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夢見るHard Winds番外編・3
「春の秘密」

 

…はにこ様、20000hitのキリ番リクエストありがとうございました…

 

 やわらかな春の陽ざしが今日も眩しい。ここラナリアは高地とは言っても元々が温暖な地なので、雪などは真冬にしか降らない。積もっても1週間ほどですっかりと姿を消してしまう。
 そうは言っても、キンとした空気が消えて、暖かな気候になれば胸も踊る。春の祭りまで後わずかだ。

 誰もがウキウキと色めき立つ、そんな時節。ひとりだけ眉間にしわを寄せて思い悩む男がいる。名前はアレク。正式にはアレキサンダー=シューベルント、この地の「警察」であるポリスに勤務し、更に銃士隊の隊長を務めている銃の名手。その腕前は国内随一とも言われている。
 ポリスの制服は国を変えても同じらしい。詰め襟の長い上着は白くて、青いラインが前開きに沿って入っている。下に履いたズボンも白い。襟に付いたバッチの形だけが以前とは変わっていた。

「だから。お前たちが何か知っているんじゃないかと」

 そう呟いて、お茶のカップにため息を付く。長年着慣れた制服はやはり彼によく似合う。彼のために作られた特注品だと言ってもいいだろう。長く伸ばしたダークブラウンの美しい巻き毛、彫りの深い彫刻の様な顔立ち。ダークグリーンの瞳、長いまつげ。女性ですらうっとりと見とれてしまう美男子だ。これで所帯持ち、さらには4人の子持ちとは到底思えない。どう見ても独身のプレーボーイ風だ。

「何か知ってるって…ねえ?」
 こぢんまりしたダイニング。下は台所とバスルーム、2階に個室のある小さな家。そこの住人であるキャシーは同じくそこの住人である夫のリードに視線をやった。

「別に何も知らないよなあ、リーアはいたって普通だけど?」
 リードも腕を組んで首を傾げてる。亜麻色の髪がさらさらっと流れていく。

 アレクと比較は出来ないまでもリードも、そしてキャシーもそれぞれに美しい顔立ちだ。皆、身分は伏せているが、その血筋は今は亡き貴族のものだ。まあ、今は庶民暮らし。21になるキャシーだって、貴族生活の記憶はほとんどない。14年前のクーデターは皆の生活を一変させてしまったのだから。

「そんな風に簡単に言うなよっ!」
 いつもの爽やかな好青年の風貌はどこへやら。がばっと頭を抱えてしまったアレク。

「俺はこの頃、夜勤が多くて気が配れなかったんだ。リーアはここにも頻繁に来てるんだろう? だったら何か聞いてないかい?」

「だから〜、知らないって言ってるでしょう、兄さん」
 髪がカップに入るといけないので、キャシーはソーサーごとずるずると位置を変えた。

「そんなことを聞くために、お昼休みにわざわざウチに来たの? だったら、家に戻って直接リーアに聞けばいいじゃないの? そうすればすぐに謎は解けるわよ?」

「どんな顔して聞けばいいんだよ? …聞けないよ、俺は…」
 詰め襟を所在なげに触りながら、俯く。いつもの彼からは想像も出来ない憔悴振り。

 この村で新しい職場に赴任したころはあまりのその完璧な仕事ぶりに反発を感じる者も多かったと聞く。いきなり自分よりも年下の人間が上司になり、面白くないと感じる職員もいた。それくらいすごい人間が、最愛の妻にただのひとことも言えずにいる。

 キャシーはそんな兄の姿を見て苦笑する。そしてリードの方を見ると、彼も同じ表情をしていた。

 こんな他人には見せない姿をさらせるのが家族同然に暮らしていた仲間同士の親しさだろう。今ここにはいないが、キャシーの弟のジミーと、はるか遠き地の土の下に眠るロッドと、ここの3人は小さな丘の上の小屋で9年間を暮らしていたのだ。今では懐かしい思い出である。

