『海の夢・君の夢』
初めて逢った瞬間の、揺らめきを覚えている。 そのとき。 そんなはずはないのに。 信じられないように波動の源へと視線を動かした。 そこに彼はいた。
「見るからに緊張しているなあと言う感じだったよ」 「俯いて、固くなっちゃって…顔なんか凍っていたよね?」 「…そこまで、言う?」 そう思っていたのは渚だけだったかも知れない…渚自身がそう思う日もあるけど。
初めて逢った日。湊が入ってきたその教室に集まっていたのは、同じクラスになったばかりの仲間たち。 結構名の通った医大…そこにいるのは2浪3浪当たり前の強者。奇跡としか思えない感じで現役合格してしまった渚は、悪いことをした訳でもないのに、俯いて可哀想なくらい小さくなっていた。 小さい頃から成績は常にトップクラス、高校だって県内のトップ進学高。さらに親が外科医院を開業している…と言うことを考えれば、医大を受けることはそれほどかけ離れたことではなかった。 「優等生の、渚ちゃん」 ざっと見渡した感じ、男女比は5対1と言うところか。でもそっと横顔をのぞき見るだけで、何だか全く別の人種のような気がしていた。特に女性陣…きれいに引かれた口紅、柔らかなウェーブのヘア。流行の先端を行くスーツ。高校の制服の延長のような渚の服がひどく惨めに見えた。 (…勉強ばかりしていればいい今までとは違うのかしら…) 「ウチ、貧乏だから。田舎でここまでは通えないし、下宿代と学費と…奨学金をつかったところでゆとりもないんだ。だから死にものぐるいで勉強した。実を言うと、一緒に教育学部も受けているんだ」 「…そうなの?」 「父親は反対したけど…何も医者になることもないかなあと思っていた」
「あれ…?」
あの出会いから、早いもので9年が経過していた…6年間で大学の全課程を終えて、医師免許を所得すると渚たちの大学の卒業生はその何割かが併設の大学病院に入ることになっている。自分の家や親戚が医療施設を経営している、とか言う例外はあるが…やはりどこかにインターン(見習い)として入る必要がある。 渚の実家は中規模の外科医院を経営していたが、父が一人で十分切り盛り出来ていた。それに弟がそこを継ぐことになっている。そうなると彼女の勤務先は自分で見つける事になっている。 「せっかく名門の大学に通っているんだ。どこぞの大病院のご子息でも引っかけてくれるといいのだけどなあ…」 幸い、外科医の椅子には空きがあり、渚はそのまま大学病院に入れた。寮があるので金銭的にも楽だ。専門書を買ったり、自費で学会に出席したり…結構物いりだった。湊も同じで、彼は内科に勤務することとなった。 その頃、渚はひとつの悩みを抱えていた。それは湊にすら相談できないことだった。 「やあ、渚ちゃん…すっかりきれいになっちゃって…」 新しくやってきたその人は…学生時代にお世話になっていた教授の研究室に出入りしていた先輩だった。東北の病院から戻った彼はこの大学病院の院長の息子で…皆からは「若院長」と呼ばれた。 でもまさか…自分に対して、特別の感情を持たれていたなんて…迂闊にも気付かなかった。彼の前任の医師は既婚者だったから、そのつもりで今回も気安く接していたのに…気付いたら、棟島と渚のことは病院内でも有名なことになっていた。 「渚ちゃん、特別にお付き合いしている人はいるの…?」 その時初めて、事の重大さを知った。今でも、どうしてあの時まで周囲のことに気を配れなかったのか不思議でならない。 「でも…」 「好きな人はいます、先生のお話はお受けすること、出来ません、ごめんなさい…」 「渚ちゃん…」 「でも、それは…渚ちゃんの一方的な思いでしょう? ちゃんと、お付き合いしている訳でもなさそうだし…」 びっくりして、顔を上げていた。棟島はにっこりと微笑み返す…全てを見透かしたように。 知っているんだ。 彼女はそう確信した…棟島は、渚の事を。彼女がが…湊をずっと想っていたことを。 「僕の方が、お得だよ」
