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秘色の語り夢…沙羅の章・新章

… 1 …

 

 

「それでは…、くれぐれも宜しく頼むよ。良い返事を待っている」

 気が時々、強く流れる北の通用門の前。

 牛車の御簾を上げ、初老の男がいとまを告げる。地方の豪族にふさわしいきらびやかな装束を身につけて、恰幅の良い体を窮屈そうに押し込めている。数日の都での滞在を終え、郷里に戻るところだった。

「道中、お気を付けてお戻り下さいませ」

 車のそばまで身を寄せて、静かに跪く。そんな多矢(タヤ)のしっとりとした振る舞いに、車の上の男は満足そうに目を細める。

 元々は多矢の母になる人が男の里に縁のある者だった。元服の頃からうるさいくらいに色々と世話を焼き、視察で里を訪れた時などには屋敷の一間を解放し、手厚くもてなしてくれた。それにより、細くない繋がりが生まれ、こうして見送りに門まで出て来る親しさになる。男はひとつひとつ自分の刻んできた段取りが実を結んでいくのを喜ぶ気持ちが、押さえても口元に出てしまうらしい。

 だが、それがあからさまではまずいと分かっているのだろう。慌てて扇で口元を隠すと、御簾を降ろしてしまった。

 

 日の傾き始めた街道を、牛車が進んでいく。先導する下男の歩みにあわせて、毛並みのいい黒牛がたっぷりとした体を揺らして足を進める。

 その姿が街道の先を右に折れて見えなくなるまで、多矢は頭を上げることなく低姿勢を保っていた。

 

*** *** ***


「地方のお役人様は、皆様お口が達者ですね。あの御方も、だいぶ無理難題を仰っていたでしょう…?」

 姿勢を元に戻そうとした時、背後から声がした。自分と共に見送りに出ていた若い侍従見習い。この者を立派な御館の侍従として教育することも、多矢にとって大事なお務めのひとつだ。

「言葉が過ぎるぞ、埜火(ノビ)」
 短くそう告げると、すっと立ち上がった。

 都の男たちの中でも、彼は上背のある方になる。現竜王・華繻那様もすっきりとした長身であるが、実は多矢の方が拳ひとつ分くらい高い。もっともかの御方と肩を並べて歩くことなどなく、それを知る者も多くは存在しないが。多矢自身にとっても自分の姿のことなど、大したことではなかった。

 肩から掛けた重ねの乱れを静かに直すと、髪を整える。この地の男たちは髪を肩よりも伸ばし、高いところでひとつに結う髪型が基本だ。多矢のそれは「北の集落」の民特有の美しい漆黒の流れ。白と言うよりも青光りをするほどの陶器の様な肌に、すっと整った顔立ち。山奥から出てきたばかりの若い官司などの中には、多矢を畏れ多くも次期竜王の亜樹様と勘違いする者があとを絶たないと言う。

 それくらい、威厳のある風格に満ちているのだろう。はたちをいくらか出ていたが、未だに妻も娶らず気ままな寮暮らしを続けていた。もっとも、「北の集落」の長たる一族の後継者と言われる彼が、いい加減にこの年までを独り身で過ごしたわけではない。彼にはやんごとなき理由から、独身を続けなければならない複雑な背景があったのだ。それももう、過去の出来事になりつつはあるが。

「だって、これで何人目ですか? 多矢様を頼って都に上がられた方は。皆様、揃いに揃って偉そうにご自分の要求だけ突き付けて。これでは多矢様がお可哀想です…」

 ぷうと膨れたその輪郭はまだまだ幼い。今年の正月明けに、北の集落の小さな村から行儀見習いに都に上がってきた。まだまだ元服したての少年で、最初は装束を身につけるのもおぼつかなかった。里での気ままな着物と都での官僚の衣はしつらえが全く異なる。腰ひもの結び方から教えたのだから、まあ半年足らずでよくぞここまでしっかりしたと誉めなければならないだろう。

「何を言う、これも大事なお役目のひとつだ」

 埜火のいたわりの気持ちは嬉しい。でも、それを素直に受け止めてはならない。あたたかい言葉をあっさりとかわすのは心苦しいが、ここでの長い生活でもう身に染みついている。

 

