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「北の集落」の春は遅い。 海底の国の中央より北側に位置する「竜王の御館」。国の隅々まで結界を張り、民の安全を守る竜王・華繻那(カシュナ)様…そのただひとりの御子である姫君・沙羅(さら)様にお仕えする。それが多奈(たな)の お務めであり生き甲斐であった。幼き頃から沙羅様の乳母である母に付いて御館に上がっていた。多奈にとっては人生のほとんどを過ごした場所である。 …4月。 今頃、御館の東所、沙羅様が幼年時代を過ごされた竜王様の居所の御庭は花の盛りである。庭の先の朱花(しゅか)はもちろんのこと、天寿花(てんじゅか)の林は夢のように薄桃の花が天井を造っているだろう。自分の夫・青汰(アオタ)がお務めしている東の栽培所の舞夕花(まゆか)も花の頃だ。 瞳を閉じていてもその様子は思い描ける。明るくて、暖かくて、大好きな季節。 …でも。 (ここには…まだ春が来ないのよね…) ごろん、と寝台の上で寝返りを打つ。チクリと身体の芯が痛んで、全身が熱っぽい。板戸を下ろしたままの部屋の中は薄暗くて、今が昼なのか夜なのか分からない。全てが面倒くさくて、やる気も起きなかった。せめて板戸を開ければ気分も優れそうだが、まだ枯れた風景が広がっているだけと思うと何となくそう言う気にもならない。 「竜王の御館」から、さらに徒歩(かち)で丸一日も北へ行く「北の集落」は夫の故郷であるだけでなく、自分にとっての 故郷でもある。でも…全然懐かしくもなくて、親しみも湧かない。 ぼーっと天井を眺める。胸の奥がじんわりとした。
「もう、また締め切ったままで。これじゃあ、いつまでたっても体調が回復しないでしょう? いつも、開けなさいって言ってるでしょう?」 相変わらず、よく働く夫だ。青汰は部屋にどかどかと入ると、三方にある窓をみんな開け放った。 急にぱあっと光が満ちあふれて、ようやく今が真昼間であることに気付いた。あんまりのまぶしさに多奈は上に掛けていた寝具代わりの重ねを額まで引き上げた。
「…あれえ、青樹(アオキ)は?」 「青のお母様が連れて行きました」 「ふうん…大人しいから寝てるもんだとばかり思っていた。あの子、よく寝るからなあ…」 「まあ、いいや。さっき、お客様から唐菓子と朱の実の汁を頂いたんだ。甘酸っぱい飲み物、知ってるでしょう? ほら、起きて。頂こうよ…」 ことこと。テーブルの上に並べる音。その後、がばっと重ねが取り払われた。 「きゃあっ!!」 「なんだ、今日は少し顔色が良くなったんじゃないの?」 「ほらほら、起きて…」 乱れた髪を手櫛で整えて、多奈はふうっと大きなため息を付いた。
………
どこで産むのか色々考えた末、夫の青汰の母親である青の母上の意向を汲んで、ここ、青の一族の村で産むことにしたのだ。本当なら自分の実家である北の集落の長たる一族・多の一族の館で産みたかったが、多奈の母親は病弱でとても産後の娘の世話は出来そうにない。まあ、北の集落は故郷であっても異郷の様なものである。多の一族だろうと青の一族だろうと多奈にとっては大差なかった。夫の青汰も仕事の休暇を取って、付いてきてくれた。 想像はしていたが、青の集落では盛大な歓迎を受けた。一族の次期長である青汰とその妻である多奈。しかも最初の子供を出産するとあって人々は沸き返っていた。産気づくまでの半月あまりはどこへ行っても縦の物を横にも出来ないほどの扱われようで、ほとほと疲れてしまった。大切にされているのにかえって体調が悪くなる。もともと御館務めが長く、お世話をすることには慣れていてもされることには慣れていない。気疲れで気が狂いそうだった。
それが。お産の長いトンネルを抜けて、無事赤子を産みあげて。 うつらうつらとして目覚めると、辺りには誰もいなかった。今まで世話をしてくれていた侍女すらいない。ぼーっと動かない頭で思考を巡らすと、自分が赤子の顔すら見てなかったことに気付いた。朦朧としながら産声を聞いて、その後…どうしたんだろう? 半刻ほど、動かない体で悶々としていると、そのうち青汰が騒々しくやってきた。 「多奈さん! …起きた?」 …あとから、彼はこの頃、親戚への報告参りに走り回っており、目の回るような忙しさだったと聞いた。祝いの餅を作り、それこそ「北の集落」じゅうに配るのだ。そんな習わしがあったとも知らなかった。教えてくれたのは今回付いてきてくれた青真(あおま)である。相変わらず嫌みないい方ではあったが、以前のように棘はなくなっていた。青汰からもきつく申し渡したらしい。驚くほど素直になって腰が抜けたほどだ。 青汰はその忙しいさなか、多奈に会いに戻ってきてくれたのだ。 「あの…赤さん…」 「多奈さん、お疲れさま。赤さん、男の子だったよ。青の母上が喜んで…今、抱いて歩いている」 「…お母様が?」 私はまだ対面もしていないのに、青の母上が連れだしたのか? とちょっと嫌な気分になった。 今まで自分を取り巻いていた人間達が全て赤さんの方に吸い寄せられて、消えている。自分を取りなしてくれていたわけではなかった、おなかの赤さんを取りなしてくれていただけだったのか…何とも言えない脱力感が多奈を覆い尽くした。