「…どうしたの?」 芸がないと言われても仕方ないが、渚はそのまま病院の中庭の茂みに埋もれるようにしゃがみ込んでいた。寮に帰れば相部屋だ。沈んでいたら皆に悟られる。気を落ち着けてから、戻るしかないと思った。 「…湊くん」 「ああ、やっぱり。渚のふわふわ頭が渡りの廊下から見えたから…どうしたのかと思った」 広い病院内で。それでも渚たちは偶然の糸に導かれるように、1日に数度、すれ違った。 9年間…小学校と中学校を合わせた年月、それだけ一緒にいたら幼なじみのようなものだ。 「何か、ドジった? 先輩に叱られたの?」 『渚と湊…何だか、本当にベストコンビと言う感じね?』 「ううん…ちょっと…」 『先輩に…告白された』とでも言ったら…どんな顔するだろう。きっと、良かったね、と言うかなあ。そんな気がする。今まで、クラスの人に、別の専攻の人に…そう言うことを言われたこともあった。みんな私と湊くんがいつも一緒にいるのに、ちゃんと何でもない関係なんだと分かって言ってくるのが悲しい。 渚の心の中であてどない思考が渦巻いた。それを口にしないことは9年間の付き合いの中で学んだことだ。 「…私って、魅力がないのかなあ…」 「渚、きれいになったよ。入学した頃から較べたら、ずっと。あか抜けたって言うのかな?」 確かに。入学当時の面影は彼女からは消えていた。緩くかけられたウェーブとあっさりとさり気なく整えられたメイク。今年流行の甘いピンクのルージュ。つぼみがゆっくりと開花するように、渚の内面からは年頃の女らしさがにじみ出ていた。 だったら。…いつも思っていた。湊くんは…そう言う私を見て、何とも思わないの? 対象外なの?
「きゃ!」 「気が滅入ったら、甘いモノ。きっと元気になるよ?」 顔を上げると、省エネ紙パックのピーチネクター越しに湊の笑顔が見えた。棟島とは違う、控えめな笑顔。大好きな笑顔。 「…ありがとう」 渚は、この笑顔をなくしたくなかった。一時の恋愛の迷いごとで2人の関係が気まずくなるのはどうしても嫌だった…湊とずっと一緒にいたかった。
「湊くん、大好き」 その言葉がきちんと耳に届いたはずなのに…湊はまるで聞こえないように無視した。次の朝からも何も変わらない。始終一緒にいるわけだから、お互いに恋人がいないことは分かっている。それでも悲しいぐらい…友達。それに甘んじてしまう自分をいつか渚は許していた。
裏口から病院に入って…ロッカールームで勤務の白衣に着替える。その時から、何か違和感を感じていた。 通路にかかるシフト表を見る…あれ?
総合受付の裏のドアから入って、なじみの医療事務員の理沙に声を掛ける。 「ねえ、湊くんは? 今日はお休み?」 すると、理沙は明らかに驚きの表情をした。 「…渚先生も…まさか知らなかったんですか?」 「私も、って…どういうこと?」 「だってぇ…今朝、もう5人目なんですよ、渚先生で。…本当にご存じないんですか? 私、いくら何でも渚先生はちゃんと知っているんだろうなと思ってましたよ? …仲良かったでしょう? 湊先生と」 「…湊先生、病院をお辞めになったんですよ。ご本人の意向で…内密になってましたが、1ヶ月前、お父様がお亡くなりになって…先生は診療所を継がれるために田舎に戻られたんです」 「…診療所?」 「やだなあ〜本当に渚先生たち、同期なんですか? 湊先生のお家は代々続く診療所なんですよ、知らなかったんですか?」 どういうこと? …そんなの知らない…湊の家のことも、父親のことも。毎日のように顔を合わせていながら…全然、そんな素振りもなかった。 ずっと、見つめていたのに。一緒にいたのに…私たちって何だったんだろう…? 「でも、もちろん…院長先生と若先生はご存じでしたよ。引継のこととか、色々ありましたし…」