 春は都の竜王様の御館でも、使用人たちの大掛かりな配置転換や移動が行われる。それは毎年の慣例の様なものであったが、この春は少しばかり勝手が違う。そのことが、さらに地方の豪族たちをいきり立たせているのだ。状況の変化があれば、都の竜王様の御館内の勢力争いが起こる。今はまさに、少しばかりの新しい椅子を巡って熾烈な権力争いが展開されている状況だ。

 遙か海の底にゆうるりと広がっていく人知れぬ異郷。この海底国の全土は都の御館にお住まいになっている竜王様が統治されている。

 古に「陸」より海底に降りたとも、海底の民が陸に上がったとも言われているが、この相容れぬふたつの地の真実について語れる者は存在しない。ただ、海底で暮らすために、エラのような耳を持ち、陸の民とは異なる呼吸をしている。そうであっても、竜王様のお造りになる「結界」の中でのみ、自由に身を動かすことが出来るのだ。いくら海底人とは言っても、ただの海流の中では呼吸が出来ない。

 海底国には大小様々な集落が点在し、それらとは細く伸びた街道で繋がりあっていた。都から歩いて1日の距離にあることから、多矢の故郷である「北の集落」と次期竜王様の亜樹様のお里である「西南の集落」がの民が、全体の半数以上になっている。また、他の集落からも民の人数や、都での働きによってそれぞれに定員の枠が設けられている。

 都に上がる…竜王様の御許でお務めに励むと言うことは、都においての一流官僚になるためだけではない。立派に任を終えた後に故郷に戻れば、しかるべき役人としての地位が用意されているのだ。いわゆる天下りの構図と似ているかも知れない。都に出仕することはそれだけ大きなものをもっている。

 そうはいわれても受け入れる立場になってみれば大変だ。右も左も分からぬ田舎者を指導するためには、それなりの対策が必要になる。一年中ばらばらと入れ替えがあっては埒があかない。よって特別な例外を除いては、この春の入れ替えが年に一度の配置換えになっていた。これから秋口までは慌ただしい空気に包まれて行くだろう。

 

 長年その任に就いている多矢にとっても、今年は少し勝手の違う年になった。御館での世代交代が徐々に行われつつある現状もあり、今年から人事の取りまとめを竜王様ではなく亜樹様が執り行うことになったのだ。もう数年前より現竜王・華繻那様の侍従であり、実の父である多岐より言われていたことである。心づもりもしていた。だが…こうして実際に任に就いてみると気苦労が多すぎる。

 華繻那様は王族の御方であり、生まれながらの竜王様であった。誰が見ても中立的なお立場にあられたのである。だが、次期竜王・亜樹様は御母上が華繻那様の姉君に当たられることもあり、王族の血は濃く引いていることになるが、そうはあっても御父上が西南の大臣様。燃えるような朱色の髪に褐色の肌、濃緑の瞳を持たれたその逞しいお姿からも、西南の血を濃く感じる。
 次期竜王様のご実家ともなれば、もともと王族に対して口出しの多かった西南の大臣家が、さらにうるさくなってくる。これを華繻那様なら軽くかわせるのだが、亜樹様ではまだまだ心許ない。実際にそうだし、端から見てもそう思えるのだろう、他の集落の民も黙ってはいない。何でもないことまで、西南のせいだと毒づいてくる。

 西南の集落が都での幅をきかせていることなど、昨日や今日始まったことではないのに、今まで言えなかったことが年若い次期竜王に政権が移りつつあることから噴き出して来たのだろう。こうしてご機嫌伺いに上がってくる地方の官僚たちも今年はとくに舌が滑らかに動く。

 多矢は亜樹様のすぐ下について、お務めに励んでいる。もちろん、亜樹様も必死でお務めに励まれているのは分かっているが、何しろ先代は類い希に見る優秀な御方。十の年に漢詩の全集を全て空で暗じ、我が身を覆うほどの光り珠を創り上げられたと父から聞いている。あまりにも偉大な御方の次になれば、心許なさが嫌でも目立ってしまう。そのお辛いお立場もよく分かる。
 ようやく各集落からの定員と、その配置は決まってきたが、中央の官僚職の椅子に誰が座るかと言う難題が残っていた。今年から新たに加わったふたつの椅子を巡っても様々な思惑が渦巻く。

