袈裟な……」
そのような存在に祭り上げられても迷惑なだけである。沙弓は頭を抱えてしまった。だが、この状況が続くのだけはどうにか阻止したい。そう思って、再び口を開いた。
「あのね、私には『沙弓』って名前があるの。そう呼んでもらえないかな、……それに私はあなたたちが考えているようなすごい人間じゃないし」
百歩譲って、ここが本当に海底の王国だったとして。そうだとしても、いきなり連れてこられて特別扱いをされても困る。
「きっとこれは、なにかの手違いだと思うの。だから私、あの人の手が空いたらもう一度よく話し合って、そのことを理解してもらうつもりよ」
こんなこと、わざわざ説明するまでもなく、すぐにわかることだと思う。
「沙弓様……」
しかし、鈴はとても悲しい目で沙弓を見つめた。
「扉は開かれてしまったのです、百年の封印が解かれてしまった以上、もう後戻りはできません。そのことだけは、最初にきちんとご承知いただかないと……」
その瞬間、それまで光り輝いていたはずの庭が、すっと無彩色に変わった気がした。
「あなたまで……そんなことを言うの?」
沙弓は湧き上がってくる怒りを、どうにかして抑え込もうとしていた。ここでまた、感情を露わにしては困った事態に陥ってしまう。
「そっちの都合ばかり押しつけられても困る。私にだって、いろいろあるんだから」
本当は、今すぐにでも家に戻りたい。さもなくば、せめて家族に連絡を取りたい。でもそれはできない相談だと言われる。これではいつまで経っても堂々巡りだ。
目の前にいる人の良さそうに見える女性が、果たして自分にとって味方なのか敵なのか。まず、そこからして判断がつかない。立場柄、年少の頃より人を見極める手腕には優れていた。いや、そうでなければ、やっていけなかったとも言える。
事実、誘拐事件に巻き込まれたのも、今回が初めてではない。過去にも何度か、危ういことはあった。だから簡単には人を信じることはないし、自分の第六感とやらもあまり信用してない。
――でもまずは、どこかに足がかりを作らなくては……
「沙弓様――少しばかり、こちらのお話をしてよろしいでしょうか」
鈴はこちらの顔色をうかがうように、静かに言った。
「わたくしどもの話をにわかには信じがたいことはもっともです。正直、わたくしも――天上の国があると人づてには聞いておりましたが、こうして沙弓様にお目に掛かるまでその話が真実であるとは考えていなかったようです。ですから、ただいまとても戸惑っております」
ふたりの置かれた立場をきっちりと分けるように、緩やかな流れが通り過ぎていった。
ここが「海底」であること。そして、なにかの偶然によって、自分が流れ着いてしまったこと。
そんな寓話のような説明を果たして鵜呑みにしても良いものか、沙弓は未だに戸惑っていた。そうであっても、まずは相手の話をきちんと聞かなくてはならない。あの男に対するときのように、簡単に言い争いになっては駄目なのだ。
「そう、……ではあなた方も私と同じ気持ちでいるのね」
鈴は小さく頷くと、まっすぐに澄んだ目で沙弓を見つめた。
「それでも……こうして沙弓様がいらしてくださったことは、大変嬉しく思っています。あなた様はわたくしどもにとって希望の光、なくてはならない御方なのです」
また、そんな風に言う。特別扱いされたところで、こちらにはなすすべなどなにもない。沙弓は小さく溜息をついたあと、ぐるりと頭を回してしばし思案する。とにかくは考えをまとめなくては始まらない。もしもわからないことばかりであっても、少しずつ謎を突き崩していくしかないのだ。
「この場所は、竜王と呼ばれる人が『結界』を張っていると聞いたわ。ということは、その外は普通に海なの? どうして、今まで誰にも見つからずにいたのかしら」
考えれば考えるほど、解せないことばかりだ。だから、その疑問をすべてぶつけてみた。沙弓はもともと、回りくどいことが嫌いなのである。