「それは彼が…君のことを、何とも思ってなかったと言うことでしょう?」 「これで、僕たちの間に何の障害もなくなったわけ。君の返事が聞きたい…」 ショックでうなだれた渚の肩に彼の手が置かれる。慰めようとしてくれているのだろうか? 目前に白衣の白が広がった。そのままぐいっと引き寄せられる。自分の頬が白衣の感触に触れたとき、彼女はやっと正気に戻った。 「…止めてください!!」 「渚ちゃん…」 「よく考えて。ご両親も喜んで下さったでしょう? ウチと渚ちゃんの家の繋がりだって…今後のことを考えたら、悪くないことだと思うよ?」
棟島の言うとおり。週末に戻ったときも、親にせっつかれていた。この頃では息抜きに戻るはずの帰省が苦痛でしかなくなっていた。 そんなこと言ったって。渚の中には湊が住んでいる。叶わない思いだと思っても諦めきれない。隣にいられるだけで良かったのに…本当に、あの笑顔を見ているだけで。 「返事は待つから…渚ちゃんの気が落ち着いてからで、いい」 棟島が部屋を出ていった後…何故か耳元に波音が響いて来た。
『渚と湊…何だか、本当にベストコンビと言う感じね?』 「そんなことはないですよ、渚はそのままでは湊になりません…特に俺の住む田舎では。遠浅の海では海の中をよほど進まないと船が浮かないんです、漁師泣かせですよ。やはり、船は入り江じゃないとね…」 今になって考えると…それは渚に対する拒絶だったのかも知れない。渚とは相容れない自分だと暗に言いたかったのかも知れない…。 見つめていたフロアーマットを敷き詰めた床にぽとぽとと涙がこぼれた。
そして、その1ヶ月後…渚は乗ったことのない単線の電車に揺られていた…。 人気のない駅に降りると、駅前にはタクシー乗り場もない。バスを調べたが、日に数本のそれは何時間も後までなかった。理沙ちゃんから聞き出した住所を元に歩き出す。長い長い道のりだった。連絡すら、入れてなかった。…怖かったから、死ぬほど怖かったから。 途中から舗装道路は砂利道に変わった。疲れからではなく、精神的な重みから足が引きずられる。それでもだんだん潮の香りがしてくると…何とも言えない懐かしい気分に包まれた。鼻の奥がツンとして…涙が溢れそうになるのを必死でこらえる。 「渚…」 大きな杉の木の陰。岩守診療所、と書かれた看板の前で立ち止まり…インターホンを押す。出てきたその人は、渚を見るなり、あまりの驚きに言葉を忘れたように立ちすくんでいた。 「…湊くん」 渚はその言葉のひとつひとつを目で追ってから、もう一度、湊に向き直る。 「湊くん、私をここで雇ってください…」 この言葉に、ようやく彼も正気に戻ったらしい。大きくかぶりを振ると言い放った。 「馬鹿なこと、言わないでくれよ…渚に払える給料なんてないんだ! 分かるだろ? この小さな村の小さな診療所なんだ。大学病院や渚の家の病院とは訳が違う…冗談言わないで、とっとと帰ってくれ!」 「…待って!!」 「お願い、湊くん! 私、何でもする! お給料なんていらないから…帰れなんて…言わないで…」 暫く、陽の落ちた薄暗い空間に、波音と渚のすすり泣きの声だけが響いていた。ややあって、湊が静かに言った。 「…分かった。少し歩いたところに、部屋を間借り出来る家があるんだ…空きがあるか、聞きに行こう。とにかく今日は遅いから…明日、ゆっくり話をしよう」
「馬鹿ね〜、どこの誰が?」 棟島の申し入れを断って、病院に辞表を出して…引継をして。家にも戻れなかった。父は縁談を断った渚に激怒して、勘当を言い渡していたのだ。湊に拒否されたら…もう行くところはなかった。
…でも。もう少し、進展があるんじゃないかと期待していたんだけど…。 鮮やかな波のうねりを岸壁から見下ろす。夏色の海は群青に近い色に染まり、白いしぶきを上げながら繰り返しの動きを続ける。編み目のように表面に浮き上がった泡がいつかはじけて海の青に戻っていく。 肩を過ぎた柔らかいウェーブヘアを風に揺らしながら、渚は波音に紛れて小さくため息を付いた。 …あれから、1年と少し。二人の間には変わらない友情だけがある。間借りしている名前ばかりのアパートから(下宿、と言った方が合うんだけど、大家さんはアパートだと言い張る)朝、通勤する。彼女がが勤務することになって余裕の出た湊は町の病院にも週に何回か勤務するようになっていた。こんな風にして、大きな病院と提携しておくことで、患者に何か問題が起こったときに迅速な処置がとれる。大学病院にいた頃から、湊の内科医としての腕は若い新人ながら評価されていた。本当はこんな田舎に埋もれさせておくのは惜しい人材なのだ。夕方、診療時間が終わると渚は部屋に戻る。清く正しい生活が悲しいぐらい日常化していた。