 あれから、アレクの転勤で思い出のたくさんあるリース村を離れ、隣りの国のここ、ラナリアまでやってきた。5年の月日が流れ、ジミーは都会の音楽学校に学び、アレクは恋人だったリーアと、そしてリードとキャシーはそれぞれ新しい家庭を持った。結婚して2年近くなるリードたちにはまだ子供がないが、結婚5年のアレク一家は毎年子宝に恵まれ、今では彼は4人の息子・娘の父親になっている。末っ子のマイラはまだ6カ月の赤子だ。

「聞けないよって。何言ってるのよ? 夫婦でしょう? 妻に質問して何が悪いのよ…ねえ」

「そうだよ、兄貴」
 キャシーに話を振られて、リードも後押しする。

「ラナリアの村、一番の夫婦なんだろ? ダンナがポリスのエリート職、妻が良妻賢母で美しくて。その子供たちも天使のように可愛らしいって」

 実際、アレクとリーアの夫婦はそんな風に村人に呼ばれていた。誰が見ても絵に描いたように美しくて素晴らしいカップルだ。非の打ち所がないとはこのことだろう。

「そうは言ったってなあ…」
 アレクはいつになく弱気だ。いつもなら、こんな時『愛するリーアのことなら何でも信じているよ、疑う余地なんてあるわけないじゃないか…』とでも言って、涼しげに微笑むのに。

 

 アレクの話したことの次第はこんな風である。

 この頃、リーアの様子がおかしい。自分に内緒でどこかに出掛けているらしい。それに気付いたのはひとつきほど前だった。
 この地ではランチタイムやお茶の時間に外で働く者が自宅に戻ることが普通だ。ポリスという多忙な職種のアレクも家族とのコミニケーションを図るため、食事は出来るだけ自宅のテーブルに付くようにしていた。でも出張や遠出が続くとそうもいかない。年齢も上がって地位も上がってくると様々な責任が生まれ、夜勤も増えてくる。そうなると自宅の方はリーアに任せきりにすることが多くなる。

 ポリスにいるときでも、差し迫った仕事があるときにはそのまま署内でランチを摂ってしまうことも良くあった。下は乳飲み子、手の掛かる子供たちがたくさんいる自宅ではあまりの喧噪に気も休まらない。片づけなくてはならない仕事が増えると、おいそれと気持ちの切り替えもきかなくなってくる。イライラして当たり散らすのは柄じゃない、あくまでもスマートに行きたかった。
 自宅には寝に帰るだけ、とは言い過ぎだが…実際、それに近かったのが今年の冬だ。それでも家に戻れるときには務めて子供たちの世話を引き受けて、妻であるリーアを休ませようと心がけた。リーアも愚痴ひとつこぼさずに自分のいない家を切り盛りしてくれる。なんて出来た妻なのだろうと感謝していた。

 それが、である。

 ランチやお茶の時間ではなくても勤務の合間、巡回の途中で家に戻れることがある。最近、そう言うときにリーアの姿がないことがあった。隣りのおかみさんに訊ねてみる。何しろ4人の子供がいるのだ。上の子たちは近所で友達と遊んでいるが、下の2人の娘はまだ世話がないといけない。やはり、リーアは娘たちを隣りに預けていた。

「買い物に行くって言っていたよ? 別に構わないよ、お互い様なんだから…」
 恐縮するアレクにおかみさんは明るく笑ってそう言った。もう子供が大きく育ってしまった彼女にとってはアレクの子供たちが可愛くて仕方ないのだという。頼んでも預かりたいくらいだと有り難いことを言ってくれる。リーアもとても助けられていると言っている。

 その時はああそうか、と思った。時間もないのでそのまま署に戻った。そんなことが何度かあった。

 ある日。家に忘れた書類を取りに戻った。でも机の上を子供たちに荒らされないように片づけてしまったらしい、書類がどうしても見あたらない。例によってリーアは留守だ。どうしたものかと思った。隣りのおかみさんには「買い物に行く」と言うだけで、どこに、とは告げていないらしい。1,2時間で戻るのでおかみさんも聞いていない様子だ。