それでもその時はお産の疲れで多くは考えられなかった。しかし、段々と身体が元に戻ってくるに従って、窓の木枠に徐々に埃が積もるが如く、知らないうちに色々なものが積み重なっていくような気がしてくる。命名の問題、世話役の選出、祝いの衣の色目…全部青の母上が取り仕切っていく。お乳を上げる時間以外、抱いていることもない。多奈の記憶の中に自分の産んだ息子「青樹」がお乳を吸っている姿しかないのだ。寝顔すらゆっくり見たことがない。 そのうち、出産時の傷や胸の張りすぎで、徐々に体調が崩れてきた。床に伏していることが多くなる。青汰はお祝いに駆けつけた客人の接待に追われている。その忙しい合間を縫ってこうして来てくれるわけだが、多奈の気は晴れなかった。
………
今日も授乳を終えると、待ち構えたように青の母上がやってきて奪うように青樹を連れて行ってしまった。 お乳の張り具合でそろそろ次の授乳の時間のような気がする。しかし、青樹はさっき青汰が言ったようにとにかくよく寝る子だ。お乳の時間を忘れて寝入ってしまうことも多い。青の母上は可哀想だから起こすことはない、と言うが多奈としては胸が張って張って、苦しくて仕方ない。自分で絞ってもそんなに出るものではない。赤子に吸って貰うしかないのだ。この発熱もそのせいではないかと思う。この頃は吸い付きが良くなって、かなりの量を飲んでくれるようになったが、多奈は元々お乳の量が多いらしく、青樹には余るらしいのだ。 (これは早いところ、沙羅様の御子がお生まれになって下さらないと…)
「ええ? …ううん、別に…」 朱の実は貴重品だから日常、ほとんど口にすることはない。青樹の母であるからこうして飲むことが出来るのかも知れない、そう思うと多少、気が晴れた。 多奈の表情の変化を見て取ったのだろう。青汰がくすくすと笑いながら、お代わりを注いでくれた。それを多奈が飲み干すのを待って、彼は静かに話し出した。 「…多奈さん、何かおなかにたまってない?」 「…え?」 「言いたいことがあるなら言って? 多奈さんは我慢してどんどんため込むから。小出しにしないとあとで大変でしょ?」 あくまでも、穏やかに。ストレスなんてたまることはないんじゃないかと思う夫。誰に対してもこの態度は変わらない、どんなに高貴な人に対しても、家の使用人に対しても同じように接する。不思議な人だとしみじみ思う。すれ違うことなく一緒にいる時間が長いだけに余計そう感じるのかも知れない。 「別に…大したことじゃないと思うんだけど…」 「大したことじゃなくても。多奈さんがそんな風に沈んでいるのは俺としても嫌だから」 「う…」 「何だか、私…赤さんにお乳をあげるだけの存在な気がする…」 「青のお母様、すぐに青樹を連れて行っちゃう。私、青樹のこと、ゆっくりと寝顔を見つめる暇もないの…何だか何のために自分がここにいるのか…分からなくなって来ちゃった」 「多奈さん…」 ぎゅっと膝の上の重ねを握りしめていた多奈の手を、青汰の身体のわりに大きい手がふんわりと包み込んだ。 「…ねえ、青汰。もしも竜王様の御館に戻るとき…青樹を置いていけって言われたら、どうしよう…何だか、不安なの」 「やだなあ…」 「そんなわけないでしょう? 青樹の母上は多奈さんなんだよ? 多奈さんが青樹を育てるんだよ? 多奈さんが嫌だって言ったって、そうするんだよ…それくらい、母上も分かってるって」 「…そうかしら」 「ねえ、多奈さん――」 「抱きしめて、いい?」 「へ…?」 青汰はすっと椅子から立ち上がってこちらに身を乗り出してくる。ぴくん、と身体が震えたが、逃れるよりも早くふわっと腕がまとわりついてきた。 「あお…」 「…ちょっとさ、俺、嫌な気分なんだけど」 「え…? 何? …どうしたの?」 「多奈さんさ…さっきから聞いていると、青樹、青樹って…」 「……?」 