TopNovel百年目の姫君*扉>海底編◇七

 男の歩みはとても早い。だから、沙弓も遅れてなるものかとあとに続く。
  こんな場所でひとり置き去りにされるのは嫌だ。祠のあった場所と比べると、この細道は空気が薄い気がする。そして、男の回りにいるときだけ、少し呼吸が楽になるのがはっきりと感じ取れた。
  ――これが……竜王であるための「素質」というものなのだろうか。
  この場所が「海底」であるという馬鹿げた話を、百パーセント信じているわけではない。しかし、それを否定するだけの理由が少なすぎて、正直自分でもよくわからなくなっていた。
  こんな憎たらしい奴の側になどいたくはない、できる限り遠ざかっていた方がいい。それなのに……気持ちではそう思っても、身体が拒否する。忌々しいにも程がある、何故自分はこの者の側にいなくてはならないのか。
  男の髪はまるで生きているかのように艶めかしく揺れる。黒くしなやかな光の帯が、広がり、絡まり、流れていく。それに合わせるように、衣の袖が、袴の裾が揺れ動いていくのだ。
  重い空気がねっとりと身体に絡みつく。水の中で腕を掻いているかのような抵抗を感じる。でもその一方で、そうしている自分を必死に否定しているもうひとりの自分が存在するのだ。
  日が傾いたことで、くっきりと陰影をつけていく風景。
  夢の中で見たような鮮やかすぎる光景、じっくりと見入っていると急に心細くなる。
  ――本当に戻れるのだろうか、自分が元いた場所に。
  冗談のような話に本気になってしまうほど、沙弓は馬鹿じゃない。それどころか、同じ年頃の者たちと比べると分別が付きすぎて可愛げがないと言われてしまうほどだった。
  だから疑ってしまうのだ、この魔法仕掛けのような不思議な場所が現実のものであるのかどうかを。
  何度も考えた、自分をさらったどこかの組織とこの土地の者たちはグルなんじゃないだろうかと。だが、そのようなことをしてなんになる。大勢の人間を雇い大がかりな装置を利用したところで、彼らの得になることはなにもない。
  ならば、こうも考えられないか。
  この世界のすべてが、沙弓自身の見ている「夢」であると。たまには現実のように錯覚してしまう夢や幾度目覚めても続く夢が存在する。
  もしくは……天国か、それに準じた世界。ようするに、死後の国ではないのかと。
「――どうした」
  心が冷たいものにさっと包まれたとき、前を行く男が急に振り返る。
「い、……いえっ、別に」
  心細い気持ちをこんな奴に悟られてなるものか。沙弓は彼と目を合わせないように、意識的に顔を背ける。
  惑わされてなるものか。しかし、続いて聞こえてきた呟きを聞き逃すことはできなかった。
「……まったく、どうしてお前のような小娘が」
「え?」
「まさか、天からの使者が女だとは思わなかった」
  沙弓は驚きすぎて、すぐには次の言葉を続けることができなかった。
「な、なんですって……!」
  だが、これはどうしたって聞き捨てならないことだ。しかし、対する男の方は、沙弓の怒りの理由もまったくわかってないらしく、あっさりと返してくる。
「正直、お前の姿を初めて見たときには驚きを隠せなかった」
  あまりにも失礼で信じられない物言いだ。沙弓は表情の少しも変わらない男を果敢に睨みつける。
「だからっ、私は違うって言ってるでしょう。これはなにかの間違いなのよっ、どう考えてもおかしいと思っているなら、とっとと元の場所に戻して!」
「……往生際の悪い奴だ」
  会話がかみ合わないにも程がある。男の言葉にいちいち苛立ちながらも、それをぶつけるタイミングを失ってしまう。
「新月の晩、封印の扉を開ける者――つまりお前が『天からの使者』であることは間違いない。幾人もの占い師がそう予言している」
「そんなのっ、ただのまやかしかも知れないでしょ! なによっ、占い師って。そんな奴らの言うことを真に受けるなんて、どうかしてるわ……!」
  どうして、すぐに決めつけようとするのか。少しでも疑問を感じたら、そこを追及しようとは思わないのか。
「私、なにも知らないって言ってるでしょ。あんたたちの力になれることなんて、なにもないの。それくらい、あんたにだってはっきりわかってるんでしょう……!」
  自分の考えを少しも曲げようとしない相手に意見するのは、物言わぬ壁に向かって無駄な努力をするのに似ている。
  せめてもう少し誠意のある頼み方をされればこちらも少しは力になろうとも思えるのだが、そのような神妙な気持ちは欠片も持ち合わせていないらしい。
「――お前が最後の好機だ、それで駄目ならば諦めるしかない」
「な……」
「帰るぞ、そろそろ薬の効き目が切れる頃だ。そのときに苦しむことになるのはお前自身なのだからな」
  その言葉がなにを示しているのかに気づき、沙弓はごくりと唾を呑む。しかし、男の方はなにごともなかったかのように、再び歩き始めた。