 仕方なく、リーアの行きそうなところを探すことにした。八百屋、雑貨屋、洋服屋…そのどこにも彼女はいない。郵便局や薬局やそんなところまでも探してみた。医者も覗いてみた。それでも見つからない。時間も迫っていたし、どうしてもなくてはならないものでもなかったので、そのまま戻った。その夜、探したことは告げずに書類のありかを訊ねるとすぐに出してくれた。妻の笑顔は一点の曇りもなく、いつも通りの優美な気品に満ちあふれていた。

 一度なら、すれ違いだったと考えられただろう。それなのに、2度3度と同じことが起こっていく。冷静沈着でクールが売り物のアレクもだんだん平静ではいられなくなってきた。とうとう、いても立ってもいられなくなって、ここに押し掛けてきたのである。

「いくら言われたって、知らないものは知らないの。兄さんの頼みだって聞けないわ」
 キャシーはさっさとテーブルを片づけだした。

「さあさ、私は今日中に仕上げなくちゃならない仕事があるの。兄さんも仕事に戻って?」
 キャシーは妻となってからは自宅で出来る仕事がいいと、以前勤めていた洋服屋から縫い物や繕い物を預かるようにしていた。今は春祭り用のドレスの仕立てが最盛期になる。今日の仕事はドレスの裾上げだ。若草色の優美な布がテーブルに広がっていく。

「そーんなに心配ならさ。いっそのこと、後を付けてみたら? 尾行するんだよ、リーアがどこに行くか…」

「え…?」
 リードの言葉にアレクが目を剥いた。髪を振り乱して、反論する。

「そんな…こそ泥みたいな真似が出来るかい? いい加減にしてくれよ!?」

 リードが大袈裟にため息を付く。

「だって、直接聞けないんだろう? それしかないじゃないか…」
 リードはちょっと膨れると、上着を取った。彼も職場である図書館に戻る時間なのだ。

「じゃあ、キャシー。行ってくるよ?」
 軽く妻を抱き寄せて、キスする。そんな光景を見慣れても信じられない気がする。アレクは自分の弟と妹の成長した姿に感慨深いものを抱いていた。

 

●●●


「では、おばさん。宜しくお願いしますね?」
 雲一つない春の淡い空に、柔らかな妻の声が響く。それをアレクは家の傍の木陰でこっそりと見ていた。

 結局。彼はリードの言葉通りに「尾行」をすることにしたのだ。この頃では珍しく自宅でランチを摂り、時間になったので署に戻る…と見せかけて、ここでずっと隠れていたのだ。

 リーアが今日、本当に出掛けるという保証はなかった。でも彼女が隣りに娘たちを預けて外出するのはランチの後、午後のお茶の時間までに限定されている。娘たちは食事の後に昼寝するので、預けていってもあまり手を煩わすことがない。天気が良ければ、上の息子たちは野山に出ていってしまう。年長の子供が下の子を面倒見るので大人がいなくてもそれほど心配がないのだ。
 ここしばらくの残業と出張の為か、今日の午後の休みを取るのは容易かった。リース村のワーグス署長とは似ても似つかない紳士な物腰の現在の上司(でも実はふたりは親友らしい)はにこやかにアレクの申し出を受理してくれた。
 洗濯をするからと言って、いつもなら勤務時間以外は着用が出来ない制服を着たまま。もちろん、午後も仕事があるようにカモフラージュするための技だ。そんな心配りまでしてしまう自分が情けなかった。

 こちらに背中を向けてゆるやかな足取りで歩いていくリーア。髪を高いところできりりとまとめ、スタンドカラーでローズピンクの服を着ていた。上下が繋がっていて、スカートは靴が隠れてしまうくらい長い。きちんとペチコートを下に入れているらしくふんわりとやわらかく膨らんでいた。細身で長身の妻だから、どんな服でも本当に美しく着こなす。金色の小花模様がキラキラと陽に反射して眩しい。
 あの服を洋服屋で見立てたときはここまで美しいとは思わなかった。やはり服は似合う人間に着られてこそ価値があるのだ。アレクはあんなに美しい妻を持ったことに、今更ながら感激していた。彼女は右腕に買い物かごを下げて、どんどん歩いていく。もう追わないと見失ってしまう。ここの村は結構道が入り組んでいるのだ。