春先に、ちょっとした事件が起こった。夢のような数日間だった。 耳が大きくエラのように裂けた「異形の姿」をした少女を湊が「拾った」のである。真相は分からないまでも、彼女はどうも湊の従妹に当たる子だったらしい。
学生時代からの…当たり前の生活が…これから先も続いていくのかも知れない。渚は湊のことが本当に大好きで…だからいつでも側にいたかった。湊だって、渚の気持ちは分かっているはずだ。何故なら、村人すら二人の関係をあれこれ詮索してくるのだ。他人目から見ても、都会の病院を辞めてこんな田舎に湊を追ってきた若い娘が特別の感情を抱いていることは明らかなのだ。はっきりしろよと、けしかける人までいる。それなのにそう言う攻撃すらやんわりとかわして、湊は当たり前のように友情の関係を続けている。 それをあえて避けているような行動しか見られない。 …でも。 昨日の晩、久しぶりに母親から連絡が来た。家を飛び出して以来、ほとんど音信は途絶えていたが、母はやはり心配なのだろう、時々父親の目を盗んで連絡をくれる。昨日のもそれだった。 はあっと、大きくため息を付く。気が重い。 家を飛び出して、男の元に走った娘。どういう暮らしをしているのか、親はあれこれと思いを巡らしているであろう…でも、まさかここまで何もなく過ごしているとは夢にも思っていないに違いない。はたちをとうに過ぎた男女の間の事だ、何か間違いがないわけはない。 仕事をしていると、月日の流れが速い。1年2年はあっと言うまだ。ここでの生活も渚にとっては慌ただしいままの忙しい毎日だった。このままではいけない…と思う日もある。でも何かを口にすれば今までの全てが壊れてしまう…砂上の城の様な心だった。 晴れ渡っているとばかり思っていたが、それは夏空だ。北の方からにわかに黒雲が流れ出てきて空半分を覆い尽くしていた。
「ああ、お帰り」 「里の郷の君塚のおばあちゃんの所、行ってみたわ。この頃は腰の様子も良いみたい、お元気そうだった」 「…コーヒー、熱いのと冷たいのとどっちがいい?」 「あ、いいのに。ここが済んだら、私がやるわよ」 「ううん、丁度何か欲しいなあと思ったところだったから。じゃ、疲れを取るために熱いのでいい?」 「うん…」 先週、学校が夏休みに入った。この浜辺の村は大した産業もないために若い者は皆、都会に出てしまう。それでも小さい浜で短い夏を楽しむために、休みには戻ってくる者が多い。 「…今日は、夕方に雷雨があるだろうって。ここは山間で全国の天気予報が当てにならない地域だから、地元のケーブルTVの予報が確実だよ」 「…雷は…嫌だなあ。また、停電になったらどうしよう?」 この村は電力会社の支社までの距離が長いこともあり、なかなか復旧工事が来てくれない。大都会だったら30分も消えていたら大混乱だが、信号すらもない土地ならそんなに支障はないのか? そうは言ってもこの前のように夜通し停電では、心細くて仕方ない。アパートの狭い部屋で毛布にくるまって、夜が明けるのを待っていた。 ガタガタと、昔ながらの木枠の窓が強い風に揺れる。湊の祖父が建てたという診療所は修繕を重ねながら半世紀以上使い込まれていた。にわかに薄暗くなったのに気付いた湊が部屋の電気を付ける。 「…頂きます」
