TopNovel百年目の姫君*扉>海底編◇八

 翌日、着替えとして準備されていたのは藤色の地に色とりどりの花びらを全面に散らした着物だった。もちろん、花びらは刺し文様である。その仕上がりにいくら目を凝らしてみても、とても手仕事ですべて作業されたとは信じられなかった。
  しかし、この場所にやって来てからというもの、機械らしきものはひとつも見ていない。電化製品はもちろん、ゼンマイ仕掛けのような簡単な装置も見あたらないのだ。ミシンというようなものなども存在しないのかも知れない。
「沙弓様はどんなお色でも着こなしてしまいますね、誠に羨ましい限りです」
  薄い着物を中に何枚も重ねているのに、不思議なほどに重さを感じなかった。袖や裾が長いためにいくらか動きにくくはあるのだが、見た目ほどは辛くない。周囲の重い空気にも少しずつ慣れてきていた。
「わたくしどものように北の集落の者は、このような柔らかい色合いですと顔色がぼやけてしまうのです。他の土地出身の者たちにもそれぞれに悩みがあるようですね。館仕えの女子(おなご)は髪を腰よりも長く伸ばすのが通例ですが、髪質によっては美しく保つのがかなり難しいですし」
  確かにこちらで見かける女性たちは、同じように髪を長く垂らしている。細紐を編み込んだり簪を挿したりする者もいるが、元の髪型は皆が似たり寄ったりであった。
「生まれつきうねる髪質の者などは、専用の油などをたっぷりと染みこませて念入りに整えているようです。質の良いものですとなかなか値が張りますから、それが悩みの種だと申しております」
「そ、そうなの……大変なのね」
  ところ変われば悩みも変わるということか。それでも、自分自身を美しく見せたいという気持ちは共通なのだなと納得する。
  沙弓は、自分の髪があまり好きではなかった。周囲の者たちからは真っ直ぐで艶やかで羨ましいと言われるが、念入りに巻き髪にしてもすぐに落ちてしまうし、アップにするときなどはムースやワックスでガチガチに固めなければどんどん崩れてしまう。色も平均的日本人のそれよりは薄く、どうにも頼りない。
  ――それに、服装も皆が判で押したようにそっくりだし。いくら着物は体型を選ばないといっても、やはり着こなしやすい人とそうでない人が出てくると思うわ。
「朝餉が済みましたら、早速書庫へご案内いたしましょう。あちらにはすでに話を通してあるそうですから、話の分かるものが待機してくれているはずです」
  すっかり着替えが終わると、待ちかまえていたかのように朝食を乗せた膳が運ばれてくる。沙弓の目の前にそれを置いた金色の髪の娘は、こちらを一瞬だけちらりと見てから一礼の後にそそくさと引き上げていった。
  その姿を見ていた沙弓は、小さくため息をつく。
「皆……私のことがそんなに恐ろしいのかしら? 怖いものでも見るような目をしているわ」
  その言葉に、鈴は曖昧な笑みを浮かべた表情で答えた。
「いえ、別にそのようなわけではないと思いますが……皆、沙弓様のお姿が珍しくて戸惑っているのだと思います」
  この言葉は本心ではないなと、すぐに気づいた。だが、強く追及したところで、本音が聞き出せるとは思えない。
  確かに自分はこの土地の皆とは外見が多少異なる。だが、彼らから感じるなんともいえない「違和感」は別の場所にあるような気がしてしまう。
「遠巻きに見張られているみたいで、なんだか落ち着かないわ」
「申し訳ございません。皆、悪気はないのですよ」
  やはり、この人はなにかを隠している。沙弓はそう確信した。
「それならば、いいのだけど……」
  食事の膳を下げに来てくれた娘に声を掛けようとしても、逃げるように立ち去られてしまう。そもそも、友好関係を築こうという意識がないのではないか。
  ――ま、それも仕方ないかな。結局のところ、私は余所者でしかないのだから……
  役目を終えれば、ただちに解放されるという話は聞いている。しかも、この場所に留まれるのは次の新月まで。自分の身体が重すぎる空気にまったく適合していないこともわかっていた。
「沙弓様、そろそろ参りましょうか」
  鈴に案内されて、沙弓は奥の出入り口から渡り廊下のような場所に出る。屋根はあるが中庭に面した側には壁はなく、柱が等間隔に立てられているのみだ。
「書庫は竜王様のお住まいになる東所の奥になります。国中から集められた書物が収められ、御館に出入りすることを許された者ならば、誰でも自由に閲覧できるようになっています」
「へえ……、図書館のような場所なのかしら」
「としょかん、ですか?」
  鈴は小首を傾げながら聞き返している。
「ええ、たくさんの本があって、一定期間であれば貸し出しをしてくれる公共の機関なの」
「天上にはそのような場所があるのですね。残念ながら、書庫の書物は持ち出しは禁止されております。ただ、書き写してその内容を持ち帰ることは許可されています。硯や筆、和紙などは準備されていますから、もしもご利用でしたらお使いください」
  部屋に持ち帰って読むことができないとなると、かなり面倒なことになりそうだ。だが、蔵書がそのように厳重に管理されている理由は、書物を実際に手にしてみてすぐに分かった。
  ――これって、すべてが人の手で書き写されたものなの……?
  高い天井にすれすれに届くほどに作られた本棚には、ぎっしりと蔵書が収められている。いったいどこから手を着けていいのか、さっぱり見当が付かない。
  他に用事のある鈴はすぐに元の場所へと引き上げてしまい、その後のことは「文官」と呼ばれる書庫の担当者に任された。
「とりあえず、国全土のことがわかる地図のようなものはあるかしら?」
「かしこまりました、色別に塗り分けられているものの方がわかりやすくてよろしいでしょう」
  朝食を終えて間もなくの時間だというのに、書庫に併設された閲覧用の机はすでにその半分ほどが埋まっていた。皆が筆を手にして、熱心に書物の必要箇所を書き写しているようである。
  呆気にとられていると、選び出した数冊を手に戻ってきた文官が説明してくれた。
「こちらでは他では手に入らないような貴重な蔵書も数多くございます。そのために国中から多くの者たちが訪ねてくるのですよ」
  ――なんだか……すごすぎてついて行けない。
  早くも場の空気に飲まれそうになった沙弓であったが、どうにか気を取り直して渡された書物を開いてみた。手書きの墨文字は予想以上に読解が難しく、書かれていることの半分も理解できない。それでも判別のできる文字だけを飛ばし飛ばし拾っていけば、なんとなく概要は掴めてきた。
  鈴は自分のことを「北の集落」の民だと言った。北の集落とは、今いる「都」よりも北方になる土地である。気候も幾分違うようだ。その他にも「西南」「南峰」「西」「離」……方位を示す馴染みのある漢字が含まれている地名が多い。そして、各集落ごとに髪の色や目の色、肌の色が異なるらしい。
  なるほど、この「都」では各地方から集められた者たちが任に付いているという話であるから、結果としてさまざまな人種が入り乱れることになるのだろう。