「あれえ、アレク。どうしたんだい? 忘れ物?」
 木陰から飛び出したところを、隣りのおかみさんに見つかってしまった。何ともばつが悪い。

「あ、…ええと。あの、リーアは?」
 取って付けたように訊ねる。おかみさんが娘を抱いているのを見れば、全てが把握できるはずなのに。

「え? リーアなら買い物に出たよ。たった今だけど、会わなかったかい?」

「そ、そうですか。変だなあ、…見あたらなかったけど…ちょっと探してみますっ!」

 一本道なのだから、ポリスから戻ってくれば出掛けていくリーアと鉢合わせするはずだ。それを会わなかったと言うのはとても苦しい。アレクは早々に話を切り上げた。
 慌てて、彼女のいた方向を見る。街角に背中が見えた。ふっと曲がって見えなくなる。…やばいっ! アレクは白い制服の裾をはためかせながら、にぎやかな人混みをかき分けるように妻を追いかけた。

 彼女が曲がった路地を折れると、視界の向こうに姿を捉えることが出来た。心底、ホッとする。しょっぱなから見失ってはどうにもならない。今日という今日は、妻のこの不可解な行動を解き明かしてやるのだ。

 

「まあ、アレク兄さん?」
 角の洋服屋から見慣れた娘が顔を出す。

「どうしたの? もうランチタイムは終わったでしょう…あ、そうそう、ちょっと来てみてっ!」
 アレクの腕をぐいっと引いて、キャシーは店の中に引きずり込んだ。そんなことをしている暇はないんだ、彼女を、リーアを見失ったらどうするんだ、とか言い訳する暇もなく。店の中央のテーブルには様々な布が置かれていた。

「今年はことのほか、細身のドレスが流行で。だから端布がたくさん出るの。そう言うのでちっちゃな娘さんに着せるドレスを作ろうかってお店のおかみさんと話していたところなの。ねえ、ローザにはどれがいい? いつもの御礼に一枚プレゼントするわ」
 ローザ、と言うのは、アレクの3人目の子供の名前。もうすぐ2歳になる。リーアに似て、鳶色の髪を持つ可愛らしい娘だ。

「え…ええと、その黄色い奴かな。な、キャシー。今ちょっと急いでるんだ、また今度、ゆっくりと…」
 最後まで言い終える前に、アレクは店の外に飛び出していた。慌てて辺りを見渡す。リーアはどこだ、どこに行ったのだろう…?

「何よ、…兄さん?」
 キャシーがその後を追って店のドアを開けたとき、もう彼ははるか前方を歩いていた。余裕のない背中、それを見つめながら、キャシーはくすりと笑った。


 こちらが付けていることなんて知るはずもないのだろう。リーアは変わらない足取りでどんどん歩いていく。でもそろそろ商店街を抜けてしまう。後は森と野原の風景になるはずだ。そんなところにどんな用事があるというのだ。木の実を取りに行くにはちょっと時節が早すぎる。ベリーだってもうちょっとかかりそうだ。毎年、春の祭りの祭壇には山盛りのベリーを捧げることになっているが、それまでに見つけるのはなかなか素人には難しいとされていた。

 …まさか、誰かに会いに行くのか?

 そんな予感がなかったわけではない。もしも後ろめたいことがないのなら、こんな人気のなくなったところに呼び出すこともないだろう? 知り合いだったら自宅に呼べばいい。彼女がそんな風に人に隠れて会わなければいけない人物とは…?

 アレクは早足で、彼女が姿を隠した森の中に入っていった。

 そんなはずはないと信じたい。でも疑い出すとキリがない。自分の妻となり、子を産んでもそれでも美しい花の盛りのリーア。リース村にいた頃から、彼女は人々の憧れの的だった。アレクだって最初は想いを告げることも出来ずにただ見つめていただけだったのだから。
 でも。リーアは自分の妻なのだ。自分のことを愛していてくれるはずだ。それなのに…それなのに…。

 こんなに余裕のない自分。どういうことだろう。夫婦という関係に慣れすぎて、相手の気持ちが見えなくなっている。リーアが家にいるのが当たり前で、子供の世話をしながら家事を片づけ、自分の帰りを待ってくれるのが当たり前で…そう思っていたのではないだろうか?