「…あのね、湊くん」 「何?」 「…明後日の日曜日に、ちょっと出かけてきたいんだけど…」 「ふうん…」 「じゃあ、泊まりで行けば? 日帰りじゃ、大変でしょう? ここは俺一人でどうにでもなるし、町の病院にはちゃんと前もって言っておけば、シフトから外して貰えるから…」 「…湊くん…?」 「ほら、これ…渚の部屋に送らないで…どうしてこっちによこしたんだろう? 早く見せたかったのかな?」 大きな、茶封筒だった。両手で抱える必要があるほどの重みもある。A3版の書類がゆったりはいる大きさのそれに入っているものを簡単に想像出来た。母親の字で診療所の住所と自分の名前が記されている。差出人は父親の名になっていた。 「家に、帰ってくるんでしょう?」
確かに。昨日の電話では母親は、父がらみの紹介でお見合いの話があるので戻るようにと言った。あっさりと断ると…今回に限って、母は譲歩しない。強引に電話を切ろうとする渚に涙混じりの母の絶叫が響いた。 「おばあちゃんが…具合良くないの…。あなたの花嫁衣装が見たいって…ね、形だけで良いの。お見合いだけしてちょうだい…そして、顔を見せて。ごめんなさい、悪いと思ったんだけど渚ちゃんが何も言ってこないから…人を頼んで調べさせてもらったの。そちらの人とは、一緒に暮らしているわけでもないでしょう? ね、戻ってきて、お父様も本当はとても御心配なのよ…」 分かった、と言うしかなかった。忙しい両親に代わって、小さい頃から世話をしてくれた祖母。成人式の着物姿を見て、嬉し涙を流しながら「渚ちゃんの花嫁衣装を見るまでは死ねない」と言った小さな姿を思い出す。 自分の我が儘のために。どんなにたくさんの人を悲しませてきたのだろう…あてどない恋にすがったために傷つけてしまった人の心。 母親の行為は湊に対する当てつけだったのかも知れない。娘を帰せと言う無言の抗議。それを分かっていて、何ともない感じで差しだしてくる湊。
「…私、もう、戻ってこないかも知れないよ?」 「それも、いいんじゃない? いい加減、ここでの生活も満足したでしょう…戻ってご両親を安心させてあげなよ?」 「いいの…?」 「私が、いなくなっちゃって…いいの!?」 でも。 対する湊は困ったように少し首を傾げた。 「うーん…人手が足りないのは困るけど…だからといって、渚をこのままここに置いておくのも悪いし…いつ切り出そうかと思っていたから、丁度いいんだ」 「湊くん!!」 「渚、拭かないと…」 「湊くんは…知っているでしょう? 私は湊くんが好きなの、一緒にいたいから、側にいたいからここまで追ってきたんじゃないの…駄目なの? どうして駄目なの…私じゃ…」 腕が震えている…湊の振動なのか、自分の振動なのか…渚には分からなかった。 「…どうして、好きになってくれないの? 愛情なんて、いらない…、側に置いて…」 唇を噛みしめる。目尻か溢れ出た涙が鼻筋を通って口の中まで流れ込んでくる。懐かしい潮の味が口内に広がった。 「…駄目」 「無理なんだ、渚だからじゃなくて…誰も。俺は死ぬまでこの診療所で一人でやっていく、誰とも一緒になる気はないし、子供も作る気はない。…母親は俺を捨てたんだ…この村を、この生活を捨てたんだ。彼女だってそれなりの覚悟は決めて来たはずなのに…長い田舎暮らしで耐えられなくなったんだ。…君だって、いずれ…」 「どうして、そんなことを言い切れるの!? 私はずっと湊くんだけ見ていたわ、初めて逢ったときから…私は違う、湊くんが好きなの、ずっと好きよ…」 湊の白衣の背中が震えている。渚は必死で訴える、心を溶かしてくれるように…。 「無理なんだ…」 「俺は、渚を幸せには出来ない。…もう、これ以上…ここに置いておけない…出ていってくれ…」 机に両手を付いて、うなだれる。広い背中がとても小さく見える。駆けだして、すがりつきたい…でも、そうしても拒否されるだけだ。渚の中でどうにもならない思いが大きなうねりを起こした。 建て付けの悪い窓ががたがたと揺れ、硝子に無数の雨粒が付いている。さっきから遠くで鳴り響いていた遠雷がだいぶ近くなって来たようだ。 一瞬の光の後、大きく地鳴りがして、どこかに落ちた。その瞬間、部屋の電気が消え、窓からのわずかな灯りだけの空間に様変わりした。