 こう言う時に、自分を売り込むだけならいいのだ。だが、自分が優れた地位に立つためにはそれよりも効果的な方法がある。それは…有力なライバルを蹴落とすことだ。自らが手を汚すこともなく巧妙に噂を広めたり、罠にはめて陥れたりする。

 

 ここしばらくは、そんな勝手なお偉方の相手に追われていた。だから埜火の言葉ももっともなのだ。寝る間を惜しんでまで、提出されたものに目を通し思考を巡らす多矢の顔色が日々悪くなっていくのを、少年は目の当たりにしていたのだから。

「都は華々しくて、素晴らしいところだと聞いていました。でも…そうじゃないですね。オレは早く里に戻って、耕地を耕したいと思います」

 素直なのはいいことだが、ここまで言い切るのもどうかと思う。多矢が答えずにさっさと歩き出すと、彼も慌ててあとを付いてきた。

 

「あのっ…、多矢様っ! そちらのお荷物をお持ちしましょう? てっきり今の方に差し上げるものだと思ってましたが、違うのですね。もう今日はこのまま寮に戻られるのですよね? 御部屋までお供致しますっ!」

 ぱたぱたと長袴の裾をはためかせながら、埜火が言う。とろんと身にまとわりつく気は空気よりも重い。気体よりも重く、液体よりも軽い不思議なもので満たされた空間。流れていく気流もさらさらと頬に当たる。

「いや…ちょっと寄りたいところがあるんだ。お前はもう戻りなさい。私はもう少しその辺を散策するからね」

 その心遣いだけを有り難く受け取って、辞退する。抱えている包みを他の者に任せるつもりはなかった。

「え〜…、でも。今日の半日のお休みは、多矢様のことをご心配された竜王様と多岐様の計らいだと聞いています。そんなときくらい、ごゆっくりお休みになられればいいのに…」

 必死で食い下がる者に笑顔で応える。多分、父・多岐から侍従の独身寮まできちんと送り届けるようにと申し使ってきたのだろう。全く父も侮れない。

「ひとりで寝台で横になっていると、ますます気が滅入るからね」

 ふふっと喉の奥で笑った。だが、冗談などではない、本当にその通りなのだ。横になって休もうとしても、このごろは四方八方から声がしてくる気がする。だいぶ疲れているらしい。

「父には私をちゃんと送り届けたと報告すればいい、お前が気に病むことではないよ…」

 

 きっぱりと言い切るとふたつに分かれた道を左に折れた。

 まっすぐ行けば竜王様の御館に戻れるが、右は王族の方々が身につける香のひとつ・舞夕花の耕地になっている。深い紫の愛らしい花を付けるその草がやがて実を付けて、枯れる。その頃に丸々と太った根を掘り上げて、精製する。

「え…でもっ、それでは」

 埜火の声を遠く背中に受ける。甘い甘い舞夕花のむせかえるような香りの中を歩いていく。目眩を感じるほどの強い香気は、多矢を身体ごと違う世界に導いて行く気がする。

 

「あのっ、お早いお戻りを…」

 三叉路に立ちつくしたままこちらを呆然と見つめる少年に、多矢は一度振り返ると微笑んだ。

 

*** *** ***


 竜王様のお住まいは御館の東に位置する「東所」と呼ばれる場所だ。窓から見渡せる御庭には四季折々の美しい花々が咲き誇り、遣り水も作られている。その表、気の荒い流れを避けるために植えられた林を抜けると、そこには耕地が広がっていた。

 東の果てには陸への門があり、それを守る祠のおばば様も住んでいる。気も薄く、身体のしっかりしていない者だと、気が遠くなることもあるそうだ。

 舞夕花の耕地を抜けて、脇に王族の方々の墓地を見ながらさらに奥に入っていく。さらさらと流れていくのは丈の長い草。秋には小さな実を付けるが、それを食することは出来ない。今はまだ若草色に波打つ草原を、衣が露に濡れるのも構わずどんどん進んでいった。

 やがて、小さな庵が見えてきた。細い煙が上がっている。そのたなびく灰色を見た時に、多矢はほっと胸が安らぐのを感じていた。

 

 するとその時。

 彼が見つめていたのより、ずっと左手の方で、カサカサと音がした。それに続いて、ぴぃと鳴き声。慌てて振り向いたが、そこにあるのは草の波打つ姿だけだ。でも、多矢は足音を忍ばせて、音のした方に足を進めた。