 もしも、彼女がある日突然消えてしまったら、自分はどうしたらいいのだ。そうならないために、もっと努力をする必要があったのではないか。仕事が忙しかったからとは言っても、妻が今、何に夢中になり、何を望んでいるのかすら思い浮かべることが出来ない。そう言えば、この所、花の一束も買って戻ったことがなかった。


「…あ?」
 ぐるぐると思考を巡らしているうちに、視界が開けた。いつの間にか森を抜け、広い野原に出ていた。近所に民家のない森の奥で子供たちもあまり入らないところなのだろう。こんな陽の中に鳥の声しかしない。辺りは緑の草に覆われて、その芽吹きが春の訪れを告げていた。周囲を取り囲む木々もその枝に新しい芽を伸ばしている。耳を澄ますとそれがはじけて伸びていく命の音がするほどだ。

 妻の姿はなかった。一本道だったのに、一体どこに行ってしまったのか? これ以上進もうにも山の裾野。アレクは呆然と立ち尽くしてしまった。せっかく休みまで取って、リーアの後を追ったのに、結局はこうしてまかれてしまった。ポリスのエリートが聞いて呆れる。一番大切なはずの妻を見失ってどうするんだ。

 鳥がばさばさっと飛び立つ。青い空に白いその姿がついっと走る。何となしにそれを見つめた。まさか、彼女が鳥になって飛んでいったのではないだろう。馬鹿馬鹿しいが一瞬、そう思ってしまった自分がいた。


 かさかさ。

 背後で音がする。また、鳥か、それともリスかイタチが。そう思って振り向いた。――そして。

 

「…え?」

 そこには、にっこり微笑んだ妻の姿があった。腕に買い物かごを下げて、ローズピンクの服を着て。髪を高く結い上げた妻が。

「どうして…?」

 自分は彼女の後を追ったのに、いつの間に背後に回ったのだ。信じられなかった。大きく目を見開いて見つめると、リーアはとてもおかしそうにくすくすと笑った。

「どうしてって。あなたの真似をして、樹の陰に隠れていたのよ? アレク。あなた、有能なポリスの職員にしては尾行が下手ね。そんなじゃ、すぐに犯人に気付かれてしまうわ」

「リーア…?」

 子供抜きで彼女の姿を見るのは本当に久しぶりだ。この頃では自宅に戻ってもすぐに子供たちに囲まれて口々に話しかけられて、ゆっくりと彼女と話をする暇もなかった。半年前に出産を終えて乳飲み子の世話に明け暮れる彼女もとても手を止めて貰えなそうだったし。

 こうして陽の下で無邪気に笑う妻はいつもよりも子供っぽく…まるで恋人の頃に戻ってしまったみたいだった。時間が何年が遡ってしまったようで。

「君…こんなところで何をしていたの? 出掛けるって…いつも、ここに来ていたの? 誰かと会っていたんじゃないの?」

「…え?」
 リーアは鳶色の眼を大きく見開いた。ほおっと白い肌。やわらかくて滑らかで、夢のような手触りがするのは変わらない。

「私が…? 誰かって、誰と会うと言うのですか?」

「え、ええと…それは…」
 新しい恋人でも出来たのではないのか? とはどうしても聞けなかった。アレクのプライドがそれを許さなかったから。しどろもどろになった口元を彼女の視線が辿る。それから、ゆっくりと話し出した。

「…夫に。見向きもされなくなった妻に、他の方を惑わす程の魅力があるとも思えませんわ…」

 突き放した冷たい言葉。ハッとしてまじまじとその表情を確かめる。その言葉の色に反して、彼女はどこまでも優しい微笑みを浮かべていた。

「ち、ちょっと待ってくれよ!? どういうことだよ、リーア。いつ俺が…君を見向きもしないって…そんなはずないじゃないか!?」

 心外だった。昔も今も、愛しているのはリーアだけだ。そりゃ、誘惑は多い。村娘たちも軽い調子で声をかけてくる、中には思い詰めている娘もいる。冷たくあしらうのは可哀想だとは思うが、リーアのことを考えたら断るしかない。そう言う意味では彼はどこまでも一途だった。