絶え間なく光る稲妻に照らし出される背中は振り向くこともない。 「…分かった…」 「湊くんは…私と、だけじゃなくて…誰とも結婚しないんでしょう? 自分からいつか去っていくのが怖いから…だったら最初から、一人でいる…それは分かった。でも…聞いていい? 私のこと、友達としてなら…好きでいてくれるんでしょう…?」 「それは…」 「だったら、いいでしょう? これからもここに置いて。私は…湊くんの側にいる…」 「渚?」 彼の目の前に立っている渚は…涙で濡れたままの頬でゆっくりと微笑んでいた。その瞳はしっかりとした光を放って、力強く湊を見つめている。 「ちょっと、待てよ。どういうことだよ…俺はちゃんと言っただろう? 渚のことは特別な存在として、見られない…君が望んでいるような事にはならないんだよ?」 「湊くんが…私を受け入れてくれる必要なんてない。…私も自分の気持ちは封印する…友達として、側にいる。そして…一生かかって…湊くんの側にちゃんといられること、証明してあげるから。おばあちゃんになって、よぼよぼになって死ぬまで…こうして、今までのように暮らしていくわ。…だって、それが湊くんの側にいられる唯一の方法でしょう?」 「馬鹿!! いい大人が…そんな夢みたいな事が出来るもんか!! 自分の言ってることがちゃんと分かってるのかよ!?」 「出来るわよ」 「だって、私は湊くんのことが好きだもん…湊くんがそんな絶望な気持ちで一生を終えるなんて、嫌よ。あなたの考えが間違っていたこと、一生の終わりに思い知らせてあげる。…その時、後悔したって遅いのよ…」 渚の手がレインコートを取った。 「…取り乱して、ごめん…今日はもう上がるね…明日からは、ちゃんと元通りになるから。…追い出したり、しないでね!」 そのまま、思い切りドアを引く。風雨が部屋の中に吹き込んできた。そこら中の紙が舞い上がる。
「…渚!?」
次の瞬間。
窓の外が昼間よりも明るく光った、と思った途端に…今までに聞いたことのない様なばりばりと何かが避ける音、そしてドドーンと打ち付ける音が部屋の中まで反響した。 一瞬。 湊の動きが静止した。何が起こったのか分からなくなったのだ。 慌てて、窓の外を見る。そこには窓の全てを覆い尽くすような緑が現れていた。 「…渚!?」
ドアを開けるのももどかしく、彼は表に出た。その瞬間、目の前に現れた惨状に我が目を疑った。 あの杉の大木が倒れている。雷が落ちたのだろう…そう言えばこの前の台風で避雷針が飛んでしまったと言われた気がする、町から修理が来ることになっていた。 「…渚?」 「なぎ…さ?」 返事はない。 10人ぐらいの人間など楽に飲み込めるほどの大木の傍らに彼はしゃがみ込んだ。今のタイミングから言うと、木が倒れたとき彼女は丁度、この辺りを歩いていたことになる。そんなに反射神経が悪い方ではないとは思うが瞬時に倒れてきたものから逃げる事は出来ないかも知れない。願いを込めて雨に煙った視界の向こうを見るが、人影はない。 「…嘘だろ? 渚…?」 「渚!! 渚!!」 「な…ぎ、さ…」 自分の言葉で、態度で傷つけた…それなのに…彼女はあの時に笑ったのだ。そして、それでも側にいると言った…受け入れられることがなくても、それでも側に…。その言葉を聞いた瞬間、確かに自分の心が動く気がした。今まで、渚と接してきた長い長い時間の中で、何度となくわき上がってきた感情。それを…
