TopNovel百年目の姫君*扉>海底編◇六

 身に付けていたはずの腕時計は、いつの間にか時を止めていた。携帯その他の荷物のすべては連れ込まれた車の中に残してきてしまったから、今ではもう自分の感覚に頼るしかない。
  先ほど、男は「半刻」と告げた。確か「刻」というのは昔風の時間の単位だった気がする。自分の使っていた現在の数え方に換算するとどれくらいになるのかはっきりとはわからないが、それが十分や二十分ではないことは確かだ。
  言いたいことは山のようにあるのだが、思いつくままに口にしていたらまたけんか腰になってしまう。その先にあることを考えたら慎重になるしかなかった。
  ――なんで、こんな奴と何度もキスしなくちゃならないの。そんなの、絶対に嫌、許せない……!
  そうはいっても、相手も好きでやっているわけじゃないということはわかっている。あれはいわば「人工呼吸」の一種なのだろう。そのあとは嘘のように呼吸が楽になり体調が改善する、三度の食事のときに出される薬湯などよりもずっと効果があった。
  しばらく歩いたのち、沙弓はふたたび口を開く。
「あのね、私は一刻も早く家族の元に戻りたいの。だから、やらなくちゃいけないことがあるなら、さっさと片付けてしまいたいんだけど」
  物騒な誘拐事件に巻き込まれ掛けたのだ、とても穏やかな状況とは思えない。最近はきな臭い出来事が続いていた。今は沙弓の父に社長の椅子を譲り、会長職となった祖父の周辺も騒がしくなっていると人づてに聞いている。大好きな祖父に危害が及ぶことなど、あってはならないことだと思う。
  元は小さな町工場で下請けの部品を作っていたのだという祖父は、ヒット商品の開発に着手したのがきっかけで成功者への階段を駆け上がり始めた。海宝グループといえば、誰もが認める国内有数の複合企業である。ただ、そこに至るまでには様々な幸運も重なり、それを妬んでいる人間も少なくないらしい。
「そりゃ、あんたになにを話してもわかってもらえないだろうけど……」
  敵か味方かも定かではない相手に自分の胸の内を語る気にもなれないが、こちらが悠長に構えている場合じゃないことははっきり伝えておきたい。
  気ままな野歩きになど付き合っている暇はないのだ、もしも「手段」とやらがわかっていないなら、どうにかしてそれを見つけたいと思う。
「話したくないことを、無理に聞き出すつもりもない。それにお前の都合など、こちらにはどうでもいいことだ」
  とりつく島もない返答に、抑え込んでいた怒りもこみ上げてくる。
「なにそれ、とても人にものを頼む態度じゃないわね。あんたって、いったいどんな育てられ方をしたの? まったく、親の顔が見てみたいものだわ」
  おおかた、たくさんの世話役に囲まれてちやほやされ続けてきたのだろう。その手の使えない男たちは、数え切れないほど見てきている。実家の家柄や資産を我がもののように自慢する馬鹿者どもだ。甘やかされるだけ甘やかされて、性根まで腐りきっている。
  出会って間もない相手にここまでの物言いもどうかと思ったが、ついつい本音が出てしまった。
「親の顔……さすがにそれは見せることはできない」
  沙弓の方へと振り返ると、なんでもない調子で言った。
「私の両親は、すでにこの世の者ではないからな」
「え……」
  あまりにもあっさりと返されたため、もう少しで聞き逃してしまうところだった。
「別にそう驚くほどのことではないだろう、よくあることだ」
  抑揚のない声からはなんの感情も伝わってこない。これでは、どんな反応をしたらいいのか迷ってしまう。
「そ、そう。……悪かったわね、変なこと聞いて」
「お前の方はどうなんだ、家族は多いのか。これほどまでに帰りたがるのだから、よほど仲が良いのだろうな」