 ぐっと、彼女の肩を掴む。頼りないほど肉がなくて、あまり荒々しく扱うと折れてしまいそうな身体。でもその中には強い心があって、何度もそれに助けられてきた。アレクはいつも彼女を支えとして生きてきたのだ。

「でも…そうなのですもの。この頃は…もう、私なんていてもいなくても同じ感じでしたわ。だから、少しくらいいなくなっても気付かないと思っていたの」
 リーアは俯くと長いまつげを震わせた。綺麗に生えそろった鳶色のそれが微かに露を含む。

「そんなこと、ないだろう!? どれくらい、心配したと思っているんだ。どんな気持ちでここまで来たと思っているんだ。君が何を考えているのか、どうしたいのか、全然分からないから。本当にどうしていいのか分からなくて…っ!」  

「…分からないんじゃないわ、分かろうとしないだけでしょう?」
 花色の唇が悲しく反論する。

「リーア…」
 指先から伝わる、彼女の微動。強がりを言いながら、でも必死で耐えている。いつも同じだ。昔から変わらない。そっと抱きしめると、母となった今でも全く変わらずにか細くて頼りなげな存在だったことに気付く。

「どうしたんだよ、リーア。そんなこと言わないでくれよ?」
 そう訊ねながらも痛々しくて仕方ない。こんなに細い身体、小さな肩にどんなに重いものを背負わせていたのだろうか。彼女がいつでもおっとりと変わらずに微笑んでいるから、つい甘えてしまっていなかったか。家庭のことも子供のこともこの身体に背負わせて、自分は時々ちょっと手を貸すだけで。どんなにか辛かったのだろう。

「何でも言ってくれよ、我慢するなよ。…頼むよっ…!」
 腕に力を込める。どうしたらこの気持ちが伝わるんだろう? それが分からない、もどかしかった。胸の中でリーアが小さくため息を付く。それから、本当に消えそうな声でそっと囁いた。

「…あなた。この頃戻ってきても、私の方を見ないわ。見たとしても、ちらっと一瞥するだけ。前のように一番にやってきて、キスしてくれない。出掛けるときだって、同じじゃないの…!」

 …え? アレクはあまりに意外な言葉にびっくりしてしまった。思わず腕を緩めて腕の中を覗き込む。リーアはアレクの胸にぎゅっとしがみついたままだった。どんな顔をしているのかも分からない。

「夜だって、お疲れなのでしょうけどさっさとベッドに潜り込んで。話をする間もないじゃない…それに」

 だって、リーアが疲れていると思って。あまり手を煩わせてはいけないと思った。お酒の一杯もやりながら、静かに夫婦の時間を持ちたいのは山々だった。でもいつ子供がぐずって起きてくるか知れない。そうなる前にリーアの疲れを少しでも取って置かなくては、そう思ってのことだった。

「あなた…ブラウンさんのダンスパーティーの話、ギリギリまで教えてくれなかったでしょう…?」

 今度はパーティーの話だ。先週にあったもの。服は着ていけそうなものが用意してあったから、言わなかった。もちろん、招待は夫婦同伴、とのことだった。でも育児で疲れ果てている彼女を思いやって、自分一人が出席したのだ。それが…どうしたというのだろう…?

「もう少し、早く教えてくだされば。そうしたら私だって準備できたのに…当日の朝言われたって間に合わないじゃない。パーティーなんて久しぶりだもの、…行きたかったのに…」

「…リーア!?」
 嘘だろ? と思った。まさか、そんな風に考えていたなんて。いつもどこかに出掛けようと誘っても、片づけなくちゃならない用事があるから、とか言ってたじゃないか。パーティーなんて誘ったら困るだけだと思っていたのに。

 そっと両手で白い頬を包んで上向きにさせる。涙に濡れた眼がキラキラと光っていた。眼の淵から大きな雫がころんころんとこぼれる。不謹慎だとは思ったが、それが真珠のように綺麗に見えた。

「…何で…」

「私…子供たちの母親である前に、あなたの妻なの。いつまでもあなたの一番でいたいの…子供をたくさん産んだら…私は母親でしかなくなっちゃうの? もうあなたの恋人じゃなくなっちゃうの…?」

 アレクはじっとその姿を見つめていた。正直、信じられなかった。優しく聡明な母親の顔をしていた彼女がまさか心内でこんなことを考えていたなんて。小さな我が儘すら言えずに、ずっと耐えていたのか? こちらの行動に静かに傷つきながら。どうして長い間、分かってあげられなかったんだろう?