「…湊…くん?」 その時、背後から遠慮がちな声が響いてきた。 信じられない気持ちで振り返ると、そこにはたった今、脳裏をよぎった姿が驚いたように立っていた。 「…え?」 「あの…ごめんなさい。外に出たのはいいんだけど、あんまり雨がひどいので…ちょっと雨宿りさせてもらおうと裏の軒の方に行ってたの。そしたら、凄い音がして…もしかして…あ、心配して…くれたの?」 戸惑いながらも、どこか嬉しそうな表情。のろのろと立ち上がり、渚の目前に立つ。ほころんだ頬に湊は手を触れてみた。右手と左手…両方から包み込む。そのまま指を髪の間から首筋に差し込む。耳の裏から首筋を触診する時のように彼の指が滑っていく。その瞳は未だに彼女の存在を肯定できないように、揺れていた。 「やだな…幽霊じゃないよ、生きてるよ…」 「…湊くん…?」 「ごめん…渚、ごめん…」 「…湊くん…濡れるよ、中に入ろう?」 「え…ああ、そうか…」 「雨も、雷も、やんできたね…」 絹糸になった雨、倒れた大木の向こうで薄い水色に戻った空が微笑んでいる。夢のような美しい情景だった。 「私…着替えもないから。このまま帰る…湊くんもすぐに着替えてね、夏風邪は結構しつこいんだよ。…髪もちゃんと…」
「…湊くん?」 湊の手が渚の輪郭を捉える、瞬きをする間もないまま、唇が重ね合わせられた。吸い付いてくる感触に思わず目を閉じてしまう。そうするとその行為のみが脳内を支配してしまい、渚はどうして良いのか分からなくなってしまった。 「…渚…」 「…駄目」 「友達なんだから…こんな事は、しちゃ駄目…。私、帰るから…離して…」 「…今日は…帰らなくて、いい…」 さっきより長い沈黙が解かれたとき、湊の吐息が渚の耳元を柔らかくくすぐった。
「ずっと…こうしたかったんだ。本当は…渚が診療所のドアの前に立っていたときに…」 「…だったら、そうしてくれたら良かったのに…私だって…期待してたんだから…」 「…何よ…」 「可愛いなと思ってさ」 「四捨五入して30の女に可愛いはないでしょう…? 誰のせいでここまで待たされたのよ、嫌になっちゃう…こんなコトして、ただでは済まないわよ。何があったって、離れてやらないから!」 その言葉に答えるように、後ろから抱きすくめられる。渚の白い首筋に湊の唇が這う。 「大丈夫…」 「君が、離れたくなっても…一生、離さないから」
「どうしたんですか? 御園のおばさん…」 「どーしたも、こーしたも…何なんだよ、あんたたち!! あたしらの知らないウチに〜午前中、村役場に行ったって本当なのかい!?」 …早い!! 村の情報の早さは半端じゃない。 湊と渚は呆気にとられて、顔を見合わせた。 「あたしらがせっついてるときは、涼しい顔しちゃってさ〜下宿屋の話では部屋も引き払ったって言うじゃないか…」 「それはね〜おばさん…」 「ちょっと、早く届けを出さないとまずいかなあって状況になっちゃったから…」 「なあんだ、やっぱり。…出来たんだね?」 「じゃあ、どうしてこそこそ。湊先生と渚先生の祝言なら、村の一大事じゃないか。紙切れ1枚でどうにかして欲しくないね、ぱーっとやろうよ、ぱーっと…」 「おばさん〜」 「あのね…実のところ、私の家からまだ承諾が出ていなくて…湊くんが何回も行ってくれたんだけど…父が会ってもくれないの…だから…親が頷いてくれるまでは…」 「ばーかだねえ〜この子たちは」 「親なんて言うのはね、孫の顔を見れば心もほぐれるの。そんなのは古今東西言われ続けていることだよ、はいはい、難しいことは言わない!!」 ばたん、と扉が閉まる。もう一度、湊の方を向き直ると、彼もあまりの勢いに呆然としていた。目が合うとどちらからともなく苦笑する。
渚は杉の木がなくなったためにすっかり日当たりと見通しが良くなった窓の外に視線を移した。それから思いついたように、呟く。 「沙羅ちゃん、元気かなあ…」 すると、湊も楽しそうに言った。 「…今に、沙羅の子供です、とか言って…来るかもよ? うちの子を嫁に欲しいと言われたら…困るなあ…」 「湊くんってば。…女の子だって、決まった訳じゃないのに…」
診療所から、明るい笑い声が漏れてくる。その表では杉の木の切り株から、新しい幹が空を目指して伸びていた。赤子の指ほどに開いた枝を、気持ちよさそうに秋風に揺らしながら。 fin(020117) ◇あとがき◇ |
Novel Index>秘色の語り夢・扉>海の夢・君の夢
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