  ゆったりと広がる田園風景、そこに佇む長い黒髪をなびかせる男。金糸銀糸を織り込んだ優美な着物がゆっくりと流れ、その下に身につけた黒袴の刺し文様を美しく煌めかせる。
  ――なんか本当に……この世のものじゃないみたい……
  とくにビジュアル系が好きとか、そういう訳じゃない。でも、美しいものはどうしたって美しい。他のなににも変えようがないのだ。
  しばらくは返答することも忘れて、その姿に見入ってしまった。そんな自分に気づいて、急に恥ずかしくなる。
「両親と、年の離れた兄がふたり。それから、祖父母も一緒に住んでいる。まあ……両親や兄たちは忙しくて、子供の頃からあまり一緒にいた記憶もないけれど」
  食事のテーブルで顔を合わせることも稀だった、いわゆる「家族の団らん」というものを沙弓はよく知らない。
「その代わり、祖父母がとても可愛がってくれたから。だから、寂しくはなかったけどね……そういえば、今の『竜王』はあなたの大叔父、つまりお祖父さんの弟に当たる方だって聞いたわ」
  ああ、そうか。本来ならば、この者の父親がその地位に就いているところを、すでに亡くなってしまったためにそのような継承になったのだろう。午前中の鈴の話をもう少し注意深く心に留めるべきであった、でも一度口にしてしまった言葉は取り返しが付かない。
「そうだ、あの御方には大変お世話になっている。それに私は、亡くなった先代の竜王や父上よりもむしろ、大叔父のお若い頃に面差しが似ているという話だ。そもそも、先代や父上は赤髪であったしな」
  まるで他人のことを説明しているように淡々とした口調である。
「さあ、そろそろ目的地に到着だ」
  漆黒の瞳をいくら覗いても、やはりその心内はまったく読めなかった。

  ようやく目的地に到着したものの、沙弓はへとへとに疲れ果てていた。
  足が棒のようであったのはもちろん、袂を長く引きずった腕も重すぎる空気の強い抵抗を受け続けたために軽い筋肉痛になっている。
「ここが……」
「そうだ、占い師の住処だ」
「嘘っ! だって、ただの穴蔵じゃない……!」
  彼は沙弓の言葉には答えず、目の前の木戸を静かに押した。そこには蔓草がたくさん張り付いている。パッと見には、そこに扉があるなんて誰も気づかないだろう。
「誰か――」
「おおう、これはこれは。華宴様、わざわざのお越し、ありがとうございます」
  その声は、扉の向こうからではなく、穴蔵の脇の方から聞こえてきた。現れたのは、白髪を肩より少し長く伸ばした老人である。瞳は薄い紫、不思議な輝きを放っていた。見た目にもずいぶんと高齢であるだろうと察するが、その全身から醸し出されるたとえようのない神々しさに沙弓は言葉を失った。
「多矢(タヤ)、変わりはないか」
  男が声を掛けると、老人はこの土地の人々が必ず行う挨拶で若き主を出迎える。その後、沙弓の方へと向き直った。
「こちらは……先日の」
  薄紫の瞳が沙弓の姿をしっかりと捉える。少し細くなった目が、笑っているようにも泣いているようにも見えた。この土地の人々の特徴なのだろうか、見る角度によって全然違う表情に感じ取れる。
「そのとおり、新月の晩に封印の扉を開いた者だ」
  まじまじと見つめられても、不思議と嫌な気持ちはしなかった。それどころか、温かく満たされるような心地になる。
「それはそれは、おふたり揃って遠路はるばる、ようこそおいでくださいました。さあ、どうぞ中へ。たいそうお疲れになったことでしょう、温かい飲み物などご用意しますね」
  招き入れられた穴蔵の中には、生活に必要なものがすべて揃っていた。壁の棚にはたくさんの書物が並び、天井からは美しい織物が下げられている。そして、そこここにつり下げられた草の束、数え切れないほどのガラス瓶。作業用の台の上には乳鉢や水差しなども見受けられる。
  勧められた椅子は切り出した丸太をそのまま置いた簡素なものだった。