「あ、あのっ…ごめんっ! ごめん、リーア…許してくれっ!!」

「ア…アレク?」
 いきなりがばっと頭を下げられて、今度はリーアの方が面食らっている。涙目のまま、何度も瞬きして。

「謝ることなんて…私は別に…」

「…とにかくっ! ごめん、本当、俺が悪かったからっ!!」

 そして、もう一度向き直ると、しっかりと妻の泣き顔を見つめた。指で頬を拭ってやる。指にしっとりと吸い付く肌。それから、想いを込めて、ゆっくりと口づけた。何度も味わってから、しっかりと抱きすくめる。

「世界で一番大切なのは、リーアだよ。子供でも仕事でもなくて。だから、もうこんな風に泣かないで。これからは何があってもリーアが一番だから。…パーティーにだって、旅行にだって…どこへでも行こう。…ね、君が喜ぶことをたくさんしてやりたいよ」

「…やだ、そんな…」
 恥ずかしそうに、でも嬉しそうに。彼女は小さく呟いた。

「その言葉だけで今は充分よ? …嬉しいわ、アレク」
 そう言って、にっこりと微笑んでくれる。そっと彼女の方から口づけられる。アレクの首に細い腕が回った。

「…でも、せっかくお休みまでとってくれたのだったら…」
 唇を離すと、リーアは恥ずかしそうに首をすくめた。そして静かに腕を解く。

「少しだけ、恋人気分に戻ってくださる? …今日は結婚記念日でしょう?」

 

「…え?」
 アレクは思わず息を飲んだ。

「あ、やっぱり忘れていた。そんなことだろうと思ったわ…子供たちのことはお隣りのおかみさんやキャシーに頼んできたから。今日はふたりきりで、ね…」
 そう言いながら、草の上に白いクロスを広げ、その上にワインとグラス。パイにサンドイッチにチーズに…あっと言う間にセッティングしていく。

「はい、あなた」
 特別の日にしか使わない、カットグラスを手渡してくる。信じられない面もちでそれを受け取ると、彼女はなみなみと葡萄色のお酒を注いでくれた。

「リーア…」
 それ以上の言葉が出てこない。口をぱくぱくしていると、彼女は自分のグラスにもワインを注いで、それを高く捧げ持った。

「アレク、5年間、ありがとう。そして、これからもよろしくね?」

 そう言って微笑む綺麗な顔立ち。心を溶かされそうなこの娘の美しさに惹かれたのはいつからだろう。もしかしたら、出逢った瞬間に囚われていたのかも知れない。それくらい、長い時間、想い続けていた。そして、多分、これからも。

「…こちらこそ」
 そう言うと、アレクもようやく頬に笑みを浮かべることが出来た。

 キン、とガラスの触れ合う音が辺りの森にこだまする。咲き始めた野の花と鳥の歌声に包まれながら、またふたりの新しい1年が始まろうとしていた。

fin(2002,10,11)
はにこさま、本当にお待たせいたしました。リクを頂いてから何と半年…ようやくアレクのお話の続編を書くことが出来ました。お気に召すか分かりませんが、受け取っていただけたら幸いです。1年ぶりにこのシリーズを手がけまして、戸惑うことも多かったのですが、懐かしい仲間との再会はやっぱり嬉しくてにこにこしちゃいました。お話の流れではリードとキャシーも結婚しているはずだよなあと書いてみましたが…ああ、アレクじゃないけど、この2人が夫婦ってちょっとピンときません〜今回はジミーが出てこなくて残念です(泣)。
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