「たぶん、そうなのだと思います。年少の頃より結界の外はもちろん、その境界近くの気が薄くなった場所にも決して近づいてはならないときつく言われていました。外から見たら……どうなのでしょう。ただ、竜王様の護られている結界はかなり特殊なものであると聞いておりますから、隠れ蓑のような効果があるのかもしれませんね。わたくしにも詳しいことはご説明できませんが……竜王様の元には結界を護る『宝珠』があると聞いています」
「結界を護る……宝珠?」
またもファンタジックな話になってきた。少し眉をひそめた沙弓に対し、鈴は曇りのない声で続ける。
「ええ、歴代の竜王様はその『宝珠』の輝きを護り、この海底国を統治していらっしゃいます。その地位に就くには特別の能力が必要で、どなたでも叶うというものではございません」
そこまで告げたあと、鈴は辛そうに目を伏せた。その姿から、なにかを深く思い悩んでいる様子であることがわかる。
「若様は……ただいま、とてもお辛い立場におられるのです」
――ああ、あの男が話していたのはこのことだったのか。
彼は言った、自分が次の竜王となるべき者だと。ただ、まだその時期が来ていないとも。
「あなたは、あの男とはどういう関係? ただの世話役というわけではなさそうね」
これ以上の話を、この者の口から聞くのは酷だと思った。だから、咄嗟に話題を変えてみた。すると、鈴は明らかにホッとした顔になる。
「わたくしは若様の
「……侍女?」
また聞き慣れない言葉を耳にした。昔の宮中の役職にそのような名称があったような気もするが、記憶も曖昧である。
「ああ、そちらもご存じありませんでしたか。この御館の使用人は様々な役職に分かれておりますが、竜王家の方々を直接お世話する者たちの男は『侍従』、女は『侍女』という名称で呼ばれています。その多くは、海底国全土に点在する各集落より出仕した者たちです」
「ここの他にも、人々が暮らす場所があるということね」
それではいったい、「海底国」全体ではどれほどの広さがあるのだろう。話で聞いただけでは、まったく想像がつかない。だが、かなりの規模になることは間違いない。そのすべてに張られる「結界」とは、いかようなものなのだろうか。
「ええ、大小それぞれですが、二十ほどの集落から成り立っています」
いくら頭をひねって考えても、やはり世迷いごとのようにしか思えない。今まで聞かされたことのすべてが作り話だと言われた方がよほど納得できる。
「しかし、ただいまは各地に疫病が蔓延し、ゆゆしき事態に陥っております。すべての矢面に立たされた若様におかれては、そのご心痛は相当なものであるとお察し申し上げます。表向きはなにごともないように振る舞われていらっしゃいますが、お心内では……手前どもではなにもお助けすることができず、誠に口惜しいばかりです」
「そう? とてもそのような悩みを抱えているようには見えなかったけど」
口を開けば、こちらの神経を逆なでするような発言ばかりをするし、それにも増して耐え難いのはあの人を小馬鹿にしたような眼差しだ。あんな不躾な目で自分を見つめる人間が、未だかつて存在しただろうか。思い出すだけで、新たな怒りがこみ上げてくる。
「それでも……このままなにもできずに手をこまねいているのも嫌なのよね。まあ、協力できることがあれば、手を貸してもいいと思うわ」
空の色も、草木の姿も、今までいた土地のものとほとんど変わりはない。ただ明らかに違うのは、このねっとりまとわりつくような特殊な空気。この土地の者が「気」と呼ぶそれだ。
ここが水の中であると仮定すれば、すべてのつじつまが合う。しかし、そのことをはっきりと認めるのも癪だった。
「沙弓様」
鈴が躊躇いがちに呼びかけてくる。
「若様はお寂しい御方なのです、ご自分のお気持ちを周囲の者に伝えるのもあまり得意ではございません。きっと、そのような方法を知らずにお育ちになってしまったのでしょう」
まるでそのすべてが自分の責任であるかのように、鈴は寂しげに微笑んだ。