「多奈さんて、俺のお嫁さまでしょ? そりゃあ、青樹の母上ではあるんだけど…このまま多奈さんが青樹ばかりに夢中になって、俺のこと見捨てたら嫌だなあ…」 「え…?」 「自分の息子に嫉妬するのはおかしいと思うけど。多奈さん、俺がいるんだからさ、あんまり思い悩まないで…」 「青汰…」 暖かい瞳の色に、何とも言えない想いを感じて。胸がきゅっと締め付けられた。忘れていた感情、多奈は夫の衣に頬を押し当てた。 久しぶりに、夫の胸に甘えた気がした。さすがにいつもの生の舞夕花の香りはない。思えば今は舞夕花の耕地は一番忙しい時期だ。その仕事を投げて付いてきてくれたのだ。多奈がひとりで青の一族の村で心細い思いをしないようにと気遣って。 そう言う人なのだ、そう言う夫なのだ。 「それにさ」 「これから、先。多奈さんがもっともっと赤さんを産めばいいんだよ。青の母上も悲鳴を上げるくらい忙しくさせてあげようよ…」 「…え? やだ…」 「何言ってるの…」 とくとくとく…朱の実の汁を注ぐ音。それを手渡してくれてから、にっこりと笑った。 「青の母上は…10人産んでるからね、俺の兄弟。多奈さんにも頑張って貰わなくちゃ…」 「でも」 「赤さんって、おなかにいるときも、出てきてからも本当に大変なんだもの。私、何だか疲れちゃった。これからどうなるんだろうと思うと気が遠くなりそうよ?」 「そんな、弱気なこと言わないの」 「今だって…」 「お乳が張って、張って…本当にカチカチなの。痛くてたまらないの…でも、青樹は戻ってこないし、飲んでくれたとしても、すっきりはしないわ。自分で絞ると切れて痛くなるの…」
自分の身体なのに、自分の物じゃないみたい。青樹のためにある身体のような気がする。自分の思い通りにならない身体がもどかしい。こう言うことのひとつひとつが自分を落ち込ませていくのだ。
恨みがましい目で見上げると、視線の先の青汰がくすくすと笑っている。何て非常識なのかしら、妻がこんなに苦しんでいるというのに、声を上げて笑うなんて。 青汰はひとしきり笑ったあと、大きく咳払いをした。まだ、笑いがこみ上げてくるようだ。それを堪えながら、絞り出すように言った。 「…俺が、吸ってあげようか?」 「え? …嘘っ!!」 「母乳を飲んでみたいって、仲間うちで良く話題になっているんだけど。ひとんちの飲むわけにも行かないでしょ? …多奈さんが苦しんでいるんだったら…協力するよ?」 「やだやだっ!! やめて!! ねえ、ちょっと…」 「青汰…っ!!」 どうしよう、と思っているときに。がたりと戸口で音がした。二人してハッとする。よく考えると半開きのまま…。
おそるおそる、そちらを見る。赤子を抱いて、呆れ顔をして立っている…。 「お兄様? お楽しみの所、申し訳ございませんが、若君がお食事の時間なので。多奈様を返していただけますでしょうか?」 青樹を連れてきたのは、青真だった。まあ、青の母上でなかっただけ良かったか。 「伯母様、腰が痛いって。ずっと赤様を抱いていらっしゃったから。それから、多の一族の方々がお祝いに来て下さっているそうだから、多奈様にも出てくるようにって。御支度、手伝いますから…まずはお乳の方差し上げちゃってください」 多奈に青樹を渡すと、さっさと次の間で衣装箱を改めているようだ。いつもながらてきぱきとしている。 「…しばらくは…敵わないなあ…」 「おい、分かってるのか? 貸してやってるだけだからな。そのうち返して貰うからな…多奈さんはお前の母上である前に、俺のお嫁さまなんだから。俺の方が先だからな…」 「まあ…」 「気が散るようなこと、しないで。可哀想でしょ?」 心が羽ばたくように自然に口をついて言葉がこぼれていた。 「…私、今日から床を上げるわ。身体を慣らして…天寿花の咲いてるうちに御館に戻りたいな」 「そう」 ようやく、心に春が来た。多奈はそう実感していた。 Fin(20020604) ◇あとがき◇ AOさま、本当にありがとうございました。まさか多奈のお話をもう一度書くとは思ってなかったので(シリーズの中にちょい役で顔を出すことはあっても)、リクを頂いたときはどうしようと(苦笑)。でも、こうしてちょっとほんのりのお話を書くことが出来ました。楽しかったです。 こんなにゆったりと幸せに浸っているのも今のうち、多奈はこれから乳母として母として妻として…多忙な毎日が待ってます。「あ〜っ!! もうっ!!」と叫びたくなるとき、「大丈夫だよ、多奈さん」と青汰が言ってくれれば、乗り越えられるかな? 本当に青汰、いい人です。 |
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