 この地には「寝ずの番」という者が存在することを、二日目の夜にして初めて知った。
  開口部がかなり多く、ガラス戸などもはめられていない窓や出入り口。これでは、外部からの侵入者を歓迎しているようではないかと思ったが、不安を覚えるようなことはなにもなかったのである。
  竜王の館と呼ばれるこの建物を含む広大な敷地は、そのすべてを高い塀で囲われている。いくつかの通用門には昼も夜も複数の番人に護られ、特別の許可証がなくては中にはいることを許されない。もっとも自分たちは顔パスであったが、それは例外中の例外ということなのだろう。
  新月から数えて三晩目、天には心細い光すら見あたらない。とっぷりと闇に包まれた敷地内のあちらこちらには松明が赤々と燃えていた。その近くで翻る衣の袖、見回りの番に就いている男たちは皆、腰に刀のようなものを差している。
  部屋の奥の出入り口には、女たちが控えていた。ふたりひと組であるが、お互いに無駄話をすることもなく、じっとしている。
  沙弓の実家もかなり広大な屋敷でたくさんの使用人を抱えていたが、ここまであからさまに「見張られている」のはなんとも落ち着かない。そう――、これは「護られている」のではないのだ。余所者である自分が逃げ出さないように、大勢の警護がつけられている。
  昼間で人の出入りが多いときにはそれほど気にならずにいられたのだが、夜が更けてくるとなんとも窮屈に感じられてならない。
  あれほどの長い距離を歩いたのだから疲れてあっという間に眠りが訪れるのかと思ったが、どういうわけか頭は未だに冴え冴えとしている。
  だから、様々な考えが頭に浮かんでは消えていく。次々と不思議な人間たちに巡り会い、最初は訝しんでばかりだった状況にも少しずつ適合し始めていた。
  ――ここまで大仕掛けなセットを作って、人を欺くなんてあり得ない。だとすると……やはり、この場所は住人たちが言うように「海の底」なのだろうか。
  その考えをはっきり受け止めてしまえば、すべてのつじつまが合う。いいように丸め込まれてしまうのは不本意であったが、否定する材料が見つからないのだから仕方ない。
  ――それならば、……すぐにでも行動を起こさなくては。
  窓辺まで歩いていって、外の様子をじっと見渡す。時折流れ込んでくる重い空気が、鬱陶しく沙弓の周りを通り過ぎていた。
  不思議な世界、不思議な住人たち。それを目の当たりにしただけで心はもう飽和状態だ。だけどそこで怯んでいたら駄目、少しずつでも前に進まなければ。もしも目の前に超えられないほどの高い壁があったとしても、端から切り崩していけばいい。
  人としての生き方を、沙弓は祖父からたくさん教わった。祖父はどんなに辛い状況でも決して諦めることなく突き進んできた人だ。とても厳しく、だけど優しい人。大好きな祖父に再び会うために、決して諦めることはできない。こんな場所にいつまでも留まっていては駄目だ。
  ――でも、いったいどうしたら……。
  とにかく、知らないことが多すぎる。だから情報が欲しい。ただ、人の口から聞くには限界がある。もっとも協力しあうべき立場にある相手とは話せばすぐにけんか腰になってしまうし、身の回りの世話を買って出てくれる鈴はいつもとても忙しい。それならば…… 
  ――と、急に風向きが変わる。背中を見えない圧力で押された気がして、沙弓は思わず振り返った。
「……あ……」
  そこには、またあの男が立っていた。自分と同じように、すでに寝装束に着替えている。相変わらず嫌みなくらい美しい髪が、その動きに少し遅れて流れていく。
「寝の刻の合図は聞こえただろう、いつまで歩き回っていては皆の迷惑になるぞ」
  その言葉にすぐには応えず、沙弓は無言のまま男を睨み返した。親愛の情を持って接してこない相手に愛想を振りまく必要などない。
「そう言うあんたの方はどうなのよ」
「表の方で物音がしたから、確認に来たまでだ」
  いちいちしかめっ面をしながら話をする必要がどこにあるのだろう。こっちの都合も無視して引き留めておきながら、その横暴ぶりには呆れるばかりだ。
「仕方ないでしょ、どうしたって眠れないんだから」
  沙弓の言葉に、男は眉をひそめる。なにか言いたげな、だけど口を開くことすら煩わしいと思っているようなその態度に、沙弓は少し苛立った。だが、すぐに気持ちを立て直す。
「――お願いが、あるんだけど」
  努めて冷静に、心を鎮めながら話し始める。
「なんだ」
「この場所に関係する書物が読みたいの。昼間、皆が服の整理をしながらなにかを書き写しているのを見たわ。あの文字ならば、私にもわかると思う」
  平安時代のまま時が止まってしまったような場所。流れるような筆文字は、判読するのにかなりの暇が取れるだろう。でも、それでもなにかを掴む糸口にはなる。
「このまま、なにもせずに無駄な時間を過ごしたくないの」
  男はしばらく黙ったままで、沙弓を見つめていた。揺らぎのない瞳に捉えられるととても不思議な気持ちになる。ややあってから、彼はようやく口を開いた。
「私は明朝早くから、遠出をする予定がある。だが、そういうことならば、書庫の者に話をつけておこう。場所は鈴に案内させればいい」
  男はそれだけ言い残すと、そのまま部屋を出て行った。

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