「その後、なにか気になることはないか」
湯気の立った器を先に受け取りながら、黒髪の男が庵の主に聞いた。
「はい、ここしばらくはとても安定しているように見受けられます。穏やかな陽気が続きますので、田畑での作業などもやりやすいと思われます。作付けが上手くいけば、そのまま秋の豊かな実りに繋がりましょう。――少しばかり、ご覧になりますか?」
  そう言いながら老人は虹色布の上に置かれた水晶玉を運んでくる。かなり大振りなもので曇りもなく、とても良質なものであるらしい。沙弓もそっと覗いてみたが、向こう側の風景が逆さまになって見えるだけだった。
「お待ちくださいませ、ただいま呼び出しますから――」
  彼は淡く微笑みながら、両手を水晶玉の上にそっと掲げる。すると驚いたことに、丸い珠が突然飴色の光を放った。黄金色の炎のようなものが、球体の中で静かに燃えさかっている。
  やがて、その中にちらちらと動くなにかが見え始めた。
「……あ……」
  沙弓は思わず声を上げる。そこには田畑を耕す農民らしき者たちの姿が映っていた。すぐに場面は移り、今度は平屋の建物がずらりと並んだ町中の風景に変わる。
「どうでしょう、民の表情も明るく皆が生き生きとしております。昨年の冷夏の影響もそれほどではないようですね。竜王様の御身体もここしばらくは安定なさっているのでしょう」
「うむ、このままの状態が長く続いてくれるといいのだが……」
  隣に座る男は、次々と映し出されるものたちを真剣に見入っている。かき上げることも忘れた長い髪がさらさらと衣の上を流れ、滝のように床に落ちていた。
「ご案じなされますな、華宴様の内にある光も変わらず輝いています。必ずや良い方向に進んで行くでしょう」
  老人の笑顔が何故か自分に向けられていることに気づき、沙弓はどきりとした。またここで「天よりの使者」などと呼ばれるのかとも思ったが、彼は黙ったまま。
  するとそこに、今ひとりの年若い男が入ってきた。老人と同様の白い装束に身を包んでいるが、彼の髪は金色である。
「長老様、そろそろ祈祷の刻限となります」
「わかった、すぐに参る」
  短くそう返答したのち、彼は今一度こちらへと向き直った。
「せっかくお出でいただいたのに、せわしなくて申し訳ございません。……こちらが本日お渡しする生薬となります。竜王様にもよろしくお伝えくださいませ」

「思っていたよりも、早く用事が済んでしまったな」
  祠をあとにして帰りの途につくと、男はぼそりと言った。この世のものとは思えないほどに整った顔立ちであるがためか、表情の変化に乏しくほとんど無表情にも見える。言葉にあまり抑揚がないこともあり、どこか突き放されたような冷たい印象となるのだろうか。
「お前に見せたいものがあったのだが、長老の立ち会いがなくてはあまりに危険だ。後日、出直すしかないな」
「なにそれ、そんなの聞いてない」
  ただの気まぐれで付き合わされたのではなかったのか、そのような理由があるのなら最初に伝えてくれれば良かったのに。
「お前が落ちてきた封印の扉だ。ここからでは庵の影になって見えないが、あの先にある。あの場所に行けば、なにか閃くものがあるかとも思ったのだが」
「封印の……」
  その言葉は、今までにも何度か耳にしていた。もちろん、すべてを信じて鵜呑みにするわけにはいかない。でもひとつの可能性として考えるなら、そこを再び開けば元の場所に戻れる可能性もある。だが、ここがもしも本当に海の底であるのなら――考えるだけで恐ろしい結果が待っているのだ。
「まあいい、また日を改めて訪れればいいだけのことだ」
  赤く染まり始めた空の下を目指し、男はさっさと歩き出した。

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