 どれくらい書物と向き合っていたのだろうか。そのうちに建物の外から、拍子木の音が聞こえてきた。
「これは昼餉の合図ですよ、一度お部屋にお戻りになりますか?」
  沙弓が顔を上げると、気を利かせた文官が声を掛けてくれる。まるで外国の言葉で書かれたものを読んでいたように額の奥がちりちりと痛む。そろそろ情報を頭に詰め込むのも限界に来ていることがわかった。
「ええ、そうさせてもらうわ。今日はまた来られるかどうかわからないから、こちらはすべて返却しておいてください」
  少し、墨文字から離れて休憩をしたいと思う。その上で、知り得た情報を順番に筋道立てて考えていくべきだろう。
  文官に書物を渡してしまうと、沙弓は席を立った。昼食の時間に差し掛かっているというのに、相変わらず机はぎっしりと埋まっている。沙弓が片付けたばかりの場所にも、すぐに他の者が腰を下ろしていた。
  ――ずいぶんと勤勉な人たちなのね……
  沙弓は自分が通っていた大学での学生たちの様子を思い起こしていた。確かに真面目に勉学にいそしむ者も中にはいるが、それはかなりの少数派に思える。それよりも自由気ままな生活を楽しみ、面白可笑しく毎日を生きている人たちの方がずっと多く見受けられた。
  しかもその者たちのほとんどは、親の金で遊び回る不届き者だ。……まあ、残念なことに沙弓も似たような境遇にあるのだが。ぬるま湯につかりきったような生活を続けてきた身としては、一心不乱に書物と向かい合う者たちの姿は眩しすぎる程だった。
  まるで乗り物酔いをしたような気分で、沙弓は書庫をあとにする。中庭は目映い昼間の光に満たされていた。咲きほころんだばかりの花びらに、光の粒が舞い降りていた。
  薄暗い場所から急に出てきたこともあるのだろう、額に鈍い痛みが走る。どちらが現実で、どちらが夢なのだろう。なにが真実で、なにが偽りなのだろうか。
  自分の存在すらが不確かになってくる中で、しっかりと足の裏を地に着けて立っていることが難しく思えてくる。
  空気よりも少し重く思える「なにか」に満たされた空間。無理矢理連れてこられて、とんでもない任務まで期間限定で与えられる。しかも、あんな憎々しい男と力を合わせなくてはならない。
「……こんなところで立ち往生している暇なんてないのに」
  まったく頭が痛いばかりだ、どんなに足掻いたところで堂々巡りしかできてない気がする。
  そのとき。
  ふわりと、風が通りすぎていく。その行方を振り向くと、戸口のあたりで人影が動くのが見えた。

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