 

 がさ、と音がして。草の中から銀色の輝きが盛り上がる。

 さらさらとそれをなびかせながら、こちらを振り向く少女。その薄紫の目がこちらを見つめて、そしてにっこりと微笑んだ。その姿を見つけて、多矢の口元から自然に笑みがこぼれた。

 

 彼女が身につけているのは不思議なかたちの巫女装束だ。袖口にぐるりと朱の縫い取りのある純白の衣に、下の小袖も白。そして袴は朱色。長く垂らした髪の顔の脇の部分を細い帯でくくり、その先に小さな鈴がいくつも付いていた。爪の先ほどの小さなものなので、耳を寄せないとその音色には届かない。

 物珍しかったその姿も、長い時間をすごすうちに彼女の一部になった。頼りなさそうに見えるが、実は竜王様の姫君・沙羅様とは同じくらいの年頃だという。多矢の故郷である「北の集落」の民はその大人びた顔立ちから、年齢よりも少し上に見られることが多い。それと同じように、この少女は歳よりも幼く見える種族なのかも知れない。

 

「何を、見ていたの?」

 そばまで寄ると、少女の身丈は多矢の胸の辺りまで。彼女を覆う銀糸の髪は、身丈よりも長い。彼女は多矢の問いかけにもう一度にっこりと微笑むと、そっと大きな手のひらに自分の小さな手を寄せた。そして多矢が彼女の前に掌をかざしてやると、真っ白な指をつうと滑らせる。

 

『とり・たまご』

 

 短い単語を指で書くと、彼女は多矢の顔を見上げた。

「…鳥の、卵?」

 多矢がそう言葉にして反芻すると、彼女はホッとしたようにまた淡く笑う。そして、こっち、と言うように彼の手を引いた。ひんやりとした感触。普通、肌に触れればそれなりのぬくもりを感じ取れるはずなのに、この娘には初めてあった時から、それがなかった。陶器に触れるような滑らかさと冷たさ。

 でも、薄紫の瞳がふっと細くなって淡い微笑みが宿る時、掌に感じ取るよりももっとたくさんのものを伝えてくれる気がするのだ。

 それが、嬉しかった。やっと感じ取れる想いが、ありきたりな言葉よりもしっとりと心に染みていく。

 

 しばらく歩くと、彼女は足を止めた。

 背の高い草の中に、少しだけくぼんだ場所がある。そこに草を器用に折って作られた小さな巣があり、親鳥が丸くなって卵を抱いていた。多矢が何か口に出そうとすると、少女は慌てて桜色の唇に指を当ててそれを制する。静かにしてください、と言うように。

 ちい、ちい。空の上で、もう一羽の鳥がくるくると回りながら飛んでいる。鳥は夫婦で子育てをする。他の獣は母親ばかりに頼るのに、鳥だけは人に似た生態を持っている。空を飛ぶ異なる種族なのに、何故かとても近い存在に思えるのはそのためかも知れない。

「…何か、聞こえた?」

 物音を立てないように草原を抜けて、庵のところまで辿り着く。少女は、また多矢の掌に指を乗せた。

 

『うれしい、いってる』

 

 にっこりと微笑んで多矢を見上げる瞳。そこに空の色が変わっていくのが映る。気の薄くなる場所だから、夕焼けの色も美しい。徐々に色を変えていくその姿は何度見ても飽きることはない。

 

 ここまで来るのは3日ぶりだ。その間に彼女はこの鳥の巣を見つけ、毎日眺めていたのだろうか。ひとりの時間をそんな風に、静かに。親鳥たちがつがいで卵の番をするのを、一体どんな気持ちで見つめていたのだろう。

 この場所では、余計な言葉はいらなくなる。その代わりに、心を開いて会話する。誰にも見せたことのない一番底の部分をさらけ出しているような気分だ。幼い頃から大人たちの中で育ち、頭で考えることばかりの日常を送ってきた多矢にとって、それはあまりにも不可思議なことだった。

 

「気の流れが、冷たくなってきた。もう…中に入ろう」
 多矢が庵の戸に手をかける。

 少女は空の色から視線をこちらに動かして、また淡く微笑む。そして微かな衣擦れの音をさせて彼に続いた。

続く(031009)

 

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